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2015年3月31日 (火)

イラク南部における灌漑文明の形成

Sumerian   イラク北部のハラフ期(前5000年ころ)に、はじめて灌漑をおこない、沼沢地を農地に変えて、バビロニア南部を開拓したのは、エリドゥ人である。この地方は、新石器時代末までは、定住は全くおこなわれなかった。次のウバイド期(前4000年ころ)になるとシュメール人が南メソポタミア地方のアル・ウバイド、ウル、ウルク、ラガシュ、ウカイルなどにウバイド文化を形成する。シュメール人の原住地は不明で、メソポタミア周辺のセム族の言語でもなく、中央アジアを原住地とするアーリア民族の言語でもないところから、インド原住民との関係があるのではないかといわれている。ともなくシュメール人は前4000年ごろに移住定着し、沼地を干拓し、原始農耕を営んでエリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家を建設し、楔形文字と青銅器農具の使用を発明して、古代オリエント文化の基礎を築いた。考古学編年としては、ウバイド期、ウルク期、ジュムデト・ナスル期、初期王朝時代へと続く。(Shumer,Sumerians) 世界史

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古代エジプトの地方政区の起源

   メソポタミアとならんでもっとも古く文明がおこったエジプトでは、「ナイルのたまもの」ということばのとおり、ナイル川が用水と沃土をもたらしただけでなく、重要な交通路でもあった。ここでははやくから流域に多くの村落が分立していた。古代エジプトには伝統的な行政区が42あり、これを「セペト」(sepet)と呼んでいた。現在、歴史用語としては、ギリシア語の「ノモス」(nomos)という呼び名のほうが知られている。国土を行政区に分割する制度は少なくとも初期王朝時代(前3100年)から存在していた。セペトは、それぞれに守護神をもち、ヒエログリフでは運河の形で表される。これは古代エジプトの地方行政の最も重要な事業はナイル河の治水にあったことを物語る。セペトに関する記録は第4王朝(前2613年)から現れるが、その起源は先史時代末期の小王国群に由来するといわれる。中央政府の衰微した時代には、セペトがしばしば独立国家のごとき観を呈した。(世界史)

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ラファエル前派の女性美

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         「燃え立つ6月」 1895年

    フレデリック・レイトン(1830-1896)はイギリス・ヨークシャーのスカーボローの生まれ。幼少時より家族でヨーロッパ旅行をしていたので、数ヶ国語を話し、美術に関する知識も自然と身についていた。さらにフィレンツェ、フランクフルト、パリ、ブリュッセルなどで本格的な美術を学び、ロンドンに戻ってからはラファエル前派とも親交を深める。1868年ロイヤル・アカデミー会員、1878年同会長となりナイト爵を授与され、1886年準男爵、1896年の死の前日にはイギリス画家として初めて男爵の称号を得た。彼の作品は歴史、聖書、古典的な題材がほとんでビクトリア朝時代の画風であるが、近年、再評価がなされている。主作品には「プシケの入浴」(1890)「燃え立つ6月」(1895)など。

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      「果物かごを持つ娘」

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        「無言歌」 1860年

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         「ローマの農家の娘」 

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     「書見台に向かって」 1877年

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          「ソリテュード」

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      「ヘスペリデスの園」 1892年

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        「ヘロの最後の眺め」

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 「プシュケの水浴」 1889-1890年頃

   ここでの水浴するプシュケは、単なるギリシャ趣味の口実でしかない。題材は19世紀以来、さまざまな口実のもとに展開されてきたヌードである。近年、世界的規模の「ビクトリアン・ヌード」展があり、レイトンという画家が注目をされるようになっている。その在世時、少なくともイギリスでは極めて高い名声を得た画家ではあった。レイトンの作品はイギリスに欠如していたある種の高踏性と洗練があり、それがヴィクトリア王朝趣味に適合したのであろう。レイトンはラファエル前派に深い共感を持っていたようであるが、画風はよりアカデミックであり、古典主義的であった。

記憶の鍵

   人間の脳は、本質的に忘れやすい構造をしている。だが誘導的な質問をされると、脳に保存されている記憶が引き出されやすい。例えば、昨夜のネプリーグの設問。次の世界文学作品を答えよ。

「○○○○○鐘は鳴る」

「○○○○○の兄弟」

「罪と○」

「○○○○○○で朝食を」

「○○○○でつかまえて」

答えは、「誰がために鐘は鳴る」「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「ティファニーで朝食を」「ライ麦畑でつかまえて」

作品を一度も読んだことがなくても、タイトルを記憶している方ならスラスラと出てくる。解答者は全問正解だった。

  これとは反対に、人名はなかなか思い出せないといわれる。例えば、「花燃ゆ」で長塚京三が演じる寡黙で真面目な松陰の実父の名前。杉百合之助(尚道)というが、出て来ない。徳川家康の父の名前や第16代米国大統領エイブラハム・リンカーン、「炎の人」といわれたオランダの画家ゴッホの父親の名前も記憶する人は少ない。松平広忠、トーマス・リンカーン、テオドリック・ファン・ゴッホという。

2015年3月30日 (月)

なぜマリー・アントワネットは度の外れた贅沢をしたのか?

