暴君と寵妃
「殷鑒(いんかん)遠からず」 殷の王の鑑とすべき先例は、さほど遠くにもとめずとも、夏の后桀の時のことなるをお思い起こしなされましょう、の意味。転じて、他人の失敗を自分の戒めとすべきこと。
夏・殷・周の三代の王朝の興亡は繰り返しの歴史であった。極悪非道の残忍な君主であっても後世になってその評価が大きく変わることがある。その典型は秦の始皇帝だろう。とくに1974年の兵馬俑坑の発見以来、中国では最高の偉人としての評価である。その考古学上の遺物が豊富なことや歴史研究も進んでいるが、暴君につきものの愛人や寵妃の話はほとんど明らかでない。阿房宮という壮麗な宮殿もあり、後宮三千人も誇張ではないと思われるが、皇妃の名前すら明らかでない。夏の桀には妹嬉(末喜、妹喜ともいう)、殷の紂王には姐妃、周の幽王には褒似、晋の献公には驪妃がいた。ところが始皇帝は母である荘襄王の妃ですら、名前が明らかでない。もとは邯鄲の芸者。宰相呂不韋の愛妾で史記には始皇帝の父は呂不韋だとしている。このような自分の出生の秘密が残忍性を生んだと考えられている。
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