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大槻あかね作「あ」。こどものとも年中向き226号(2005年1月号)。
タイトルが「あ」の1文字だけ。針金でできた小さな人が出かける。コップに会ったり、ポットに会ったり、マヨネーズのケースに会ったり、みみかきに会ったり。そのたびにその人は、まねをして「ひょ」と腕をあげたり、「よ」と逆立ちをしたりする。蚊取り線香の上を走ったり、ファスナーの上をすべるったり、ページとともに身の回りの物たちとその人との楽しい出会いがたくさんにある。日本で発行された本を書名の五十音で並べたとすると、一番最初にくる本です。
澤井啓夫の漫画「ボボボーボ・ボーボボ」はボ1文字が7回使われるが、稀なケースである。ネーミング法において、「バーバパパ」の影響を受けていると思われる。漢字1文字の小説は多い。芥川龍之介の「鼻」がいちばん有名だろう。夏目漱石「門」、森鷗外「雁」、山本有三「波」「風」、長塚節「土」、徳田秋声「黴」、島崎藤村「春」、谷崎潤一郎「卍」「鍵」、司馬遼太郎「峠」、中上賢次「岬」、丹羽文雄「顔」、宮尾登美子「蔵」「櫂」。綱淵謙錠には「斬」など48作が漢字1文字。夏目漱石「こころ」は自身が装丁した単行本の外箱の背には「心」と漢字1文字が施されている。
太宰治の最初の筆名は本名の津島修治に近い、「辻島衆二」。やがてマルキシズムに傾倒するや、「小菅銀吉」、「大藤熊太」という労働者風な名前に変えている。太宰治という筆名をつかったのは「海豹」に発表した「故郷の話?田舎者」という短文からであり、小説としては「列車」(1933年)からである。この筆名の由来には多くの説がある。
①フランス学者太宰施門の姓
②弘前高校時代の同級生、太宰友次郎の姓
③九州の大宰府から
④本名が「つすましゅうず」と津軽弁になるので、訛らずにいえる名前を考案した
⑤万葉集の中の「太宰権帥大伴」
⑥「デカダニズム(退廃主義)」を並べかえる
⑦「ダーザイン」(現存在の意のドイツ語から)
⑧「ダダイムズ」から
太宰治の筆名でよく取り上げられるのは、女優関千恵子のインタビューの中で、「格別に由来なんてないですよ。(中略)万葉集をめくっていて、(中略)これがいいってわけで、太宰。修治は、どちらも、おさめるで、二つはいらない。それで太宰治としたんです」と答えている。美知子夫人も結婚当初に聞いた話でも太宰は同じような事をいっている(『回想の太宰治』)
では本当に「万葉集」から採用したのであろうか。実は、一番有力な説は②の太宰友次郎の姓からだそうだ。本当は、太宰という筆名は同級生からとったものだが、それでも格好が悪いと考えて、後から「万葉集」からということを思いついたものらしい。
近江は古くから上質な麻織物で栄えた町である。近江上布の柄、野々捨商店(滋賀県愛荘町南野々目)で取り扱われていた型紙を柄として折り紙を考案、地元では「ののすておりがみ」と呼ばれている。野々捨商店は残念ながら2002年に廃業したが、その伝統模様を現代に生かそうとして生れたのが「ののすておりがみ」である。大きな特徴は白黒の鮮やかな柄にある。
人類最古の職業は売春、とはよく言われるが、お堅い世界史の本にはほとんど記述がない。18世紀のパリや19世紀ロンドンと繁栄を極めた大都会にはかならず夜の女が多数いた。ルネサンス時代のヴェネティアは商業都市として栄えたが、毎日が祝祭のようなもので、世界一、淫靡な都会だった。コルティザンと呼ばれる娼婦が多数いた。娼婦たちのファッションも異彩を放っており、画家や小説家たちの芸術的なインスピレーションの対象でもある。娼婦たちの階級の違いもなかなか厳しいもので、たとえばヴェネティアでは、下層の娼婦たちを、コルテザーネ・ミノール・ソールテと呼んだ。これに対して、高級な娼婦たちは、コルテザーネ・ファモッセといった。高級娼婦は美しいだけでなく、教養も高く、話し上手で男性たちを楽しませる方法を知っている。ベロニカ・フランコ(1546-1591)の優雅さと知性はヨーロッパ中に知られており、彼女の作った詩は、イタリア文学史に残るものである。(コルテサン、cortigiana、courtisane)
世界中で知られている「ねこふんじゃった」(I stepped on a cat)。アメリカ・イギリスでは「トトトの歌」「サーカスソング、フランスは「カツレツ」、ドイツは「蚤のワルツ」、ロシアは「犬のワルツ」などさまざまな歌詞がつけられている。作曲家は不明であるが、一説にはロシアのアントン・ルビンシュタインが作曲したといわれている。彼が演奏旅行に出かけた先々でこの曲が伝わっている事、さらにピアノの教育に熱心であった事などから可能性が高い。
わが国で最初のレコードは1954年8月のことで、丘灯至夫が作詞し、伴久美子が歌った。1966年にはNHK「みんなのうた」で阪田寛夫が作詞し、天地総子が歌っている。(Floh Walzer)
歯が悪い要介護の高齢者のための献立
朝 トースト 目玉焼き ヨーグルト バナナ 牛乳
昼 パン サラダ ハム ブロッコリーのスープ トマト
おやつ プリン チーズケーキ ゼリー
夜 おかゆ 味噌汁(春雨スープ) 魚(サーモン、マグロ) 肉 野菜炒め なす 豆腐 ハンバーグ 豆(ときに寿司、パスタなど) さといも かまぼこ 漬物
出版界では2015年上半期はやはり又吉直樹の「火花」が200万部を突破して話題となった。上橋菜穂子「鹿の王」は謎の伝染病を防ごうとする人たちの物語でファンタジー長篇。「フランス人は10着しか服を持たない」(ジェニファー・スコット著)。曽野綾子「人間の分際」(幻冬舎新書)。努力でなしうることには限度があり、人間はその分際を心得るべきだという内容。コミックでは、定番の「ONE PIECE」「進撃の巨人」を追う作品として鈴木央の「七つの大罪」が浮上してきた。洋楽ではピアノ弾き語りのジョン・レジェンドの「オール・オブ・ミー」が甘くて癒される。Jポップでは「夏の罪」(花岡なつみ)「太陽ノック」(乃木坂46)「君がくれた夏」(家入レオ)「もしも運命の人がいるのなら」(西野カナ)「真夏の太陽」(大原櫻子)映画ではアニメ「ラブライブ!The School Idol Movie」が大ヒット。邦画では「野火」。1959年市川崑で映画化されたが、塚本晋也がリメイク。洋画ではレディー・ガガがかつてジュディ・ガーランドやバーブラ・ストライサンドが主演した「スター誕生」のリメイク。
いま北京で世界陸上が開催されている。世界203の国と地域から約3200人の選手が参加している。昨日は陸上男子100mでジャマイカのウサイン・ボルトが9秒79で優勝した。世界には、約72億7494万の人々(2015年現在)が、およそ216の国々と地域に分かれて生活している。日本もその中の1国であり、世界の中で特に大きい国でもなく、また小さい国でもない。しかし島国で、南北に長く、地形も気候も所によって大きくちがっている。この国土におよそ1億2689万(総務省統計局2015年8月1日現在の概算値)の人々が37万7072.28㎢の国土に住んでいる。
及川儀右衛門(1892-1974)は歴史学者。広島高等師範学校教授となり、戦後は郷里の県立盛岡短大教授となる。「吾妻鏡」の研究のほか地方史にもとりくむ。また被爆者救済運動につくした。著書に「みちのくの庶民信仰」「東北の仏教ーみちのく仏教伝播史」「広島の心学」など。しかし及川は元来は東洋史家である。「満洲通史」「参考東洋史」など。戦後、「満鮮」や「満蒙」ということば自体が、日本の中国侵攻をあおったという理由で東洋史から離れたのであろうか。同じ岩手県出身の及川古志郎(海軍大将)、及川奥郎(天文学者)とは同族か。
漢字に国語をあてたのが訓であるが、同じ訓でも異なった字を用い、異なった意味を表わすものがある。それらを同訓異義語という。例えば、「おさめる」という訓は、次のように使い分けられる。
学を修める
国を治める
税金を納める
利益を収める
「はかる」という訓は、次のように使い分けられる。
解決を図る
身長を計る
目方を量る
距離を測る
悪事を謀る
審議会に諮る
花火大会のシーズンである。時折、浴衣を「左前」で着ているお嬢さんをみかけることがある。着物を着たときに自分の右手が懐に入るように合わせるのが「右前」で、男女ともこのように着るのが正しい。男性は洋服が右前なので、間違える事は少ないのだが、女性は左前に着る事に慣れているので、和服に着かえたときも左前で着てしまうことが少なくない。この右とか左とかいうのは着せる人から見てのことなので、着ている本人から見ると逆になるので、ややこしい。左前は死に装束の着せ方だが、これは死んで人は自分で着物を着ることができないので、着せる人から見て左を上にして着物を着せるという理由からである。「あの店も左前だな」と言うことがあるが、左前が落ち目を意味するのは、死に装束でおしまいということからきている。
「ミカドアゲハ」(帝揚羽)という立派な名前をもつ大形のチョウがある。1994年発行の普通切手15円に描かれている。
百科事典によると、イギリスの昆虫学者L.H.リーチが1885年、鹿児島で採集し、天皇に献上したときの学名が「mikado」だったことに由来するという。だがこのリーチ(Leech)という学者のことを調べているが不明である。和名には諸説あるようだ(今井彰「帝揚羽蝶名譚」 草思社 1996年)
高知ではミカドアゲハが特別天然記念物に指定されている。なぜ高知なのか。ミカドアゲハは東洋系でインドからスンダ列島に分布するが北限が高知と考えているらしい。これは誤認で愛知県の知多半島でも産する。その地位が危うい特別天然記念物だ。
