司馬文学と歴史学
司馬遼太郎の筆名の由来は、中国の歴史家司馬遷に遼かに及ばない、からきている。歴史を扱った小説が多く、幕末を取り扱った小説をざっと指折り数えてみてると(洩れがあるだろうが…)、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「新選組血風録」「「世に棲む日日」「翔ぶが如く」「幕末」「峠」「人斬り以蔵」「「アームストロング砲」「俄・浪華遊侠伝」「大坂侍」「慶長長崎事件」「王城の護衛者」「最後の将軍」「十一番目の志士」などなど。
この中で「幕末」は、有村治左衛門(「桜田門外の変」)、清河八郎(「奇妙なり八郎」)、陸奥陽之介(「花屋町の襲撃」)、大庭恭平(「猿ヶ辻の血闘」)、間崎馬之助(「冷泉斬り」)、浦啓輔(「祇園囃子」)、吉田東洋((「土佐の夜雨」)、桂小五郎(「逃げの小五郎」)、伊藤俊輔(「死んでも死ぬな」、寺沢新太郎(「顕義隊胸算用」)、田中顕助(「浪華城焼打」)、市川精一郎(「最後の攘夷志士」)12の暗殺事件を背景にした暗殺者の列伝である。
この暗殺者の中に我が国の初代内閣総理大臣・伊藤博文(1841-1909)がいることに注目したい。伊藤博文は維新前を俊輔といい、桂小五郎に従って尊王攘夷運動に挺身し、文久2年には、高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多らと品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加した。文久3年1月13日、高槻藩士・宇野東桜を高杉晋作、伊藤俊輔、井上聞多、白井小助らが暗殺したとされる。同年、伊藤は山尾庸三とともに国学者・塙次郎、加藤甲次郎も暗殺している。
「幕末」で司馬良太郎は次のように書いている。「暗殺という政治行為は、史上前進的な結果を生んだことは絶無といっていいが、桜田門外の変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。」「書き終わって、暗殺者という者が歴史に寄与したかどうかを考えてみた。ない。ただ、桜田門外の変だけは、歴史を躍進させた、という点で例外である。これは世界史的にみてもめずらしい例外である。その後、幕末に盛行した佐幕人、開国主義者に対する暗殺は、すべてこれに影響された亜流である。暗殺者の質も低下した。桜田門外の暗殺者群には、昂揚した詩精神があったが、亜流が亜流をかさねてゆくにしたがい、一種職業化し、功名心の対象になった」とある。司馬遼太郎は有村治左衛門の暗殺行為は「歴史を躍進させた」と評価し、伊藤博文の暗殺事件は功名心としてことになる。伊藤博文や井上馨などは小説に度々登場するが遺族には誠に気の毒なほどの記述であろう。これはあくまで小説である。しかしながら「幕末」は同時代を扱った「新選組血風録」のように架空人物も登場しないし、ほとんど歴史記述のスタイルをとっている。本来なら歴史読物とするところをなせ「小説風に」書いたのか、司馬は次のように述べている。「幕末の暗殺は、政治現象である。政治情勢から出てきている。主人公はあくまで政治思想であって、歴史を書くばあいならばその政治情勢と思想に紙数を9割ついやさねばならぬであろう。が、それは、歴史に興味のない読者にとっては、月遅れの新聞の政治面を読むよりも無味乾燥である。なるべくそれを端折り、人間と事件にはなしの中心をおろした。歴史書ではないから、数説ある事情は、筆者がねこのほうがより真実で語りやすいと思う説をとりねそれによって書いた。だから、小説である。」
司馬遼太郎には「これは余談だが」とことわって、本筋とは離れた話柄を裁ち入れることがある。司馬ファンにはこれがたまらない魅力の一つであろう。人気のある歴史の高校教師は雑談やエピソードをたくみに取り入れる。それでいて受験に必要な事項は漏らさない、というのと似ている。司馬には、過去の人物と出来事、歴史の動くありさまを俯瞰的に観察しながら、生き生きと描きだす文才のあった作家だった。
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