無料ブログはココログ

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

2015年4月29日 (水)

ペリー提督から献上された汽車の模型

  1854年、米国東インド艦隊司令長官ペリー率いる黒船が再来航した。今度は、将軍へ33種類に及ぶ献上品を持参した。なかでも蒸気機関車の模型が幕府の役人たちをその力強さとスピードでたいへんに驚かせた。大陸横断鉄道の敷設事業に着手したばかりのアメリカにとって鉄道は文明のシンボルの一つだったので、模型列車はそのデモンストレーション用だった。2月15日、横浜に陸揚げされ、幕府の横浜応接所裏の麦畑で、一周約110mの円状軌道が敷設され、8日後の2月23日に運転が公開された。4分の1のスケールで機関車は長さ18mあり、石炭を焚いて時速32㎞で走り、人が客車の屋根にまたがって乗ることができる立派なものであった。汽車模型が日本に近代文明の力を見せ付けるインパクトを十分に与える役割に成功した。

Kohaku_49
 ペリー提督から献上された汽車模型(レプリカ) 鉄道博物館

2015年4月28日 (火)

コンクリートの歴史

20080927002211   コンクリートの歴史は古く、これを発明したのはローマ人といわれている。橋や水道橋をつくるにあたっても、コンクリートを使用していた。ローマのコロッセオも壁はレンガ造りだが、壁の内部は砂利を混ぜたコンクリートである(画像)。コンクリートの製法は長い間、忘れ去られていたが、1756年にイギリスの技術者ジョン・スミートンが水硬性石灰を使用したコンクリートを考案した。1824年、ジョセフ・アスプディンがポルトランドセメントを発明し、1840年代初めには実用化されている。Jeseph Aspdin

2015年4月27日 (月)

失恋から生まれた哲学

Louandreasthumb600x4959158   フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェ(1844-1900)。彼は代表作「ツァラトゥストラはかく語りき」でキリスト教を激しく攻撃し、超人と永劫回帰の思想を中心に独自の形而上学を樹立した。

   1881年、37歳のニーチェは7月からスイスのシルス・マリアの別荘で過ごしていた。8月のある日、シルヴァプラナ湖畔の森の中を散歩中に、山道のそばの巨大な尖った三角岩のほとりで、永劫回帰の思想が突然かれに来襲するという体験をした。

   1882年4月、ニーチェは、友人の哲学者パウル・レー(1849-1901)の招きでローマへ行った。サンピエトロ寺院の側廊でニーチェは、21歳のロシア人女性ルー・アンドレアス・ザロメ(1861-1937)と出会う。若くて知的で旧弊な道徳に囚われない自由な精神のザロメにニーチェは心を奪われる。ニーチェとレーとザロメの3人は、イタリア北部で楽しいひと夏を過ごす。2人の男性はザロメに求婚するが、すげなく断わられる。失恋をしたニーチェは、1883年2月、ラバロにおいて、10日間で「ツァラトゥストラはかく語りき」の第一部を書き上げた。ニーチェはもう二度と恋をすることはなかった。

 

Photo
 中央のヌードの女性はザロメではない


Louandreassalompaulreynietzsche

2015年4月26日 (日)

漢代の節旄(せつぼう)

W020140307525988465632_2   節旄とは皇帝から使節に、任命のしるしとして与えられる旗のこと。中国ドラマ「賢后 衛子夫」は綿密な時代考証が特色である。登場人物は、史書に伝えられた実在の人物がほとんどである(衛子夫の幼なじみ段宏も実在の人物)。第19話は衛青と段宏が田蚡に偽勅の罪を問われる。武帝は2人を庇うため、こう言った。衛青の持っていた剣は皇帝の剣でこの剣を持つ者の言葉は皇帝の言ったことと同じ。また段宏も節旄を与え同じであると。画像のように絵で見ることはあるが、ドラマで節旄を見ることは珍しい。豪華な飾りをした節旄であった。

藍色の蟇(ひき)

森の宝庫の寝間に 

藍色の蟇は黄色い息をはいて 

陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく。 

太陽の隠し子のやうにひよわの少年は 

美しい葡萄のやうな眼をもつて、 

行くよ、行くよ、いさましげに、 

空想の猟人はやはらかいカンガルウの編靴に。

Oo017g01 大手拓次(1887-1934)。大正期の象徴派詩人。萩原朔太郎や室生犀星と共に北原白秋門下の三羽烏として称された。生涯に書かれた試作品は2378篇にものぼるが、まとまった詩集は生前に発刊されることはなかった。バラを題材にした作品が多いことから、命日は「薔薇忌」と称される。

江戸時代の書肆

Img_0005
   
耕書堂の店先(画本東都遊)

 

 

    江戸時代の出版文化の隆盛ぶりは、朝鮮半島から来日した朝鮮通信使の記録にも見られる。享保4年(1719年)、第9次朝鮮通信使の製述官(書記官)として来日した申維翰( シン・イハン)は、その日記「海游録」で大坂の賑わいを次のように記している。

 

書林や書屋があり、看板をかかげて、曰く柳枝軒、玉樹堂などなど。古今百家の文籍を貯え、またそれを復刻して販売し、貨に転じてこれを蓄える。中国の書、我が朝の諸賢の撰集も、あらざるはない

 

   日本における万般の書の流通と書肆が書物によって利潤を得ていることに驚いたのである。朝鮮、中国ではまだ出版文化は形成していなかったが、江戸時代の出版文化の隆盛は世界的にもめずらしいものであろう。

 

   さて、申維翰が触れた「柳枝軒」は、京都六角通御幸町西入の書肆、茨城屋小川多左衛門の軒号。この店は初代が経書や禅宗関係書の廉価販売で成功を収め、二代の時には貝原益軒の教訓書や実用書、紀行などを販売した。「玉樹堂」は、京都西堀川通仏光寺下ル町の唐本屋吉左衛門で、「唐詩鼓吹」や「明詩大観」などの漢詩関連書や伊藤仁斎・息子の東涯の詩文集や「中庸発揮」「孟子古義」といった経書注釈書などを出版した書肆である。

 

   挿図は、江戸の蔦屋重三郎(1750-1797)の書肆「耕書堂」である。出版と販売の両方を行なっていたが、黄表紙・洒落本・狂歌集から浮世絵も扱って歌麿や写楽らを世に出した。

 

参考;長友千代治「江戸時代の書物と読書」 東京堂出版 2001

ユーラシアの地名の由来は?

Naba7

   ユーラシアはヨーロッパとアジアを合わせた領域である。近年、国家やヨーロッパ(西洋)やアジア(東洋)という既存の枠組みではなく、世界をより広くグローバルに捉えるために「ユーラシア」という地理的概念はさかんに用いられている。

    このヨーロッパ(Euro)とアジア(Asia)とをあわせたユーラシア(Eurasia)という地名を作ったのは誰であろうか。19世紀ドイツの地理学者ロイヒが『地理学手引』(1858年)の中で初めて用いられたといわれるが詳しいことはわからない。20世紀初頭には欧州の学者でアジア植民地拡大のなかで「ユーラシア」という言葉が盛んに使われだした。イギリスの地理学者ハルフォード・マッキンダー(1861-1947)は「デモクラシーの理想と現実」(1919年)のなかでハートランド論を唱え、ユーラシアを基点とした国際関係の力学を地理的に分析した。

1220071    日本でも1940年代から「ユウラシア」という用語が一般的にみられる。松川二郎著「中・西アジア地政治誌」(1942年)「トルコ国民性のユウラシア的性格」という1章がみられる。当初は地政学で使われたが、地理・歴史学で使われたのは騎馬民族説で有名な江上波夫の「ユウラシア古代北方文化」(1949年)である。最も古い使用例として、1925年の工藤暢須「重要問題人文地理学解説」に36回「ユーラシア大陸に於ける現住民に就き其の主要なる種類の分布を述べよ」とある。つまり大正末期にはすでに地理用語として「ユーラシア」は使われていたことが明らかである。工藤暢須(1896-1959)は戦前・戦後の地理学者。(参考:辻原康夫「世界地理の雑学事典」 1991年)

東南西北(中国の方位)

Bd0d7a54cdb324b73a13    日本ではふつう東西南北というが、中国では東南西北という。これは五行説にもとづくもので、東は春、南は夏、西は秋、北は冬、つまり春夏秋冬の一年の四季の順番と同じである。陵墓の向きは「天子は南面する」という思想から、南に向いて造られるのが普通である。堂は南面して建てられ、北に家長が座り、客人は南に座る。だが東面することもある。楚漢抗争の鴻門の会では、項羽と項伯が東向き(西)に座している。秦の始皇帝の兵馬俑の軍団はすべて東を睨んで配置されている。これは秦国が征服した六国の西側に位置したため、死後も東の国々を見張るため兵馬俑はすべて東向きになっていると考えれている。(参考文献:「東西南北と東南西北 日本と中国の方位」一海知ー義 図書655,2003年11月)

2015年4月25日 (土)

チンボラソ

Humboldtbonpland_chimborazo    チンボラソは南米エクアドルにある標高6310mの休火山。標高ではエベレストに及ばないものの、場所が地球の半径が大きいところで、地球の中心からの距離はエベレストを上回り、地球の中心から最も離れた場所となる。チンボラソは19世紀初頭まで世界で一番高い山と考えられていた。この山は長く人を寄せつけなかったが、1802年フンボルトとボンプランが5875m地点まで登った。1831年にも登頂が試みられたが失敗。1880年イギリスの登山家ウィンパーが登頂に成功した。(Volcam Chimboraso,Edward Whymper)

2015年4月24日 (金)

縄文人は何を食べていたのか?

   縄文時代には、本格的な米作りは、まだ始まっていなかった。縄文人には食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得た、木の実や果実、野草などの植物を採ったり、シカ、イノシシ、クマ、キツネ、サル、ウサギ、タヌキ、ムササビ、カモシカ、クジラの肉を食していた。また川で魚や貝を獲って食べていた。

特にドングリやクリ、クルミ、トチの実などは大切な食料であった。

Photo04_01
 群馬県の今井見切塚遺跡出土の炭化ドングリ


郷に還れば即ち是れ書肆なり

Redulivre  ベルギーにルデュという小さな村がある。活性化のため、古本屋を集めて村おこしに成功したという。今では世界中から珍しい本を求めて観光客がやってくるという。画像の本はセギュール夫人の「ふたりのおばかさん」 (Rude,Comtesse de Segur)

Acslesdeuxnigauds

Hans_brinker1
  「銀のスケート靴」 ドッジ夫人

Jackanapes
「ジャカネイブス」(1879年) ジュリアナ・ホレイシア・ユーイング作、ランドルス・コルデコット絵(Jacanapes
とは「いたずらっ子」の意)



 

 

 

2015年4月23日 (木)

霊柩車を見た日はよいことがある

Img6ebe507cc91ztc   むかし巨人の長嶋茂雄は霊柩車に出会うと、その試合にホームランが打てる、というジンクスがあったと聞いた憶えがある。東宝映画「男ありて」(1955)にも野球人の「験担ぎ」のシーンがある。地方での試合、志村僑演じる弱小チームの監督はわざと葬儀屋に手配して、送迎バスが野球場に向かう途中で、霊柩車とすれ違わせて、選手に今日の試合が勝てる、と思い込ませる。つまり長嶋の逸話は、長嶋以前から野球界にはあった験担ぎだった。もともとはギャンブル好きの人から生れたジンクスで、背景に、易経でいう「陽きわまれば陰生じ、陰きわまれば陽生ず」という考えからきている。

死ぬ前に読むべき本

   10年ほど前の話であるが、世界54ヵ国、およそ100人の著名作家に「死ぬ前に読むべき一冊」をアンケートしたところ(文学系ばかりだが…)、1位は断トツで、セルバンテスの「ドン・キホーテ」だった。

  選者は他に、ゲーテの「ファウスト」、プルーストの「失われた時を求めて」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」、トーマス・マン「魔の山」、ジョイス「ユリシーズ」、ジェームズ「ある婦人の肖像」などを選んだ。

4bd575b6a

413

商人と屏風

Byoubue   「商人と屏風は直ぐには立たぬ」 屏風は角度をつけて折らなければ立てることができないように商人として世を渡るには、常に頭を低くして客を立て、人に屈することも大切であるという教え。

2015年4月22日 (水)

時は金なり

Timeismoney1    時間に関するインターネット調査で、時間にまつわる言葉で「共感できる格言」第1位は「時は金なり」だった。この言葉はベンジャミン・フランクリンが格言入りのカレンター「貧しいリチャードの暦」(1733年)で有名になった。フランクリンは論文でも「憶えておくこと。時は金なり」(若き商人への手紙,1748年)でも記している。実はこの格言はフランクリンの創案ではなく、原典はかなり古いが明らかではない。ギリシアの哲学者ディオゲネス(前4世紀)の文献に「時は人間が消費しうるものの中で最も貴重なものである」とある。ローマの詩人ホラティウス(前1世紀)は「その日を生きること」と言っている。そしてラテン語になって「時は高い出費」となる。16世紀フランスの作家ラブレーの文献にも見える。

美しさはつかのま

Img_0001 ティツィアーノ 「聖愛と俗愛」 ボルゲーゼ美術館

    あでやかさは偽りであり。美しさはつかのまである。しかし主を畏れる女は、ほめたたえられる。(箴言31-30)

   井上ひさしは、ある時、大辞典をひもといて、男についての言い方を調べた。すると、男子、殿方、紳士、旦那、偉丈夫、快男児、猛者、野郎、勇者、烈士、志士、悪夫、健児、益荒男、壮漢など230種あった。ところが、女のほうを調べて卒倒せんばかりに驚いた。なんと700種以上もの言い方があったという。貞女、淑女、聖女、悪女、姐御、色女、淫婦、采女、姥桜、石女、大年増、おぼこ、女盛り、佳人、麗人、看板娘、貴婦人、閨秀、紅一点、小娘、女子、処女、女性、女房、女流、手弱女、童女、刀自、女人、妖婦、令嬢、毒婦、獏連、白鬼、すれっからし、魔性の女、あげまん、さげまん、慰安婦、酌婦、グラマー、ヴァンプ、細君、柳腰、御侠、嫋やか、オバタリアン、コギャルなどなど。彼の結論は、鬼女、美姫、悪女など男の三倍もあるのは、女は男の三倍化けるからだというものであった。つまり聖書の箴言では「女性の見かけの美しさは偽りで、たとえ美しくとも、長続きはしない」と忠告している。誰にそう言っているかというと、女性にも、男性にもである。女性に対しては、「若いときの華やかさはやがてすたれるものであり、また、美しく着飾ったところで、地は変わるものでないからすぐに現れてしまう。それよりも神様を信じ、心を清められた女性になりなさい」と言っているのある。また、男性には、「外見の美しさに心を奪われるのではなく、神様を信じて、心の清められた女性に目を向けなさい、そういう人を探しなさい。そのような女性こそ、永遠にかわらない美しさをもっているのですよ」と教えているのである。

古越蔵書楼

Photo    光緒帝は日本の明治維新にならって近代的な制度を導入しようとした。いわゆる戊戌の変法(1898年)はわずか100日余りの短期間であったが、改革は旧式の学堂を新式の学校にしたり、京師大学堂の創建を急いだり、近代化の機運が起った。浙江省の紹興市に徐樹蘭が1904年に建てた古越蔵書楼も西洋の図書館学の規則を採用し、中国最初の一般公開された近代的な図書館といえる。そこには目録があり、新式の設備と管理運営がなされていた。古越蔵書楼は後に魯迅図書館となり現在に至っているが、中国の図書館の近代化に及ぼした影響は大きい。

自分が死んだら遺灰はどうなるの?

