金閣寺の原風景
足利義満は1397年より翌年にかけて鎌倉時代から名園として知られていた西園寺家の北山の邸宅を譲り受け、金箔を貼った3層の楼閣建築である金閣のほか、北御所、南御所はじめ諸殿を造営した。義満の死後、北山殿は寺となり、建物は金閣ただ1つを残すだけとなった。その金閣も1950年7月2日に青年僧の放火で焼失したが、1955年に再建され、1994年にはユネスコの世界遺産に登録されている。金閣と呼ばれる舎利殿の高さは12.5mとなっている。
北山殿の盛時における建物規模はどれくらいだったのは記録がなくわからない。おそらく非常に大規模なもので、その地域は金閣のあるところを含んで、東方、南方に広がり、いまの数倍くらいの広さであった。金閣の北には天鏡閣があり、橋でつながっており、それを渡ると空をかける心地がしたといわれる。
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