備前岡山藩池田氏
慶長8年、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。元和元年、忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5千石で入封した。寛永9年、忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため鳥取に国替えとなった。代わって従兄弟の池田光政(1609-1682)が鳥取より31万5千石で入封し、以後明治まで光政の家系が岡山藩を治めることとなった。備前岡山の三代目藩主池田光政は仁政を敷いた名君として知られる。その光政の正室としてよく内助の功を挙げたのが、2代将軍徳川秀忠の養女勝子姫である。勝姫の生母は千姫である。千姫ははじめ豊臣秀頼に嫁入り、豊臣家滅亡ののち、姫路の城主本多忠刻と再婚した。勝子姫は、この千姫と忠刻とのあいだに生れた子である。
勝姫が光政に嫁いだのは11歳のときである。はじめはあまり良好な夫婦関係とはいえなかったが、その後は傍目も羨むほどの仲の良い夫婦になった。光政は中江藤樹に師事し、その高弟、熊沢蕃山を藩に招いた。1670年、日本最古の庶民の学校として閑谷学校を開いた。
藩祖光政は名君で、質実剛健が大好き。こんなエピソードがある。お江戸八百八町を、いかにも野暮な恰好で歩く侍たちがあると、「あァ、あれは備前の侍だ」と一目でわかる。岡山藩は、家中がみな礼儀正しく、「備前風」と呼ばれていた。が、跡目を継いだ綱政の時代になると、風俗が華美になった。ある日、浅草茶屋で、1人の備前侍が腰をかけていた。たまたま付近の老人が通りかかったので、茶屋の主人が、「どこの家中の者かあててごらんなさい」と言うと、老人首をかしげ「長州のお侍だろう」と答えたという。もうこの時には、「備前風」は廃れていた。
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