Marie_antoinette_in_court_d   マリー・アントワネットといえば、誰もが知っている18世紀西欧のファッションリーダー。パニエを入れて膨らませたミニ丈のスカート、リボンやバラの装飾。彼女はなぜ度の外れた遊びや贅沢を好むようになったのか。牧歌的な(=野暮ったい)オーストリアの宮廷から、洗練の極みであるベルサイユへやってきた。アントワネットが女王として君臨するための自信と手段として、わかりやすいファッションに傾倒していった。アントワネットの服飾デザイナー、ローズ・ベルタンはこう言っている。「マリー・アントワネットはダサかったから」。(世界史)

坂道の家

_   松本清張の短編に「坂道の家」がある。小間物店を営んでいる寺島は金を貯めるだけが趣味の中年男だったが、ある日、店に来た若い女に魅せられ関係をもつ。女に言われるままに、坂道を上がったところにある家を買い囲っていた。だが心臓の病気がある寺島には坂道を上るのが苦痛であった。女は寺島の財産目当てに近づき、殺人を計画するという話だった。

   日当たりのよい坂道の家は、一見良いように見えるが、重い買い物袋を持ちながら毎日階段をのぼることは健康な者でも負担である。ある医大の研究チームが自殺は傾斜が急な地域ほど高率になると発表している。傾斜が厳しい山間部では、住民の行き来が少なく孤立しやすい環境であることが影響し、精神的に追い込まれる可能性がある、というがその理由である。むかし、仙人は高いところに住んでいる、といわれたが、住む場所を探すのも難しいものである。傾斜といっても、坂道が多い長崎や神戸のような都市部では、ほとんど影響がみられないそうである。

2015年3月29日 (日)

テレビで映画三昧

456353cb01ff9473a912276eb150be33_30   映画はもちろん映画館で観るのが正しい鑑賞法であるが、残念ながらあまり体力に自身がないのでテレビで我慢している。むかしのようにポップコーン食べながら映画館で観たい。テレビのよいところは洋画、邦画を問わず古い作品から新しい作品が観れることである。「映画は時代の鏡」なのである。戦時中の暗い世相でありながら、どこか明るい希望があったり、経済繁栄で物質的に豊かなのに心が不安な社会であったり、映画は歴史の本よりもその世相を反映している。だから世間的に名作といわれる作品よりも、評価されない作品にも見所がある。

最近、観た映画で最もつまらないと感じた映画。「陽気なギャングが地球を回す」(2006年)、原作は伊坂幸太郎のベストセラー。豪華な俳優陣で強盗計画に挑む。オーシャンズのような内容だがテンポが悪い。

Photo  「秘密」(1999年)。原作は東野圭吾。バス事故により、妻の意識が宿ってしまった娘と父との生活を描く(この現象を憑依という)。広末涼子が好演。

イギリス映画「クレアモントホテル」(2005年)。長期滞在型のホテルの人間模様。「黄水仙」ワーズワースの詩、古い歌、古城のような邸宅。タイプライター。原作はエリザベス・テーラー。

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  ゾーイ・タッパー


なぜ大映俳優は不幸な人生を辿るのか

B0057679_8523144   大映は戦後数々の名作映画を生み出しながら、昭和46年に倒産した。大映といえば御大長谷川一夫だが、彼以外の俳優は何故か不幸な人生を歩んでいる。とくに市川雷蔵は眠狂四郎はじめ不幸な香りのする役が多かった。雷蔵が37歳の若さで死んで、2年後、大映が倒産した。ライバル勝新太郎も晩年は不祥事の連続で不運だった。躁うつ病で自殺した田宮二郎。息子の俳優田宮五郎も先年急死した。川崎敬三は大映倒産後、TVの司会で活躍したが、やらせリンチ事件で責任をとり芸能界を引退した。川口浩も探検隊でお茶の間の人気者となったが、両親・家族の相次いでの死、そして本人も癌で51歳で他界した。若手人気女優の叶順子は昭和38年、眼疾により引退した。仁木多鶴子(画像)は大毎オリオンズのエース、小野正一と結婚したが、野球界の黒い霧事件にまきこまれた。仁木は44歳で他界している。

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酒井忠次の軍配

    酒井左衛門尉忠次(1527-1596)。大永7年の生まれで徳川四天王のなかでは最年長。晩年は眼疾で目が見えなかった。徳川家の家老かつ四天王なのに何故か印象が薄い。だが忠次の軍配がその人間性を物語っている。木製の黒漆塗で、中央には干支暦があり、その上にルーペと方位磁石(コンパス)が付いている。