Photo スイスの有名な心理学者ユングの著作を読むと、「イニシエーション」という言葉が出てくる。人はその生涯の中で節目がある。出生、学校、就職、結婚、退職、そして誰しも「老い」を迎える。死に至る長い人生の過程で必ず通過しなければ次の段階へ進むことができない。一連の通過儀礼つまりイニシエーションであるとみることができる。自らの「老い」を受けとめることはイニシエーションを迎えるための準備の段階である。やがて死がおとずれ、火葬されて灰になる。

   散骨とは、火葬した後に遺骨を粉末状にして、海・空・山中などに撒くことであり、自然葬として今ちょっとしたブームである。墓地やお墓がない、という人も多い。実際に火葬したけど、お寺もなく、ひっそりと部屋の片隅に遺灰を入れた骨壺がずっとある、という人もいる。だけど散骨するのもマナーがあって実行するには手間がいる。映画やドラマを見て、散骨のしきたりを学習しておくことも必要だろう。散骨といえば、「世界の中心で、愛をさけぶ」である。広瀬亜紀を演じた長澤まさみ、綾瀬はるか。甲乙つけがたく現代の代表的な清純派女優となった。朔太郎は亜紀の遺灰をオーストラリアに撒いた。「男たちの大和」では戦後50年して鈴木京香が亡父の遺灰を大和の沈没地点まで行って撒いている。高倉健の最後の映画となった「あなたへ」は亡き妻の遺灰を故郷の海に散骨するというお話だった。秋川雅史の「千の風になって」も散骨の歌である。「私のお墓の前で泣かないでください」と遺族を慰める死者は、墓の中にはおらず、風になったり、光になったり、雪になったり、雨になったり、鳥になったり、自然の中で遺族を見守っている、という歌である。自分が死んでも、お参りに来るものは誰もいないから、散骨してほしい。国土の狭い日本に墓を建てて、生きていく人たちに迷惑をかけるより、海や大地の自然に帰してもらうほうをのぞむ。だが遠くの海へ行くには、船がいるし、海外だとパスポートもいるし、近所の山中では叱られそうだし、散骨するのも難しそうだ。適当に檀家のお寺の納骨堂に納めてください。

957120090123165331

2015年4月21日 (火)

津山藩と小豆島

Chizu

   天保8年、美作津山藩藩主、松平斉民(1814-1891)は幕府に働きかけて、一部の藩領と天領との交換を実施した。その結果、海をもたない山間の藩であった津山藩が、小豆島西部6郷(現在の土庄町)を統治するようになった。これは明治の廃藩置県まで33年間続いた。

日英ことわざ集

2179414323_7914889ff5 No advice to the father's.

親の教えにまさるものはない。日本では「親の意見と茄子の花は千に一つもむだはない。

  英米のことわざには、日本語にも似たことわざが少なくない。

 五風十雨(ごふうじゅうう)とは、5日ごとに1度風が吹き、10日ごとに1度雨が降ることをいう。転じて、農作物が生育し、世の中が泰平であることのたとえにいう。中国古典「論衡」にみえる。

    英語では、次のように表現する。

No Weather's ill,when the wind is still.風さえなければ、天候は悪くない

When the cat is away the mice will play.鬼の居ぬ間に洗濯

    英米のことわざ・名言の中で、もっとも短くて語呂がよく、覚えやすく、日本人にも馴染みのある諺を集めてみる。

Time  is  money.(時は金なり) という名言は、もともとギリシアから由来したものだが、ベンジャミン・フランクリンが使って世に知られるようになった。

Time flies.光陰矢のごとし

Time change.時代は変わる

Walls have ears.壁に耳あり

A sound mind in a sound body.健全なる身体に宿る健全な精神

More haste,less  speed.急げば急ぐほど速度が落ちる(急がば回れ)

Strike  while the iron is hot.鉄は熱いうちに打て

All's  well  that  ends  well.終わりよければすべてよし

Homer sometimes nods.ホーマーですら居眠りする(弘法にも筆の誤り)

It  is no use crying over spilled milk.こぼしたミルクのことで嘆いてもしかたがない(覆水盆に返らず)

All roads lead to Rome.すべての道はローマに通ずる

A rolling stone gathers no moss.転がる石には苔がつかない

Cast not pearls before swine.豚に真珠を投げ与えるな

Seeing is believing.見ることは信ずること(百聞は一見に如かず)

Rome was not buit in a day.ローマは一日にして成らず(大器晩成)

Truth is stranger than fiction.事実は小説よりも奇なり

When in Rome,do as the Romans do.ローマでは、ローマ人に従え(郷に入っては郷に従う)

The farthest way abuat is the nearest way home.家に帰るには回り道を通るのがいちばん早い(急がば廻れ)

The early bird catches the worm.早起きの鳥は、たくさんの虫を捕らえる(朝起きは三文の得)

Fools will be fools still.愚か者は、どこまでも愚か者であり続ける(馬鹿につける薬はない)

To go through fire and water.どんな難局にも屈しない(七転び八起き)

Keep a thing seven years and you will find a use for it.7年保管しておいて使い途のでてこない物はない(無用の用)

To empty the sea with a spoon.スプーンを使って海をからにする(砂を集めて塔を積む)

Great talents mature late  大器晩成

He who does not work,neither shall he eat.

働かざる者食うべからず。(もとは聖書の中の一節だが、17世紀のイギリスの探検家ジョン・スミスによって広く知られる言葉)

The nearer the church,the farther from God.

教会に近いほど、神から遠くなるものだ(灯台下暗らし)

Literature is the art of words.

文学とは言葉の芸術である

Birds of a feather flock together.

同じ羽をもった鳥が群がる(類は友を呼ぶ)

Like hen,like chicken.

蛙の子は蛙

all work and no play make a Jack a dull boy(よく遊びよく学べ)

Birdsofafeather

(参考;「英語のことわざ」秋本弘介(1915-1977) 「日英故事ことわざ辞典」常名鉾二郎)

一粒の米

江戸中期の儒学者・新井白石は学問にすぐれ、「正徳の治」と呼ばれた文治政治を行った。幼少時の逸話の多くは、後世の史家の創作であろう。ここでは「一粒の米」というよく知られた逸話を紹介する。

白石がまだ子供のころ、「勉強が嫌だ」と怠けていたら、父の正済が言った。一升の米から一粒くらい取り出しても、減ったかどうかわからない。しかし、10日・20日と、一粒ずつ取り続けると、少しは分かる。勉強も1日くらい怠けたってどうってことは、ないのかも知らない。でも、一粒ずつの集まりが、一升の米になっいる。一粒が大切なのだ、と諭している。

2015年4月20日 (月)

もともと「安全第一」は三番目だった‼

Safetyfirstwarningsignconstructions   よく工事現場などでみられる看板「安全第一」。いつ頃、だれによって作られたのだろうか?1906年、アメリカでは多くの労働災害が発生していた。製鉄会社、USスチールの社長エルバート・ヘンリー・ゲーリー(1846-1927)は当時の「生産第一、品質第二、安全第三」という会社の運営方針を見直し、「安全第一」とした。この方針が実行されると、労働災害はたちまち減少し、生産性も向上した。この標語はたちまち全米に広がり、やがて世界中に普及するようになった。日本では大正元年(1912年)古河鉱業足尾鉱業所長の小田川全之(おだがわまさゆき)がアメリカで提唱されていた「セーフティ・ファースト」を「安全専一」と訳して標示板をつくり、所内の安全活動を推進した。「安全専一」は昭和になると「安全第一」として標語が定着した。Elbert Henry Garry

History01_ph02 History01_info_ph01
                                                    小田川全之(1861-1933)

41525538_138490965436
エルバート・ヘンリー・ゲーリー

 

バースデーケーキ

Birthdaycake090627_02   お誕生日にケーキに蝋燭を灯して皆で祝う習慣は日本でも定着している。むかし日本では初誕生日には「餅踏み」「一升餅」「背負い餅」などの風習が各地方にあった。誕生日お祝いのケーキの登場は戦後のことで、一説によるとGHQの指導によるものらしい。欧米社会でバースデーケーキが誕生日の必須アイテムとなったのは19世紀中盤以降とのこと。しかし誕生日ケーキの起源は古く、中世ドイツの製パン業者が誕生日ケーキを考案した。そのケーキに蝋燭を灯して吹き消すという習慣は、古く遡ると古代ギリシャにあるという。

ウェーバリー課長は名優だった

Lgcrll5_randall   子供の頃、観ていた「0011ナポレオン・ソロ」。アンクルの課長ウェーバリーを演じるレオ・G・キャロルは70歳を過ぎた老優。出演作品一覧をみると、映画史に残る名作がズラリ!! 「嵐が丘」「レベッカ」「哀愁」「断崖」「Gメン対間諜」「白い恐怖」「パラダイン夫人の恋」「花嫁の父」「見知らぬ乗客」「キリマンジャロの雪」「悪人と美女」「俺たちは天使じゃない」「北北西に進路を取れ」など。

穀雨

Photo

  きょう20日は二十四節気の一つ「穀雨(こくう」。春雨が降って百穀を潤すの意。兵庫県でも朝から低気圧や前線の影響で、雨が降っている。ときおり、激しい雨が降ることもある。

マニフェストの語源

    マニフェスト(manifesto)と聞くと鼻白む。語源はラテン語で、イタリア語マニフェスターレmanifestare(「明らかにする」の意)経由で英語のManifesto(宣誓文)となった。現在は「マニフェスト」は「政権政策」「政権公約」と訳されることが多い。

    これと似た単語に「manifest」がある。語尾に「 o 」がつかない。「明白なる」という形容詞。アメリカ人はインディアンを虐殺して領土を獲得していったが、マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny 明白な天命)という表現を用いて侵略の歴史を正当化していった。マニフェストには嘘と欺きの臭いがする。

「三矢の教え」のルーツはイソップ

  農夫の子どもたちが、おたがいにけんかばかりしていました。農夫はいろいろいって聞かせても、子どもたちの心もちを変えさせることができなかったので、実際のもので教えなければためだと考え、子どもたちに棒のたばをもってこさせました。子どもたちが持ってきますと、農夫はまず、棒をいっしょにしばって、それを折れといいました。いっしょうけんめいやっても、折ることができなかったので、つぎにそのたばをほどいて、子どもたちに1本ずつ渡しました。子どもたちは、それはらくに折りましたので、農夫は、「いいかね、おまえたちも心をあわせていれば、悪いやつのおもうようにはされないが、たがいにけんかしていると、すぐにひどいめにあわされる」と、いいました。仲よくしていれば、強くなりますが、けんかをしていると、ひどいめにあわされるものです。

Aesopfablesrarebookbookcover   これは「イソップのお話」(河野与一編訳)に出てくる「棒のおしえ」である。戦国時代の武将・毛利元就(1497-1571)の「三本の矢の教え」の逸話の原型とみられる。実際に元就が嫡男の当主隆元、次男吉川元春、3男小早川隆景に、毛利家発展のために力をあわせるように述べた「三子への教訓状」が現存している。「三人之半、少しにてもかけご隔ても候はば、ただただ三人御滅亡と思召さる可く候べく候」とある。

   このような話がもとになり、「前橋旧蔵聞書」に「三矢の教え」の故事が生れた。イソップの話がどのようにして毛利元就の逸話となったか経緯については明らかではない。「イソップ」が『伊曽保物語』として文禄2年(1593年)には和訳され刊行されているが、「棒のはなし」は収録されていない。だが三本の矢に似た話は、世界中にある。ペルシア(3世紀)では、7人の子に杖を折らせる。中国(5世紀)では、20人の子に矢を折らせる。どのようなルートで、日本に伝播したのだろうか。江戸時代初期の史家が毛利元就の故事として創作したことは充分に考えられる話である。 (Aesop)

2015年4月19日 (日)

犬や猫にも血液型がありますか?

Notebook_image_516107_2   ヒトの血液型にABO式・Rh式等があるようにイヌにも血液型についていくつかの分類方法が提唱されているが、現在最もよく用いられているのはDEA(Dog Erythrocyte Antigen:イヌ赤血球抗原)式で13種類がある。ネコの血液型は猫ABシステムとして知られ3つの血液型がある。

赤と白が多く使われている国旗

Photo_2   日の丸のように赤と白が多く使われている国旗は世界にいくつあるか調べてみた。20流(りゅう)見つかった。イングランドの国旗はセント・ジョージ・クロスと呼ばれて白地に赤い十字の旗である。実在が確認される旗は1277年のものが最も古い。赤と白とが多く使われる(一部その他の色がある国旗も含む)国旗をあげると、1ペルー、2カナダ、3オーストリア、4レバノン、5マルタ、6インドネシア、7モナコ、8ポーランド、9シンガポール、10バーレーン、11トルコ、12チュニジア、13デンマーク、14スイス、15カタール、16トンガ、17グルジア、18ネパール。

Photo_3

252pxflag_of_tonga_svg_2  Photo_4  Photo_7
16トンガ   17グルジア  18ネパール

    6インドネシアと7モナコが似ているが、6番が2:3、7番が4:5の縦横の比率である。

Photo_5    グリーンランドはデンマーク領であるが、自治が認められて1979年に独自の政府が発促、1985年にはグリーンランドの旗が制定された。

(St.George's Cross)

「せっかく」の語源

「せっかく おいでいただいたのに、留守をして申し訳ありません」

「せっかく」には「わざわざ」の意で使われることがある。漢字で書くと「折角」。中国にこんな故事がある。

   後漢の林宗(郭泰、128-169)が被っていた頭巾の角の片方が雨にぬれて折れ曲がった。人々は日ごろから林宗を尊敬していたので、さっそくその真似をしてわざわざその一方の角を折り曲げてこれを林宗巾(りんそうきん)と呼んだ。これから「角を折る」がわざわざの意味に使われるようになった。

バウワウとミャオウ

Brand5revised2bg

  動物の鳴き声とか物の音などを表現する言葉を擬声語または擬音語という。人間が実際に耳で聞いた鳴き声や音を、そのまま文字で表したものであるが、各国でさまざまな表現がなされてなかなか面白い。

   犬の「ワンワン」は英語で「バウワウ(bow wow)」。猫の「ニャー」は「ミャオウ(meow)」という。鼠の「チュー、チュー」は「eek、eek(イーク、イーク)」。ひよこの、「ピヨピヨ」に相当する英語は「ピープ(peep)」。牛はどこの国でも大抵は「モー(moo)!」

くちなしと映画「旅情」

Picture_113 クチナシはアカネ科の多年生常緑低木で高さは2メートル前後になる。何んともいえぬ芳香があり、6月から7月にかけて、白い花を開く。東洋の名花として知られ、日本の「花暦」でも7月の花に選ばれている。クチナシは「梔子」が一般的であるが、別名「山梔」(さんし)、「山黄枝」(さんおうし)、「林蘭」(りんらん)などと呼ばれている。英語で「ガルディーニャ(gardenia)」。

 花言葉は、「清潔」「純潔」「閑雅」を表わし、歌謡曲「くちなしの花」は今でもカラオケなどで人気のある曲である。映画「旅情」(デヴィッド・リーン監督)では、ラストのサンタ・ルチア駅での別れのシーンでクチナシが効果的に使われている。クチナシは口無しを意味し、実が熟すると普通の草木は口が開いて種がこぼれるが、このクチナシの実は口が開かないので、クチナシという言葉ができたともいわれる。

「金のなる木」の正式名称

I0123000260h1b   南アフリカに自生する低木状の多肉植物。日本での俗称「金のなる木」で知られる。「花月(かげつ)」は園芸名。正式な名称は、クラッスラ・ポルツラケア。

日本の伝統色「江戸紫」

Purple

   江戸紫とは、武蔵野に自生する紫草(むらさきそう)を使って江戸で染めたことから、この名がついた。この紫は青みが強く、京都の公家文化の中で継承されてきた「京紫」に対して「江戸紫」と呼ばれるようになった。歌舞伎の助六が締めている鉢巻の色としても知られている。

   江戸紫が江戸で盛んに染めだされることになったのは、八代将軍、徳川吉宗が浦上弥五左衛門に、「延喜式」に記載されているとおりに古色を染め出すことを命じ、弥五左衛門から命を受けた後藤縫殿助が年々数多く染め出し、それらを収録した「式内染鑑」刊行が契機となったといわれている。

2015年4月17日 (金)

温州みかん

   「温州みかん」の命名は、江戸時代の本草学者が中国のミカンの名産地である浙江省温州府という古地名に因んだものである。日本の温州ミカンの原産地は、鹿児島県出水郡長島町で浙江省とは無関係で、筑後地方に入って各地に広まった。温州ミカンの歴史は意外と新しく、明治時代中期以降のことである。有吉佐和子の小説「有田川」には、紀州ミカンが温州ミカンへと移り変わる明治33年頃の農家の様子が描かれている。

Map_of_zhejiang

なぜ満月の夜、狼男は変身するのか?

