アテネとスパルタ
紀元前500年頃、ペルシアは東はインド国境から西はエーゲ海におよぶ領土を擁していた。強者が支配する時代、そして侵略こそ最上の自衛。小アジアのイオニア地方のギリシアの植民都市もペルシアに併呑され、ギリシア本土へ勢力が及ぶのももはや時間の問題となった。しかし政治意識の高いギリシア人はペルシア支配に対して反乱を起こしたため、紀元前490年、ペルシアのダリウス1世は大軍を率いてアテネ郊外のマラトンに上陸してきた。ところが戦いは予想に反してアテネの勝利に終わった。伝令のフィリッピデス(ファイディピデス)は「ネニキカメン(我ら勝てり)」と告げると、死んだ。近代オリンピックのマラソン競技はこれを記念したもので、その距離はマラトンとアテネ間42.195kmと同じ距離に当てている。だがペルシアのギリシアに対する侵略はなおやまなかった。紀元前480年、ダリウスの子クセルクセスは自ら大軍を率いてギリシアに侵入した。ギリシア連合軍はテルモピレーの嶮によって、陸路のペルシア軍を迎え撃ったが、退却のやむなきにいたった。その際、スパルタの勇将レオニダスが指揮する小部隊が踏みとどまり、最後の1人が倒れるまでもちこたえて、本隊の退却を容易ならしめた。のちに墓が立てられ、詩人シモニデスの墓碑銘が刻まれた。
旅人よ、行きてラケダイモンの人びとに告げよ われら命を守りてここにたおれりと
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