「漱石」筆名の謎
夏目金之助の号「漱石」は、元々は正岡子規が使っていたが、子規があまり使わないので譲り受けたといわれている。語源は中国の「枕石漱流」の故事に由来するとされている。六朝の宋の頃の本で「世説新語」に次のような話がのっている。孫楚という人が、このきたない世間を離れて山の中にかくれて「石に枕し、流れに漱ぐ」ような生活をしたいと思い立ち、友たちに話すのに、まちがえて「石に漱ぎ流れに枕す」といってしまった。友人の王済がこれを聞きとがめて「どうして流れが枕にできるのかね」と問い質すと、孫楚はしまったと思ったが、負け惜しみが強かったので「なあに流れに枕すというのは、つまらぬことを聞いたときには耳を洗おうとするのだし、石に漱ぐというのは石で歯を磨こうというわけさ」と答えた。ここから「漱石枕流」という成語が生まれ、「負け惜しみが強く、うまく言い逃れすること」あるいは「へそ曲がり」のことを指すようになった。漱石自身はこの故事のある「蒙求」を読んだからとある。「小時蒙求を読んだ時に故事を覚えて早速につけたもので、今から考えると、陳腐で俗気のあるものです」(明治41年11月「中学世界」)と漱石は書いている。
ところが漱石筆名にはこのような謎もある。鎌倉円覚寺の境内にある手水舎に「漱石」という文字が刻まれている。夏目金之助は明治27年末から翌年にかけて円覚寺に参禅した。金之助は、この手水舎をおそらく見たであろう。漱石の筆名は、この手水舎の刻字から思いついたものかもしれない。
ところが漱石の雅号はいつからかというと、一高在学中の22歳の時という。明治22年5月、病床の子規を見舞い、帰りに「七草集」という本を借りた。5月26日「七草集」に評を書いて子規に手渡した。そのとき初めて「漱石」という号を用いて評を執筆した。文壇にデビューするのが38歳のときであるから、10年間以上「漱石」はおもに俳句などに使用する雅号であった。
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