Docteurjekylletmisterhyde192001g
 「ジキル博士とハイド氏」

  怪奇映画は無声映画の時代から人気があり、いまやホラーとしてジャンルを確立している。そのルーツは、変身はロバート・ルイス・スティーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」(1886)が、美しい女性への思慕はユゴーの「ノートルダムのせむし男」(1831)などの話がホラーにインスパイアーされている。ベニチオ・デル・トロの「ウルフマン」(2010)も変身と美しい女性への思慕が盛り込まれており、ロンドンの舞台俳優が父親の影響で狼男となるストーリー。父子の狼男対決というのが見ものである。

Houseofthewolfman400x361   狼男の映画は満月の夜に変身する設定や、美しい女性への恋愛感情はお決まりごとになっている。なぜ満月の夜に変身するのだろうか。狼男のことを西欧ではライカンスロープという。ギリシャ語でリュコス(狼)とアントローポス(人間)とを合わせた合成語である。満月の光で変身したり、ライカンスロープという言葉は古くからある話ではないが、そのルーツは狼の毛皮を身にまとうと、狼の能力を得られるとする、共感魔術あるいは類感魔術にある。北欧にはベルセルク(熊の毛皮を着た者)という言葉があり、熊の毛皮を着ると熊と同化して戦闘能力が高まると信じられた。狼男に噛まれると狼男になって伝染してしまうという設定は、おそらく狂犬病などの感染からきているのであろう。ドラキュラ伝説や人狼伝説は東欧などに古くから伝わるが、フランケンシュタインはメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」(1818)に登場する博士の名前が広まったものである。ミイラ男はボリス・カーロフの映画「ミイラ再生」(1932)による。狼男の映画はロン・チェイニー・Jrが知られるが、すでにヘンリー・ハル主演で「倫敦の人狼」(1935)がある。(Lycanthrope,Berserkr), 

1920「狂へる悪魔」 ジョン・バリモア
1931 「フランケンシュタイン」 ボリス・カーロフ
1931「魔人ドラキュラ」 ベラ・ルゴン
1932「ミイラ再生」 ボリス・カーロフ
1933「キングコング」
1935「倫敦の人狼」 ヘンリー・ハル
1940「ミイラの復活」トム・タイラー
1941「狼男」 ロン・チェイニー・Jr

大岡裁きとソロモン王

Photo_3
 ラファエロ「ソロモンの審判」

    江戸南町奉行、大岡越前守忠相は「大岡裁き」と呼ばれる名裁判で有名であるが、19年間の在任中の裁判は3回だけで、そのうち忠相が執り行ったのは1回だけだったという。巷間伝えられる大岡裁きと類似した話が聖書にある。

    父ダビデの王位を継いだソロモン(在位960年頃ー前922年頃)は、イスラエルに未曾有の繁栄をもたらした。ソロモンが即位してまだ間もないある夜、彼の夢のなかに神が現れて、望むことを何なりとかなえてやろう、といった。このときソロモンは、個人的な利益や幸福は何ひとつ求めず、若くして王になった自分がよく職責を果たせるように、善悪をわきまえて民を正しく裁くことのできる知恵を与えて欲しい、とだけ願った。この無私な要求を喜んだ神は、彼を望み通りの比類なき賢者にしたうえ、富と栄誉をも彼に約束したという。「列王記上」には、ソロモンの賢人ぶりを示す次の有名な話が記されている。「あるとき2人の女が子供を産んだ。しかし、赤ん坊の1人が死んでしまう。その子の母親は、もう1人の女が熟睡しているすきに、こっそりと子供を取り換えてしまった。そして赤ん坊を自分の子だと言い張った。2人はソロモンの前に行き、どちらの子か決めてもらうことにした。ソロモンは刀を用意させ、2人のために、この子を二つに切り裂こうとした。そのとき、1人の女が叫んだ。この子はあの女にやってもかまわないから、殺さないでください。これを見たソロモンは、子供の生命を助けるように願った女こそ本当の母親であることが判明した。人々は、神の知恵が、ソロモンの肉にあって裁きをするのを目の当たりに見て、今更のように驚嘆したという」 2人の母が子供を巡り争う裁判の話は日本でも大岡政談としてよく知られている。滝川政次郎は大岡政談をソロモン王の裁判が起源であるとしている(「裁判史話」1951年)。つまり16、17世紀に来日した宣教師によって聖書のこの話が伝えられたとするのである。しかし大岡政談に類似した話は、中国の「棠陰比事」(宋、1207年)に載っている。つまり「棠陰比事」を元にして話がつくられた可能性のほうが高い。そして棠陰比事には、「風俗書に出ず」とある。この風俗書とは後漢の応劭「風俗通義」のことである。聖書がシルクロードを経由して後漢の中国に伝わり、江戸時代に日本に伝来したというのは話としては面白いが可能性として低い。大岡裁判のルーツは中国の「風俗通義」であり、ソロモン王の裁判と直接結びつけるという説にはさらに根拠とする考証が必要である。

   イソップにある「三本の矢の話」が毛利元就の故事になったように、説話の伝来にはナゾが多い。中国に仏教が伝来したのは後漢の明帝とされているが、現在ではそれよりも100年遅く、桓帝(在位146-167)とされる。キリスト教が本格的に中国に伝来するのは7世紀の唐の時代である。キリスト教(景教)が空海によって密教として日本に伝来したとする説や、中国よりも早く日本は聖徳太子の時代にはキリスト教が伝来したとする異説もあるが、ソロモンの審判の説話を大岡越前と結びつけるには根拠が希薄である。

ローマの初期イコン聖母子像について、プリシラのカタコンベ

1g20catacombs20nursing2020copy   「イコン」とは、ギリシャ語「エイコーン」を語源とし、ギリシア正教会でまつるキリスト聖母・聖徒・殉教者などの画像のことである。そもそも、モーセの十戒には「あなたはいかなる像も造ってはならない」とある。この言葉に従うならば、キリスト教美術の多くが、偶像崇拝として糾弾されなければならない。事実、イコンは偶像崇拝であるとしてビザンティン皇帝レオン3世、コンスタンティノス5世はイコノクラスム(聖像破壊運動 726-843年)をとって弾圧した。だが結果的には、神のイメージは視覚芸術による表現を認められ、843年には聖像崇拝が正統と認められるにいたった。聖像崇拝は禁教であったローマ時代にカタコムベ(地下墳墓)の壁に描かれた聖像が最も古いものとみられる。プリシアのカタコンベに描かれた聖母子はおよそ250年頃のものとみられる。初期キリスト教美術は5世紀以来、マリアの神性を強調し、聖母子やキリスト像などのイコンが東方教会には欠かせないものとして発展した。(Catacomb of Priscilla)

Wlb138_catacombpaintingWlb141_pictureofjesus_300s

参考文献:加藤磨珠枝「ローマの聖母子イコンの起源について」千葉大学人文研究・人文学部紀要33  2004年)

こちらのサイト

http://ci.nii.ac.jp/els/110004531560.pdf?id=ART0007286047&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1366285567&cp=

ごらんください。

馬から落馬する

Photo_6    NHK朝ドラ「純と愛」で「あとで後悔するなよ」という表現は、間違いだと父親の武田鉄矢が屁理屈をいう。「あとで」と「後」が重複しているという理由だ。しかし「まだ未熟」「いちばん最後」などのように、これらは「念押し」「強調」表現で間違いではないとする説もある。ただし「ポピュラーな人気」「アメリカに渡米」「馬から落馬する」「危険が危ない」などは明らかに誤り。だが「歌を歌う」はすっかり馴染んだ日本語でセーフ。「電車に乗車」はちょっとビミョーかな。うっかり重複語(重言)を使ってしまうことがあるのでご用心!

 

足の骨を骨折

 

あとの後悔

 

あらかじめ予約する

 

いちばん最初、いちばん最後

 

いっさいを一任

 

いまだ未定

 

いまの現状からみて

 

色が変色する

 

うしろから追突される

 

沿岸ぞい

 

炎天下のもとで

 

踊りを踊る

 

およそ五十人ぐらいで

 

各人ごとに提出

 

加工を加える

 

火事が鎮火する

 

かねてからの懸案

 

危険が危ない

 

競い合う

 

期待して待つ

 

京都の洛北

 

享年五十歳(→享年五十)

 

挙式をあげる(→式をあげる)

 

けさ未明

 

工事に着工する(→着工する)

 

古来から

 

コラム欄(→コラム)

 

最後の追い込み(→追い込み)

 

昨夜午後9時ごろ

 

じゅうぶん熟知している

 

従来から

 

唱歌を歌う

 

賞を受賞する

 

新記録をマークする

 

人口十万人

 

慎重に熟慮

 

水道の水が断水

 

すぐわく瞬間湯沸器

 

すばらしい壮観

 

成功裡のうちに

 

絶対確実

 

互いに交換する

 

立場に立つ

 

提案を出す

 

電力を発揮する

 

ときどきにわか雨

 

得点をあげる(→得点する)

 

突然のハプニング

 

とりあえず応急処置をする

 

亡き故人

 

捺印を押す

 

入梅に入る

 

はっきりと断言する

 

はやっている流行語

 

被害をこうむる(→被害に遭う)

 

ひきつづき続行する

 

不快感を感じた

 

物価が値上がりする

 

平均アベレージ

 

マイナス3キロの減量

 

毎日曜日こどに

 

前へ前進

 

耳ざわりが悪い

 

みんなを総動員

 

もう一度繰り返して

 

もっとも偉大な

 

余分なぜい肉

 

来客が来た

 

連日暑い日がつづく

 

 

火星の衛星

Googleearthmarsphobosdeimos   火星にはフォボスとダイモスという2つの衛星がある。2つとも歪な形をした天体で、他の惑星の衛星に比べて、そのサイズがきわめて小さいのが特徴である。名称の由来はギリシャ神話の神で、フォボスは「恐怖」、ダイモスは「恐慌」の意味。火星(マルス)が戦争の神なので、戦争につきものなのは恐怖と恐慌というのが、その選定の理由だろうか。Phobos、Deimos

音楽クイズ

Img_1246edit1pp_w607_h404 音楽は心のビタミン剤。何問正解できるかな?

問1.童謡「さっちゃん」でさっちゃんの好きな食べ物は?

問2.この歌の曲名は? 「♪俵のネズミが米食ってチュウ」

問3.大学ノートの裏表紙に鉛筆で描いた女の子の名は?

問4.手品のBGMでよく使用されるポール・モーリアの曲は?

問5.「♪東京タワーで昔見かけた土産物に張り付いていた言葉は努力と根性」と歌ってたグループは?

【解答】問1.バナナ。問2.ずいずいずっころばし。問3.さなえちゃん。問4.オリーブの首飾り。問5.SMAP。

読書漫談

Main

    歴史を探求するには史料を利用する必要がある。大きな図書館には「大日本史料」「群書類従」「国史大系」「大日本古文書」「史籍集覧」「史料大成」「大日本古記録」「六国史」「史料纂集」「古事類苑」などがある。ドラマ「東京バンドワゴン」(2013年放送)で古事類苑を10万円で買い取る話があった。洋装本で51冊(60冊版もある)。むかしなら10万円は相当かもしれないが、今ではインターネットで全文閲覧が可能である。調べると国立国会図書館近代デジタルライブラリー、国文学研究資料館、日本文化研究センター、そして有料では検索サイト「ジャパンナレッジ」がある。このような恵まれたデーターベース環境に感謝し、研究に役立てたいものである。▽NMB48の歌に「太宰治を読んだか?」がある。秋元康は嫌いだが、いいタイトルだと思う。太宰治を他の作家や書名に変えてもしっくりこない。「ニーチェを読んだか?」「村上春樹を読んだか?」「資本論を読んだか?」やっぱり「太宰治を読んだか?」がベストであろう。読書と友だちの大切さをテーマにした歌は他に見当たらない。

Img_1197168_29050157_0

▽日本で左横書きが登場するのはいつ頃か?幕末に来日した外国人たちの著述になる日本語学習書には見られるが、本格的な左横書きの図書となると、1871年刊行の英和辞典「浅解英和辞林」の序言がその嚆矢といわれている。

Pic4_bic

▽国立国会図書館の雑誌の利用傾向のレポートを読むと、「平凡パンチ」や「プレイボーイ」が複写申込ランキングの上位に食い込んでいる。おそらく地元の図書館でバックナンバーまで所蔵している図書館が少なくて、当該雑誌記事を「最後の拠り所」として国立国会図書館に依頼するのであろう。

キリマンジャロの雪

Kilima  アフリカ大地溝帯の中に位置し、ビクトリア湖東方のケニア国境に近い、タンザニア北東部にある、アフリカ大陸最高峰(標高5895m)の火山。山名は「キリマ」はスワヒリ語で「山」、「ンジャロ」はチャガ語で「白さ」であり、「白く輝く山」を意味する。1848年にドイツ人宣教師のヨハネス・レブマンが発見し、ヨーロッパに紹介した。その後、何人か登頂を試みるが、1889年にハンス・メイヤーがキボ峰の頂点に到達した。キリマンジャロの山頂付近の雪は急激に減少し、2020年までに雪は完全に消滅するともいわれている。

オランダの茅葺新住宅

Photo

   西ヨーロッパでは茅葺きは断熱効果に優れたエコロジカルな建材として好まれる。特にオランダでは新築で年間約3000棟の茅葺住宅が建てられている。このような新住宅を建築学では「モダン・バナキュラー」と呼んでいる。英語「バナキュラー」とは「土着的」、「その土地固有の」という意味。各地域ごとの固有のデザインや工法で建てられた土着的・自然発生的な住宅をバナキュラー建築といわれる。そうしたバナキュラーな建築は地産地消の建材を用いることが多く、環境に負荷をかけない工法を継承することなどサスティナビリティの側面から見直されている。なかでも現代的に解釈されたものはモダン・バナキュラーとして評価されている。(modern vernacular)

植物採集家・須川長之助

Photo_6     須川長之助(1842-1925)は陸中国紫波郡下松本村に生まれたが、18歳のとき函館へ渡り、その地においてロシア人の植物学者マクシモビッチ(1927-1891)博士の雑役に雇われた。博士が外国人のため外交上の制約で出かけられない地域には須川がかわって採集旅行をした。木曽、八ヶ岳浅間山、四国、鹿児島と全国各地の植物を採集した。現在、岩手大学には須川長之助が採集した植物標本が保管されている。バラ科の高山植物で白い花を咲かせるこの花は、牧野富太郎が発見者の長之助の名に因んで「チョウノスケソウ」という和名をつけた。(参考:井上幸三「日露交流史の人物 マクシモービチと須川長之助」岩手植物の会 1981)

Kittesuka

日光東照宮

Photo_6     元和2年4月17日、駿府城において75歳の天寿をまっとうした徳川家康の遺骸は、久能山の仮殿に移された。生前病状の悪化を自覚した家康は、4月2日に本多正純、金地院崇伝、南光坊天海を召して、遺体は駿河の久能山に、葬礼は江戸の増上寺で、位牌は三河の大樹寺に立つるべきことを命じたのち、1周忌後に、下野の日光山に小堂を建てるて御霊を勧請し、関八州の鎮守とすべきことを遺言した。これを受けて、同年10月には幕府より日光山に東照宮の社地が選定され、11月17日には造営に着手し、1周忌にあたる4月17日には、主要な社殿が完成した。 

   この元和の造営を指揮した奉行は、本多上野介正純で、藤堂和泉守高虎が補佐し、建築の計画にあたったのは、幕府の大工頭中井大和守正清(1565-1619)であった。正清は奈良・法隆寺大工の中村家の出身で、家康の生前、格別の愛顧を受け、久能山の仮殿も建てた。 

    この元和創建の東照宮は、寛永の造替ですっかり破却されてしまい、伝わらないが、大河直躬、内藤昌両博士の研究によると、本社はやはり権現造で、その周囲を玉垣がかこみ、正面には唐門を開いていた。またその外周に回廊と楼門があり、ほかに本地堂、仮殿、御供所、水盤、厩、神庫、輪蔵、奥社拝殿、奥社宝塔が存在していたことがわかる。元和3年4月の遷宮後も、境内整備の工事は進められ、元和4年には現存する石の大鳥居を黒田長政が、石の水盤を鍋島勝茂が献納しており、また中神庫は元和5年に建てられている。造替に際して、本地堂、奥社拝殿、奥社宝塔は、群馬県の世良田の長楽寺に移されたと伝えられていたが、近年、長楽寺の東照宮拝殿が、社伝のごとく、神柩を安置していた奥社の拝殿を移築したものであることが明らかとなった。これによると、元和創建の東照宮は、現在の寛永造替のものほど装飾が派手ではなかったと推察される。 

    家康薨去後、ちょうど20年をめざして、寛永11年11月に開始された造替は、秋元但馬守泰朝を造営奉行とし、建築の総指揮をとったのは幕府作事方の大棟梁、甲良豊後守宗広であった。甲良氏は近江の出身で、建仁寺流を名のり、平内氏とならんで、江戸時代を通じて幕府作事方大棟梁の地位にあった。なお、一族の古い作品として、近江の油日神社楼門が現存している。寛永造替の東照宮では、それまでの和様と違い、禅宗様を基調として統一をはかり、これまでの大社や古社の本殿ではみられぬ様式で、このような発想自体、当時としては異例のものであったとみられる。それが大きな抵抗もなく受け入れられたのは、日光が男女山の山岳信仰の霊場、すなわち神仏混交の地であったからであろう。 

