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2015年7月 3日 (金)

「キバと幸福」梅棹忠夫

Bugugangsi065

    NHKでは、日本海海戦を大勝利にみちびいた知将の秋山真之、その兄の陸軍大将秋山好古、同郷で親友の俳聖正岡子規、三人の生涯を余すところなく描いた司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を再放送している。率直な感想は、明治人の気概や爽快さなど横溢しており、ドラマとしては良質のものである。ただ日露戦争に続く日本の悲惨な歴史を考えると手ばなしで喜ぶこともできない人も多いだろう。ドラマの中でしばしば福沢諭吉の言葉がでてくる。「一身独立して一国独立す」と。ドラマのテーマを一言で言いえている。今日の朝日新聞の夕刊記事で梅棹忠夫さんのことが紹介されていた。梅棹忠夫さんの漢字廃止論は有名だそうだ。また宮沢内閣のとき、アジア太平洋問題に関する首相の諮問委員会が設置された最初のゲストスピーカーが梅棹さんだった。開口一番「日本が大陸アジアと付き合ってろくなことがない、が私の結論です」と言われて、参加者はあっけにとられたそうだ。まるで福沢の脱亜入欧論ではないか。その梅棹さんはこんなことも言っている。「みなさまがたのなかには、明治生まれのかたがかなりたくさんいらっしゃるようにお見うけいたしますので、たいへん失礼な表現になるかとおもいますが、明治をしらない現代人からみれば、明治はやはり、はるかなむかしというほかありません。この一世紀は、日本の国家にとりまして、ひじょうな躍進の時代であり、いわば国家としての急速な成長期でありました。極東の一角のささやかな国家から、たちまちにして世界のいわゆる列強のひとつに仲間いりをするようになったのであります。数次にわたる対外戦争および第二次世界大戦における敗戦というきびしい試練をうけましたけれども、その傷もおおむね回復して、今日においては、国の実力からいいましても、すでに堂々たる大国であり、ふたたび第一級の国にのしあがったのです。もともと日本は、明治の初期には完全な農業国であって、だいたい国民の80%以上が農民でした。それがいまや農業人口は40%をきるところまで縮小しています。日本はそういう国がらにかわってきたのです。農業国から工業国にはっきり転換したのです。そして、それにともなって、国家の、あるいは社会の、いわば生理作用がかわってきたのです。わずか一世紀のあいだに、日本はすっかり体質がかわってしまいました。そういう社会あるいは国家の体質の変化にともないまして、国民の個人生活、あるいは人生についてのかんがえかたというのも、明治のころとくらべまして、もうすっかりべつなものになってしまっていると、わたしはおもうのです。(中略)明治時代のひとの人生の生きかたというものをかんがえてみると、これは理想にむかって驀進した猪突猛進型であったといえましょう。イノシシがキバをむきだして目的にむかって驀進した。そのとき、個人の目的と国家・社会の目的とは一致していたのです。そのものすごいエネルギーによって、かれ自身は立身出世し、同時に近代日本の建設がすすんで、このような繁栄がもたらされたというわけです。しかしながら、その繁栄の結果として、現代ではイノシシのキバは不要になったのです。あるいは、平和な社会生活においては、キバは邪魔でさえある。おしあい、へしあいの高密度社会で、そういうキバをふりまわされては、あぶなくて仕かたがない。他人が迷惑する。そういう時代になってきたのです。そこで、キバはすてるほかない。武装解除です。現代は、イノシシたちの武装解除の時代です。キバをうしなったイノシシとは、なんであるか。それはつまりブタでしょう。現代の日本の青年たちはまさにブタのごとき存在になりつつあるというわけです。(中略)これはどうも日本だけの話ではないのでして、近代国家の生活者一般の未来像なのです。」

 「キバと幸福」1959年11月10日の講演。民俗学者、梅棹忠夫(1920-2010)のユニークな文明史観、未来像は注目に値する。1959年というかなり以前の講演であるが、今、「坂の上の雲」を見て、梅棹忠夫の著作に注目している。さらに講演は続く。

「そこでこれからどうなってゆくんだろうかということですが、こういう世俗のきわみのままでどんどんながれていって、われわれの社会はどうなってゆくのか。心の奥そこまで世俗化され、そのあげくのはてに、いったいどういうことになってゆくのかということです。どうもこれはへんないいかたでありますが、わたしは、そのような幸福追求とか生活水準の向上とかの世俗のきわみのはてに、もういっぺんに崇高な、なにか聖なるものがでてくる可能性があるのではないか、とかんがえています。聖なるものというのは、いったいどういうことか。かんたんにいいますと、目的がないということなのです。すくなくとも、実利的目的がない、そういう性質のものです。そのことを一所懸命にやったところで、わが身になんの利益も還元することがない、そういう性質のものです。つまりなにかを獲得するために自分はこうするのだということでなしに、おかえしを期待しない行為、これをわたしはひじょうに神聖なものだとかんがえています。完全な自己放出、あるいは、自分自身をなにかにささげてしまう、そういう生きかたです。さきほどから俗なるものといっているのは、それとはちがうものなのです。こうすればこうなるというような、やりとり関係のなかで人生が組みあげられている。幸福追求というものはやはりそうだとおもうのです。なにか自分が努力することによって、こういうものをかちとることができるのだ、というふうになっている。聖なるものというのはそうではなくて、全然おかえしを期待しないで自分自身をなにかにポッとほうりなげてしまう。こういうのが、聖なるものとよばれるものだとおもいます。そして、人間の聖なる行為というものは、世俗的欲求がいちおう充足されたときにでてくるものではないか、というのがわたしの仮説なのです。(中略)ブタに、もう一どキバがはえてくるかもしれないのです。ブタの再武装です。しかし、このときキバはすでに防御や攻撃に有効な、生物的生存目的をもったキバではありません。あたらしいキバは精神のキバです。人間の問題は、本来人間の精神の問題です。もし個人がキバをもつとすれば、それは精神のキバです。それは、生物的生存目的のためには不必要な武装です。それは、生物的な目的の喪失をこえて、人間精神の聖なる放出のための武装です。世俗の生活がみちたりたとき、精神の神聖な再武装がはじまるというわけです。」7月3日は梅棹忠夫の命日。

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コメント

実に面白い!素晴らしい方ですね!
今の今まで知りませんでした。ぜひ著作を読んでみます。

集団的自衛権が閣議決定された今こそ考えさせられる内容ですね。必要なのは精神のキバ。

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