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 黒塗軍配団扇(致道博物館)

バドミントンの起源

   バドミントンは1820年代インドでプーナと呼ばれていた。インドから帰ったイギリス人の兵士が1873年に本国に伝えたのが始まり。南西イングランドのグロスターシアのビューフォード卿の住むバドミントン・ハウスで中心に研究されたので、地名をとってバドミントンという名がついた。1873年以降、イギリスから各国へ普及した。下の絵は、ルノワールの「バドミントンをする若い娘たち」(1887年)。

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( keyword;Badminton House,Doke of Beaufort,Poona,Gloucestershire,eponym )

2015年3月28日 (土)

南蛮文化

Img89a0d9e8zikdzj   室町末期から江戸初期にかけて、ポルトガルやスペインの宣教師・貿易商により西欧文化がわが国に数多く流入してきた。これを南蛮文化またきキリシタン文化とよぶ。南蛮文化にはキリスト教、鉄砲などや医学・地理・活版印刷などの学問的知識もあるが、衣食のような身辺生活にもその影響は少なくなく外来語として日本語になっている。ボーロ、アルヘイトウ、コンペイトウ、カルメル、カステラなどの南蛮菓子やアラキをはじめ各種の蒸留酒やワイン、ワカとよばれた牛肉なども当時は好まれ、また衣料として木綿、ウール等が輸入された。また海外事情もこのとき文物とともに日本にもたらされた。織田信長は地球儀を見て初めて地球が丸いことを知った。もちろん初めは信じかねて半信半疑だったが、宣教師たちの熱心な説明で、信長は「理にかなう」と納得したという。タバコもこの時代に入った。タバコは新大陸発見のときコロンブスが旧世界にもたらしたものであるが、それから50年ほどのちの天正年間に極東の日本まで到着している。日本人は喫煙に対して何ら忌み嫌うことなく、すぐにこの風習を取り入れたので、その伝搬も早く、慶長年間にはすでに全国においてタバコが栽培され、女や子どもまでがタバコをふかしていたといわれている。喫煙の大流行に伴ない、武家はもちろん町人もキセル、タバコ入れ、たばこ盆などの容器に金をかけ、かなり高価であったタバコを惜しげもなく消費し、そのうえに喫煙の火の不始末のためにたびたび出火があったために、江戸幕府は贅沢の禁止と火事の予防のために1609年にはじめて喫煙禁止令を発し、それ以来しばしば禁止令を出し、タバコを栽培する者の土地を取り上げたり、藩によっては、喫煙者を処刑したこともあった。

ポルトガル語系はボタン、シャボン、カッパ、カステラ、パン、タバコ、カルタ、カナキン(金巾)、ラシャ、サラサ、ジュバン、コンペイトー、ビロード、カルメラ、バッテラ、ビードロ、テンプラ、カボチャ、アルヘイトウ。

オランダ語系はブリキ、カンテラ、ゴム、ジャガイモ。

スペイン語系はメリヤス、カナリヤ。

参考文献
新村出「南蛮文化要略」 歴史教育2-9、1954年
海老沢有道『南蛮文化、日欧文化交渉』 1958年

古拙の微笑


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ペプロスとキトンを着たコレー 大理石 アクロポリス美術館

    前530年頃から20~.30年間に少女像(コレー)が多数制作された。それはアテネの貴族文化の最盛期をもたらした僭主ペイシストラトスとその子たちの時代にあたる。キトンという薄い麻布でできた衣服の上に、腰をベルトで締めたドリス風のペプロスを着て、両足をそろえて直立し、正面を向いている。キトンはペプロスの襟の上および裾の下にわずかに見えている。ペプロスを着たコレーの例は少ない。左腕は肘を曲げて前方に出し、掌に捧げ物をのせていた。肘から先は欠損。右腕はわずかに肘を曲げてたらし、拳を大腿部の脇へ当てている。頭髪のウェーブは入念につくられる。頭髪、唇、瞳、瞳孔、眉、まつげの彩色が保存されている。着衣と姿勢は古風であり、さらに個々の特徴から前550年頃に「アクロポリスの騎士」(アテネとパリ)の彫刻家の作と考えられる。

   少女の表情については、全身の様式化にもかかわらず、生き生きとしたアルカイック様式で見る者をとらえて離さない。いわゆる「古式の微笑(アルカイック・スマイル)」の表現は、実際に笑っているのではなくて、顔面の表情に生命と動きをあたえるため、当時の彫刻家たちが考え出した方法だった。若い男(クーロス)が常に裸体であり、アポロンの神性の一部であるのに対して、若い女(コレー)は着衣で、神殿や神域に立つ奉納像である。

   3世紀アフガニスタンのハッダの仏頭や広隆寺の弥勒菩薩半跏像にも「古式の微笑」がある。ギリシアから発生した技法がガンダーラ、六朝美術、そして7世紀の飛鳥時代の日本の仏像にまで影響を及ぼしたとする説はロマンに満ちているが、それを学術的に論証するのはなかなか難しい作業が伴うようである。

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  ハッダ 仏頭 3世紀 東京国立博物館

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  弥勒菩薩半跏像 7世紀後半

2015年3月27日 (金)

やさしい英語

Bookwithhand_1409253_inl  英語は毎日少しづつ・・・!

