安田作兵衛の槍
安田作兵衛国継は、本能寺の変で信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森蘭丸に槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取る功を挙げた。古川九兵衛、箕浦新左衛門とともに明智三羽烏の1人に数えられた。作兵衛は山崎の戦いの後、浪人となり、森長可に500石にてかかえられたが、長可の死後は九州へ落ち延び、唐津藩・寺沢広高に仕えこの地で生涯を終えた。唐津の浄泰寺には安田作兵衛の墓がある。唐津城には作兵衛が本能寺で使用したとされる槍が展示されている。
明智光秀の家臣団の主な武将を記す。明智秀満、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤利光、溝尾少兵衛、松田太郎左衛門、柴田源左衛門、明智孫十郎、松生三右衛門、加成清次、山崎長門守、林亀之助、開田太郎八、進士作左衛門、村越三十郎、堀尾与次郎、山本仙入、三宅孫十郎、荒木氏綱、小畠左馬之助、片岡藤五郎、川勝継氏、川勝秀氏、城戸十乗坊、内藤備前守、中川駿河守、並河掃部、延水宗清、松田摂津守、矢野弥三郎、渡辺太郎左衛門、四天王政孝、小野木重次。
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