ゴッホは風景画、人物画、そして花などの静物画など万物を対象として描いている。その総数は不明であるが、油彩約860点、水彩画約150点、素描約1030点が確認されている。油彩画の内訳は風景画380点、人物画250点、静物画170点である。ゴッホが重視したのは風景画と人物画であるが、「ひまわり」のように静物画に人気が高い作品がある。静物画の題材としては花が一番多いが、ほかに室内の椅子、靴、果物、陶器、瓶、聖書、魚など身近なものが多い。静止したものに限られ、猫や犬などはモデルとしてはほとんど描くことはなく、動物では牛などのように動きの少ないものに限られる。油彩が860点ということであるが、これが全作品ではない。ゴッホの絵は2度にわたって大量に失われている。最初は1885年、ヌエネンの牧師館を去ったとき、大量に残した習作を、母親が出入りの大工に頼んで処分した。大工が屑屋に売ったため、今日1点も残っていない。2度目はアントワープの絵の具屋の2階に数ヶ月間借りして、1886年にそこからパリに出発したが、部屋代を滞納していたため、かなり大量に描いた絵を置きっぱなしにして出た。これも1点も残っていないといわれる。おそらくゴッホの油彩画が全部残っていれば1000点を超えるものと思われる。
日本は森林面積は国土面積に占める割合は大きい。緑と水の大切さを理解する必要がある。だが一般に林業への関心は薄い。東大の山林学科卒業後明治33年にドイツ留学し、盛岡高等農林学校講師をつとめ、わが国の林業学に貢献した伊藤門次に関して調査していたが、明治16年兵庫県生まれという程度で昭和50年前後に没したと思われるが、正確な没年がわからない。ネット記事は少なすぎる。そんななかで河野千代という児童文学者が「だれが山を守るのか」という本を書いていることを知る。これまで「詩人と皇帝」「若き英雄アレクサンダー大王」「ウェルギリウスの牧歌・農耕詩」を書いてきた河津には一見畑違いと思われたが、彼女の作品を通して考えると、繋がっている。治山治水が大切だというのは同感である。
古本屋 消える街角 そぞろ寒
荻原魚雷は三重県から上京し、古本屋と中古レコード屋がある高円寺に住む。就職もせず、文筆家としての仕事をはじめる。町をぶらぶら散歩したり、部屋の掃除をしたり、自炊したり、酒を飲んだりの生活。天野忠の詩の世界にひたったり、あすなひろしのマンガを読んだり。ありふれた生活の中で作家たちとの出会いをつづる。鮎川信夫、色川武夫、梅崎春生、尾崎一雄、神吉拓郎、小島政二郎、十一谷義三郎、辻潤、西山勇太郎、庄司きみ、古山高麗雄、吉田満、山田稔、吉行淳之介らの話がでてくるらしい。荻原の年齢からすると古めの作家なのは古本屋通いのためか。どちらにしても日常性、フツーぽいところが売れている秘訣なんだろう。吉本隆明、高橋和巳、大江健三郎、三島由紀夫、寺山修司、福田恒存、柴田翔、羽仁五郎、小田実など読んでいた団塊の世代とは異なる世代の誕生である。
正座は字のとおり正しい座り方で、胡坐は不作法と思い込んでいる日本人が多い。これは明治以来の教育による結果だろう。本来、「あぐら」という言葉は本来「腰掛け」であった。古事記に「我が大君、胡床にいまし」とある。それが後に足を組んですわることを意味するようになった。男子だけの座り方ではなく、宮廷に仕える女官たちも胡坐をかいていた。正式な作法であり、無礼なことでなかった。ただし、女子は服装の変化から、胡坐をかくと、ズロースをはいてない時代なので、陰部があらわになり、女性の間だけ正座が広まった。正座が男子にも強制されたのは徳川家光が将軍家の威光を全国の大名に広めんとしたためである。幕府は小笠原流礼法を採用した際に参勤交代の制定により、全国から集めた大名達に全員将軍に向かって正座することを決めた。正座という言葉は、江戸時代にはなく、「かしこまる」や「つくばう」などと呼ばれていた。明治22年の「言海」にも「正座」という語はない。世の中には「正座」に拘る人も多いが、本当に歴史を知ってから言っているわけではないようだ。エジプトの書記坐像や阿弥陀如来、坐禅などの胡坐をみても、胡坐は坐り方として安定感があり様式美を感ずる。
田中という苗字は、全国人口ランキングで第4位でおよそ137万人がいる。しかし近世以前は目立って多い姓ではない。語源は田の中、耕作のための田居の語から発生した。「新猿楽記」(1052年前後の成立の書)に数町の田畑を真面目に経営している田中豊益という創作上の人物が登場する。また7世紀壬申の乱の功績があった田中足麻呂や8世紀の田中多太麻呂がいる。江戸時代は国学者の田中大秀、醸造家の田中玄蕃、農政家の田中丘隅、塩業家の田中藤六、京都の商人田中勝助、勤王家の田中河内介など。明治以降では政治家で田中義一、田中稲城、田中正造、田中角栄、田中真紀子、鉱業の田中長兵衛、日蓮宗の田中智学、哲学者の田中王堂・田中美知太郎、法律家の田中耕太郎、美術史の田中豊蔵、小説家では田中澄江、田中英光、田中康夫。芸能界では田中絹代、田中春男、田中浩(画像)、田中邦衛、田中健、田中明夫、田中裕子、田中好子、田中久美、田中裕二、田中美佐子、田中麗奈、田中美里、田中れいな、田中美保、田中圭、田中聖、田中要次、田中卓志、田中直樹など。スポーツ関係では田中聡子(水泳)、楽天のエース田中将大(野球)など多彩である。
美人女優の仲間由紀恵が田中哲司と結婚。たなかてつし。1966年生れ。日大演劇科卒。舞台デビューは「ハムレット」(1995)。近年はテレビドラマ・映画への出演も多い。大河ドラマ「軍師官兵衛」で荒木村重を演じた。田中要次は仲間の結婚相手と勘違いされたとか。
ヒットラーとかチャップリンという姓は珍しい姓であろう。ヒッチコックはどうだろうか。ヒッチコックといえば誰しもが「スリラー映画の神様」「サスペンス映画の巨匠」アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)を思いうかべるだろう。ケペルはかねがね「ヒッチコック」という姓は珍しいのか、ありふれた平凡な姓なのが疑問に感じていた。もしも平凡な姓だとすれば、アルフレッドも平凡なので、名前にそれほどのミステリー性はないのである。欧米人でないので、ヒッチコックが珍しいかそうでないかは分からない。だが最近はネットで探せば、だいたいのことはわかる。結論を言えば、珍しい名前ではない。ジョージ・ヒッチコック(1850-1913)というアメリカの印象主義の画家が有名である。ロード・アイランド州のプロヴィデンス生れ。20歳代には弁護士の仕事を捨てて、芸術の勉強のためロンドンに3年間滞在し、そのあとパリに行き、オランダのハーグのヘンドリック・メスダグに師事した。写実主義的な伝統と宗教性ある風景画を得意とした。美術史というのは、次代につながるパイオニア的存在をとりあげていくので、古いスタイルの画家はとりあげられない。ジョージ・ヒッチコックは19世紀写実主義が印象主義の後追いなので美術史には登場しないものの、作品を単独で鑑賞すれば名品である。
萩市観光協会から観光パンフを集める。
「吉田松陰ゆかりの地をめぐる」足をのばしてここへも行ってみよう!野山獄跡、涙松跡、萩博物館。
「髙杉晋作ゆかりの地をめぐる」足をのばしてここへも行ってみよう!松下村塾、安養寺、春日神社
「萩観光案内図」「旧萩藩校明倫館跡」「萩温泉郷」「萩八景遊覧船」萩民謡「男なら」、「萩循環まぁーるバス」「ふみ御膳&ふみ弁当」2400円。「大河ドラマゆかりの地マップ」「城下町萩を歩く」「文と萩物語」「兄松陰と妹文、杉家の家族愛」「花燃ゆ大河ドラマ館」「スーパーはぎ号」「萩の産業遺産群」萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船跡、大板やまたたら製鉄遺跡。松下村塾も日本の近代化、工業化の過程で重要な役割を担った多くの逸材がここで学んだことで、平成27年世界遺産登録へ。「長州ファイブ」1863年5人の若者が英国に留学した。伊藤博文、井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、井上勝。
萩反射炉 反射炉は鉄製大砲の鋳造に必要な金属の溶解炉。現存するのは韮山(静岡県)と萩の2か所だけで、わが国の産業技術史上大変貴重な遺跡である
UNIT5.商と周辺の青銅器文明
商の成立 殷という国名は盤庚が殷の地に都して以後によばれたもので、もとは商と称していた。甲骨文には商とある。湯王が前1600年ごろ夏の桀王を滅ぼし建国。文化的には甲骨文字が生れて記録が行われ、青銅器の鋳造がさかんとなる。
殷墟 河南省安陽市の北西にある小屯村から国都址が発掘され、「史記」にある殷墟が確認され、商王朝の歴史的実在が証明された。青銅器、象牙細工、白陶、子安貝などのほか、甲骨文字が出土し、商文化の実態が明らかにされた。
商の政治 王は、日常的に上帝に諸事の吉凶を占卜でたずねるという神意一辺倒の祭政一致の神権政治である。
商の社会構造 国家とはいえ、その実態は邑という集落で構成された連合体(邑制国家)で、商王はそれら邑を掌握する盟主。
周辺の青銅器文明 中原以外の地域でも青銅器文明が成長していた。長江中流域の新干大洋洲墓、四川省三星堆(画像)、四川省金沙などで多量の青銅器が発見されている。5000年ほど前の時代である。
商の滅亡 周の武王が前1024年、軍を率いて盟津から黄河を渡って攻めてきたので、紂王は牧野で会戦したが、大敗し滅亡。