私が初めて英語を習った三省堂の教科書は、「アイ・ハヴ・ア・ブック」から始まっていたと思う。

I have a book.

実際の英会話でこのフレーズを使うことはまずない。

英語の中でも最もポピュラーな動詞である、haveは「持っている」という意味から広がった用法があるので、基本文例としては、妥当なのだろうか。

All Japanese have black hair.

日本人はみな黒髪です。

I have no idea.

見当がつかないよ。

I have lunch at one.

私は1時に昼食をとる。

I have a cold.

風邪を引きました。

I have been in Tokyo.

私はずっと東京に住んでいる。

Have a nice day!

良い一日を!

haveは「持つ、食べる、飲む」のほか「 住んでいる」「楽しむ」「風邪をひく」などたくさんの用法がある。

This coffee is light on sweetness.

このコーヒーは甘さが控えめです。

姓と名の区別が紛らわしい人名

   タモリは女優の余貴美子がゲストのとき、「余貴 美子(よき よしこ)」だと思っていたと発言している。「なだいなだ」など姓と名の区切りがややこしい人名がある。一般には「なだ・いなだ」とされている。ペンネームはスペイン語「nada y nada(何もなくて・何もしない)」の意。つまり「なだ・い・なだ」で姓名の区別はなく、全部が1つの名前である。江戸後期の国学者、塙保己一は著名なので間違う人はいないが、知らないと姓と名との区別が分からない。塙(はなわ)保己一(ほきいち)である。「漢語の語源ものがたり」の著者、諏訪原研は、「諏訪」さんではなく、「諏訪原」さん。児童文学作家の二反長半(にたんおさ・なかば)。安良城紅(あらしろ・べに)。女優の仲里依紗((なか・りいさ)未だに「仲里様」の宛名の郵便物がくるという。演歌歌手の「あさみちゆき」は「あさみ・ちゆき」である。

2015年3月26日 (木)

常識、非常識(ロムルス暦)

Roman_calendar_march_tn  超インテリクイズバトル、堀江貴文vs金田一秀穂が博学№1を競う最終問題。「古代ローマの暦。1月、2月にはなぜ名前がなかったのか?」正解はロムルス暦(紀元前753年頃成立)では、月は10しかなく、農作業をしない1月、2月の冬の期間は重要視されていないため名前がなかった」堀江が正解で2人同点優勝。金田一の「皇帝の予定がない」は不正解。ローマ皇帝が出現するのは、ずっと後の紀元前27年から。

   「坂本龍馬の写真に写っている台が果たしている大きな役割とは?」当時、撮影するには20秒くらい静止しなければならず、台に肘をかけて姿勢を安定させるため。

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 大阪や近江で仕入れた産物を持って江戸に行き、売った代金で仕入れをして京都や大阪で売るという商売を、「鋸(のこぎり)商い」という。

  虹が見えるのは決まった方角がある。太陽の反対側、つまり太陽を背にした時に見える。

    ロンドン大学が調査研究したところによると、ロンドンのタクシー運転手は普通の人より脳の海馬の神経細胞の数が多い。それはロンドンには約2万5000の道路があり、最短ルートを走るには集中力が求められるため海馬が発達するという。

  魚の図鑑は、どの本でも紹介する順番が一定している。「ヌタウナギ」「ヤツメウナギ」から始まって、「フグ」「マンボウ」で終わる。なぜか?それは魚類の進化とグループ化しているため。魚は、古生代のカンブリア紀に現れ、長い年月を経て、さまざまな形に進化した。

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 出題としては面白いネタや問題もあったが、タレントたちの正答率が意外と低く、「超インテリ」とか「博学」と呼ぶのは、看板に偽りありか。

100人の山田さん

 山田と言えば誰ですか?今いちばんの有名人はHay!Say!JUMPの山田涼介。歴史上の人物では山田長政、山田方谷、山田顕義、山田耕筰、山田わか。それとも山田太郎、笑点の座布団運び山田隆夫。文学では山田美妙、山田清三郎、山田風太郎。俳優では山田五十鈴、山田真二、山田吾一、山田孝之、山田優。宰相クラスの大物政治家はなく、大阪府知事の山田勇(横山ノック)が有名。山田康雄、キートン山田、山田花子。スポーツでは山田久志(野球)、ヤクルトの山田哲人(野球)、山田敬蔵(マラソン)。戦前の二枚目スター山田隆也(戦前は山田隆弥)。代表作は「髑髏の舞」(1923)。岡田嘉子とのロマンスが有名。「吉田山田」の金髪のほうが山田義孝。かぐや姫の山田パンダ。

