上杉景勝と会津若松城
上杉景勝は背丈が低い。顔はふっくら、両眼は鋭く光っている。むっつりおし黙って、用事の外はほとんど口をきかぬ。死ぬまでに、家来に一度も笑顔を見せたことがない、というほどの変人だったといわれる。
会津若松城は、南北朝時代、蘆名直盛(1323-1390)によって築造されたと伝えられ、以来、会津地方を治める蘆名氏歴代の本拠として利用された。戦国時代、伊達政宗に一時攻略されたが、豊臣秀吉の天下統一によって、蒲生氏郷(1556-1595)に黒川城が与えられた。氏郷は黒川城を改修して若松城と名づけ、城下町の整備に力を尽くした。今日の会津若松市の基礎は氏郷在城中につくられたものである。だが文禄4年、氏郷は40歳で病没する。慶長3年(1598)秀吉は越後より上杉景勝(1555-1623)を会津120万石の城主とした。景勝は慶長5年、居城若松城の北西4㎞の神指(こうざし)原に新しい城を築きはじめた。工事の総奉行は家老の直江兼続(1560-1619)である。この大工事の噂は徳川家康の耳にも入ってきた。家康は早速、使者をもって「上杉家が城を築き、武具を買い求め、戦の準備をしているという風潮がある。穏やかではないので、すぐ上洛して弁明するように」と伝える。直江兼続は、痛烈で嫌味な返事をした。「上方の武士は茶道具などをお集めだろうが、田舎武士は鉄砲や弓を集めることが、わが国の風俗だと思われたい」
怒った家康は、6月に会津討伐軍を結成して東へ向かった。これが9月の関ヶ原の合戦の引き金となる。
ところで蒲生氏郷の築いた堅固な若松城がありながら、神指城はなぜ築かれたのだろうか?この時、直江兼続と石田三成との間には、打倒徳川家康の謀略があったであろう。つまり、家康に会津討伐軍を起こさせ西進する間に、石田三成が家康討伐軍を挙兵する。東西から、家康を挟み撃ちにしようとする計画だったのではないだろうか。結局、関ヶ原の合戦において西軍の敗戦のため、西軍についた景勝は出羽米沢30万石に転封された。景勝の会津若松在城はわずか3年で終る。
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