アルタン・ハンとダライ・ラマ3世
高校世界史でチベットやダライ・ラマはいつ頃から登場するのだろうか。15、16世紀の世界地図を見ると、明帝国の周辺にはタタール(韃靼)やチベットが描かれている。明の歴代皇帝はチベット仏教を厚遇したらしい。永楽帝はみずからチベット仏教の信者になっている。永楽帝の死後、内政の乱れ、タタール、東南沿岸の倭寇による侵入に明は苦しむ。モンゴル東部のタタールのダヤン・ハンのもとで勢力強大となる。アルタン・ハンは1550年、北京を包囲した。彼は中国西部の青海やチベットもその勢力下に入れた。そしてチベットのソナム・ギャンツォ(1543-1588)にダライ・ラマの称号を与えた。ここから、以後モンゴル人の間にはチベット仏教が広まることになった。ダライとはモンゴル語で「海」または「偉大な」を、ラマはチベット語で、もともとのサンスクリット語のグル(師)の訳語である。
1720年、康熙帝のとき、チベットを清の領土とした。清代の中国は多民族の国で、満族は少数民族として国の統治者になった。そのため統治を固める為に、漢民族、モンゴル人、チベット人、ウィグル族、回族少数民族との団結を非常に重視し、その宗教も尊重した。承徳の外八廟には普陀宗乗之廟や普寧寺などチベットと結合した珍しい仏教建築や仏像が祀られている。
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