古代ギリシア陶器の発展

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幾何学様式大アンフォラ(前750年頃) ディピュロン出土 アテネ国立美術館

    古代ギリシア美術の中心は、何といってもその素晴らしい陶器である。ギリシア陶器はそれぞれの時代と装飾様式によって、4つに分類されている。第1期は紀元前11世紀頃の原幾何学様式に続く紀元前9世紀から紀元前8世紀にかけてであり、アテネを中心に著しい発展をみた。アテネのディピュロン門付近から出土するので「ディピュロン様式」と名づけられた墓地装飾用の壺は、その表面を飾る雷文、ジグザグ文、菱形文、波状文、網目文などパターンが、直角や直線から成り立つ構築的な性格を備え、幾何学的な力強さを示している。この時代の美術の特徴を幾何学様式とよんでいる。アンフォラ(amphora)とは、2つの把手がついた壺の総称。通常頸部と腹部を結ぶ垂直の把手を2つもち、頸部と腹部のつなぎ目が鋭角をなすか連続的なカーブを描くかによって頸部アンフォラおよび腹部アンフォラに二大別される。オリーブ油、ぶどう酒、時には穀物の貯蔵、骨壷、棺桶としても用いられた大型の壺がある。また特殊な形としてノラ風アンフォラ(前5世紀に愛用された特に細身の頸部アンフォラ)、パンアテナイア・アンフォラ(パンアテナイア祭の競技の賞品用で、注口と脚が極端に小さい)などがある。Dipylon Anphora

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第2期は紀元前8世紀から紀元前7世紀におけるオリエント様式の時代で、この期は有翼獣や植物をモチーフとしたオリエント陶器の影響を強く受けた。これらの窯業の中心はコリントおよびエーゲ海域で、別名「コリント式陶器」と呼ばれている。

第3期は紀元前6世紀初頭から末に至るアッティカ黒絵式陶器の誕生で、ここに太古の神話伝説をモチーフとした人物が装飾の主役となった。器の表面を褐色地で埋め図象を黒くシルエット風に描き、その細部を鋭い尖筆で形どる黒絵式の技法は、すでにコリント式陶器に見られるが、図象の表現に物語性を導入し、ときには図象の人物の内的感情を表わしている。「ネッソス画家のアンフォラム」(前600ー前590年)はネッソスを殺すヘラクレスの様が描かれている。

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 ネッソス画家のアムフォラム、ネッソスを殺すヘラクレス(アテネ美術館)

第4期は紀元前6世紀末の赤絵式の発明以後で、これはアテネのアンドキデスの画家によって紀元前530年に考案されたとされている。先の黒絵式とは逆に図像を黒い背景から浮かべーび上がらせ、細部を筆により濃淡をもって表わすことにより、人間感情を自由に表現することが可能となり、またその主題も単に神話伝説に限らず、日常生活の一こまなど現実性を加えることによって著しく多様となった。その後エウフロニオスやエウテュミデースらの陶画家が出るに及んで、紀元前5世紀中頃より赤絵式陶器は黄金時代を迎え、これらはイタリア半島や黒海沿岸にまで多量に輸出された。

高野山略史

P1000888   高野山は、816年、空海によって開かれた。2世真然の時代に、ようやく諸堂塔が完成した。しかし、916年の無空の三十帖冊子事件、正暦の大火(994年)により諸堂塔が燃え、衰退期を迎える。11世紀に入ってから、祈親上人定誉の努力によって復興する。1023年、藤原道長が参詣し、高野詣がふえる。鎌倉時代には、天皇・貴族から武士が高野詣の中心となっていく。1581年、織田信長が大軍で高野山を攻めるも、本能寺の変により、高野山は難を逃れた。江戸時代以降の高野山は徳川幕府の援助をうけると共に、諸大名の菩提所として繁栄した。明治になり、神仏分離令、女人禁制解除と高野山にも近代化の波がやってきた。近年、世界遺産登録などにより、海外からの外国人観光客が急増している。

宮本武蔵駅

Image1414296911g8n4k  岡山県美作市今岡の智頭急行智頭線に「宮本武蔵駅」(平成6年12月開業)という無人駅がある。駅名は、付近に武蔵の生誕地伝承があることから命名された。

