大岡忠光
八代将軍吉宗が宝暦元年に68歳で没し、長男の家重が九代将軍に就いた。この人は生来虚弱で、言葉が不明瞭であった。宝暦期の政局は、老中とともに、大岡忠光(1709-1760)が側用人として活躍した。忠光は、小姓であった時代に、暇があれば物まねなどをして家重の機嫌をとったりして、3歳違いの兄のように、家重に大変気に入られていたという。が、忠光が異例の出世ができた最大の要因は、何といっても忠光一人が、はっきりしない家重の言葉を聞きわけられたからである。たとえば、次のようなエピソードが伝えられている。
ある日、家重が春日園に遊びに行った時のこと、左右にむかってなにごとかを命じているのだが、あいにく忠光は用があって、その場に居あわせなかったむ。家重が何を言っているのか理解しかねた家臣たちは、急使を出して忠光に聞きにいかせた。使者のいう話を聞いた忠光は、「お上は風が寒いから着るものがほしい」と言っておられるのだ、と教えた。さっそく衣を差し出したところ、忠光の言うとおりで家重は大変喜んだ、というのである。
こんな有様だから、言語不明瞭な家重が将軍である以上、忠光がいなければ1日たりとも政務をみることができないことになる。忠光が異例の出世をし、その権力が老中をしのぐほどだったとしても、当然のことであろう。
江戸の名奉行大岡越前守忠相は忠吉の曽孫。忠吉の末子忠房の曽孫が忠光。
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