本州の北端にある青森県は、かつては「みちのく」(陸奥)と呼ばれていた辺境の地であったが、2010年12月に東北新幹線が全線開通し、新青森→東京が3時間20分となった。負けず嫌いで容易に自説を曲げない「じょっぱり」気質の代表は明治のジャーナリスト陸羯南(1857-1907)にもみられる。羯南が学んだ東奥義塾の創設者は菊池九郎(1848-1926)は新聞「東奥日報」を発行して、政府を批判、自由民権思想を広めた。
リンゴは明治初年に導入されて以来、生産量は全国のほぼ半分を占めている。菊池楯衛(1846-1918)は弘前で化育社を設立し、リンゴの栽培技術を広めた。外崎嘉七(1859-1924)は菊池からリンゴ栽培の指導を受け、病害対策に努め、「リンゴの神様」と慕われた。
ほかに青森県で有名なものは、しとぎ餅(画像)、ねぷた祭り、えんぶり(八戸)、五能線、ハクチョウ(小湊、藤崎)。
県内の出身者には、ベトナム戦争の報道写真でピュリツァー賞を受賞した沢田教一(青森市1936-1970)。「天井桟敷」の前衛劇や詩歌に活躍した寺山修司(弘前市1935-1983)。ベネチア・ビエンナーレで大賞を受賞した版画家の棟方志功(青森市1903-1975)がいる。
津軽地方の金木町の大地主・津島家に生まれた才気あふれた小説家・太宰治(1909-1948)は没後60年を経た今でも新たな読者を獲得し続けている。横綱には鏡里喜代治(三戸郡三戸町)、若乃花幹士(弘前市青女子町)がいる。
夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径
水芭蕉の花が咲いている
夢見て咲いている 水のほとり
石楠花色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空
「夏の思い出」 江間章子作詞
尾瀬は水芭蕉の群生で知られる日本最大の高層湿原地帯で、日光国立公園北西部の景勝地。東西6㎞、南北2㎞内外の地域全体が、特別天然記念物に指定されている。燧ヶ岳、景鶴山、至仏山などの山々に四方を囲まれた盆地状の一帯は、めずらしい植物や昆虫が多く、渓流魚の天国となっている。燧ヶ岳の南の尾瀬沼には、福島県側から簡単に入ることができ、湿原や池塘の美景を楽しめる。
近代モードのファッションの基礎を形成したデザイナーといえば、オート・クチュールの創始者シャルル・フレデリック・ウォルト(1825-1895)、女性をコルセットから解放したポール・ポワレ(1879-1944)、そしてココ・シャネル(1883-1971 )である。
イギリス人のウォルトだが、彼の権力はその時代の大臣もかなわないほどで、このエレガンスの使者は、フランス宮廷を征服してしまった。彼のサロンで日がな一日待って、やっと服をつくっていただくという高貴な女たちが、あとをたたなかった。そのころの舞台の名女優サラ・ベルナールでさえ、ウォルトに舞台衣装の一部をつくってほしいと頭を低くして頼んだものだが、ウォルトは冷たく断わったという。全部を彼自身の手でデザインするならまだしも、たとえサラ・ベルナールという大スターでさえがまんのできることではなかった。誇り高いサラも、二度とウォルトには頼もうとはしなかった。
ポール・ポワレはウォルトの店で働いていたが、1903年、オペラ座近くに自分の店を持った。1906年に、ハイ・ウエストのドレス「ローラ・モンテス」を発表し、女性のウエストを締めつけていたコルセットを追放し、ファッション史上画期的な役割を果たした。女優サラ・ベルナールの衣装デザインを担当し、画家ラウル・デュフィは彼のために布地をデザインした。その後、衣装のデザインにとどまらず、色彩学、装飾一般まで教えたし、香水ロジーヌをつくり出し、一世を風靡した。またアメリカに渡った最初のオート・クチュールでもあった。1920年代になるとポール・ポワレのコルセット無しのドレスが流行したが、誇り高いポワレは、自分の作品がコピーされることを極力きらい、映画に自分の作品を出すことは考えもつかなかった。しかし、メアリー・ピックフォードやそのころ売り出したばかりのジョン・クロフォードのために、デザイン画を描いたという記録が残っている。
それまでの映画は、会社おかかえのデザイナーが存在していて、スターのために衣装をつくった。グロリア・スワンソンはアイナ・モルガン、マレーネ・デートリッヒはトラヴィス・バントンだった。しかし、スターたちの中からも会社のお仕着せでは、あきたらないと思う女優が出てきた。グロリア・スワンソンは一年に一回はパリ、ロンドンに行って、自分の衣装を注文し始めるし、メエ・ウエストは、等身大のボディをつくらせて、イタリア出身のクチュリエのスキャパレリに注文した。こうした風潮の中で、メトロのゴールドウィン・メイヤーは、ココ・シャネルとの協力を考えた。シャネルは特別仕立ての白い列車に乗ってニューヨークからロサンゼルスに向かった。駅にはグレタ・ガルボをはじめ、数多くのスターが待ちかまえていた。ポワレとはちがって、シャネルは折りあえることには寛大だった。最初にシャネルの衣装を着たスターは、グロリア・スワンソンで、映画「今宵こそは」であった。戦後になって、クリスチャン・ディオールが登場すると、ピエール・カルダン、ユベル・ド・ジバンシー、ギ・ラロッシュ、イブ・サン・ローラン、ルイ・フェローらが続々現れた。スターもまた新しくなった。イングリッド・バーグマンは、ディオール、シャネル。ミッシェル・モルガンは、ピエール・バルマン。そして極めつけは、ジバンシーとオードリー・ヘップバーンのコンビであろう。彼女はスクリーンの上でも、オフ・スクリーンでもジバンシー一本槍で、彼女の不思議な魅力をより鮮明に打ち出すことに成功した。(参考:秦早穂子「スクリーン・モードと女優たち」)
追記:秦早穂子の引用するグロリア・スワンソン主演映画「今宵こそは」であるが、同名の映画がフィルモ・グラフィーには見当たらなかった。有名なドイツ映画「今宵こそは」(1931年)はアナトール・リトヴァク監督、主演ヤン・キープラ、マクダ・シュナイダー主演のセミ・ミュージカル・コメディとも言うべき作品で主題歌は日本でも戦前からよく知られているが、グロリア・スワンソンの作品ではない。グロリア・スワンソンの出演作品の中で近い題名は「今宵ひととき」(Tonight or Never)1931年作品、監督マービン・ルロイ、主演メルビン・ダグラスがあり、この映画の中でグロリア・スワンスンがシャネルの衣装で出演しているのではないかと推測する。
かつて胸毛は男らしさの象徴とされたが、いまや胸毛脱毛クリームが売れる時代である。そういえば、「アイリス」でみるイ・ビョンホンの上半身、鍛えられたたくましい肉体だが全身ムダ毛のない、なめらかな肌である。1960年代、長嶋茂雄や加山雄三には胸毛があった。ところがいつのまにか、無毛社会になっている。いま人気のイケメン、福士蒼汰や山内惠介をみればわかる。もちろん鼻の下の髭、あごの鬚、ほお鬚などは、かなり以前から剃ることが一般的になっている。この習慣はいつごろからだろうか。
先日、BSで見た映画「狂ったバカンス」(1962年)では、女性に目のない中年男が旅行中、若者グループと知り合う。セクシーな娘カトリーヌ・スパークを追い回すが、青年たちに翻弄されるシーンがある。そのときも髭がオヤジ世代の象徴として扱われていた。カトリーヌ・スパークはフランス女優だが、なぜかイタリアで人気となり、カンツォーネとツイスト・ブームのシンボルとなった。1960年代は、チャップリンやクラーク・ゲーブールも映画界から消えて、髭は過去のものとなっていた。つまり世界的潮流として1960年あたりから、体毛を野蛮とみなす嗜好が起こってきたように感じられる。
エッフェル塔は、パリ万博のシンボルタワーとして建てられたが、100年以上、パリの象徴となっている。300mという高さ、鉄骨をむきだしにした構造は、それまでの建築には例がなく、当初、作家のモーパッサン、音楽家のグノーらを含む知識人たちからは猛反対を受けた。こんにち世界中の人がエッフェル塔にあこがれ、1度はこれに登ってみたいと思っている。東京の新名所スカイツリーが完成したが、やはりエッフェル塔には及ばない。さしたる反対運動もなかったのが不思議である。パリは地震がないが、東京で大地震が起きても本当に大丈夫なのだろうか。エッフェル塔と東京スカイツリーの写真を見比べると、エッフェル塔のほうが断然に良い。それは飛行機が股くぐりできる橋脚にあるし、セーヌ川が流れていることにある。
現在、「げてもの」と聞くと、グロテスクなもの、悪趣味なもの、下品なもの、粗悪なもの、という感じがするが、「げてもの」の起こりは、われわれの祖先が実用のため、切実な要求から生れた手工芸品のことをさした。製作者たちはいずれも名もなく、ただ自分が必要なものなので、これらの日常品を制作したにすぎない。しだがって、その品物は特別に新しい工夫もないかわりに、なんの野心もケレン味もなく、みじんの気どりもなく、それだけに自然に、素直に、のびのびと、大らかな魅力をもつものであった。大正時代の末ころから、都会のデパートや骨董品店の品物が上等と見なすようになり、日常品の並みの雑器は下手物(げてもの)といわれるようになった。ところで、古本屋の業界用語では、下手物(げてもの)とは、切手、マッチラベル、映画パンフレット、映画チラシ、めんこ、絵はかぎ、プロマイド、短冊、色紙など、古本屋が扱いながら、書物でないものをいう。ネットでの販売が普及する現在ではこれらの価値が充分に見直されるようになり、しばしば下手物が高価な値がつくようになっている。