   ご存じのように、武蔵の出生の場所については3つが知られている。兵庫県の高砂市と太子町(以上が播磨説)、それに岡山県の美作市大原(作州説)である。「五輪書」で武蔵は、「生国は播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信・・・・」とある。ところが新免家は播州になく、まざれもなく作州に住んだ一族である。なぜ武蔵が生国を播州と記したのか。それは播州のほうが通りがよかったからと考えれている。現在では、岡山県美作で生まれたとする通説の方が広く知られているようである。

地球岬

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  北海道室蘭市母恋の首部を形成する絵鞆半島の最南部に突出する「地球岬(チキウ岬)」。この地名で呼ばれるようになったのは昭和60年頃から。古い地図帳では「トッカリショ岬」とある。トッカリショの語源はアイヌ語「トカル・イショ」(アザラシの岩)で、かつて冬に室蘭近海をアザラシがこの付近に群泳していたそうだ。いまは先端の岬は地球岬が知られて、東にある海抜100mの断崖絶壁が13km続く浜をトッカリショとさすそうである。

生ゴミのかたまり

T02080600_0208060011054087923   「パプアニューギニア」と発音すると、なぜか「パパは牛乳屋」と聞える、どことなく似ていると思いませんか。これを音韻連鎖というそうです。ある課長が女子社員に「鼻がかみたい」といってティッシュを求めたところ、急に恥ずかしそうな顔をして、ブラウスのボタンをはずし脱ぎ始めた。どうしたのかとたずねたら、「だって、わたしの裸が見たい、とおっしゃったでしょ」という。言葉の聞き違いにご用心。

   「札幌、稚内」と「さっぱりわからない」、「水質汚濁」と「スィーツおたく」、「府中原産トマト」と「宇宙戦艦ヤマト」、 「汚職事件」と「お食事券」、「おまんた(新潟で「あなた達」という意味)と「おまんこ」、「肩透かし」と「横須賀市」、「中臣鎌足」と「生ゴミのかたまり」。(9月16日)

ナポレオンが生まれたコルス島

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 アジャクシオにあるナポレオン生家

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  コルシカ島         ナポレオンの母の寝室

  地中海の真ん中に浮かぶコルシカ島は、ナポレオンの生まれた島として知られる。中世のコルシカ島はイタリアの都市国家ジェノヴァの支配下にあった。ナポレオンはこの島のアジャクシオで1769年8月15日に生まれた。ナポレオンの誕生日が8月15日ということは、彼はつくづく戦争と因縁のある歴史上の人物だということであろう。彼が生れる前にコルシカ独立戦争があり、ジェノヴァはフランスと手を結んで独立軍を鎮圧しようとした。ナポレオンの父カルロは独立闘争の指導者パオリの副官であったが、フランス側に転向し、その見返りとしてフランス貴族と同じ権利を得た。フランス本土への足がかりを得た父はナポレオンと兄ジュゼッペをフランスへ送り教育を受けさせた。いまでもナポレオンの故郷コルシカではフランス側に寝返った父の子として、ナポレオンの人気はないという。それでもコルシカ島はナポレオン観光でもっている。ナポレオンの生家には世界中から多くの観光客が訪れている。コルシカはフランスのいくつかの地域のなかで非常に強い個性を持った地域の1つである。コルシカCorsicaはイタリア語読みなので、現代はフランス領なので、フランス名で「コルス」と呼んでいる。(Napoleon,Corsica,Corsu,Ajaccio)

ふるさと福島

Photo_4    蒲生氏郷は1590年、奥州の目付役として会津黒川に移封、92万石を領した。このとき杉目(杉妻)を福島と改めた。1643年、出羽山形より保科正之が入封し、会津23万石の藩祖となった。幕末に会津藩主松平容保は京都守護職に任命されたが、再三固辞したほどで、自身で望んだものではなかった。会津は王政復古により朝敵としてみなされ多くの悲劇が生れた。戊辰戦争後、斗南に移封され、会津人は塗炭の苦しみを味わう。その中からも、教育の近代化に貢献した山川健次郎、浩、捨松の三兄妹がいる。会津藩士の山本覚馬(画像、1828-1892)は京都の近代化に尽くした。覚馬の妹、新島八重子(1845-1932)は新島襄の妻である。社会福祉活動の先駆、瓜生岩(1829-1897)、『小公子』の翻訳者、若松賤子(18864-1896)がいる。キリスト教徒で日露戦争時、徴兵拒否で投獄された矢部喜好(1884-1935)は耶麻郡木幡村(現・喜多方市)の出身。スポーツでは江川卓が福島県いわき市。

2015年3月25日 (水)

岡本の手紙

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   若い頃、市立図書館で調査相談員だった頃の話である。市民から、夏目漱石の「峠の茶屋」という作品を読みたいという依頼があった。だが漱石全集を片っ端から探しても「峠の茶屋」という題名の作品が見つからない。よく話を聞くと、学生の頃、教科書に載っていたという。つまり「草枕」の有名な一節、「おい、と声をかけたが返事がない」の峠が舞台のシーンである。このように、かつての国語の教科書は明治文学の一章を抜粋して、相応しいタイトルを新たに付けて掲載していたこと、ときおりあった。有名な徳富蘆花「相模灘の落日」は「自然と人生」の中の「自然に対する五分時」という文の一章である。

