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2015年4月17日 (金)

大岡裁きとソロモン王

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 ラファエロ「ソロモンの審判」

    江戸南町奉行、大岡越前守忠相は「大岡裁き」と呼ばれる名裁判で有名であるが、19年間の在任中の裁判は3回だけで、そのうち忠相が執り行ったのは1回だけだったという。巷間伝えられる大岡裁きと類似した話が聖書にある。

    父ダビデの王位を継いだソロモン(在位960年頃ー前922年頃)は、イスラエルに未曾有の繁栄をもたらした。ソロモンが即位してまだ間もないある夜、彼の夢のなかに神が現れて、望むことを何なりとかなえてやろう、といった。このときソロモンは、個人的な利益や幸福は何ひとつ求めず、若くして王になった自分がよく職責を果たせるように、善悪をわきまえて民を正しく裁くことのできる知恵を与えて欲しい、とだけ願った。この無私な要求を喜んだ神は、彼を望み通りの比類なき賢者にしたうえ、富と栄誉をも彼に約束したという。「列王記上」には、ソロモンの賢人ぶりを示す次の有名な話が記されている。「あるとき2人の女が子供を産んだ。しかし、赤ん坊の1人が死んでしまう。その子の母親は、もう1人の女が熟睡しているすきに、こっそりと子供を取り換えてしまった。そして赤ん坊を自分の子だと言い張った。2人はソロモンの前に行き、どちらの子か決めてもらうことにした。ソロモンは刀を用意させ、2人のために、この子を二つに切り裂こうとした。そのとき、1人の女が叫んだ。この子はあの女にやってもかまわないから、殺さないでください。これを見たソロモンは、子供の生命を助けるように願った女こそ本当の母親であることが判明した。人々は、神の知恵が、ソロモンの肉にあって裁きをするのを目の当たりに見て、今更のように驚嘆したという」 2人の母が子供を巡り争う裁判の話は日本でも大岡政談としてよく知られている。滝川政次郎は大岡政談をソロモン王の裁判が起源であるとしている(「裁判史話」1951年)。つまり16、17世紀に来日した宣教師によって聖書のこの話が伝えられたとするのである。しかし大岡政談に類似した話は、中国の「棠陰比事」(宋、1207年)に載っている。つまり「棠陰比事」を元にして話がつくられた可能性のほうが高い。そして棠陰比事には、「風俗書に出ず」とある。この風俗書とは後漢の応劭「風俗通義」のことである。聖書がシルクロードを経由して後漢の中国に伝わり、江戸時代に日本に伝来したというのは話としては面白いが可能性として低い。大岡裁判のルーツは中国の「風俗通義」であり、ソロモン王の裁判と直接結びつけるという説にはさらに根拠とする考証が必要である。

   イソップにある「三本の矢の話」が毛利元就の故事になったように、説話の伝来にはナゾが多い。中国に仏教が伝来したのは後漢の明帝とされているが、現在ではそれよりも100年遅く、桓帝(在位146-167)とされる。キリスト教が本格的に中国に伝来するのは7世紀の唐の時代である。キリスト教(景教)が空海によって密教として日本に伝来したとする説や、中国よりも早く日本は聖徳太子の時代にはキリスト教が伝来したとする異説もあるが、ソロモンの審判の説話を大岡越前と結びつけるには根拠が希薄である。

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