英語でライブラリーは、ラテン語liber(書物)を語源とする。日本ではライブラリー=図書館と意味するが、英語では数百冊程度のまとまった蔵書でもライブラリーという。日本語で「図書館」はかなりの蔵書数のある本の集積所を指すが、「家庭文庫」「地域文庫」という読書施設があり、5000冊以下の小規模なものはおおむね「文庫」と呼んでいるようである。現在みられる文庫は1950年代に現れ(一部篤志家による文庫が戦前にもあった)、1960年代の末頃から広まり、1970年代末から文庫の数は増えて、1980年の全国調査では、4555文庫となった。その後、減少し、正確な数は不明であるが約3000館はあるらしい。家庭文庫が個人が自宅を開放、地域文庫はグループが地域の施設を利用している。このほか地域の読書施設としては、公民館図書室、隣保館図書室、コミュニティ図書室、学校図書館を地域文庫として開放したもの、幼稚園・保育園・病院などの図書室もある。商業的な有料のブックカフェなども増えている。
映画「森崎書店の日々」のロケ地めぐりが人気だそうだ。舞台となった森崎書店は現実には存在せず、東京堂の裏手の角地の小さな空き倉庫を古本屋にしつらえてセットにしている。映画では6000冊だったか8000冊の数だといっていた。内藤剛志のセリフに「(本は)開くまでは静かだけど、開いてしまうととてつもない世界が広がっている。また閉じると静かになるんだ」と言っている。日本国内で現在流通している本の数は約60万冊くらい。世界中だと、1億3千万点の本の数が存在している。気の遠くなるほどの本の点数だが、いったい私たちは生涯にどれくらい読むことができるのか。かりに1日に2、3冊読んだとしても1年間に1000冊くらいである。100年かけても10万冊程度。小さな図書館の蔵書数程度である。1年間に出版される新刊本の6分の1程度を、一生涯かかってはたして読めるか読めないかである。最後にイギリスの政治家・歴史家であったジェームズ・ブライスの一言を。「くだらない本を読むには、人生はあまりにも短すぎる」
「恋仲」で共演している福士蒼汰と本田翼。ドラマでは同級生だが、実年齢は本田翼が23歳で福士より1つ年上である。「ある愛の詩」のアリー・マッグローは当時31歳で大学生を演じ、ライアン・オニールより3歳も年上だった。
現代ニューヨークを舞台に高級娼婦ホリーを描いた「ティファニーで朝食を」から半世紀以上が経つ。主演のオードリー・ヘプバーン(1993年没)、ジョージ・ペパード(1994年没)も故人となった。当時NYは日本人にとってはまだ遠い地であったが、いまでは多くの日本人が訪れる。ミッキー・ルーニーが演じる変な日本人のイメージも過去のものとなった。クスっと笑えるような個性的な脇役たちどうしているだろうか。
宝石店ティファニーの店員を演じたジョン・マクギバーは1975年に没。当時54歳と意外に若い。代表作は「真夜中のカーボーイ」
大金持ちの太っちょの金髪男ルーシーを演じたスタンリー・アダムスは1977年に没。代表作は「野のユリ」「スタートレック」
刑務所に服役中のマフィアのボス、サリー・トマトを演じたアラン・リードは1977年に没。
ホリーを映画スターにするというエージェントのバーマンを演じたマーティン・バルサムは1996年に没。代表作「キャッチ22」(1970)
メキシコからホリーを迎えに来たドクを演じたバディ・イブセンは2003年に没。「オズの魔法使い」でブリキ男のアルミの粉のため入院したため交代した。代表作は「じやじゃ馬億万長者」
ブラジルのお金持ちホセ・ペリエラを演じたホセ・ルイ・ド・ビラロンガは2007年に没。代表作は「哀愁のパリ」(1971)
ポールのパトロンのフィレンソン夫人を演じたパトリシア・二ールは2010年に没している。作家のロアルド・ダールと結婚したが、自伝には「自分の愛した男性はゲイリー・クーパーただ一人だった」とある。
健在だったミッキー・ルーニーも2014年に93歳で没した。若い頃、ジュディー・ガーランドとのコンビで大ヒットした。代表作「初恋合戦」(1938)
随分昔のはなしであるが、平井昌夫という国語学者が、ある本の中で、テレビを見ていたら、ある有名な女優さんが「彼の今度のことは結局ジギョウジトクなのよ」と言っていたのを聞いて驚いたということを書いている。この場合は、「自業自得(ジゴウジトク)」と言うのが正しい。麻生太郎が首相に就任早々、答弁で、「未曽有」を「みぞうゆう」と読んで話題になったことがあった。もちろん「みぞう」が正しい(実は未曽有は、滅多にないことを表わす仏教用語で、元々は「みぞうう」であったらしい)。いずれにせよ、麻生は名家の出で、傲慢で無神経なまま、誰からも注意されることなく、人生を歩んできたのであろう。ほかにも、「踏襲(とうしゅう)」を「ふしゅう」、「頻繁(ぴんぱん)」を「はんぜつ」、「破綻(はたん)」を「はじょう」と誤読している。ふつうの人なら、就職試験対策として誤りやすい漢字を自主学習したものである。慣用化され、しかも、常識化された正しい漢字の読み方をマスターしたいものである。
四阿(あずまや)
小袿(こうちぎ)
主殿司(とのもりづかさ)
如露(じょうろ)
「建築学概論」(2012)建築家のスンミンのもとに、仕事を依頼しにやって来た、ソヨン。彼女は、15年前にまだ大学生だったスンミンの初恋の相手だった。ソヨンの実家のあるチェジュ島に新しい家を造りながら、スンミンの脳裏には初恋の記憶がよみがえる・・・・。主人公の男女には、現代パートにはオム・テウンとハン・ガイン、過去パートにはイ・ジェフンとスジが演じる。韓国恋愛映画の金字塔。
私はパリが好き
ええ、私はお前が好き
あの青春の日のなつかしいパリ
私はパリの場末が
そしてセーヌが好き
毎日愛し合う人達の腕に
ぶらついているのね。
私は、きれいなアーケードが好き
それにベルシーの舗石道も好きなの
そこでは、皆大空の下をぶらついている。
恋をしている時
この地球の反対側に居たって
ただ目を閉じさえすればいい
私の夢はするとあっと云う間に踊り出す。
私を呼ぶグルネルのささやかな舞踏会で
私はパリが好き
ええ、私はお前が好きなの
あの青春の日のなつかしい友達
あなたの傍に
私の恋人がずっと暮らしている
だからあたしはお前だけを愛する
「アイ・ラヴ・パリ」は1953年に初演されたアメリカのミュージカル「カン・カン」よりのナンバーです。作詞・作曲はコール・ポーター(1892-1964)。シャンソン歌手リュシェンヌ・ドリール(1917-1962)も歌っています。
赤川次郎のエッセイがなかなか面白い。「かつて、ビデオが存在し たころ、私たち映画ファンは小さな名画座を必死で捜して見ていたものである。今いくらでもDVDで見ることができる過去の名作の映像的記憶が、若い監督の作品に活きていると感じさせられることが少ない」と述べている。なんとなくわかる。荒戸源次郎「人間失格」やSABU「蟹工船」を見ても今ひとつ心をうつものがない。
朝日新聞の「あなたが選ぶ昭和の名女優」beランキングを見ても、しっくりとこない。たとえば回答者が30歳の映画ファンで、DVDで過去の名作をみたとしても、それは商品化されたものだけを見ただけで、ほんとうにその時代に公開された作品はDVDにないものも多くある。いわば歴史で淘汰されたものからチョイスしているにすぎない。まして舞台とならば、同時代性がないから選択できないであろう。このような条件の中でランキングをしても無意味であろう。
昭和2年といえば、岡田嘉子が京都で「椿姫」の撮影中にプレイボーイの竹内良一と失踪し、世間をアッといわせた年である。代役は夏川静江にかえて撮りなおした。タクシーといっては昭和の香りがしないが、「円タク」といえば昭和の香りがする。佐久間妙子の「円タク稼業」、浦路輝子の「円タク」、環泰子の「円タク坊ちゃん」と銀幕はタクシー映画が流行した。
昭和の香りがする銀幕の女優といえば、やはり戦前、あるいは戦中から戦後にかけて活躍した女優のなかから選ぶのが妥当ではないだろうか。田中絹代、高峰三枝子、高峰秀子、山口淑子、原節子、水戸光子、山根寿子、轟夕起子、木暮実千代、高杉早苗、川崎弘子、三宅邦子、夏川静枝など映画界から選ぶことができる。(参考:赤川次郎「ドイツ、オーストリア旅物語27 生と死の世界17」波450)
映画「愛のメモリー」で父のクリフ・ローバトソンが娘ジュヌビエーブ・ビュジョルドに「ブリンマー・ウォーク」を教授する場面がある。この「Bryn Mawr walk」が如何なる作法か。ブリンマーとはペンシルバニア州ブリンマーのこと。津田梅子は、ここブリンマー・カレッジへ明治22年、2度目の留学をし、生物学を学んでいる。当時の女性は裾の長いドレスを着用していた。そこで滑るように歩くのが女性の作法とされていた。これがブリンマー・ウォークの起源であるが、はたして津田梅子もブリンマー・ウォークを身につけて歩いたのであろうか。映画「お熱いのがお好き?」で「あなたブリンマー、ヴァッサーを知っている?」というモンローの台詞がある。2校とも東部の名門女子校である。
千島占守島は、千島列島の最北端に位置する、昭和20年ポツダム宣言を受諾した3日後に戦後日本の運命を左右するような戦いがあった。占守島攻防戦である。8月18日、ソ連軍は武装解除の準備をしていた日本側の停戦交渉に応じず、砲撃しながら竹田浜に不法上陸した。池田末男連隊長率いる戦車第11連隊(士魂部隊)は応戦したが、池田大佐、丹生勝文指揮班長、緒方静雄副官以下、各中隊長を含む数百名が戦死した。その後、ソ連と停戦協定が成立するが、もし彼らの善戦がなければ北海道はソ連に占領され、日本は朝鮮のように南北に分断されていたかもしれない。
