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2015年4月 1日 (水)

岐阜城と斎藤道三・織田信長

Photo_3     斎藤道三の出自に関しては、正確なことはわかっていない。父松浪基宗は「北面の武士」だったといわれ、のちに山城国乙訓郡に帰農したとされる。道三は11歳のときに日蓮宗の京都・妙覚寺に預けられた。その後、還俗して松浪庄九郎を名乗り武芸に励むが、突如、商家に婿入りして山崎屋庄九郎と改名し、油屋を開業。京都とその周辺で行商し、たちまち財をなした。やがて美濃にも販路をのばすようになると、稲葉山城主長井長弘の目に留まり、長井家に仕えるようになる。その縁をたどって守護・土岐盛頼の弟頼芸のもとに士官し、深く信頼されるようになった。1527年、頼芸をたきつけて盛頼を追放させ、頼芸を守護に据える。また、かつて恩を受けた長井長弘を殺害して長井家を強奪し、長井規秀と名乗った。その後、病死した守護代斎藤利良の跡を継いで斎藤道三と称し、権勢を振るう。1542年、突如兵を挙げと、主君頼芸を改めて国外に追放し、ついに美濃国主の地位についたのである。1548年、道三は家督を長男義龍に譲り、隠居する。しかし、のちに義龍と不和になり、義龍に攻められて捕らえられ、殺された。

   濃尾平野の北端に屹立する金華山上に築かれた岐阜城は古くは井ノ口城、稲葉山城とよばれた。1201年、二階堂行政がここにはじめて城を築き、室町時代には美濃の守護土岐氏の守護代斎藤利永が修築して居城としたとされるが、この城が名城とされるのは斎藤道三によってである。ところが道三は義龍に討たれ、義龍の子の龍興が城主になったとき、尾張の織田信長によって落城。信長は、1567年、山上・山麓に本格的な城を築き、あらたに岐阜と命名した。近年、信長の居館跡から地下通路の遺構が発見されている。1569年ここを訪れたルイス・フロイスは城下の繁栄を「バビロンのような混雑」と記している。信長が安土に移ったあと、岐阜城主は織田信忠・信孝、池田元助・輝政、羽柴秀勝、織田秀信とめまぐるしく変わったが、秀吉の没後、西軍に味方した秀信は東軍に惨敗し、翌年、廃城となった。

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 信長楽市楽座制札 国指定重要文化財 岐阜市歴史博物館

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