   東照宮の構成は、その基本的な社殿の形式を、すでに平安末期に成立した北野神社に負っており、その全体構成は、豊臣秀吉をまつる豊国廟を強く意識して成立したものとみられる。

 

    東照宮の鎮座する恒例山は、円錐形の神奈備山で、本社の位置には、かつて二荒山神社(現在、東照宮の地主神)がまつられ、三神庫付近には常行堂や法華寺などが存在した。寛永造替の附属社殿の数は、創建時のものより圧倒的に多くなっているが、種類においてはほぼ同じで、神與舎が新しくあらわれるのみである。

 

    表参道の大鳥居をすぎ、表門をくぐると、東照宮の空間が巧みに展開する。東照宮の中核は、本社と奥社であるが、本社にいたる空間の構成は、石垣でかこまれた表門前の広場(千人枡形)、それより斜路をもって水盤舎にいたる空間、銅鳥居より陽明門にかけて、階段によって高まりをみせながら展開する対照的な空間、陽明門をくぐり、唐門・透塀など本社の正面を広くみせた前庭、そして透塀でかこまれる奥の本社の一郭があり、深い緑にしげる杉木立を背景に鎮座する。

 

   このように、建物の種類や空間構成をみると、寛永造替の東照宮は、それまでの霊廟の附属社殿を、大規模な計画によって再構成し、またその配置方法に巧みな創意と工夫をこらしたものとみることができる。その後の全国の神社や寺院に与えた影響には、いろいろな意味でいちじるしいものがあった。

 

    徳川家康の家臣・松平正綱(1576-1648)は慶安元年(1648)、20年をかけて日光東照宮への参道に杉を植林した。日光街道の日光から今市間の8.5キロ、御成街道の今市から大沢間の10.7キロ、会津街道の今市から大桑間の3.9キロ、例幣使街道の今市から小倉間の13.9キロ、計37キロにわたり、約13,700本の日光杉並木が現存している。(参考文献:「名宝日本の美術31」小学館)

2015年4月16日 (木)

第2代横綱、綾川五郎次

06    白鵬は第69代横綱。初代は大相撲ファンならご存知、明石志賀之助。4代が谷風梶之助だが、2代と3代は覚えていない。調べたら、2代は綾川五郎次。3代は丸山権太左衛門。

   横綱を何代目と番号で数えるようになったのは1895年に陣幕久五郎が人選したもので、実際には寛政の谷風を初代とするのが史実であるようだ。初代はだれでも覚えているが、次位者の名前までは記憶する人は少ない。

亜醜銊(あしゅうえつ)

Photo_3   鉞(えつ)とは斬首の刑具として用いられる大型の斧。山東省青州市蘇埠屯遺跡の大墓から、この鉞とともに人頭骨24個と、「亜醜」の銘文を持つ青銅器3点が出土した。この墓の亜醜族は殷晩期(鉞紀元前13世紀から前11世紀)に栄えた薄姑氏ではないかと考えられている。

ホロホロ鳥のロースト

150115pintaderotilegumesdhiver   ホロホロ鳥はアフリカのサハラ砂漠以南に生息するキジ科の鳥である。古代ローマ人はエジプト経由で入手して、ホロホロ鳥をよく食べた。だから今でもヨーロッパ人はワインでホロホロ鳥のローストを食べる。

   「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」の歌詞に「泣いてくれるな ほろほろ鳥よ 月の比叡をひとりゆく」京都から比叡山登山口から夜に津村医師は高石かつ枝のことを想い出しながら淋しく山登りしたのであろうか。夏はとはいえ、アフリカからホロホロ鳥が比叡山の上空を飛ぶというのは本当なのであろうか?鳥の生態に詳しくない私にとって最大の謎である。よく肥えているのであまり飛べないと思う。つまり西条八十のは架空の「ホロホロドリ」で、食用の鳥は「ホロホロチョウ」で全く別の鳥なのであろうか。

【追記】kenさんから有力な情報がありました。西条八十のホロホロ鳥とは山鳥(キジ科)ではないかというのです。私はいまだ見たことのない鳥ですが、行基に「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」という有名な歌がありました。古来から山鳥の鳴く声を「ほろほろ」と表現しているので、ほろほろ鳥とは山鳥である可能性は高いですね。

8212
   ホロホロ鳥

Photo_2

   日本の山鳥のオスは尾が長い

公園のパーゴラ

3410_kiji_1   暖かくなると近所の公園への散歩が日課のひとつ。パーゴラというバラやフジなどつる性の植物を絡ませるようにつくった桁組がある。藤棚、緑廊。近年、防災公園には仮設テントを設営するため防災パーゴラがみられる。(pergola)

英語の裏の意味

Dsc0097800011

  butter といえば食用の「バター」だが、「おべっかを言う」という意味がある。英単語には裏の意味があるから御用心。

His new  car is a lemon.

彼の新車は不良品だ

果実のレモンは日本ではさわやかなイメージがあるが、英語のlemon には「不良品」「欠陥品」の意がある。

「She is a lemon.」と言えば、「かわいいレモンちゃん」という誉め言葉ではなく「彼女は魅力のない女だ」という意味だ。レモンと正反対に使われるのが「ピーチ」。「やさしくて、頭がよくて、素敵な人」という意味になる。「She is a  peach.」は「彼女は素敵な女性だ」ということ。

アール・ヌーヴォーと日本美術

Glass01

   造形様式としてのアール・ヌーヴォーは、1890年から1910年にかけて、ヨーロッパやアメリカで流行した。1896年に、ドイツの美術商ビンクがバン・デ・ベルデに依頼して内装を施したパリの店は「アール・ヌーボー館」と名づけられたが、これが名称の起こりとなり、その装飾の独自性によって非常な人気を博したことが、この新様式の流行に拍車をかけた。アール・ヌーヴォーを代表する人物のひとりにエミール・ガレ(1846-1904)は、まさにガラスの天才であった。ガレの父親はネオ・ロココ様式の家具製造業者であった。アール・ヌーヴォーはロココの伝統に連なり、融けあいながら進められたものであった。また日本の浮世絵や工芸美術の影響も強く受けている。植物、昆虫などをモティーフにした味わいのある装飾の技法、新鮮な表現はいま見ても見事である。

2015年4月15日 (水)

なぜ岩波新書青版に名著が集中するのか

15949b136f938c03f382ll
岩波新書は総点数は3000冊を超えている

   岩波新書の最新刊「ナグネ 中国朝鮮族の友と日本」最相葉月著まで3039点が刊行されている。 評論家の呉智英は「岩波新書は青版の600,700、800番代に名著が集中する」と言っている。多少独断があるものの、青版と広げると頷ける。岩波新書は1938年11月20日に創刊され、赤版→青版→黄版→新赤版と表紙が改められた。呉のいう600~899番は、1966年から1974年にかけて刊行された岩波新書である。なるほど代表作は多い。その執筆者の多くがすでに他界されている。最近の岩波新書から名著が生れないのは、知の劣化を意味するのであろうか。

世界史概観(599,600) H.G.ウェルズ
デカルト(602) 野田又夫
日本人の法意識(630) 川島武宜
知的生産の技術(722) 梅棹忠夫
漱石詩注(640) 吉川幸次郎
漢字(747) 白川静
音楽の基礎(795) 芥川也寸志
山の思想史(860) 三田博雄
背教者の系譜(862) 武田清子
資本論の経済学(733) 宇野弘蔵
性格はいかにつくられるか(652) 詫摩武俊
中国文学講話(696)  倉石武四郎
良心的兵役拒否の思想(720)  阿部知二
日本の政治風土(700) 篠原一
現代日本の民主主義(728) 宮田光雄
戦後日本の保守政治(737) 内田健三
人間であること(746)  時実利彦
知識人と政治(848) 脇圭平

   だが前後の本にも名著はある。丸山真男「日本の思想」(434)、E・H・カー「歴史とは何か」(447)、石井桃子「子どもの図書館」(559)、湊正雄・井尻正二「日本列島」(963)、荒井献「イエスとその時代」(909)、堀田善衛「インドで考えたこと」(297)、蒲生礼一「イスラーム」(333)。中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」(583)は我が国の農耕文化の起源を照葉樹林文化の一形態とみる考え方を提唱した。

    武谷三男「原子力発電」(955)は原子力発電が未熟な技術であると説いているが、それは現在にも当てはまる。大田昌秀「沖縄のこころ」(831)も必読書。岩波新書の長所は完全無欠なものでなく、現在の問題を書き下ろしで提起して、どれだけ肉薄できるかにある。刊行後、数十年経てから、読者がその問題意識に気づかされるものもある。

2015年4月の新刊5点。

吉田伸之「都市 江戸に生きる」

稲垣清「中南海 知られざる中国の中枢」

坂井豊貴「多数決を疑う 社会的洗濯理論とは何か」

小林美希「ルポ 保育崩壊」

石川文洋「フォト・ストーリー 沖縄の70年」

色彩の心理と象徴性

1007041735004099321

    韓国時代劇「大長今」や「同伊」などを見ると、煌びやかで美しい衣装が目にとまる。実は時代考証に忠実ではなく、かなり映像美を演出しているらしい。朝鮮半島では近代まで染色文化がなく、色のついた服を着ているのは宮中の王侯貴族だけで、庶民はみな白い服を着ていたという。ところが日本は飛鳥・奈良時代に大陸の先進文化に憧憬し、色彩文化の面でも、原色を多用する衣装が移入された。たが894年の遣唐使廃止により、10世紀には、襲色目と称する日本の自然環境に合致する独自の美意識を取り入れた国風文化が確立された。ところで古代の色彩は、高松塚古墳やキトラ古墳の彩色などをみても陰陽五行説に基づくている。それは平安時代、室町時代まで天皇=神として継承されている。五色とは青・赤・黄・白・黒であり、最上位に紫を置く。四神(青龍、朱雀(鳳凰)、白虎、玄武)、そして黄に対応する黄龍(麒麟)が相応する。神職が祭礼において着用する萌黄色は中央に対応する「黄」と同一と考えられ、神の存在を暗示している。なお陰陽五行と日本の民俗との関連については近年、吉野裕子の研究が知られている。「陰陽五行における色彩の象徴性」(「陰陽五行と日本の民俗」人文書院に所収)

Image Uid000069_20130508095002c38f8e78
 萌黄色は陰陽五行説において神を象徴する

Img04

東京ごみ白書

  昭和30年代、日本は高度経済成長期を迎えた。高度経済成長は国民の所得を増加させ、その結果、生活様式は大量生産・大量消費・大量廃棄へと変化した。このことは廃棄物の増大や多様化を招き、最終処分場の逼迫や、清掃工場から出る煤煙の問題など、ゴミ問題がより顕著に現れるようになってきた。平成25年度の東京都のゴミの量は、約283万トン。1人が1日に出すごみの量は857gにもなる。

Photo_3
 板橋区の西台埋立処分場(昭和32年)

松陰の「志」ということ

5cd905e5

   NHK大河ドラマ「花燃ゆ」。宣伝によく使われるこの集合写真は仔細に見ると、奇妙な感じがする。「青雲の志」を表現したいのであれば、背景の茜色が気になる。中央にいる正面向きの文の表情が共演者たちとイマイチ溶け込んでいない。おそらくCGによる合成のためだろう。偽装は松陰の最も忌むところではないのか。第15話の視聴率がついに1桁台に落ち込んだ。NHKが莫大な製作費を投じている看板番組、そして時代は幕末、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作といった歴史上の「英雄」が登場する。つまらないはずがないのに何故か共感できないのが不思議である。ドラマの中で塾生たちが「志(こころざし)」という言葉が繰り返し出でてくる。「花燃ゆ」は真の「志(こころざし)」とは何かを問うドラマなのだ。だが現代は「志」のない時代といえる。若者に「志(こころざし)を持て」と説いてみても、社会は固定化して、何ができるというのか。15話の文(井上真央)の台詞に「英雄なんかならんでいい」とあった。もちろん松陰や塾生たちは英雄になろうとか、高位高官に就くことなど一片も考えていない。演出家、制作者、スタッフは維新の志士のカッコいい英雄像を描きたいのであろうか。「青雲の志」という語は個人によって、まったく別の意味にとられるという。ふつう辞典で説明しているのは「功名を立て立身出世する」の意味で明治の立身出世主義である。別の意味は、正反対で、高位高官や英雄になることではなく、大きな理想を掲げて努力することである。松陰や塾生たちの「青雲の志」がどちらであるか云うまでもあるまい。個人の栄誉や利益を目的とした「志」などは、とるに足らぬことであることは松陰もその家族も分かっていることなどで、「英雄なんかならんでいい」という言葉は今さら言う必要がなかろう。だが番組の評価は別として、松陰を中心として日本近代の出発点となった幕末維新を今改めて考えることは意義深いことであろう。

ボンヌ図法はボンヌが考案者ではない

Photo   中学地理で投影法(図法)の話はなかなか難しい箇所である。地図は球面を平面に表すのであるから、正積・正距離・正角・正方位・正形の5つの条件をすべて満足させることは不可能である。したがって、目的によってそれぞれの地図を使用することになる。成立の古い順に紹介すると、メルカトル図法(1569年)、ボンヌ図法(1752年)、モルワイデ図法(1805年)、サンソン図法、グード図法(1925年)、エッケルト図法、ハンメル図法などがある。これらの名称は考案者の名前に由来するが、実はボンヌ図法だけは例外である。古い教科書や参考書には「フランス人ボンヌが、1752年に考案した」と説明されることが多い。実際はリコベール・ボンヌ(1725-1795)がこの図法を発明したわけではなく、彼が用いたことでよく知られるようになったのである。Rigobert Bonne

1280pxbonne__carte_hydrogeographiqu

「ア」で始まる文学作品(書名の五十音順)

   広辞苑で五十音順排列で最初に採録されている文学作品は「アーサー王物語」King Arther (9世紀頃か?)。カタカナの長音符は無視して配列すると、世界文芸辞典(1959年)ではソフォクレスの「アイアス」Aiasである。前5世頃に成立し、現存する作品で最古ものと考えられる1つ。古代ローマの詩人ウェルギリウス作の長編叙事詩「アエネーイス」Aeneasは紀元前1世紀頃の作品。日本の作品では安岡章太郎の「愛玩」。

    「ア」で始まるいちばん有名な作品はウォルター・スコットの「アイヴァンホー」(Ivanhoe,1819年)かもしれない。サクソン人とノルマン人の対立を取り入れた愛と正義の騎士物語。コンスタンの恋愛小説「アドルフ」(1816年)、スタンダール「赤と黒」(1830年)。

最初に世界一周した女性

220pxjeanne_barre   世界一周を最初に達成した人はポルトガルのマガリャエンシュ(1480-1521)。ただし彼は途中フィリピンのマクタン島で殺されている。残された18人の船乗りたちにより記録は達成された。1521年のことである。

   女性が世界一周を達成したのはいつか?マガリャエンシュから245年後の1766年である。最初の女性は男装して周囲を欺いて乗船したという。1766年太平洋を経由するフランス人のブーガンヴィルの世界一周の航海には、博物学者、デッサン画家、天文学者などがいた。その中にはフィリベール・コメルソンの助手にジーン・バレという植物学者もいたが、実はジャンヌ・バレ(1740-1807)という女性でコメルソンの愛人だった。男性に変装し一緒に航海させたのである。ジャンヌ・バレは女性として初めて世界一周航海者となった。ちなみに日本人女性で最初に世界一周したのは誰か。おそらく川上貞奴だろう。彼女は川上音二郎と共に1899年から1901年の3年間、欧米巡業公演をしている。パリで公演したのはパリ万博のさなかの1900年だった。バリの人々の眼前に実際の日本女性が現れたのは初めてのことだった。ピカソやロダンといった芸術家をはむじめパリの人々を魅了し、Sada Yaccoの人気はパリだけでなくフランス中で流行した。

( keyword;Magellian,Jeane Bare,Philibert Commercon,Bouganvill )