占守島が日本人に関心を抱くようになったのは、明治天皇の勅を奉じて千島調査をおこなった片岡利和(1836-1908)が嚆矢である。本名・那須盛馬は、土佐藩士・永野源三郎の二男。元治元年8月14日、田中光顕らと脱藩。維新後、片岡利和と名前を変え、新政府に出仕し、明治2年2月には東京府小参事、侍従となり明治天皇からも信頼も厚く、相撲の相手を努めたというそうである。明治24年11月には、天皇の勅を奉じて択捉島を渡って越冬、翌年には占守島に到着している。これが契機となって、岡本監輔(11839-1904)や関熊太郎らが千島議会を設立して、明治25年、帆船「占守丸」で千島開拓を試みている。さらに郡司成忠海軍大尉と退役陸軍中尉白瀬矗らが報効義会を設立し、占守島に上陸している。
新しいデザインや新品のものなどは素敵ですが、ヴィンテージやレトロ雑貨なども新品にはない味があって素敵ですよね。世界初のレコードシステムは1857年、フランスのレオン・スコットによって発明されたが実用化にはつながらなかった。再生可能なレコードはエジソンによって円筒式「フォノグラフ」が1877年発明された。これに対し、1887年にエミール・ベルリナーが円盤式「グラモフォン」を発明した。結局、円盤式のレコードが市場を席巻し、1920年代には蓄音機が販売された。アメリカでテレビが放送されたのは1941年のことだった。電気扇風機はエジソンの発明で19世紀後半のこと。電話機は1876年グラハム・ベルが発明した。
レトロポスター
月9の王道ラブストーリー「恋仲」が好評である。「お互い想い合っているけど付き合っていない」という微妙な関係(むかしなら友達以上恋人未満といったが)を意味する「恋仲」という言葉が利いている。ヒロイン芹沢あかりは設計事務所に勤める幼なじみの三浦葵と研修医の蒼井翔太という名前が同じ2人の男性から愛されている。あかりは高校時代に父が倒産して中退。その後、東京に出て、アルバイトしながら小学校教員免許取得のために通信制の大学に通っている。東京での1人暮らしは生活費がかかるとおもうのだが・・・。住まいは恵里香というルームメイトと割り勘で家賃は5万円くらいか。光熱水費と水道代で2万円。食費3万円。娯楽費1万円。病院代、住民税、国民年金保険料など諸費が1万円。携帯・パソコン・本代で1万円。衣服・パーマ・化粧代に1万円。あわせて最低でも14万円はかかる。アルバイトをして恋愛している時間はない。本に挟んだ手紙の件は不問に付して、さっさと翔太と結婚するほうがが賢明な選択だとおもうのだが。
1910年のこの日、イギリスの女性看護師フローレンス・ナイティンゲールが90歳で永眠した。兵庫県川西市には全国にあまり知られていないものがある。旧栄根寺北隣りにあるナイチンゲール像(川西市寺畑)もその一つであろう。クリミア戦争に際して多くの看護婦を率いて傷病兵の看護に当り、「クリミアの天使」と呼ばれたナイチンゲールの像がある。なぜ川西市にあるのだろうか。この像は、岡山市所在の宗教法人「福田海」創設者である中山通幽師が日赤病院で療養中、献身的な看護婦に心をうたれ、その感激を後世に残すことを発願して、昭和11年8月13日この地を選んで建立したという。ロンドンにあるナイチンゲール像を原型に造られた世界に2基しかないという珍しい銅像である。3段に造られ高さ85cmの基礎のうえに129cmの台座、像は175cmある。Nightingale,8月13日
皆さんの家庭にある冷蔵庫は何色でしょうか?最近は白色系やシルバー系の冷蔵庫が主流でしょう。「白物家電(しろものかでん)」という一般の生活に深く関係した家電製品の名称があります。でもカラーの冷蔵庫もいまでもあります。70年代後半のナチュラルカラーから90年代半ばのパステルカラーブームまで、カラーの冷蔵庫はちょっとしたブームでした。とくにグリーンの冷蔵庫をよく見かけました。グリーンといってもエメラルドグリーン、イエローグリーン、ミントグリーンと色合いが異なります。みどりの冷蔵庫は今ではレトロな感じがします。
さて冷蔵庫を発明したのは誰でしょう?アメリカの農夫トマス・ムーアは1801年にアイスボックス(氷冷蔵庫)を考案し、これをリフリジリーターと名づけた。電気冷蔵庫ができるのは1938年である。
「人斬り半次郎」という異名を持つ桐野利秋(1838-1877)は明治10年、西南戦争で西郷に殉じて戦死するが、幕末のころは中村半次郎として、ひそかに長州藩の内情を探るなど奔走していた。在京時代、煙草屋の娘村田さとという恋人がいた。さとは明治になって桐野を鹿児島に尋ねたが、妻帯者であることを初めて知り、むなしく京都に帰ったという。さとはその後、新島襄と八重夫妻に出会い洗礼を受けてクリスチャンになった。さとは生涯独身を通した。さとの墓には「大正10年8月11日就眠、享年81」とある。その4年後、「ももちゃん」こと市川百々之助主演の無声映画「桐野利秋」が大ヒット、紅顔可憐の美少年の利秋がミーちゃんハーちゃんの心をとらえたことを村田さとは知らない。
フランク王国カロリング朝の建国者はピピン(在位751-768)。イタリア王はピピノ(在位781-810)。東フランク王はルードヴィヒ2世(在位843-876)。西フランク王はルイ2世(在位877-879)。イギリスはエグバート(在位829-837)。ロシアはリューリク(画像、在位862-879)。リューリクに率いられたヴァイキングの一派(ルス)がラドガを支配し、862年にノヴゴロド公国を建設したとれる。ただしルューリクの実在はあやしいと考える史家も多く、息子のイーゴリは実在の人物である。
ポルトガル。1143年、アフォンソ・エンリケシュ、ポルトガル王国を形成する。
デンマーク。9世紀初め、デーン人の王ゴドフレド、ユトランド半島とその周辺を支配する。
ノルウェー。885年、ハーラル(在位860-930)が国内統一し、ノルウェー王国が成立する。
スウェーデン。995年、ウーロフ、スヴェーア王と称してスウェーデンの独立を表明する。
ポーランド。960年、農民出身のピアストを伝説の王とするミェシュコ1世(在位960-992)。
フィンランド。1809年、アレクサンドル1世、フィンランド大公国を建設しロシア領となる。
ボヘミア。921年、バーツラフ1世(在位921-929)が即位する。
ハンガリー。996年、イシュトヴァーン(在位996-1038)がハンガリー王国を建国。
古今東西、森羅万象、人間界において創造された諸事物は現れては消えて行く。最新流行のモノはすぐに時代遅れとなる。
日本映画 「紅葉狩」柴田米吉1897年、「進撃の巨人」(2015)三浦春馬
洋画 「月世界旅行」ジョルジュ・メリエス 1902年、「ジュラシック・ワールド」(2015)クリス・プラット
文学 「ギルガメシュ叙事詩」紀元前2600年ごろ、「暗いブテック通り」パトリック・モディアノ
音楽 「グリーン・スリーブス」16世紀エリザベス朝、「サマータイムラブ」シギージュニア
戦争 紀元前25世紀ラガシュ対ウンマ、第2次コンゴ戦争(1998-2003)
思想家 アモス(紀元前8世紀ころのイスラエルの預言者)、ジャック・デリダ
日本人名 ツヌガアラシト(角鹿有人)4世紀の人。
ノーベル賞 ヴィルヘルム・レントゲン、赤崎勇、天野浩、中村修二。
清末、日本人女性が中国初の公立幼稚園「湖北幼稚園」の初代園長を務めていた。1903年春、湖広総督・張之洞は教育の近代化にも積極的であった。端方は任憲吉を幼稚園の監督に任命して日本に派遣、教材・教具の購入及び保母の招請にあたらせた。そして同年秋、日本人教習3名、戸野みちゑ(画像)、丹雪江、武井ハツの着任を待って開設を準備、1904年2月に湖北幼稚園は正式に開園したのであった。戸野は2年間湖北幼稚園の園長を務め、丹・武井が補佐した。戸野みちゑは1890年に東京女子高等師範学校を卒業後、京都府師範学校をへて、彦根・長野・名古屋などの高等女学校の教諭を歴任、当時は母校で教鞭をとっていたという。帰国後も主に女子教育や中村高等女学校、文華女学校など東京市内の女学校の校長を歴任、十文字学園の創設者の1人としても名を連ねている。(参考文献:「戸野みちゑと中国初期の幼稚園教育」権明愛、上垣内伸子 十文字学園女子大学人間生活学部紀要9-29-38、2011年)
讃美歌など宗教音楽を除く古い歌曲は何だろう。映画「西部開拓史」でデビー・レイノルズが歌う「グリーン・スリーブス」は16世紀エリザベス朝時代の節回しが使われている。童謡「きらきら星」は18世紀末フランスで作曲された。アイルランド民謡「埴生の宿」は1823年に作曲。スコットランド民謡「アニーローリー」はジョン・ダグラス・スコット夫人が1838年に作曲した。
スティーブン・ウォルシュ「恥ずかしい和製英語」という本の中で「コック」という言葉についてふれている。著者は日本語「コック」(cock)は、英語cookから派生した和製英語と考えているらしい。広辞苑によるとコック(kok)「西洋料理の料理人。クック」とあり、語源はオランダ語であるらしい。おそらく幕末期の海軍操練所などで広まった外来語であろう。著者はcockが「雄鶏」や「ペニス」という意味があることを指摘している。また「ランチボックス」(lunch box)も弁当箱のほかに「男性器」の意味があるとしている。(open one's lunch box) 試みにcockとグーグルの画像検索するとセーフサーチ機能がオンになって検索結果がでてこない。つまり日本人が コックは英語ではなくオランダ語であると、イギリス人に説明しても無駄なので、シェフ(chef)とフランス語で言いかえたほうが無難かもしれない。