次の国木田独歩の「岡本の手紙」も教科書や参考書でよく取り上げられていた。原典は「牛肉と馬鈴薯」である。

  この宇宙ほど不思議なるはあらず。はてしなき時間と、はてしなき空間、凡百の運動、凡百の法則、生死、而して小さき星の一つなるこの地球に於ける人類、其の歴史、げにこのわれの生命ほど不思議なるはなかるべし。これ誰も知る処なり。而して千百億人中、殆ど一人なりともこの不思議を痛感する能わざるなり。友人の死したる時など、独り蒼天の星を仰ぎたる時など、時には驚異の念に打たるる事あるは、人々の経験する処なり。されどこはしばしの感情にして永続せず。わが願は、絶えずこの強き深き感情のうちにあらんことなり。

 

  主人公の岡本誠夫の手記という形であるが、詩人独歩の哲学がはっきりと表現されている。宇宙の神秘はだれでも感ずることであるが、独歩のように直截的に文学として記した文章は貴重である。

琴似の屯田兵

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    現在、札幌市の琴似(ことに)はオフィスビルが立ち並ぶ商業地区であるが、明治初期は最初に開拓されたところである。屯田兵が入植する明治8年以前にも、すでにこの地方には移住者がいたが少数である。明治6年、琴似村が誕生したときは、戸数58戸、人口228名であった。明治7年に「屯田兵例規」が制定され、翌年から入植すると、戸数198戸、人口965名に急増した。その多くは旧会津藩士はじめ奥羽諸藩の下級士族からなり、彼らは六畳、四畳半、流し台のある板の間、12畳大の土間のついた一戸建ての兵屋をあたえられ、糧秣を保障されて、軍隊式の生活をしながら荒野の開拓に挑んでいった。つづいて発寒、藻岩にも屯田兵の兵村がひらかれ、札幌を中心にその数が増えていった。

2015年3月24日 (火)

アルルのはね橋

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ラングロワ橋(アルルのはね橋)   1888年3月
  オッテルロー クレラー・ミュラー美術館蔵

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ラングロワ橋(アルルのはね橋)  1888年5月
ケルン ヴァルラフ・リヒャルツ美術館蔵

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    ゴッホがアルルで見いだしたもっとも有名なモチーフが、ラングロワのはね橋である。アルルからブークに至る運河にかかるこの橋は、オランダのはね橋への郷愁を彼のなかによび起こしたにちがいない。そしておそらくそれ以上に、青い空と水、単純なはね橋の造型は、浮世絵風の明確さ、単純さを求めるゴッホにとって好個の題材となったにちがいない。「この手紙の最初に、ちょっとしたデッサンを書き送りましたが、ぼくはその習作をなんとかものにしようとして夢中です。黄色い大きな太陽に照らすし出されたはね橋の奇妙なシルエット上に、恋人たちを乗せた馬車が町ー向かっている図です。ぼくは同じはね橋で洗濯女たちのいる習作もこころみています」(エミール・ベルナールあての手紙)アルル時代のゴッホの古典的な成熟を示すもっともよい作例の一つだろう。

ポーラ美術館が所蔵する「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」(1888年)も構図がよく似ているが、「はね橋」のような趣向に欠ける。

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 「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」

    この橋の連作の一群は、ゴッホが理想のひとつとした浮世絵の色彩や輪郭線以上に、明晰で硬質の定着した世界を示している。ゴッホは、わずか10年という短かい年月のあいだに、他の巨匠たちが生涯をかけてたどる成熟の軌跡を圧縮しているが、アルルの初期のこれらの作品は、ゴッホにおける古典的な成熟、つかの間の安定をもっともよく示している。

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アキンボー

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姦通罪で流刑されたユリア

   中国には「傾国の美女」という言葉がある。国政の妨げとなる美女のこと。夏の桀王の后、末喜(まっき)。殷の紂王の后、妲己(だっき)。周の褒似(ほうじ)。唐の楊貴妃など。

00078868_000 西洋をみれば、イタリアのルクレチア・ボルジア、フランスのカトリーヌ・ド・メディチ、マリー・アントワネットと有名な美女がいる。しかし注目は古代ローマ帝国であろう。暴君ネロの母親アグリッピナ、妻のポッパエア。アグリッピナはアウグストゥスの曽孫であるが、アウグストゥスの娘ユリアも淫婦である。カエサルの娘の名前もユリアで紛らわしいが、フルネームは、Julia Caesaris Major(紀元前39-紀元14)。ユリアは14歳で従兄弟のマルケッルスと結婚するが2年後に寡婦となる。数年後、アグリッパと結婚し、5人の子供を出産する。ここまでは順調であったが、中年になり他の男と密通を重ねて発覚する。3度目の結婚相手ティベリウスの時も浮気をして、アウグストゥスの怒りをかい、離婚を命ぜられ、島へ追放される。ローマ市民からは同情の声が寄せられ、5年後に、イタリア本土の田舎に移されるが、寂しく没する。初代皇帝の娘という高貴な血統に生まれながら、生来の淫蕩癖のため悲劇的な人生を送った。

