明代の鉄砲伝来とオスマン銃について
16世紀になってヨーロッパからインド、中国、日本各国に火薬を使って散弾を放つ新式銃が伝わった。ポルトガルは1515年にインド西部ゴアに鉄砲の工廠を設立し、アジア各地に鉄砲を交易品として販売した。1514年、オスマン帝国はチャルディラーンの戦において鉄砲を用いてサファヴィー朝ペルシアを破る。1526年、ムガル帝国のバーブルは少数兵力ながら鉄砲や大砲という新式火器を用いてローディー朝をパーニーパットの戦いで破った。16世紀初め、鉄砲は戦闘を一変させ、アジアの政治・社会に大きな影響を与えた。
日本への鉄砲伝来は1543年ポルトガル人が種子島に火縄銃を伝えたことはよく知るところである。中国への鉄砲伝来には諸説ある。中国はオスマン帝国から1562年(あるいは1564年)オスマン銃(神器譜には嚕蜜銃とある)が伝えられたとある。明朝の記録によると「朶思麻」(Dusman?ダシマ)という中央アジアの人物が伝来したとあるが、オスマン側の記録がなく、不明な点が多い。ただし火銃そのものは元代に発明され、現在知られる最古の銃は元の至順3年(1332)に鋳造されたものである。火縄銃は明の嘉靖27年(1548)に倭寇から獲得したのが伝来の契機といわれる。
この記事は関西大学東洋史大会で研究報告された澤井一彰先生の「漢文史料によるルーム(ルーミー)再考 ―オスマン銃の中国への伝播と朶思麻―」に触発されたものである。本年関大に准教授として着任された澤井氏は「16世紀後半のオスマン朝における飢饉と食糧難」「気候変動とオスマン朝」「オスマン朝における穀物供給」「1563年のイスタンブール大洪水」などオスマン朝の社会経済や自然災害などの論稿を発表している。
参考:和田博徳「明代の鉄砲伝来とオスマン帝国」史学31-1-4、1958年)
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