18世紀には未開宗教や古代宗教の比較研究や宗教の起源の研究が進み、フランスの作家ド・ブロス(1709-1777)は「フェティッシュ諸神の崇拝」(1760)を書いて、ポルトガル人の水夫が西アフリカに旅行したときに、土人の間で、石・木・貝殻・羽毛・歯・爪等の自然物を呪物として崇拝するのを観察した。それがポルトガル人の礼拝と似ていると思い、それをポルトガル語の「フェティソ(fetico)・護符」と名付けたことから、宗教学者の間で、「呪物崇拝」のことをフェティッシュ(fetish)、またはフェティシズム(fetishism)と呼ぶようになった。さらにアルフレッド・ビネー(1857-1911)が本来性的な対象でないものに性的魅力を感じることをフェティシズムと呼ぶことを提唱した。フロイトもエロティックな物に心的エネルギーを注ぎ込まれる現象を呼んでいる。
セルビアの映画「インモラル・ガール」(2015)がカンヌ映画祭で話題となった。主演の女優ヨヴァーナ・ストイーリコヴィッチがヨーロッパでは人気だ。2014年ボスニア・ヘルツェゴビナでカヴリロ・プリンツィプ(1894-1918)の銅像が建設された。当時19歳だったプリンツィプは、1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者だったフェルディナント大公夫妻を暗殺した。除幕式では、拍手が巻き起こり、銅像を一目見ようと大勢の群集が沸き立った。ボスニア・ヘルツェゴビナ国内には、彼を英雄とみなす意見、テロリストとみなす意見が存在する。伊藤博文を暗殺した安重根も日本ではテロリスト、韓国では英雄、独立運動家とされる。しかしプリンツィプの場合は安重根のように簡単ではない。サラエボ事件が引き金となって、第一次世界大戦が起こり約3700万人の犠牲者が出たからである。日本の高校教科書が彼の名前をふせて「セルビアの一青年に暗殺された」という記述がよいものなのか疑問におもう。Jovana Stojiljkovic
金属との出会いほど、人類に大きな影響を与えたものはない。伝説では、金の時代、銀の時代、鉄の時代などといわれてきて、金が最初だという説が一般的であるが、最古の金属が金であったかどうかについては異論がある。たとえば、エジプトで発見された最初の金属は銅である。金属器が石器に取って代わるようになったのは、冶金が行われ、鋳造技術が確立されてからである。純粋の銅は柔らかくて生産用具の材料としては不適当であるが、やがて錫との合金である青銅が発明されてから古代文明が誕生した。ヒッタイト人がアナトリアの地に統一王朝を築いたのは紀元前1700年頃といわれている。そして彼らは世界史上、初めて組織的に鉄精錬の技術を開発し、鉄製品を交易の手段とした。
しかし近年の発掘により、ヒッタイト以前からアナトリアでは鉄をつくり出していたことがわかっている。2009年。日本隊がトルコのカマン・カレホユック遺跡で、前2100年から前1950年の地層から、小刀の一部と見られる鉄器1点を発見した。つまりアナトリアの地には数千年にわたって金属技術が発達してきたが、錫の鉱石がまったく存在しないエジプトに、前2000年頃に青銅器が伝わる。前13世紀のヒッタイト王ハトゥシリス3世のとき、エジプトのラムセス2世(在位前1304-前1237)に鉄の技術が伝わったという記録がみえる。ヒッタイトの鉄冶金技術が古代エジプトに大きな影響を与えたことは確かである。だが、同時にその技術は近隣のアッシリアやペルシアに伝わり、いっそう優れた鉄製品がつくり出された。鉄器による軍事国家が出現するのは前8世紀のアッシリア帝国からである。やがて鉄の製法は世界に広がり、中国で鉄器が登場するのは前7世紀ごろ、普及したのは戦国時代の前4世紀ごろである。後1世紀、弥生時代に入った日本も後漢の製鉄法の影響を受けながらも、6世紀頃には自前の砂鉄製錬技術を獲得する。参考:窪田蔵郎「鉄の文明史」 雄山閣 1991年
カイロ北40kmの位置にベンハー(Benhur)という小都市がある。日本人になら誰でも「ベンハー」と聞くと、ルー・ウォーレス(1827-1905)のキリスト時代のユダヤの貴公子ベン・ハーの波乱万丈の復讐物語を思いうかべるだろう。だがこの町の名前は無関係。町にはアトリプテルの遺跡があり、古くはフゥト・ヘリイグ、アトリビスといった。古文献にはアメンホテプ3世(アマルナに新都を遷したアメンホテプ4世の父)時代の重要な神殿があったとされているが、現在までまだ発掘されていない。アメリカ人のルー・ウォーレスがこの古代遺跡のある小さな町の名前をヒントにして「ベン・ハー」のネーミングを考案したかどうかは確証はない。ただ19世紀の欧米人にとって、エジプトは関心の深い土地であり、ベンハーという地名は親しいものだったようである。
政治家、大企業の社長、医者、スポーツなどの世界では「二世ブーム」である。芸能界でも「役者の子は役者」が御定まりのコースとなっている。松たか子(松本幸四郎の次女)、杏、渡辺大(父渡辺謙)、松田龍平・翔太(父松田優作)、高畑裕太(高畑淳子の長男)、三浦貴大(三浦友和の次男)、神田沙也加(神田正輝・松田聖子の長女)らが活躍している。元祖二世スターとしては、北大路欣也、松方弘樹、加山雄三などいまも現役で頑張っている。安倍晋三、石破茂、小沢一郎、麻生太郎なども二世、三世の議員。日本国民は「昭和の時代」を引き継いだジュニアが好きなのだろうか。
作家の阿川弘之さんが亡くなった。94歳。広島市生まれ。東大国文科を繰り上げ卒業後、予備学生として海軍入隊。士官として通信・諜報の任務につき、敗戦を中国・漢口で迎えた。復員した1946年、「年年歳歳」を発表、以後「春の城」や「雲の墓標」で文壇的地位を確立した。太平洋戦争時の3人の海軍大将を描いた評伝「山本五十六」「米内光政」「井上成美」三部作は伝記文学に新境地を開いた。晩年「文藝春秋」の巻頭エッセイでもよく知られた。娘の阿川佐和子は「機関車やえもん」が売れてくれて、はじめて家計が楽になった」と語っていた。他に代表作「魔の遺産」「夜の波音」「カリフォルニヤ」「坂の多い町」「舷燈」「青葉の翳り」「暗い波濤」「軍艦長門の生涯」など。
約46憶年の地球の歴史を示す地質時代は、古い順に先カンブリアン紀、オルドビス紀、シルル紀、デボン紀、石炭紀、ぺルム紀、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀、第三紀、第四紀。千葉県市原市田淵の地層がいま世界中の地質学者の注目を集めている。地質時代の境界のある模式地としての候補に挙がっている。第四紀更新世中期から同カラブリアン期(13~78万年前)の境界に当たる火山灰層が確認された。
地質時代の区分。約4億1600万年前から約3億6000万年前までの間をデボン紀と呼ぶ。これは、イギリス南西部のデボン州にこの頃の地層が見られることから付けられた。同じようにカンブリア紀はイギリスのウェールズ地方に、かつてすんでいた部族の名前「キムル」(ラテン語でカンブリア)に由来する。オルドビス紀はウェールズ地方に、かつてすんでいた部族の名前「オルドバイス」にちなむ。シルル紀はウェールズ地方にすんでいたシルル族に由来する。石炭紀はイギリスの石炭のほとんどが、この時代に栄えていた植物の化石であることに由来する。古生代の最後が二畳紀。世界的にはぺルム紀と呼ばれることが多いので、日本でもぺルム紀と習うようになっている。ぺルム紀はロシアのウラル山脈西部に、かつてあったペルミア王国に名がちなむ。三畳紀は南ドイツのこの時代の地層が、三相に分かれていることにちなむ。ジュラ紀は、スイスとフランスの国境にあるジュラ山脈にちなむ。白亜紀はパリ盆地のこの時代の地層に多い、石炭質のつぶであるチョーク(白亜)にちなむ。「世界の中心で、愛をさけぶ」広瀬亜紀という名は白亜紀から取られた。「恐竜のようにたくましく」というのがその理由だが、恐竜は6500万年前、白亜紀後期に絶滅した。
人生は短く、苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ、影のように移ろい、永らえることはない。(旧約聖書ヨブ記 14章1~2節)
マジャパヒト王国は13世紀から16世紀にかけてジャワにあったヒンドゥー教王国。ケルタラジャサは元軍の侵略を撃退して、スラバヤ付近のマジャパヒトに建国した。(1293年) その後、元に使者を遣わして朝貢し、友好関係維持につとめ、内政をととのえた。
14世紀後半ハヤム=ウルク王のとき、宰相ガジャ=マダの補佐を得て最盛期を現出し、ジャワを除くインドネシア全域とマライ半島の一部を服属させ、ジャワ史上最大の領域を開いた。のち王位継承の争乱が起こり、属国が離反し、財政が窮乏して衰退した。
王の頌徳詩「ナーガラクルターガマ」(1365年)はインド=ジャワ文学の傑作。インドネシア全域にヒンドゥー教の建造物が多く建設された。このヒンドゥー文化は東方とくにバリ島に伝えられ、今日に及んでいる。
15世紀にマレー半島ではマラッカ王国が栄えた。これは東南アジアで最初のイスラム王国で、香辛料貿易を通じてマレー、インドネシア方面にイスラム教を広めた。
軍讖に曰く、柔は能く剛を制し、弱は能く強を制す
