山田美妙と田沢稲舟
明治20年代半ば、樋口一葉と並び称せられる女流作家がいた。田沢稲舟(1874-1896)である。一葉が半井桃水に師事したように、稲舟は山形から上京して共立女子職業学校に学んだが、やがて山田美妙に師事した。稲舟の筆名は「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」(古今集東歌)に由来する。「医学修行」「しろばら」「小町湯」「五大堂」「唯我独尊」などがある。第二の一葉と呼ばれ、その原稿料は一葉の5倍で扱われたという。
山田美妙(1868-1910)は、明治文壇で一番の美男であり、言文一致の新進作家として知られていた。明治22年1月の「国民之友」の小説「胡蝶」の渡辺省亭(1851-1918)が描いた挿絵の裸体画が世間の騒動となった。主人公の女性が武者と対面している絵柄であるが、明治期の裸体論争の第一号である。美妙は時代小説を中心に全盛期であり、美貌と才能に恵まれた稲舟とともに、やがて二人は大恋愛のうちに明治28年12月に結婚する。樋口一葉も二人の結婚を祝福するかのように、「結婚できてうらやましい」と日記に書いている。おそらく一葉と稲舟との間にはなんらかの交流があったのであろう。
だが稲舟が幸福の絶頂にあったのは、ほんの短い期間だった。美妙の女癖の悪さと、姑との折り合いが悪く、稲舟は明治29年3月に郷里の山形県鶴岡五日町68番地に帰郷する。山田美妙は4月には西戸カメと再婚したが、稲舟は9月10日には急性肺炎により22歳で他界する。一葉も同年11月23日、24歳で亡くなっている。ところで稲舟の死因については、美妙との離婚の直後であったため誤報が飛び交い、自殺説が一般化されてしまった。その後、美妙は文壇から忘れ去られ、「大辞典」の編纂で生活の糧を得るという作家としては不遇な晩年であった。
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今更なんですが、山田美妙は当時としては女癖は悪くありません。普通です。又、山田美妙は押しに弱く、逆に『女に食われる』みたいな感じです。
投稿: | 2020年6月16日 (火) 10時34分
それとその書き方だと全て山田美妙の自業自得の様ですが、まわりからの嫉妬による悪口などが広がってしまった事が大きいです。
五年前のブログに今更申し訳ありません。どうしても気になり...
投稿: | 2020年6月16日 (火) 11時04分