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2015年4月17日 (金)

日光東照宮

Photo_6     元和2年4月17日、駿府城において75歳の天寿をまっとうした徳川家康の遺骸は、久能山の仮殿に移された。生前病状の悪化を自覚した家康は、4月2日に本多正純、金地院崇伝、南光坊天海を召して、遺体は駿河の久能山に、葬礼は江戸の増上寺で、位牌は三河の大樹寺に立つるべきことを命じたのち、1周忌後に、下野の日光山に小堂を建てるて御霊を勧請し、関八州の鎮守とすべきことを遺言した。これを受けて、同年10月には幕府より日光山に東照宮の社地が選定され、11月17日には造営に着手し、1周忌にあたる4月17日には、主要な社殿が完成した。 

   この元和の造営を指揮した奉行は、本多上野介正純で、藤堂和泉守高虎が補佐し、建築の計画にあたったのは、幕府の大工頭中井大和守正清(1565-1619)であった。正清は奈良・法隆寺大工の中村家の出身で、家康の生前、格別の愛顧を受け、久能山の仮殿も建てた。 

    この元和創建の東照宮は、寛永の造替ですっかり破却されてしまい、伝わらないが、大河直躬、内藤昌両博士の研究によると、本社はやはり権現造で、その周囲を玉垣がかこみ、正面には唐門を開いていた。またその外周に回廊と楼門があり、ほかに本地堂、仮殿、御供所、水盤、厩、神庫、輪蔵、奥社拝殿、奥社宝塔が存在していたことがわかる。元和3年4月の遷宮後も、境内整備の工事は進められ、元和4年には現存する石の大鳥居を黒田長政が、石の水盤を鍋島勝茂が献納しており、また中神庫は元和5年に建てられている。造替に際して、本地堂、奥社拝殿、奥社宝塔は、群馬県の世良田の長楽寺に移されたと伝えられていたが、近年、長楽寺の東照宮拝殿が、社伝のごとく、神柩を安置していた奥社の拝殿を移築したものであることが明らかとなった。これによると、元和創建の東照宮は、現在の寛永造替のものほど装飾が派手ではなかったと推察される。 

    家康薨去後、ちょうど20年をめざして、寛永11年11月に開始された造替は、秋元但馬守泰朝を造営奉行とし、建築の総指揮をとったのは幕府作事方の大棟梁、甲良豊後守宗広であった。甲良氏は近江の出身で、建仁寺流を名のり、平内氏とならんで、江戸時代を通じて幕府作事方大棟梁の地位にあった。なお、一族の古い作品として、近江の油日神社楼門が現存している。寛永造替の東照宮では、それまでの和様と違い、禅宗様を基調として統一をはかり、これまでの大社や古社の本殿ではみられぬ様式で、このような発想自体、当時としては異例のものであったとみられる。それが大きな抵抗もなく受け入れられたのは、日光が男女山の山岳信仰の霊場、すなわち神仏混交の地であったからであろう。 

   東照宮の構成は、その基本的な社殿の形式を、すでに平安末期に成立した北野神社に負っており、その全体構成は、豊臣秀吉をまつる豊国廟を強く意識して成立したものとみられる。

 

    東照宮の鎮座する恒例山は、円錐形の神奈備山で、本社の位置には、かつて二荒山神社(現在、東照宮の地主神)がまつられ、三神庫付近には常行堂や法華寺などが存在した。寛永造替の附属社殿の数は、創建時のものより圧倒的に多くなっているが、種類においてはほぼ同じで、神與舎が新しくあらわれるのみである。

 

    表参道の大鳥居をすぎ、表門をくぐると、東照宮の空間が巧みに展開する。東照宮の中核は、本社と奥社であるが、本社にいたる空間の構成は、石垣でかこまれた表門前の広場(千人枡形)、それより斜路をもって水盤舎にいたる空間、銅鳥居より陽明門にかけて、階段によって高まりをみせながら展開する対照的な空間、陽明門をくぐり、唐門・透塀など本社の正面を広くみせた前庭、そして透塀でかこまれる奥の本社の一郭があり、深い緑にしげる杉木立を背景に鎮座する。

 

   このように、建物の種類や空間構成をみると、寛永造替の東照宮は、それまでの霊廟の附属社殿を、大規模な計画によって再構成し、またその配置方法に巧みな創意と工夫をこらしたものとみることができる。その後の全国の神社や寺院に与えた影響には、いろいろな意味でいちじるしいものがあった。

 

    徳川家康の家臣・松平正綱(1576-1648)は慶安元年(1648)、20年をかけて日光東照宮への参道に杉を植林した。日光街道の日光から今市間の8.5キロ、御成街道の今市から大沢間の10.7キロ、会津街道の今市から大桑間の3.9キロ、例幣使街道の今市から小倉間の13.9キロ、計37キロにわたり、約13,700本の日光杉並木が現存している。(参考文献:「名宝日本の美術31」小学館)

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改めて日光東照宮をゆっくりと見てみたいですね。

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