三略は上略・中略・下略の三巻から成るところから名づけられたもので、周の太公望が書き、神仙の黄石公が選録したと伝えられ、同じく太公望の書「六韜」とならび称される。「武経七書」のひとつ。語はその上略にある。「兵法書にいう。柔軟な者が、かえって剛強なものを押さえつけ、弱い者が、かえって強い者を押さえつける」たとえば水はその容れる器に従って曲直方円どんな形にもなる。だからこの世界に水より柔弱なものはないわけだが、しかし水はよく大石を転ばし、谷をうがち、巨物を流し、大船を浮かべる。そればかりか堅城を陥れ、高陵を池となすのも水の力である。水より勝る大きな働きをするものはないのである。最も柔弱である水にどうしてこのように偉大な力が具わっているいるかというに、水は曲折変化して極まりないものであるけれども、常にその水である所以を失わず、その性質を変えることがないからである。この点から考えて見れば、柔なるものが剛なるものに勝ち、弱いものが強いものに勝という道理は自明のことであって、本来われわれはこの道理をさまざまな経験によってもよくわきまえている筈である。それにもかかわらず、いざ実行となると、たちまちこの道理にもとり、武力をふるったり、権力をふりまわしたり、あるいは財力に物を言わせようとして、はては獣力闘争へ至りがちのものである。それは人が心を虚しく柔弱を体して有余を損し、もって社会に奉ずるということができず、徒らに名利や智識の奴となって人為私欲にわざわいされるからのことにほかならない。
昭和20年4月、沖縄本島にアメリカ軍の艦砲射撃が始まった。当時、7歳だった比嘉富子(1938年生れ)は数カ月間、逃げまわり、多くの戦死者、自殺する兵隊や集団自決する住民などを目にしながらさまよい歩いた。ある日、洞窟(ガマ)に住む身体の不自由な老夫婦に出会う。老人は「世界中の約束だから、これを持ってれば大丈夫」と褌で白旗を作ってくれた。6月25日のこと。少女は白旗を持ちながらアメリカ兵に近づくと、1人の米兵はカメラのようなものを構えた。戦後何年も経ってから、自分の幼いときの写真が世に出たことに気付いたが、富子は名乗り出ることはしなかった。そして長い沈黙のすえ、富子がその写真が自分であると名乗り出たのは49歳のときだった。撮影したのは米陸軍戦闘カメラマンのジョン・ヘンドリックスだった。
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
この詩は峠三吉(1917-1953)の「原爆詩集」の冒頭「序」にある「にんげんをかえせ」である。峠三吉は大阪府豊中市の生まれ。1945年、広島で原爆にあい、原爆症に苦しみながら文化運動・原水爆反対運動に尽力し、51年に「原爆詩集」を刊行した。凄惨な事実を即物的に歌い、詩における最も早い原爆体験の集中表現として注目され、原爆への抗議を呼び起こす大きな力となった。1953年3月10日この世を去った。
原爆詩集 青木書店 1951
原子雲の下より 青木書店 1951
「死が早すぎた峠三吉」 秋山清 新日本文学8-5 1953
「峠三吉のこと」 前田芳雄 人民文学4-6 1953
風のように炎のように 峠三吉追悼集 峠三吉追悼集出版委員会 1954
峠三吉と許南麒 岡本潤 岩波講座文学・創造と鑑賞1 1954
「武器をきたえつづけた詩人 峠三吉の作品と生涯」土井大助 文化評論24 1963
「ユートピア・ヒロシマ」 峠三吉 現代の眼6 1965
にんげんをかえせ 峠三吉全詩集 風土社 1970
八月の詩人 原爆詩人峠三吉の詩と生涯 増岡敏和 東邦出版社 1970
「峠三吉の詩における死と愛 「原爆詩集」にいたる道程」 且原純夫 新日本文学26-2 1971
「詩人の運命 峠三吉・その原爆詩の弾道」 増岡敏和 民主文学69 1971
徐福は秦の始皇帝に滅ぼされた斉の国の人。学問のある教養人で、道教を司る神仙方士であった。徐福は、東海に浮かぶ神仙島に不老不死の仙薬があると始皇帝に上申した。始皇帝はそれに興味を示し、仙薬を手に入れるようにと命じた。そこで徐福は3000人の童子・童女を引き連れ、東海に乗り出した。その結果、徐福の一行がたどりついたのが日本だった。徐福伝説は長い間、中国でも単なる伝説であり徐福は実在の人物とは認められていなかった。しかし1982年、羅其湘という学者が江蘇省に徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在していたことが判明した。1985年、「説徐福到黄遵先」として報告され、近年徐福研究が見直されている。日本にやってきて、着いたところは有明海だった。現在の佐賀市諸富町あたり。このほか、徐福上陸の伝承地は、北は青森から南は鹿児島まで全国に33ヵ所もある。舟屋の家並みで知られる京都府伊根町にも徐福渡来伝説が伝わる一つ。徐福が上陸したのは「ハコ岩」といわれる岸壁であった。そこで徐福は漁撈や農耕の技術を教え、住民に慕われ、死後、新井崎神社に祀られたという。
レファレンス協同データベースに「史記の日本への伝来時期」に関する質問事例がある。山梨県立図書館の回答には、「確かな記録はなく不明。ただし遅くとも6世紀までには日本に伝来していた」とある。図書館の人が諸書を探しても見当たらないのは、専門家でもこれといった資料に乏しく伝来時期を特定することができないからであろう。
この6世紀に日本に伝来したとする根拠は、聖徳太子の十七条の憲法に史記の字句が引用されているからとしている。しかしながら「日本書紀」の転載された十七条の憲法が604年制定のものであるかは疑義のあるところである。研究者の間では日本書紀の文章に参考にされたとおもわれる漢籍は「史記」も含めて80種以上あるが、これらの漢籍は、必ずしもその全文テキストが伝来したのではなく、「芸文類聚」などの類書よりの間接的引用であることが指摘されている。あるいは十七条の憲法に字句の豊富な漢籍の使用例などから後世の偽作と考える学者も多い。史記の日本伝来を飛鳥時代か奈良時代かでみるかでおよそ100年以上の差がある。つまり「日本書紀」の成立年である720年以前には「史記」は日本に伝来していたことは確実であるが、6世紀とみるのはいかがなものか。もちろん十分に読めなくとも、大和朝廷の時代に舶載品として伝来していた可能性はあるとする。しかし伝来時期を奈良朝と遅くみて、遣唐使などが持ち帰った史記で「日本書紀」編纂の参考としたと考えるほうが自然ではないだろうか。「続日本紀」(768年)の中で史記の亀策列伝の「神亀は天下の宝なり」が引用されている。
それともう一つ「遅くとも6世紀までには日本に伝来していた」とする説を疑うのは、そのころは今日のように史記は重要視されていた書物ではなかったからである。とくに漢代においては支配階級に不評判であった。その理由は①史記は司馬遷が中書令としての身分で書いたもので、太史令として書いたのではなく、史家版にすぎなかった。②皇帝を批判する言辞がある。後漢の衛衡の漢書旧儀注には「司馬遷は景帝本紀を作ったが、景帝の短所や武帝の過失について言及しているので武帝は怒ってこれを削除させた」とある。史記が評価されるようになったのは唐代に入ってからである。9世紀平安時代には和訓で史記を読んでいたことは想像に難くない。藤原佐世の「日本国見在書目」(891年頃)には「史書80巻」記載されている。BSプレミアム「古代中国よみがえる伝説 司馬遷と武帝」(2004年5月1日放送)においても「史記は平安時代には日本に伝わっていた」としている。山梨県立図書館の「6世紀史記伝来説」はいささか勇み足気味であろう。
大淀三千風(1639-1707)は松尾芭蕉と並び称された三重県松阪市射和出身の俳人で、41歳のとき一昼夜に三千句を詠んだことから、それ以後「三千風」と名乗る。「松島眺望集」(1682年)を刊行し、全国に松島の佳景を知らしめた。芭蕉が「奥の細道」の旅に出ることを決意したのもこの本の影響とされている。三千風は全国行脚し、北は岩手・秋田から西は熊本・長崎まで約15200㎞に及び、途中、立山・白山・富士山などに登り「日本行脚文集」全7巻(1690年)を刊行した。
鴫立し 沢辺の庵を ふきかえて こころなき身の 思い出にせん
三千風は「日本行脚文集」のなかで、コーヒーを皐蘆(南蛮茶)と書き残している。これが日本最古のコーヒーの記述だと言われている。
古代から現代における西洋の著名な作家をABC原綴順に並べると、トップに来るのは、アバイ・クナンバエフ Abai Kunanbaev (1845-1904)である。19世紀ロシアの民族詩人。カザフ国民文学の祖として切手の肖像にもなっている。封建制の搾取体制を批判し、ロシアの進歩的民主主義者と結びつくことを説いた。プーシキン、ネクラーソフ、ベリンスキー、チェルヌイシェフスキー等の影響をうけ、哲学的評論集「ガクリア」(1890-1898)に歴史、哲学、文学、労働などの問題を提起して、カザフ文学の発展に大きな影響をあたえた。アウエーゾフは彼の生涯を「アバイ」(1947)「アバイの道」(1956)の二部作で描いた。日本語出版では松永修蔵「アバイクナバエフ選詩集」(1983)がある。
邦題書名では「ああ無情(レ・ミゼラブル)」(ヴィクトール・ユゴー)、「愛の妖精」(ジョルジュ・サンド)、「アイバンホー」(ウォルター・スコット)など。
(Abay Qunanbayuli,Abai Qunanbaivli)
有名人の集合写真を見ると、必ず1人くらいあまり有名でない人がいる。
その1。下の写真はご存知フランク・シナトラ・ファミリー。フランク・シナトラ、ディーン・マーチン、サミー・ディヴィスJr.ピーター・ローフォード。映画「オーシャンと十一人の仲間」(1960)のようだが右端の俳優の名前がわからない。調べると、ジョーイ・ビショップ(1918-2007)という。5人の中ではいちばん長生きしている。
その2。明治30年4月、森鴎外の観潮楼(現在の水月ホテル鷗外荘)で撮影された写真。中央は幸田露伴。右端の人物は?
