「三矢の教え」のルーツはイソップ
農夫の子どもたちが、おたがいにけんかばかりしていました。農夫はいろいろいって聞かせても、子どもたちの心もちを変えさせることができなかったので、実際のもので教えなければためだと考え、子どもたちに棒のたばをもってこさせました。子どもたちが持ってきますと、農夫はまず、棒をいっしょにしばって、それを折れといいました。いっしょうけんめいやっても、折ることができなかったので、つぎにそのたばをほどいて、子どもたちに1本ずつ渡しました。子どもたちは、それはらくに折りましたので、農夫は、「いいかね、おまえたちも心をあわせていれば、悪いやつのおもうようにはされないが、たがいにけんかしていると、すぐにひどいめにあわされる」と、いいました。仲よくしていれば、強くなりますが、けんかをしていると、ひどいめにあわされるものです。
これは「イソップのお話」(河野与一編訳)に出てくる「棒のおしえ」である。戦国時代の武将・毛利元就(1497-1571)の「三本の矢の教え」の逸話の原型とみられる。実際に元就が嫡男の当主隆元、次男吉川元春、3男小早川隆景に、毛利家発展のために力をあわせるように述べた「三子への教訓状」が現存している。「三人之半、少しにてもかけご隔ても候はば、ただただ三人御滅亡と思召さる可く候べく候」とある。
このような話がもとになり、「前橋旧蔵聞書」に「三矢の教え」の故事が生れた。イソップの話がどのようにして毛利元就の逸話となったか経緯については明らかではない。「イソップ」が『伊曽保物語』として文禄2年(1593年)には和訳され刊行されているが、「棒のはなし」は収録されていない。だが三本の矢に似た話は、世界中にある。ペルシア(3世紀)では、7人の子に杖を折らせる。中国(5世紀)では、20人の子に矢を折らせる。どのようなルートで、日本に伝播したのだろうか。江戸時代初期の史家が毛利元就の故事として創作したことは充分に考えられる話である。 (Aesop)
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