樋口節夫先生の著作目録

  奈良女子大学教授。人文地理学。樋口先生の研究領域を6つに分類すると、①韓国地理②定期市③都市中心地論④比較地域論⑤商業地理論⑥学校地理など

  <単行書>

比較地域論 晃洋書房 1973

地域と交通 大明堂 1975

定期市 学生社 1977

伝統産業 淡交社 1978

都市の内部構造 古今書院 1979

近代朝鮮のライスマーケット 海青社 1988

   <論文>

寒天製造業の地理的考察(講演要旨) 人文地理2(2)  1950

ケニヤ高原の農業 スモールウッド 樋口節夫訳 人文地理4(3) 1952

京阪両都の露店 教育展望5(2)  1954

都市中心地域と市場の連鎖関係について 人文地理8(2)  1956

商業地理研究の2大支柱 商圏と商業地域その図的表現に関する1・2の問題点について 人文地理10(3)  1958

封建都市宇和島の解体と発展 人文地理17(5) 1965

米についての地理学の関心とその記録 朝鮮産米研究の現代的意義におよぶ 人文地理19(1) 1967

朝鮮の農業を理解するために(文献解題) 地理13(8)  1968

生活のサパーピアと商業の立地 地理14(9)  1969

大正における朝鮮産米の海上輸送と釜山 歴史地理学紀要13  1971

全州市のCBD研究 愛知教育大学研究報告人文科学・社会科学27  1978

都市核心域の形成と移動 岐阜市の場合 地理学報告47  1978

ソウル特別市の都市化と内部構造 愛知教育大学研究報告人文科学・社会科学28  1979

定期市に関する海外通信2編 地理学報告48   1979

韓国の地理学30年 地理学報告49  1979

日本人の朝鮮拓殖にともなう在来農業の変化 大阪教育大学紀要Ⅱ 社会科学・生活科学30(1/2) 1981

朝鮮産米の消費市場としての大阪と仁川港 大阪教育大学紀要Ⅱ社会科学・生活科学31(1)   1982

教科書検定時代の学校地理 地理学報21   1983

戦後・学校地理への試案 地理学報告56  1983

都市の内部構造(都市と災害) 日本都市学会年報17   1984

福沢諭吉の学校地理 地理学報21   1985

韓国の都市システムとソウルの変容 地理31(12)  1986

朝鮮地形図(1万分1)に見える日式景観(1)(2)奈良女子大学地理学研究年報 1987

世界の定期市研究と石原潤のインドの市研究 国際研究論叢 大阪国際大学紀要2(1)  1989

済州島 韓国研究ノートⅠ Ⅱ 大阪国際大学紀要1,5  1989 1992

マス・メディアのコメ情報・平成コメ騒動 大阪国際大学紀要7(3) 1995

「草原の記」その風土と時代 司馬学序章 大阪国際大学紀要9(1)  1997

<書評> 池沢夏樹著「ハワイイ紀行」を読む 大阪国際大学紀要11(3)  1998

<レポート> タイ国留学生ユパポーンの日記 大阪国際大学紀要13(1)  1999

植民地体制下の国策遂行と民族の相剋 「帰れざる川」の生活舞台 地理学報告88  1999

2015年4月14日 (火)

食後のデザートと砂漠

デザート(食後のおやつ)は、dessert と書いて、

ディートと発音する。

砂漠は、desert と書いて、ザートと発音する。

4c73709d760a1afdbeeeb1559201ef65205 Photo_3




青唐王国(チベット10世紀~11世紀)

A0226578_1137473   7世紀に吐蕃王国がチベットを統一するが、9世紀には衰退して、吐蕃の王族の一部が西チベットにグゲ王国(古格王国)を建国した。11世紀になると、青海の西寧を中心に青唐王国(1032-1104)が栄えた。王名は初代がコクシラ、董毡、アリク(阿里骨)、瞎征、趙恩忠と5代72年続いた。この時代のことは資料が少ないが、宋の蘇東坡(1036-1101)が杭州の地方官で3代王の阿里骨(1040-1096)に関する記述がある。(世界史)

双子都市

   コンゴ民主共和国の首都キンシャサ(人口904万人)と、コンゴ共和国の首都ブラザヴィル(人口60万人)とは、コンゴ川を挟んで隣り合っている。このような双子都市は世界中でここだけである。

Photo

アイドマの法則

10123963783000033498_ejoxngj4md Aisas

    アイドマ(AIDMA)とは1920年代にアメリカのサミュエル・ローランド・ホールが広告宣伝に対する消費者の心理のプロセスを示した略語のこと。すなわち、Action(買わせる)までの5段階を示す。

    Attention(注意)

    Interest(関心)

    Desire(欲求)

    Memory(記憶)

    Action(行動)

2005年に電通がエーサス(AISAS)を提唱した。

    Attention(注意)

    Interest(関心) 

    Search(検索) 

    Action(行動)

    Share(共有)

テクムセの呪い

Photo_8

 

   オクラホマ州ショーニーは秋田県にかほ市と姉妹都市である。ブラッド・ピットの出生地としても知られている。地名の由来はインディアン部族ショーニー族に因んでいる。酋長テクムセ(1768-1813)は英雄だった。部族の領土を白人に奪われて、「テクムセの呪い」という話がある。1840年から1960年までの間に20で割り切れる年に選出された大統領は、在職中に死んでいる。ハリソン、リンカーン、ガーフィールド、マッキンリー、ハーディング、ルーズヴェルト、ケネディ。(Tecumseh's curse,Shawnee,Oklahoma)

2015年4月13日 (月)

水前寺清子の愛称はなぜ「チータ」か?

Yjimagecmuf3at2   水前寺清子の本名は林田民子。小柄であったため「ちいさいたみちゃん」から「チータ」という愛称がもとからあり、作詞家の星野哲郎が命名した。つまり動物のチータとは無関係だった。正岡子規がつけた漱石の渾名は「柿」。その理由は「旨みは沢山、まだ渋みの抜けないのもまじれり」とある。自説を曲げない頑固さを言い当てている。徳川慶喜には「豚一様」という奇妙な渾名があった。当時、まだ豚を食べるのは珍しかったのだろう。歴代の宰相には渾名がよくつけられる。ビリケン(寺内正毅)、ダルマ(高橋是清)、ライオン(濱口雄幸)、朝鮮のトラ(小磯國昭)、ワンマン(吉田茂)、グズ哲(片山哲)、コンピューターつきブルドーザー(田中角栄)、クリーン三木(三木武夫)、昭和黄門(福田赳夫)、どん牛(大平正芳)、風見鶏(中曽根康弘)、トンちゃん(村山富市)、ブッチホン(小渕恵三)。最近の宰相には、ルーピー、イラ菅、どじょう、など噴飯ものが多い。スペインの画家エル・グレコは渾名ながら、人々の信頼と尊敬が表れている。夜の大統領(アル・カポネ)、人間機関車(ザトペック)、炎の人(ゴッホ)、鉄の女(サッチャー)、鉄血宰相(ビスマルク)、鉄鋼王(カーネギー)。長嶋茂雄が単に「ミスター」といえば彼を指すように、日本での存在感はすごい。ゴジラ松井秀喜もいつのまにやら皆に愛されるニックネームになった。

 

   また通称・冠称というか、名前の前に決まり言葉としてつけることがある。鉄人・衣笠(もともとはプロレスラーのルー・テーズ)、男・村田、曲者・元木、鬼才・岡本喜八、超人・笠谷など。

 

   あだ名、愛称、異名一覧
安倍なつみ(なっち)
うつみ宮土里(ケロンパ)
大石内蔵助(昼行燈)
大谷翔平(二刀流)
岡八郎(奥目の八ちゃん)
岡晴夫(岡ッパル)
小川泰弘(ライアン小川)
衣笠祥雄(鉄人衣笠)
小笠原道大(ガッツ)
尾崎将司(ジャンボ)
香川伸行(ドカベン)
葛西紀明(レジェンド)
加藤綾子(カトパン)
金本知憲(アニキ)
川崎宗則(ムネリン)
川藤幸三(浪花の春団治)
キダ・タロー(浪花のモーツアルト)
木村拓哉(キムタク)
小島陽菜(こじはる)
小島瑠璃子(こじるり)
駒田徳広(満塁男)
酒井法子(ノリピー)
里見春奈(出雲のイナズマ)
佐野実(ラーメンの鬼)
佐村河内守(現代のベートーベン)
沢田研二(ジュリー)
宍戸錠(エースのジョー)
島崎遥香(ぱるる)
鈴木嘉和(風船おじさん)
高島彩(アヤパン)
高橋尚子(Qちゃん)
高峰秀子(デコちゃん)
高橋由美子(グッピー)
谷亮子(ヤワラちゃん)
千葉茂(猛牛)
嗣永桃子(ももち)
トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)
ドン・レオ・ジョナサン(人間台風)
中村剛也(おかわり君)
中山雅史(ゴン中山)
野茂英雄(ドクターK)
古瀬絵里(スイカップ) 
本田翼(ばっさー)
舞の海秀平(技のデパート)
前田健太(マエケン)
松浦亜弥(あやや)
水野雄仁(阿波の金太郎)
守本奈美(カピ子)
山口智充(ぐっさん)
渡辺麻友(まゆゆ)

 

 

 

 

 

 

「温泉旅行」 英語で

Photo

   旅(tour)はギリシア語のトルノスtornos(らせん、ろくろ)に由来する。もともと円を描く大工道具(コンパスのようなもの)だったが、英語ツアーとなった。ターンturnも語源は同じ。

I went for an overnight trip to a hot spa.

温泉へ一泊旅行した。

travel は「旅行をすること」の意で最も一般的なことば。tour は主として観光の目的である場所を訪れることで、ふつうの1日以上のものをいう。trip は特定の場所を訪れる目的での短い旅行。journey は比較的長い旅で、とくに陸路の旅を指す。voyage は比較的長い船旅、excursion は小旅行。

約物(やくもの)

   文字組版などに使用する記号類の総称。

句点   。 

 

読点   、 

 

コンマ , 

 

丸かっこ ( ) 

 

三点リーダー … 

 

感嘆符  ! 

 

疑問符  ? 

 

ブレース { }

 

すみ付パーレン 【 】 

 

庵(いおり)点 〽 

 

ブラケット [ ]

 

アスタリスク  * 

 

コーテーションマーク  ‘  ’ 

 

ギュメ (山がた)  <> 

アンパサンド  &

 

 

支那の体臭(後藤朝太郎)

Img250   後藤朝太郎(1881-1945)は昭和初期の中国学の第一人者。中国大陸に渡り、当時の中国の風俗や文化を自ら取材。書家としても活動し、号は石農。

漢字音の系統 六合館 1902

現代支那語学 博文館 1908

文字の研究 成美堂 1910

日用と教育上に於ける漢字の活用 六合館 1910

漢和大辞典 東雲堂 1911

支那趣味の話 1924

哲人支那 千倉書房 1930

時局を縺らす支那の民情 千倉書房 1931

不老長生の秘訣 支那五千年の実証 大東出版社 1937

支那書道 後藤朝太郎 黄河書院 1940

支那の土豪 高山書院 1940

四億萬の御客様 明光堂 1940

虞美人と呂雉

Img_3    宝塚歌劇でかつて「虞美人」が大ヒットした。原作は長与善郎の「項羽と劉邦」である。項羽の寵姫・虞美人の「美人」とは、王に仕える女官の身分上の呼称(官名)であるが、ほんとうに美しい女性であったのか、司馬遷の史記には何も記していない。項羽と死ぬとき一緒だったとも記していない。くわしいことは何もわからないが、「虞美人草」という花が雛罌粟(ひなげし)の異名であるように、愛姫の死を後代の詩人たちが憐れんだのであろう。

   一方の劉邦の正妻である呂后(りょこう)については史記に詳しく記されているが、あまりに残酷で中国史上に悪名高い女性である。ライバルの側室の手足をきりとり、眼球をぬきとり、耳を焼き、唖になる薬を飲ませて、厠室(天井の低い小室、つまり便所)に押し込んで、人彘(じんてい)と名づけて、生き殺しにした。人彘とは人間ブタ、つまり古代中国では排便の処理を飼っていたブタに始末させていたので、ブタ便所なるものが存在した。つまり史記の記述は本当の話なのだ。楚漢戦争のヒロインが可憐な虞美人が虚構で、人間業とは思えない悪行の限りをつくした呂后が史実とは、なんとも歴史とはおそろしいものである。呂后は、近年は呂雉(りょち)とも呼ばれる。劉邦の邦は名なので、呂后も名の雉(ち)で呼ぶほうがバランスがよい。一説に呂雉は秦で繁栄した呂不韋の一族という説もあるが、史記や漢書には記述がないため真相は不明である。(参考:鎌田重雄「劉邦とその妻」 桃源社)

 

 

 

 

 

 

2015年4月12日 (日)

黒一点

Photo  多くの男性の中にただ1人の女性がいることを「紅一点」という。では、反対に多くの女性の中に男性が1人いることを「黒一点」というのであろうか。ネットで検索すれば相当の件数で「黒一点」が使われていることが判明する。ただし広辞苑を引く限りにおいて、「黒一点」という言葉はまだなく、正しい漢語かどうかは疑問である。

世界偉人伝「法顕」

    399年、法顕を筆頭に慧景、慧応、慧嵬、道整らと共に敦煌を経て6年かかってインドへと向かった。インドに達し、仏跡をたずね、経典を得て、海路で413年帰国したのは法顕ひとりであった。道整らはこのインドにほれ込んで、法顕と別れてインドに永住したらしい。65歳で出発して79歳で帰国した。カラコルム山脈を越えるのは大変だったであろう。法顕はよほど強靭な体力の持ち主だったのか?(世界史)

204_4

「扁平足」英語で言えますか?

Photo_4   オックスフォード英語辞典の編者ジェームズ・マレーは、1日33語を作業の目標とした。英語の習得には弛まぬ不断の努力がいる。

abdominal mascles  腹筋

admissin                 入場を許す

artifical legs      義足

autarky                  経済的自給自足

backscratcher        孫の手

charwoman            掃除婦

devastation            荒廃

examination            試験

flat foot                 扁平足

genocide                大量虐殺

hay fever               花粉症

hearse                   霊柩車

heredity                 遺伝

land mine                地雷

ladle                      玉じゃくし

luncheon               正式な昼食会

mutation                突然変異

scurb                     つまらない人

same sex marriage 同性結婚

synagogue              ユダヤ教の礼拝堂

plaster                   しっくい

prostitute               売春婦

ultraviolet rays        紫外線

underwater mine     機雷

plastic surgery        整形外科

カストロとジャック・バランス

Bagdad20cafe20jack20palance_119756

 アメリカとキューバとの歴史的首脳会談(ラウルはフィデル・カストロの弟)があった晩に映画「バグダッド・カフェ」(1987年)をなにげなく観た。ラスベガス郊外の砂漠になかにあるモーテル、バグダッド・カフェ。ある日そこへふらりとやって来たのはドイツ女のジャスミン。最初は白い目で見ていた住民たちもいつの間にか彼女に親しみを感じるようになる。彼女に想いを寄せる老画家はなんとジャック・バランス。彼は「ゲバラ」(1969年)でカストロ議長を演じたことがある。ジェベッタ・スティールが歌う気だるい感じの歌「コーリング・ユー」が映画によくマッチしている。ジャック・バランスの怖い顔は若い時の戦争で受けた怪我を整形したものだった。

あまロス症候群と小川病

Photo_4  村おこしをテーマとした、2013年度後期のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」がBSで再放送している。「あまロス症候群」という言葉が生まれるほどに傑作だった。放送終了時に視聴者が覚える喪失感の深さ。だがその後の「ごちそうさん」「花子とアン」「マッサン」も好調が続いたが、「あまちゃん」ほどの新鮮味はない。どちらかというと安全路線を狙った感がある。新作「まれ」がヒットするか、これから失速するかは微妙である。本日は、夏祭りの翌日、圭太が希に告白した。恋の展開としてはスピード感がある。そして門脇麦、清水富美加と同級生たちも個性的でチャーミング。なによりヒロイン土屋太鳳がひたむきで頑張り屋さんなので応援したくなる。太鳳ちゃんのブログも毎日楽しみで読むようになった。撮影時の細かなことなどがきちんとした文章で綴られている。ヒロインの気持ちがリアルタイムでわかるなんてすごい時代になった。鈴木先生みたいに小川病に罹ってしまった。

2015年4月11日 (土)

覚えておきたい数字

   エベレスト(チョモランマ)の標高は8848m。あなたがもしそう覚えているならばその知識は訂正する必要がある。中国政府による最新の測定結果によると、8844.43mと発表されている。大日本帝国憲法7章76条と日本国憲法11章103条を電話番号のように覚えている人がいるそうです。℡776-11103

次の数を答えよ。

①国連加盟国数

②アメリカ独立時の州の数

③衆議院、参議院の議員定数

④大晦日の夜、寺院で梵鐘をつく数

⑤金本知憲の連続試合全イニング出場試合数

⑥「A」から「Z」までの文字数

⑦「あ」から「ん」までの仮名の文字数

⑧EXILE、現在メンバー何人。

⑨日本の国土総面積

解答;①193ヵ国、②13州、③衆議院480人、参議院242人、④108、⑤1492試合、⑥26文字、⑦46文字、⑧19人、⑨3779万ha。

あなたはピースサインできますか?