その3。これも有名な集合写真。昭和24年の文化勲章授与式記念写真。左の津田左右吉と右の2人、志賀直哉と谷崎潤一郎は分かるが、ほか3人がわからない。調べると、左から、岡田武松(気象学)、三浦謹之助(内科医学)、真島利行(化学)。
その4。下の写真は「少女倶楽部 昭和15年10月号」に掲載された写真。3人は子役の女優のたまご。左から「悦ちゃん」、ひとりおいて、御舟京子(現在の加藤治子)。中央のモダンな洋装の少女の名前は分からなかった。
その5。CDジャケット。戦前ポリドール専属歌手10人の顔写真が並べているが、珍しい人がいる。上から東海林太郎、上原敏、若原春江、青葉笙子、新橋喜代三、伏見信子、高田浩吉、田端義夫、結城道子、高峰秀子。結城は明治41年生れで没年不詳。上原敏とのデュエット曲「裏町人生」が大ヒットした。
その6。昭和32年北海道名寄市への講演旅行。石原慎太郎と円地文子。あと1人は誰?
十返肇(1914-1963)。文壇と文学賞に関する著作を多数発表した評論家として知られる。
その7。あまちゃんのアメ横女学園GMTのメンバー紅白歌合戦の写真。前列、左の黄色い服の女性は小野寺薫子、隣は蔵下穂波、能年玲奈、松岡茉優、山下リオ。ほかのダンサーのみなさんは名前は不明。
その8。1941年2月19日、ハリウッドのMGM新スタジオに現れた4人。クラーク・ゲーブル、シャーリー・テンプル、ミッキー・ルーニー、ジュディ・ガーランド。
賽金花(1874-1936)の本名は趙彩雲、また富彩雲、傳鈺連、曹夢蘭、趙霊飛などと称した。江蘇省蘇州の貧しい家に生まれ、娼家に売られ、艶名を馳せた。それが清末の著名な官僚洪鈞に愛され、妾となった。洪家には年上の正妻、病弱な第二夫人がいたが、洪鈞がロシア、ドイツ、オーストリア、オランダへ特命全権公使として出国する際に、若い彩雲も同道した。そして利発な彼女はベルリンでドイツ語を習得した。洪鈞は帰国後高職についたが、間もなく北京で病死している。彩雲は洪家を出てから、再び天津の妓院に戻り、賽金花と名乗った。そこで義和団事件に遭遇した。そして命からがら北京へ逃げる。そのとき北京へ乗り込んだ八ヵ国連合軍の司令官がドイツのヴァルデルゼー将軍であった。その宿舎にあてられたのが賽金花である。彼女はヴァルダーゼーを説得し、北京市内での連合軍と市民の衝突を回避させた。賽金花はそののち、抱えの幼妓を虐待死したという罪で投獄され、出獄後は貧困な生活を送り、北京の陋屋で62歳で息をひきとったという。(アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー)
世界史用語を原語で調べてみると、意訳している用語が数多くある。「カノッサの屈辱」はドイツ語では「Gang nach Canossa」、カノッサの方へ歩く、という意味である。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がイタリアのカノッサへ赴いて謝罪したことを、「屈辱」の語で表現したのである。ビスマルクの「ビアリッツの密約」(1865年)も原語には密約という表現はない。英語ではBiarritz Meetings、フランス語では、entrevue de Biarritz。entrevueとは会見、謁見の意味である。ビアリッツはビスケー湾に面したフランス南西部の保養地。オーストリアとの戦争を計画していたビスマルクは、戦争直前の1865年、ビアリッツでナポレオン3世と会見、ライン左岸地方の割譲をほのめかしてフランスの好意的中立を約束させた。しかしビスマルクは割譲を確約せず、実行もしなかったためフランスの感情は悪化。これはやがて普仏戦争の一因となった。
内藤記念くすり博物館(岐阜県各務原市)の展示品のひとつに奇妙な姿の彫像がある。角が頭に2本、胴体に4本、目玉が顔面に3つ、胴体両側に3つずつの9個。顔はあきらかに人間であるが、胴体は四足の獣のようである。江戸時代の作らしく、病魔除けの神獣「白沢(はくたく)」と呼ばれている。白澤の図像は江戸時代の諸書に数多く見え、旅先の際、ふところに白澤図像を入れておくと災難・病魔から逃れられる。人間の言葉を理解する神獣である。
もともと「白澤」は中国が起源で、黄帝神話・伝説の中で、黄帝の前にその姿を現し様々な鬼神について語ったとされる。黄帝は白澤の言葉をもとに図を描かせ、鬼神の害を除いたとされる。そのために、白澤は「黄帝のような徳のある王者の前に出現する獣」として人々に捉えられるようになり、中国皇帝の鹵簿では白澤を象った旗が掲げられ、皇帝の徳を象徴するために白澤の図像が用いられた。白澤の図像は中国や朝鮮では虎首龍身や獅子型のものが多くみえる。それに対し、日本や琉球では人面牛身の白澤像が残されている。
明会典に所載する官服補子「白澤」(明代晩期)
人面獣身(あるいは人頭獣身)の彫像の起源を探ると、誰しも古代エジプトのギザの大スフィンクスを想起するであろう。従来、スフィンクスの顔は第4王朝のカフラー(前2558-2532)を表現し、その建造年代は前2550年頃とされていた。近年の研究によると、胴体部分の侵食の具合などから、カフラー王以前に建造されたとみられる。つまりピラミッドの守護神とみられていたスフィンクスがピラミッドが建造されるよりずっと以前に造られていたと考えられるのである。人面獣身の像はその後もオリエントの諸国家の守護神として伝播される。とくに知られるのはペルシアである。前5世紀ペルセポリス王宮の大基壇の階段をのぼった所には、「万国の門」と呼ばれたラマッス(人面有翼牡牛像)が聳えていた。
ペルセポリス王宮 クセルクセスの門 前5世紀前半。高さ5.6.m。
ルーブル美術館にある人面有翼の牡牛像。前8世紀サルゴン2世の都コルサバート出土。
ギリシア神話に登場する半人半獣のケンタウロスは、馬の首から上が人間(男性)の上半身である。好色で酒好きの暴れ者で、弓矢や槍、棍棒を使う。遊牧民スキタイの影響といわれている。
付記:これらの記事は8月1日に開催された関西大学東洋史大会で岡部美沙子氏の「中国における白澤図像ー西安戸県の白澤図像を事例として」に触発されたものである。
16世紀になってヨーロッパからインド、中国、日本各国に火薬を使って散弾を放つ新式銃が伝わった。ポルトガルは1515年にインド西部ゴアに鉄砲の工廠を設立し、アジア各地に鉄砲を交易品として販売した。1514年、オスマン帝国はチャルディラーンの戦において鉄砲を用いてサファヴィー朝ペルシアを破る。1526年、ムガル帝国のバーブルは少数兵力ながら鉄砲や大砲という新式火器を用いてローディー朝をパーニーパットの戦いで破った。16世紀初め、鉄砲は戦闘を一変させ、アジアの政治・社会に大きな影響を与えた。
日本への鉄砲伝来は1543年ポルトガル人が種子島に火縄銃を伝えたことはよく知るところである。中国への鉄砲伝来には諸説ある。中国はオスマン帝国から1562年(あるいは1564年)オスマン銃(神器譜には嚕蜜銃とある)が伝えられたとある。明朝の記録によると「朶思麻」(Dusman?ダシマ)という中央アジアの人物が伝来したとあるが、オスマン側の記録がなく、不明な点が多い。ただし火銃そのものは元代に発明され、現在知られる最古の銃は元の至順3年(1332)に鋳造されたものである。火縄銃は明の嘉靖27年(1548)に倭寇から獲得したのが伝来の契機といわれる。
この記事は関西大学東洋史大会で研究報告された澤井一彰先生の「漢文史料によるルーム(ルーミー)再考 ―オスマン銃の中国への伝播と朶思麻―」に触発されたものである。本年関大に准教授として着任された澤井氏は「16世紀後半のオスマン朝における飢饉と食糧難」「気候変動とオスマン朝」「オスマン朝における穀物供給」「1563年のイスタンブール大洪水」などオスマン朝の社会経済や自然災害などの論稿を発表している。
参考:和田博徳「明代の鉄砲伝来とオスマン帝国」史学31-1-4、1958年)
東京都調布市の民家に小型プロペラ機が墜落した。飛行目的は「慣熟飛行」と届け出されていたが、実態は遊覧飛行である可能性が高い。「慣熟飛行」という語は広辞苑にもなく、意味もあいまいなところがある。見た目は四字だが「慣熟」と「飛行」の二字が合わせただけの四字漢語で、四字熟語とはいえない。「慣熟」とは物事に慣れるという意味でふつうの国語辞典に見える。操縦士は操縦する機種を変える場合、新しい航空機に合う機種免許を新たに取得しなければならない。しかし免許取得はほとんど模擬飛行装置で行われる。したがって実際の飛行機は免許取得後に初めて運航するケースが多い。このため免許取得後、航空機の操縦に慣れるまでの訓練飛行が必要になる。これを「慣熟飛行」という。
「慣熟飛行」は四字熟語といいにくいが、「一期一会」や「一発逆転」を四字熟語とみなす人は多い。私は四字熟語を次の三つのランクに分けている。
A 中国の故事に由来し、中国人がみても意味が通用する・・・四面楚歌
B 見た形が四字漢語で、日本で広く使用されて深い意味がある・・・一期一会
C 熟語として未成熟で故事も深い意味もないもの・・・一発逆転、玉音放送
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