戦艦陸奥生存者たちの悲惨な運命
昭和18年6月8日、午後12時10分過ぎ、広島港内の柱島泊地で、戦艦陸奥の第3砲塔付爆薬庫が突然原因不明の爆発を起こした。その日は雨で、乗員のほとんどは艦内にいた。急速な沈没のため逃げ遅れ、乗員1474名のうち救助されたのはわずか353名だった。
そして生存者353名には悲惨な運命が待っていた。家族との面会も許されず、そのまま最前線へと送られていったのだ。事故で戦艦陸奥が大爆発したという一大不祥事を、隠蔽するためだった。海軍の徹底した情報隠しは功を奏した。国民は陸奥爆沈のことを戦後まで知らなかったし、アメリカにも事実は漏れなかった。終戦後、日本に進駐した米軍は、海軍関係者に「陸奥はどこだ?」としつこく尋ねたという。
当時、陸奥と扶桑は柱島沖に並んで停泊していた。扶桑の艦長であった鶴岡信道(1894-1984)の証言がある。
「あのとき陸奥では、乗員の中でひんぴんと窃盗事件があって、特務少佐がその日、ちょうど呉の軍法会議に、処置を相談に行ってるんですよね。彼(陸奥艦長・三好輝彦)はそれで助かったんですね。そこで嫌疑をうけたものが弾庫で自決するため自爆したのではないか、という説が出てくるわけですが、これも死んだので、永久に真相はナゾのまになっているわけですな」と語る。
陸奥の沈没は極秘とされ、秘密裏に原因調査が進められ三式弾の自爆、乗員による爆破、スパイの陰謀など種々の説が浮かんだが、ついに「戦艦陸奥、謎の爆沈」として今日にいたっている。
昭和35年の新東宝映画「太平洋戦争、謎の戦艦陸奥」は天知茂と女間諜・小畑絹子の恋物語も絡んでいたが、陸奥爆沈の直接的原因はアメリカ工作員の時限爆弾によるものであった。時刻は12時ちょうどとなっていた。歴史的証言から、12時をだいぶん過ぎた時間なので時限爆弾説は信憑性を欠くものといえるだろう。
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今から10年ほど前に全く偶然目にしたことで、それ以後時々思い出すことに、戦艦「武蔵」乗組員の手記がある。秋田県の確か中学校の先生だった人が書いたものだ。「武蔵」沈没時の生存者の一人で、対空機関砲の弾丸補給担当だった。「武蔵」は航海日誌も戦闘詳報も全て失われたので、後で生存者の記憶を集め、再現・整理して、それが今日残っているが、この先生の記憶はいわば整理される前の原型というべきものだろう。「武蔵」喪失の原因についても様々な議論があるようだが、この先生は、機関砲の弾丸が補給できなくなった様子を記していた。このような整理される前の記憶が消滅しないように、この場をお借りしたしだいである。
投稿: 浅間山の灰かぶり | 2009年5月29日 (金) 20時59分
貴重なご意見ありがとうございます。戦後生まれのケペルは子供のころプラモデルが好きで兄と二人で集めて水にうかべて連合艦隊遊びをしていました。軍艦の名前など雑誌の「丸」でよく知っていました。でも詳しい戦史を調べることはあまりありませんでした。退職で時間もできたので、太平洋戦史の本を読みたいと思っています。レイテ湾に向かう武蔵を襲った米機の攻撃はすさまじいものだったようです。元乗組員「武蔵会」がまとめた「嗚呼戦艦武蔵」には苛烈な戦闘状況が子細に綴られています。戦後の恣意的な学者の著書よりも、兵として体験された人々の手記を読むことがいま必要だと思い、浅間山の灰かぶりさんに同感しています。
投稿: ケペル | 2009年5月31日 (日) 09時01分
戦艦武蔵のシブヤン海での戦闘の生存者の手記に関する記憶が小生自身の中で消滅しないうちに書き残しておきたいと思い、この場を拝借。筆者(秋田県の中学校の元先生)は、弾薬庫から上がってくる対空機関砲弾を、改めて弾薬ケースに詰め替え、それを上甲板の銃座に送る作業を担当していたが、武蔵が受けるうちに下から弾薬自体が上がってこなくなったと書いてあった。弾薬庫自体が雷撃による浸水などで全滅したのだろう。このような記憶は「整理される」べきではないと気にかかるしだい。
投稿: 浅間山の灰かぶり | 2010年8月 2日 (月) 09時22分
「武蔵が受けるうちに」を「武蔵が雷撃を受けるうちに」に訂正。失礼しました。
投稿: 浅間山の灰かぶり | 2010年8月 2日 (月) 09時31分