T02200161_0448032812139869607    幼児の足の指はひとつひとつ開いている。くつを長年はいていると、足の指はくっついて間隔がなくなる。指も若いうちは大きく開くが、年をとると開かなくなる。

    若い人はいまでも挨拶かわりにピースサインをよくする。年がいくと指先がしびれた感じがして、うまく指を開くこともできない。

Photo_3

地図にない町を旅する

19447703weinleselupetaschenuhrkompa  映画「ナバロンの要塞」(1961年)の砲台のある小さな島ナバロンは実在の島なのか、いろいろ地図で調べたがわからなかった。実在しない架空の島であろう。北海道の「悲別」もいかにもありそうな地名だが架空の地名。藤原審爾の小説「秋津温泉」もありそうな地名だが、架空である。題材となった場所は、岡山県の「奥津温泉」といわれている。

   朝ドラ「まれ」の舞台である外浦村(そとうらむら)も地図にない町。やはり村上春樹の小説の件で、地名には慎重になっているだろう。短編小説「ドライブ・マイカー」は北海道の中頓別町が舞台で、タバコのポイ捨てが「普通のこと」と描かれていた。これに対して地元が抗議して、村上春樹は単行本に収録するときは、「上十二滝(かみじゅうにたき)町」と架空の名前に変更した。作家も地名を書くときは実在するか、実在しないか、十分に確認して執筆しなければならない時代になった。

2015年4月10日 (金)

カントと本居宣長との距離

Syozou   日本を代表する学者といえば、本居宣長(1730-1801)である。西洋の近代哲学はドイツの哲学者カント(1724-1804)に始まる。2人はほぼ同時代の人物である。もちろんお互いの交流はないし、その存在も知らないだろう。だが近代を人類史の立場から再考するうえで興味深いことである。「近代」と言ったが、厳密な定義ではない。カントは近代人といえるが、本居宣長に関しては詳しいことを知らないが、「近世」なのかもしれないが、共通して「ヒューマニスト」といえるかもしれない。カントが三批判書「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」を執筆中のとき、本居宣長は「古事記伝」を書いていた。ただし「もののあわれ」と感情による直感を大切にした宣長と、理性的個人主義のカントとの思想の距離はどれくらいあるのだろうか。(9月29日)

里内勝治郎

Katsujiro Satouchi 20091105_satouchi

    里内文庫は明治41年、手原村(現・栗東市)で呉服商を営む2代目里内勝治郎(1874-1956)が設立した私立図書館。里内文庫は昭和21年に閉館したが、約2万点にのぼる資料は栗東歴史民族資料館に収蔵されている。郷土資料のほかに江戸時代の絵図、地球儀、世界図、村地図など膨大なコレクションは、独学の人、里内勝治郎の世界観がうかがわれる。(参考:大西稔子「里内文庫と文庫主里内勝治郎」 大倉山論集55、2009年)

闘蟋蟀(とうしっしゅつ)

   中国の秋の楽しみに闘蟋蟀がある。同重量の2匹のコオロギを闘盆という容器で戦わせる遊びで、一方が戦意喪失し、一方が勝利の鳴き声をあげて決着となる。強者は虫王、将軍の称号を得る。唐代にすでに存在し、宮廷遊戯であったが明清には民衆に広まった。「聊斎志異」には闘蟋蟀が趣味の皇帝のために毎年コオロギを徴収され人民が苦しむ話がある。

14226817728123

人間の生活に役立つ動物たち

Wolf_skull__side_view1024x500    イヌやウシが、いつどこで飼いならされたかについては、長い間ぼんやりしたことしか判らなかった。近年、ロシアのアルタイ山脈に位置するラズボイニクヤ洞穴で見つかった保存状態の良いイヌの化石が最古の飼い犬と見られている(画像)。化石の年代は33,000年前と確定された。イヌが最も早く家畜化された動物であり、これまで中国が起源とされたが、最近では米国学者ロバート・ウエインはイヌの家畜化はヨーロッパで狩猟採集民にあって進行したものと見なされるようになっている。動物の家畜化は、イヌに次いで、ヤギ、ヒツジ、ブタなどの有蹄類が始まったと考えられる。ヤギやヒツジは前7000年頃の西アジアの遺跡から化石が出土している。ウシの化石は前6000年頃、アナトリアの先土器新石器文化に見られ、ウマの家畜はシュメール人には知られておらず、前4000年頃ウクライナとトルキスタンの中間のステップの回廊で始まり、のちにオリエントに広まったと考えられる。Razboinichya Cave

2015年4月 9日 (木)

春の新生活がスタート!

Kaigo07  いよいよ入園・入学、そして新社会人になる人がスタートする。初老の私には、とくに変わったことはないけれど、やはり春はどこか気分がウキウキして楽しい。義父が介護施設に入所しているが、新年度の利用サービスの更新手続きをすませた。五歳から九十歳まで、みんな春は新鮮である。巨人・広島戦中継放送がスカパーなので観れない。「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」第1弾(2007年、マドンナは中島史恵)をこれから観る。今日の晩御飯は鯵の開き。

なにごとも正確な計測が大切である!

20140212054853   横浜マラソンのコースがフルマラソンには186.2m足りないため、公認コースとして認められないという話。車の通行を規制できずきちんと計測しなかった。実則することは大事だ。測定がデタラメではいけない。琵琶湖の平均水温に大幅に上昇がみられる。生態系のバランスが崩れるとか、地震の予兆か、と騒ぎになったが、どうも滋賀県水産試験場の琵琶湖の湖岸水温観測データがここ3年間(平成24年4月から27年1月)、正常値よりも最大で2.7度も高くなっており、訂正されることになった。きちんとした計測をしてほしい。テレビの番組でのデータもデタラメがみられる。福島の安全性をPRするためいいかげんな放射線量で測定して放送してNHKが謝罪したことがある。デタラメなデータで世論誘導するのもよくない。番組制作は一端撮影が始まると、シナリオに沿うような演出をしたりやらせをしたりする。頑固で融通のきかない几帳面な人こそ今社会に求められている。

「カピバラ」が危ない!

1013_kapibara2_jpg459x240

  連続クイズ・ホールドオンの問題。「大きいものは体重60キロにも及ぶ世界最大のネズミ目の動物。南米に生息する生き物は何でしょうか」 南米アマゾン川沿に棲むカピバラ。げっ歯目カピバラ科。和名はオニテンジクネズミ(鬼天竺鼠)。とてもかわいくて動物園の人気者。お風呂が大好き。「カピバラ」とはグアラニー語の「草原の主」という意味で、それがスペイン語に転訛されて、18世紀ころからCapibaraと呼ばれるようになった。日本に最初に来たのは、1964年のことで、山口県の徳山動物園と鹿児島の動物園。1961年の「国民百科事典」にも「カピバラ」の項目はなかったので、ほとんど無名の動物だった。当初、食肉用としての可能性が研究されたが、1980年代になると事典にも載るようになり、2003年にクレーンゲームの商品としてカピバラのぬいぐるみが作られたことからその知名度が一気に高まった。現在、ペットとしても1頭50万円程度で販売されている。南アメリカではカピバラ人気に便乗して、需要が高まったカピバラを密猟で販売する悪質なブローカーも出現している。(capybara)

Photo

「ドカン」「ごろごろ」を英語で言うと?

Whamwallart_ni6240_1   むかしNHKの「連想ゲーム」のなかに、「わんわん」「にゃんにゃん」といった言葉で伝えるコーナーがあった。日本語は「ごろごろ」とか「ピカピカ」とか「さらさら」「しとしと」「ぺろぺろ」など擬音語・擬声語が多い。これらは英語では動詞で表現することが多い。爆発音の「ドカン!」はめずらしく「wham!」という擬音語がある。80年代に活躍したイギリスの人気デュオのグループ名「ワム」は日本語に訳すと「ドカン!」だった。

雷が「ごろごろ鳴る」を英語で言うと?

rolling   とどろく、ごろごろ鳴る

flashihg  ピカピカ

a flash of lightning  稲妻

I heard rolling thunder in the distance.

遠くで雷がゴロゴロと鳴るのが聞こえた。

アリス「冬の稲妻」の歌詞に「ローリング・サンダー」が出てくる。

木の葉などが風に吹かれて音を出す様子を「サラサラ」と言う。英語ではrustle。

桓武天皇の錠

Kindosei_sasu   京都府向日市の長岡京跡で1987年、「鏁子(さす)」と呼ばれるカギのロック部分が出土した。鏁子は長さ4.3㎝、太さ1.5㎝、重さ29.7gといった小指大ほどの小さなもの。2ミリ足らずの厚さの銅板を八角形に折り曲げて作られている。表面には宝相華文(ほうそうげもん)という唐草模様とタガネでウロコ状の魚々子(ななこ)と呼ばれる模様が施されている。なぜこれほど精巧な錠が長岡京跡から見つかったのか。都を移した桓武天皇との関連性を含めて注目されている。

インドでなぜ仏教は衰退したのか?

Hazi_10 4月からのNHK高校講座世界史が変わった。朝鮮の歴史内容に一部の人から抗議があったらしい。小日向えりが見られなくて残念、眞鍋かをりがリーダーをつとめる。初回は「世界史への招待 グローバル・ヒストリーの中の現代」温暖化の人類への影響。氷河期と間氷期の話やら、人為的なCO2の話やらで実際よくわからない内容である。1万年前の農業生産革命、16世紀のイギリスの農業革命、そして18世紀の産業革命、すべてが気候変動で説明可能なのだろうか。やはり世界史の解説はオーソドックスに人類の出現から始めてほしい。これまで人類の進化は、猿人→原人→旧人→新人、と段階的に進化したという考え方が支配的だったが、現在ではホモ・サピエンス(現生人類)だけが生存して、全世界に広がり子孫を残したと考えられている。人類の起源は約700万年前というのも定説となっている。猿人は別として、原人以降、一種の人類しかいなかっとする考えは否定され、およそ6属20種に放散し、競い合い、多くは絶滅した。そして約20万年前(約15万年前、10万年前など諸説ある)にアフリカの中南部のどこかでホモ・サピエンスが現れたとする。

 

Ashokasalnato   第2回「古代インド 仏教とアショーカ王」   前3世紀ころ、インド・マウリヤ朝のアショーカ王は仏教を信仰し、ダルマにもとづく政治を行った。紀元2世紀に現れたクシャーナ朝のカニシカ王もあつく仏教を信じ、仏教は西北インドを中心に大いに栄えた。しかしインドではグプタ朝以後急速に衰えていく。では何故インドで誕生した仏教がその後、衰退したのか?大きく2つの要因が考えられる。外的な要因は、バラモン教からの攻撃である。バラモンは王のための儀礼を行うため、王権と結びつく。そのため、王にとってバラモンたちは非常に都合のよい存在になった。するとバラモンたちは力を持つようになり、人々の信仰を自分たちの中に取り入れて、ヒンドゥー教に変化させていった。そして力を持ったバラモンたちが、仏教を攻撃することになった。内的要因は、2つ存在する。1つ目は後援者たちの弱体化である。仏教を支持した階層は、バラモンの身分的な考えに反発を持っていた都市の商人たちだった。グプタ朝の後は、インドは暗黒の時代といわれ、商工業が衰退していった。これにより都市も衰退し、商人たちの力も衰えていくために、仏教僧たちを支えられなくなった。2つ目の内的要因は、仏教の内向化である。僧侶の間での出世や、より広い家に住みたい、より美味しいものを食べたいなど、ある意味で堕落してしまったことが要因だった。そのため、外に対するエネルギーがなくなり、布教活動は非常に少なくなってしまったと考えられる。このようにインドでは、外的な要因と内的な要因が絡み、徐々に仏教が衰退していった。

2015年4月 8日 (水)

文学者の自殺

A49a9ad0a0e82d73b1ee54463238d7c4aku   芥川龍之介(1892-1927)は、生前、自殺について「自殺しないものはしないのではない、自殺することのできないのである」(「侏儒の言葉」)と語り、昭和2年7月24日未明、自殺している。夫人の芥川文子(1900-1968)は「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという。妻の文子は龍之介の芸術への真摯な生き方へのよき理解者だったのだ。遺された三人の子供、芥川比呂志(1920-1981)、芥川多加志、芥川也寸志(1925-1989)を抱えての夫人の生活はたいへんだったであろう。文学者の自殺は有島武郎、太宰治、三島由紀夫、川端康成など多様であるが、そこには、孤独な内面と作品の終結宣言が秘められている。

   太宰治(1909-1948)は39年の生涯で5回の自殺未遂を繰り返し、昭和23年6月13日に玉川上水で愛人山崎富栄(1917-1948)とともに入水自殺した。そして「生まれてすみません」という太宰の自殺願望は芥川の自殺の影響が大きいことはよく知られている。昭和19年7月に発表した「津軽」には次のようなことが書かれている。

「ね、なぜ旅に出るの?」

「苦しいからさ」

「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」

「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七」

「それは、何の事なの?」

「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」

「そうして、苦しい時なの?」

「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっているはずだがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障になる。おい、おれは旅に出るよ」

    芥川龍之介や太宰治らの作家の自殺願望はいったい何時から始まったのだろう。森鴎外が明治44年に発表した「妄想」という小説の中にはドイツの哲学者マインレンダー(1841-1876)の事が書かれている。

   自分はこのまま人生の下り坂を下って行く。そしてその下り果てた所が死だということを知っている。しかしその死はこわくない。人の説に、老年になるにしたがって増長するという「死の恐怖」が、自分にはない。若い時には、この死という目的地に達するまでに、自分の眼前に横たわっている謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じがしだいに痛切でなくなった。しだいに薄らいだ。解けずに横たわっていても謎が見えないのではない。見えている謎を解くべきものだと思わないのでもない。それを解こうとしてあせらなくなったのである。そのころ自分はフィリップ・マインレンダーのことを聞いて、その男の書いた「救済の哲学」を読んでみた。この男はハルトマン(1842-1906)の迷いの三冊を承認している。ところであらゆる錯迷を打ち破っておいて、生を肯定しろというのは無理だと言うのである。これは皆迷いだが、死んだって駄目だから、迷いを追っかけて行けとは言われないはずだと言うのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面をそむける。ついで死の回りに大きい圏を描いて、震慄しながら歩いている。その圏がようやく小さくなって、とうとう疲れた腕を死の項(うなじ)に投げかけて、死と目と目を見合す。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンダーは言っている。そう言っておいて、マインレンダーは三十五歳で自殺したのである。自分には死の恐怖がないと同時にマインレンダーの「死の憧憬」もない。死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く。

   マインレンダーとはどのような哲学者なのであろうか。ショーペンハウアー(1788-1860)の厭世哲学(ペシミズム)を信奉し、自殺を賛美して自ら生命を絶ったらしい。日本で早くにショーペンハウアーの名前を知った鴎外が、このマインレンダーを「妄想」でとり上げた。しかし、鴎外は直接にマインレンダーの著書を読んだわけでも、詳しいわけでもないのだが、鴎外の著書に現れたということで、日本ではなんとなく、憂愁の大哲人のような印象をもたれたようである。そのため、芥川龍之介などは、自らの遺書とした「或旧友へ送る手記」の中に、自分の最後の心境を代弁してくれる人としてマインレンダーの名前をあげている。さてご本尊のショーペンハウアーといえば、すぐペシミズムと連想されるが本人の著書には、「ペシミズム」という言葉は一度もないという。自殺願望、厭世主義というレッテルは誤解によるものである。現在の研究によれば、ショーペンハウアーの哲学は、生と世界に対する根本的な懐疑と怖れであると同時に、救済希求の闘いであり、「生の哲学」というべきものであろう。ショーペンハウアーは、1860年9月21日、72歳でフランクフルトでなくなっている。森鴎外のかなり杜撰な西洋哲学の紹介が、日本の文壇の青年作家に誤解を与え、自殺願望を植えつけたという一面もあるのではないだろうか。

音楽は心のビタミン

Mgm02   無性に朱里エイコの「アニマルワン」が聴きたくなった。YouTubeで探すと、誰かがアップしている。今こそ聴きたい、心に沁みる昭和の歌。

好きな歌を聴く。

緑の地平線    楠木繁夫

愛の化石            浅丘ルリ子(ほとんどが台詞です)

おさらば故郷さん  加賀城みゆき

草原情歌 ザ・ピーナッツ(モスラの歌のB面)

紅孔雀  井口小夜子

恋あざみ  勝彩也

おさらば故郷さん 加賀城みゆき

岡崎友紀 私は忘れない

西田佐知子  涙のかわくまで

弘田三枝子  渚のうわさ

2015年4月 7日 (火)

玄界灘は「ヒョネタン」

Clip_image008    政府は尖閣諸島や竹島について日本の領土であることを国際的に理解してもらうため、英訳してウェブサイトに掲載すると発表した。

   日本列島と朝鮮半島は、玄界灘をへだてて隣接している。「玄界灘」は韓国語で「ヒョネタン」、「壱岐」は、そのまま日本語の発音と同じで「イキ」と呼ぶ。「対馬」は「テマド」と呼ぶ。

男は心で老い、女は顔で老いる

Photo_3   「男は心で老い、女は顔で老いる」  フェミニストからは叱られそうだがもとは古いイギリスの諺。近年アメリカの女流作家ナンシー・コリンズなども引用している。映画「婚前特急」(2011)をみると,突如、アパートの隣人の老婆役で白川和子が登場する。67歳なので年相応の役なのだが、往年の「団地妻」シリーズを見て来たものにとってはインパクトは大きい。近年も「凶悪」「ぺコロスの母に会いに行く」「デンデラ」などよく活躍している。

ブリジット・バルドー80歳。

Photo_5Photo_6

志賀直哉論

Photo_2   志賀直哉の人間形成に最も強く影響を与えた人は、内村鑑三であろう。明治45年の志賀の日記には「自分は自分を真(し)ンから愛するようになった。自分は自分の顔を真(し)ンから美しいと思うようになった。自分は自分ほどのエラサを持った人は余りないと信ずるようになった」といい「自分の自由を得るためには他人をかえりみまい。……他人の自由を尊重しないと自分の自由がさまたげられる。二つが矛盾すれば、他人の自由を圧しようとしよう」と書いている。

    やがて志賀直哉は内村鑑三から去って、宗教から文学へ代わっても、かれ自身が自分の「主人」であった。しかし、志賀のこの「自己信奉」は、そう簡単に手に入れられたわけではない。西洋の思想家たちが唯一神を相手にするのに対し、東洋人である志賀は汎神論的で、「神」を言わず「自然」を言う。この「自然」の子である人間が持つ混沌たる「我」が「調和」によって、「自然」に帰するためには、激しい戦いを経験しなければならなかった。この自己との戦いという点では、内村鑑三から触発された西欧的思想人の影響があるといえるのではないかと、尾崎一雄は述べているが、当たっているように思われる。

   この自己肯定の志賀直哉に、太宰治が噛みついたことは有名な話である。「暗夜行路」に対して、「大げさな題をつけたものだ。……この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである。……」と太宰は攻撃する。自分の存在について「生まれてすみません」としるし、「人間失格」を書かざるをえなかった太宰(かれのペンネーム「太宰治」も、おそらく「堕胎児」に由来するのであろう)にとって、「自己肯定」は偽善としか考えられなかったのである。「自己肯定」の志賀と「頽廃」の太宰との二人の間には、近代日本文学の根底に深い溝が垣間見える 。(参考文献:「内村鑑三」清水書院)

望郷の月、阿倍仲麻呂

Photo_2     養老元年、阿倍仲麻呂(698-770)は遣唐使多治比県守の船で、吉備真備らとともに入唐した。ときに16歳であった。当時、唐は玄宗皇帝の代で開元の治がおこなわれ隆盛をきわめていた。彼は唐にとどまり中国名を朝(晁)衡と名乗って玄宗に仕え、秘書監(宮中の図書館長)にまで昇進した。盛唐の詩人・李白や王維らとも交遊した。唐朝に仕える生活は、憧れの先進国で重んぜられるという、めったなことでは日本人が味わえなかった経験を彼に与える快い歳月であったことであろう。しかし齢50歳を越えた仲麻呂は懐郷の念おさえがたく、帰朝することになった。天平勝宝5年、遣唐使藤原清河らとともに鑑真に会い来日を促し、自らも帰国しようとしたが、海上で暴風雨にあい、船はちりぢりに流され遭難する。仲麻呂らの遭難を受けた李白は悲しんで「晁卿の行を哭す」という七言絶句を作った。

 

 日本ノ晁卿帝都ヲ辞ス

 

 片帆百里蓬壷ヲ繞ル

 

 明月帰ラズ碧海ニ沈ミ

 

 白雲秋色蒼梧ニ満ツ

 

    阿倍仲麻呂の船は安南に漂着した。再び清河らと唐に戻る。仲麻呂は帰国を断念して、鎮南都護安南節度使(正三品)にすすみ潞州大都督をおくられ、宝亀元年、唐土で没した。年70歳。

 

 天の原ふりさけ見れば春日なる

 

      三笠の山にいでし月かも

 

(通釈)大空をはるかにふり仰いで見ると、月が美しく出ている。ああ、あの月は春日の三笠山に出た、あの月なのだなあ。

2015年4月 6日 (月)

次位者の悲しみ

Bobhayes1

  栄光のオリンピックのメダリストたち。1964年東京オリンピック男子100m決勝。優勝はアメリカのボブ・ヘイズ 10秒0(世界タイ・五輪新)。だが2位の選手が誰か記憶している方がおられるだろうか?。キューバのエンリケ・フィゲロラ 10秒.2。3位がカナダのハリー・ジェローム 10秒2。トップランナー以外は何も話題になることはないのは悲しい。Enrique Figuerola

 

Photo
   エンリケ・フィゲロラ

 

 

 

 

高杉晋作は「髙杉」

Img_0005  NHK大河ドラマ「花燃ゆ」。視聴率がふるわないらしい。伊勢谷友介、東出昌大、高良健吾などイケメン揃いなのに。華奢で都会的なので髷が似合わない感じ。ドラマで使われる図書「海防憶測」の文字が明朝体のフォントであることが視聴者からクレーム。幕末の頃は手書きのほうが無難だろう。

    字体といえば髙杉晋作の字も気になる。東京国立博物館の法隆寺献物帳(756年)の「高麗」の字形をみると「髙」、いわゆる「はしごだか」が使用されている。大体において近世まで「髙」の字が一般に使用されていたと見るべきであろう。幕末の志士、高杉晋作の直筆の署名が残っている。やはり「髙杉晋作」と書かれている。

20091111160805806

Img_0008   では何故、「髙」から「高」へ移行したのであろうか。おそらく中国から木版印刷の典籍を儒学者が学ぶにあたって、できるだけ字形をそのままに筆写するため、従来の手書きによる「髙」を改め、「高」をそのまま書写するようになった。伊藤鳳山の「晏子春秋」(1861年)には「高」の墨筆がみられる(左画像)。

Sumi0071801_2

20150221004459_2
 ドラマで使われた明朝体の「海防憶測」





2015年4月 5日 (日)

豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ(広辞苑にないことば)

Pvtofumg   柔らかな豆腐の角に頭を打ち付けても死ぬのは不可能であるのに、真に受けて本当に豆腐に頭をぶつけて死のうとする。それほど愚かな者だと嘲る言葉である。古典落語「穴どろ」(1848年~1854年)に「あんたなんか、豆腐の角に頭をぶっつけて死んでおしまい」と亭主を罵倒する妻の言葉がでてくる。「豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ」は広辞苑に掲載されていない。

お菊と「番町皿屋敷」

F1a71f31f1aec281d2dcb6f3d09f82f4     正保あるいは承応の頃、江戸番町の青山主膳の家にお菊という下女がいて、秘宝の皿をあやまって割ってしまった。お菊はあやまちをした指を切り落とされ後ろ手に縄で縛られ、拷問をうけ牢に入れられる。この苦痛に耐え切れず、お菊は縄を食い切って、庭にある古井戸に身を投げて死んだ。それから夜ごとにお菊の亡霊が現われ、主人一族に祟りがある。「番町皿屋敷」の伝説は江戸だけでなく、播州、四国、九州へと広く分布している。一説によると、元の話しは中国の怪異小説であるともいわれる。(岡本綺堂)

実はこの井戸にはいわく因縁があって、むかしは天樹院(千姫)の屋敷だったが更地にしてあったので、更屋敷といっていた。その跡地を拝領したのが青山主膳だった。

   古いところでは斉藤日岑「武江年表」の承応2年(1653年)正月二日の条に見える。「牛込御門の内青山某の婢女菊といふ者、主家にて秘蔵の皿を破りて害せられ、其の霊魂祟りをなせし事、人口に膾炙すれども、未だ実否を知らず。多くは付合の談なるべし」とある。17世紀中頃には、お菊と皿の奇談はすでに流布していたものであろう。

    「雲錦随筆」にも次のように記されている。「寛政7年卯とし。おきく虫といひてもてはやせり。世俗におきくの年忌ごとに出るといへり。是妄談の甚しきなり。漢名を蛹(よう)といひて、毛むしなどの蝶とならんとする前に、光かくの形になれり」

    これは古井戸に埋められて死んだお菊が蝶に変身して、ひらひらと翅にまかせて舞うという伝説が生まれ、人は「お菊虫」とよんだ。アゲハ蝶の幼虫がとげ状の突起があり、その奇妙な形が、お菊が後ろ手に縛り上げられている姿を連想するからである。

    伝通院の了誉上人は怨霊を済度して、妖怪変化の祟りは納まったという。

韓国の「オデン」

Photo_6   韓国でも「おでん」は人気料理で、日本語そのまま「オデン」と発音する。ただし、魚の練りもののような料理である。日本語「おでん」は日本統治(1910-1940)の時代に朝鮮に伝わったものである。韓国語には日本語と同じ単語が多くあるが、日本統治時代前後に入った言葉が多い。「とんかつ」は韓国語には「つ」の発音がないため、「トンカス tonkasu」と訛って発音する。日本語と似た発音をする韓国語単語を集める。

うどん
刺し身
寿司
おでん
トンカス
たまねぎ
割り箸
楊枝(ようじ)
根性
電球
大八車
コンセント
切替
修理

世界の公衆トイレ事情

   古代ローマは、歴史上もっともトイレが完備していた。各家庭のトイレは水洗で、ローマ市内には公衆トイレが144ヵ所もあった。だが帝国財政が厳しくなってきた。ヴェスパシアヌス帝(AD9-79)は紀元74年、トイレ税を課した。これは悪評で、イタリアでは今でも、公衆トイレのことを彼の名前で「ヴェスパシアーノ」とからかって使っている。ただし、トイレ税は使用者から料金を徴収するのではなく、集めた尿を有料で販売したのである。当時、羊毛から油分を洗い流すために、人間の尿が使われていたから。

  世界には、さまざまなトイレのスタイルがある。なかにはとても落ち着いて用を足せないようなトイレもみられる。vespasiano

邪馬台国の使者は乞食を連れていた!?

Photo_3   魏志倭人伝に「持衰(じさい)」という役職の人物について記載されている。持衰とは、倭人が魏に朝貢に行く際に船に乗っていく特殊な役目をする人のことである。「倭の一行はいつも不思議な男を連れていた。つねに独りで、頭には櫛をいれず、シラミがたかっても取らず、衣服が垢で汚れてもそのままにし、肉は食べず、婦人を近づけないで、まるで喪に服しているようであった。これを名付けて持衰という」とある。

   この男を船に乗せて無事に目的を達成すれば、この男は褒賞が与えられるがそうでないと殺されるのである。

広辞苑には「持衰」は見当たらないが、「持斎」はある。意味は「①戒律を守って身心を清浄に保つこと②八戒を守ること」とある。

ネパール少女の生き神さま「クマリ」

T02040320_0204032012741983477   NHK「ネパール 壇蜜 死とエロスの旅」を見る。ネパールの社会は多様な文化と伝統をもつ少数民族のあつまりで、雑然としていてまとまりはなく、混沌としている。

   世界最大の歓喜仏。性愛をこえ悟りの境地を説く。カーリー女神とクマリ。国内から選ばれた少女が初潮を迎えるまでクマリ(少女の生き神さま)をつとめる。占いで壇蜜は23歳のとき辛い目にあったといわれる。それは就職難で仕事が見つからなかったこと。47歳にまた転機がくるという。Kumari

のこぎりの世界史

Photo_2  のこぎりの歴史は古く旧石器時代にさかのぼる。歯をつけたフリントののこぎりが、南フランスのマドレーヌ期からある。年代的には約1万7000年前から約1万2000年前のこと。木とか骨を切断していた。青銅器時代にもフリントののこぎりが使われていたが、歯が厚いので切断のみぞが太くなる不便があった。それから薄い粗銅ののこぎり、青銅ののこぎりができたが、それはフリントのこぎりといっしょで、ギザギザの歯があるというだけであった。古代エジプトでは第4~6王朝(紀元前2613~2181頃)から握斧のついたのこぎりが現れた。第18王朝(紀元前1500年頃)のピラミッドから銅製の鋸が発見されている。クレタの中期ミノア時代の第3文化では1.5mをこえる青銅の鋸があったが、歯が一定方向にそろうようになるのは古代ローマ時代に鉄製の鋸がつくられるようになってからである。

   ヨーロッパや中国・朝鮮では、古くから押して使う鋸がふつうであるが、日本やトルコ・イランなどでは引いて使う柄鋸が鋸の主流を占めている。

Anamputation

レニーンの帽子

Lenin_photo101011944_128620574011492_2063467865_

  ロシアの革命家レーニンの写真をみるといつも帽子をかぶっている。ロシアは寒冷地で禿頭にはこたえるから防寒用のためであろう。帽子はいつもフェルト製のツバのあるソフト・ハットである。シルクハットや山高帽姿のレーニンを見たことがない。労働者階級を象徴しているともいえる。

C8806l  近代に入って山高帽が男子用帽子の主流となり、フェルト製造機が1846年に発明されると、急速に普及した。この流行に対して、19世紀半ばから使用され、同末期のアメリカで広く人気を呼んだのが、ソフト・ハットである。映画「怒りの葡萄」でヘンリー・フォンダが被っている帽子である。第二次大戦前頃まで男子が最も一般的に使用していた帽子である。写真で見比べると、レーニンの帽子はやや学生帽に近いタイプで、ヘンリー・フォンダのさらにカジュアルな帽子である。最近、このような帽子を被っている人をみかけることは少ない。

Thumbnailimage

更新世の日本の先住民

Photo_3

    この日本列島に人類はいつ頃から住みついたのであろうか。更新世の末期(約4万~1万年前)になると、現生人類があらわれ、石英岩などの剥片を加工してつくった石器を用いたり、骨や角を材料とした槍や銛、釣針などの骨角器をさかんに使用して、採集や狩猟・漁撈の生活がユーラシアでみられた。だが、東アジアの東端に位置する日本列島に、果たしてこのような旧石器の人類が居住していたかどうかは、長い間、学者によって研究が続けられていたが、戦前の学界では旧石器時代の遺物というものは学界の認証を得ることができなかった。1949年に群馬県岩宿のローム層の中から、打製石器が出土することが確認された。その後、同様な石器は日本の各地で発見されるようになり、今ではおよそ3万年前の最終氷期以降の遺跡だけで3000箇所以上も発掘されている。

    だが今にして考えると不思議である。ユーラシア大陸と日本列島の一部が陸橋で繋がっていたという認識はあったのだから、狩猟民(古モンゴロイド)がやってきたということは想定できるはずである。それは日本の学界では、頑なまでの実証主義が支配していたからであろう。実際に人間が加工したと証明できる石器が出土されるまでは想像で歴史を語ることは禁じられてできなかったのである。すでにアメリカではカリフォルニア大学のマシュー・スターリング(1896-1975)が1939年から40年にかけオルメカ文化の本格的な調査が行なっていた。1950年代初頭には放射性炭素測定で、紀元前1160年より紀元前580年という結果がでている。つまりすでに前1000年ころに新大陸には宗教性をともなう旧石器文化が成立しているのに、中国、朝鮮と大陸文化に近い日本に旧石器文化が成立していたであろうことは、比較文化史として検討すれば学生にでもわかることである。いかに戦前の学界が旧弊に縛られていたかということであろうか。

Img_4

アジアにおける「泣き女」の習俗

Docu0002   泣き女(哭き女)は、中国や朝鮮半島、台湾をはじめとして世界中にみられた伝統的な職業の女性。主に、葬儀の時に、遺族の代わりに、「悲しい」「辛い」「寂しい」等を表現する為に大げさに泣きじゃくる。また悪霊ばらいや魂呼ばいとしての性格も併せ持つものとされる。起源は古く、古代エジプトや旧約聖書(エレミヤ書)にもその存在が記されている。テーベのシェイク・アブド・エレ=クルナにあるラモーゼの墓には白い服を着た「泣き女」が壁画に描かれている。現在は多くの国では廃れてしまったが、儒教の影響の強い中国や朝鮮の一部にはいまでも「泣き女」の習俗がのこっている。中国では「哭喪人(クサンロン)」と呼ばれている。韓国では泣き女は「アイゴー、アイゴー」と泣き叫ぶ。アイゴーとは漢字で表すと、「哀号」であろうか。

Photo_4

2015年4月 4日 (土)

松陰とヒトラー

   幕末の偉人、吉田松陰の家紋は「五瓜に卍」紋。まんじには左卍と右卍があるが、松陰のは左卍。ヒトラーのハーケンクロイツとは逆である。もともとルーツは同じで、古代インドのスヴァスティ(吉祥=幸運の象徴)である。よくみると違うのだがNHKもさすがに小道具には使えなかったらしい。

Gokanimanji Img_0

フレデリック・バンティング

Frederickbantinggrant  近代医学に貢献した人々。牛痘接種法を発見したエドワード・ジェンナー。結核菌・コレラ菌のロベルト・コッホ。ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング。みな学校で習う。ところが死の病といわれた糖尿病治療に効果的なインスリンを発見(1921年ころ)したカナダの医師フレデリック・バンティング(画像)はあまり知られていない。 Frederick Banting

ピーマンと日本人

Photo   現代日本で用いられる外国から来た野菜の大半は英語を日本語化したものである。例えば、キャベジ→キャベツ、トメイトー→トマト、セラリー→セロリ、レティス→レタス。だが「ピーマン」は英語グリーン・ペパーで、フランス語「ピマン(pimet)」が由来である。ピーマンは明治初期にフランス人によってもたらされたが、日本人には好まれずに普及しなかった。またフランス語の「ピーマン」は「唐辛子」のことで、正しくはピーマンはフランス語で「ポワ・ヴロン(poivron)」という。

    ピーマンが一般に日本の食卓に登場するのは戦後からである。終戦後、食料品には経済統制がかせられた。ほとんどの食品は自由に売買することはできなかった。しかしピーマンはあまりポピュラーの野菜ではなかったので対象外であった。そこで東京の近郊農家がピーマンを作って販売したところ飛ぶように売れた。肉と合うピーマンは日本の食卓の野菜の1つとしてくわえられるようになった。

2015年4月 3日 (金)

司馬文学と歴史学

Photo_3    司馬遼太郎の筆名の由来は、中国の歴史家司馬遷に遼かに及ばない、からきている。歴史を扱った小説が多く、幕末を取り扱った小説をざっと指折り数えてみてると(洩れがあるだろうが…)、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「新選組血風録」「「世に棲む日日」「翔ぶが如く」「幕末」「峠」「人斬り以蔵」「「アームストロング砲」「俄・浪華遊侠伝」「大坂侍」「慶長長崎事件」「王城の護衛者」「最後の将軍」「十一番目の志士」などなど。

   この中で「幕末」は、有村治左衛門(「桜田門外の変」)、清河八郎(「奇妙なり八郎」)、陸奥陽之介(「花屋町の襲撃」)、大庭恭平(「猿ヶ辻の血闘」)、間崎馬之助(「冷泉斬り」)、浦啓輔(「祇園囃子」)、吉田東洋((「土佐の夜雨」)、桂小五郎(「逃げの小五郎」)、伊藤俊輔(「死んでも死ぬな」、寺沢新太郎(「顕義隊胸算用」)、田中顕助(「浪華城焼打」)、市川精一郎(「最後の攘夷志士」)12の暗殺事件を背景にした暗殺者の列伝である。

   この暗殺者の中に我が国の初代内閣総理大臣・伊藤博文(1841-1909)がいることに注目したい。伊藤博文は維新前を俊輔といい、桂小五郎に従って尊王攘夷運動に挺身し、文久2年には、高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多らと品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加した。文久3年1月13日、高槻藩士・宇野東桜を高杉晋作、伊藤俊輔、井上聞多、白井小助らが暗殺したとされる。同年、伊藤は山尾庸三とともに国学者・塙次郎、加藤甲次郎も暗殺している。

   「幕末」で司馬良太郎は次のように書いている。「暗殺という政治行為は、史上前進的な結果を生んだことは絶無といっていいが、桜田門外の変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。」「書き終わって、暗殺者という者が歴史に寄与したかどうかを考えてみた。ない。ただ、桜田門外の変だけは、歴史を躍進させた、という点で例外である。これは世界史的にみてもめずらしい例外である。その後、幕末に盛行した佐幕人、開国主義者に対する暗殺は、すべてこれに影響された亜流である。暗殺者の質も低下した。桜田門外の暗殺者群には、昂揚した詩精神があったが、亜流が亜流をかさねてゆくにしたがい、一種職業化し、功名心の対象になった」とある。司馬遼太郎は有村治左衛門の暗殺行為は「歴史を躍進させた」と評価し、伊藤博文の暗殺事件は功名心としてことになる。伊藤博文や井上馨などは小説に度々登場するが遺族には誠に気の毒なほどの記述であろう。これはあくまで小説である。しかしながら「幕末」は同時代を扱った「新選組血風録」のように架空人物も登場しないし、ほとんど歴史記述のスタイルをとっている。本来なら歴史読物とするところをなせ「小説風に」書いたのか、司馬は次のように述べている。「幕末の暗殺は、政治現象である。政治情勢から出てきている。主人公はあくまで政治思想であって、歴史を書くばあいならばその政治情勢と思想に紙数を9割ついやさねばならぬであろう。が、それは、歴史に興味のない読者にとっては、月遅れの新聞の政治面を読むよりも無味乾燥である。なるべくそれを端折り、人間と事件にはなしの中心をおろした。歴史書ではないから、数説ある事情は、筆者がねこのほうがより真実で語りやすいと思う説をとりねそれによって書いた。だから、小説である。」

    司馬遼太郎には「これは余談だが」とことわって、本筋とは離れた話柄を裁ち入れることがある。司馬ファンにはこれがたまらない魅力の一つであろう。人気のある歴史の高校教師は雑談やエピソードをたくみに取り入れる。それでいて受験に必要な事項は漏らさない、というのと似ている。司馬には、過去の人物と出来事、歴史の動くありさまを俯瞰的に観察しながら、生き生きと描きだす文才のあった作家だった。

世襲三代

   芸能界には襲名制度というのがある。さきごろ三遊亭楽太郎が六代目三遊亭円楽を襲名した。しかし円楽といえばどうしても長い顔の先代を思いかべてしまう。林家三平、若乃花も故人となった先代が印象深い。芸能界の家元制度はさておき、政治の世界での世襲制度は困ったものである。北朝鮮では金正日の三男・金正恩を軍の大将として公表した。金日成(1912-1994)、金正日(1942年生まれ)、金正恩(1983年1月8日生まれ)と金王朝は続く。

世襲政治家は多い。安倍晋三、麻生太郎、鳩山由紀夫、小沢一郎。実は世襲が多いのは政治家に限ったことではなく、実業界や官界、芸能界でもそうであり、医師や僧侶などは半数は親子二代ということが当たり前になっている。

信長はワインを飲んだか?

Photo_2   織田信長は西洋文化に強い関心を持つた人物で、安土城での馬揃えのとき黒いビロードのような帽子やマントを身に着けて周りの人々を驚かした。またその進取の精神は、舶来の珍奇な品や珍しい食物に関してもみることができるる。「珍陀酒」というポルトガル産のワインを飲用したことが記録に残っている。「珍陀」とは、ポルトガル語で赤ワインをヴィーニョ・ティン(vinho tinto)ということから、赤を表わすティンが転じて「珍陀」となったと考えられる。宣教師ルイス・フロイスはコンペイトウを献上したと記録しているが、このほかにカステラ、ボーロ、ビスカウト(ビスケット)などの南蛮菓子も食した可能性は高い。このほか国内の物産でも真桑瓜や御所柿を食べたらしい。(5月12日)

2015年4月 2日 (木)

ゴシック建築と大聖堂

Photo_2  ロマネスク様式に続き、12世紀中頃から15世紀にいたるまで、ヨーロッパを風靡した美術様式をゴシックという。ゴシックという言葉は、ヴァザーリ(1511-1574)により、「ゴート人による野蛮な建築様式」として軽蔑的に使用されたのが最初である。ゴシック美術の再評価がなされたのは19世紀、ロマン派の芸術家たちによってであった。彼らは中世ゴシック美術のなかに、幻想性と崇高な美を見出したのである。

  12世紀半ばになると、王領イル=ド=フランスを中心とする各司教座都市で大聖堂の建立事業が始まった。修道院院長シュジェールは、信仰を導く手段としての光の重要性を説き、神の館をできるだけ豪華に飾りたてることで神の栄光を讃えようとした。1144年に献堂された内陣には、尖頭アーチを用いた肋骨交差穹窿が、ステンド・グラスを嵌め込んだ大窓とともに組織的に活用されており、これはゴシック建築の最も古い作例のひとつに数えられている。

   サン=ドニで打ち出された新しい建築意匠は、ときを移さず、サンス、サンリス、ラン、パリなど、周辺の都市の教会堂建築へ伝播した。イギリスでも、大陸のこうした動きと並行して、カンタベリー大聖堂の再建事業がフランス人工匠長の指揮のもとに行なわれた。

   12世紀末になると、聖母へ捧げられた本格的なゴシック聖堂が各地に建設される。ブールジュ、シャルトル(画像)、ランス、アミヤン、ボーヴェなどのフランス各地の大聖堂、イギリスのソールズベリー大聖堂、マールブルクのザンクト・エリーザべト聖堂やケルンのザンクト・ペーター大聖堂などを挙げることができる。

   しかし、14世紀に入ると、教会の大分裂、黒死病の大流行、英仏百年戦争の荒廃によって、封建社会が揺らぎ出し、大聖堂造営のような大規模事業はほとんど見られなくなった。(参考:高階秀爾「西洋美術史」美術出版社、世界史)

童形太子像

Img_0005
  童形太子像   法隆寺

  本像は童子太子像として最も著名な像で、像内墨書銘によって造立年代、作者、造立の経緯等を知ることができる。その銘によれば、観音真言に続いて、太子生誕505年に当る治暦5年(1069年)法隆寺大衆が結縁した仏師円快、絵師致貞の子により「聖徳太子御童形御影」を造顕したことが墨書されている。これにより本像は、太子彫像の最古の遺例であることが知られ、また観音信仰を伴っていること、その造立が大衆と称する法隆寺下級僧達の結縁によってなされたことが知られるのである。また仏師円快については明らかではないが信貴山の僧とされており、彩色を担当した秦致貞は旧絵殿障子絵の「聖徳太子絵伝」の著者でもある。平安後期、法隆寺の太子信仰が興隆した歴史を知るうえで、本像は画期的な遺品といえる。

2015年4月 1日 (水)

岐阜城と斎藤道三・織田信長

Photo_3     斎藤道三の出自に関しては、正確なことはわかっていない。父松浪基宗は「北面の武士」だったといわれ、のちに山城国乙訓郡に帰農したとされる。道三は11歳のときに日蓮宗の京都・妙覚寺に預けられた。その後、還俗して松浪庄九郎を名乗り武芸に励むが、突如、商家に婿入りして山崎屋庄九郎と改名し、油屋を開業。京都とその周辺で行商し、たちまち財をなした。やがて美濃にも販路をのばすようになると、稲葉山城主長井長弘の目に留まり、長井家に仕えるようになる。その縁をたどって守護・土岐盛頼の弟頼芸のもとに士官し、深く信頼されるようになった。1527年、頼芸をたきつけて盛頼を追放させ、頼芸を守護に据える。また、かつて恩を受けた長井長弘を殺害して長井家を強奪し、長井規秀と名乗った。その後、病死した守護代斎藤利良の跡を継いで斎藤道三と称し、権勢を振るう。1542年、突如兵を挙げと、主君頼芸を改めて国外に追放し、ついに美濃国主の地位についたのである。1548年、道三は家督を長男義龍に譲り、隠居する。しかし、のちに義龍と不和になり、義龍に攻められて捕らえられ、殺された。

   濃尾平野の北端に屹立する金華山上に築かれた岐阜城は古くは井ノ口城、稲葉山城とよばれた。1201年、二階堂行政がここにはじめて城を築き、室町時代には美濃の守護土岐氏の守護代斎藤利永が修築して居城としたとされるが、この城が名城とされるのは斎藤道三によってである。ところが道三は義龍に討たれ、義龍の子の龍興が城主になったとき、尾張の織田信長によって落城。信長は、1567年、山上・山麓に本格的な城を築き、あらたに岐阜と命名した。近年、信長の居館跡から地下通路の遺構が発見されている。1569年ここを訪れたルイス・フロイスは城下の繁栄を「バビロンのような混雑」と記している。信長が安土に移ったあと、岐阜城主は織田信忠・信孝、池田元助・輝政、羽柴秀勝、織田秀信とめまぐるしく変わったが、秀吉の没後、西軍に味方した秀信は東軍に惨敗し、翌年、廃城となった。

054
 信長楽市楽座制札 国指定重要文化財 岐阜市歴史博物館

芳水詩集

Photo

   浅間山

八月高き山越えて

信濃に入ればなつかしや

山毛欅(ブナ)、樺、桧もろもろの

木と木と乱れ小枝には

老鶯の声さびて

雲は動かずとどまらぬ。

 

桔梗、刈萱、女郎花

小萩がもとに風たてば

旅なる人を乗せて行く

黒毛の駒も嘶きぬ

かえり見すれば東(ひんがし)に

浅間は高く聳えるを。

 

ふりさけ見れば浅間山 

黒き煙の渦まきて 

空より野辺に流れ落つ 

山の麓の町町の 

白き壁には日のかげの 

赤く悲しくたゆたひて

  評論家の清水幾太郎は「私の読書と人生」の中で有本芳水(1886-1976)の詩を少年時代に読んで、印象深く記憶に残ったと記している。東京日本橋の生まれである清水は田舎を知らず、芳水の詩に触れて初めて抒情性に浸ることを知った。芳水が主筆として活躍していた「日本少年」という雑誌を清水は愛読していた。1914年に「芳水詩集」が刊行されるが、清水は貧しくて80銭の「芳水詩集」が買えなかったという。(参考:三木良明「清水幾太郎の生き方の一考察」「鷹陵」第145号)

P_arimoto

寺田望南の蔵書印

Img_0005    寺田望南(1849-1929)は明治の書物収集家。薩摩の出身で、名は弘または盛業、字は士弘、望南と号した。明治初年頃文部省大書記官で、西郷隆盛が下野した際、ともに国に帰ったという。明治9年の「官員録」に、文部省督学局少視学として寺田弘の名が見える。その後は官途につかず、古書の売買、斡旋などにより生計を立てていたという。かれが後世に名を残すのは「読杜草堂」「天下無双」「東京溜池霊南街第六号読杜草堂主人寺田盛業印記」の三種の蔵書印の捺された書物からその存在が今日に至るまで知られている。(参考:国立国会図書館月報388)

クレヨンの歴史

Ac06240000001_2 220pxbio_binney
 初期のクレヨン エドウィン・ビニー(左)、ハロルド・スミス(右)

  だれでも幼い頃、クレヨンで絵を描いた思い出があるだろう。どんなに老人でも小さいときには既にクレヨンは販売されていたはずだ。クレヨン(crayon)とは本来、フランス語で、鉛筆一般を指していた。起源は古代ギリシャには顔料とロウを練り合わせた絵の具があり、アンコスチック enkaustick と呼ばれていた。19世紀末、フランスのパステル画家が紙に直接描ける棒状絵の具を試作し、クレヨンコンテ社がこれをクレヨンの名で発表した。児童用のクレヨンを発売したのは米ニューヨークのBINNEY & SMITH 社である。1900年ころcrayola crayon boxを発売。1904年のセントルイス万国博覧会で金賞受賞した。これを手本に日本でも1921年国産品を製作、1926年にはクレヨンよりも柔らかいクレパスを発明、「サクラクレパス」として広く使われた。(keyword;Edwin Binney(1866-1934)、Harold Smith )

567pxcrayola1

「パッチ」は将棋でいえば桂馬!?

Yjimagexu25bz5x   阪神タイガースの関本健太郎が勝利のお立ち台で「必死のパッチ」と口にする。「一生懸命」とか「がむしゃら」とかいう意味で使われる関西弁。パッチとは股引のこと。関西では桂馬の駒の動きが股引の形にみえることから、「桂馬のパッチ」という俗語があった。また相手がどう守っても確実に詰める状態のことを「必至」という。つまり、桂馬で王手をかけた際、守る側のギリギリの状態が「必至のパッチ」である。これが「必死のパッチ」として、新喜劇の岡八郎がギャグで使い、広く知られるようになった。

Vサインはもう廃れた!

Idiotoccupiedbusy 日本ではVサイン(ピースサインともいう)は写真を撮るときの決めポーズとして習慣になっている。しかし同じ身振りでも国が違えば意味するところが変わる。ギリシアでは「お前くたばれ」の意味である。起源はチャーチルが始めたとか、BBCのアナウンサーがレジスタンスのシンボルとして考案したとか諸説ある。しかし欧米ではVサインは今時、子供でもしないといわれる。

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

最近のトラックバック

2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31