退屈恐怖症

5c45f2d4463b53b0190944fdd767fd39    英デイリーメールによると、退屈を常に感じる人は、心臓病や脳卒中による死亡率が、そうでない人より2.5倍も高いという。退職後の人生、やることがなくて暇をもてあます。終日テレビを見続け、飽きると長々しい欠伸をし、無聊に苦しむ。退屈恐怖症という言葉があるそうだ。ネットで調べても解説は見つからない。講談社「日録20世紀1990年」の11月29日に「若い女性に退屈恐怖症広がる、と新聞に」とだけある。新聞記事索引を調べればわかるかもしれない。新語でもあまり流行らなかったようだ。だがバートランド・ラッセルがすでに60年も前に「Fear of  boredom(退屈を恐れる心)」と題して、現代人の堪え難い特殊な退屈を分析している。

石狩挽歌、北海道ニシン漁の盛衰

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    「群来(くき)」とは産卵のため沿岸へ押しよせる魚群をいう。近世後期から近代の北海道はニシン漁を中心とする漁業で栄えた。群来は毎年4月初めから5月20日までで、ニシン漁の期間である。写真は道南の寿都町の様子で、手前はニシンを運んできた汲船、沖合いは粒買船が見える。

   獲れたニシンは「もっこ背負い」という女や子供たちによって運ばれていく。明治30年から明治36年までがニシン漁の最盛期で、昭和期に入って減少していき、昭和32年を最後として、ニシンは北海道の沿岸から完全に姿を消し、「幻の魚」となってしまった。(参考:D・ハウエル著「 ニシンの近代史」 岩田書院)

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来止臥

Kitousi   イケメン演歌歌手、山内惠介が歌う「風蓮湖」。「♪釧路、厚岸(あつけし)、霧多布(きりたっぷ)人もまばらなバスに乗る」、道東と言えば、阿寒湖、摩周湖などが有名だが、風蓮湖はあまり観光地化されていなくて、風情が感じられる。北海道には難読地名が多いが、「来止臥(きとうし)」も読みにくい地名である。

歴史ヒーロー楠木正成

Kusunoki_masashige     楠木正成(1294-1336)は43歳のとき、建武3年5月25日、兵庫・湊川で戦死したといわれるが、その年齢については、確かな証拠があるわけではなく、その生地も不詳である。楠木正成が史料にその名を現すのは元弘元年6月から8月ごろである。臨川寺領和泉国若松庄に、「悪党楠兵衛尉」として乱入押妨をしたという記事が天竜寺文書に見えるのが最初で、それ以前の行動はわからない。楠木正成といえば忠臣の代表として戦前は国民に親しまれた人物である。楠公ゆかりの場所は関西一円に多数存在するが、阪神間は神戸の湊川神社をはじめ、芦屋・西宮一帯にもゆかりの地はある。元弘元年、吉田定房の密告により、後醍醐天皇(1288-1339)は笠置山に逃れたが、幕府軍に攻められて陥落、後醍醐は捕らえられて隠岐に流された。しかし、足利尊氏や新田義貞らの反幕の動きが高まると、元弘3年隠岐を脱出した。帰洛をめざす後醍醐は山陽道をのぼって摂津の芦屋を過ぎて、「川東の手前までのところで」(太平記)楠木正成の出迎えをうけた。天皇はじきじきに「よくぞ参った。その方の忠誠と励ましこそ心の支えであった。回天の事業をなしたのは、ひとえにその方の忠誠にもとづくものだ」と声をかけられた。地に伏して感激する正成。この後醍醐天皇・楠木正成、面会の場所はどこであろうか。阪神香枦園駅の西方と考えられる。駅の西端を夙川が流れ、その東側は旧字名が川東で、今も川東町がある。阪神高速芦屋料金所(芦屋市大東町)あたりであろうか。

常識、非常識(魯迅の顔)

  産経新聞「トルコ成長への玄関口」(2012年7月28日付)の記事の中で「首都イスタンブール」という大きな誤記があった。もちろんトルコの首都はアンカラである。世界の主な国の首都は義務教育レベルの常識。常識の範囲をあれこれ考える。ウメ、ボタン、サクラなど花の名前。ツバメ、スズメなど鳥の名前。最近ではパソコンやスマホの使い方。お焼香など冠婚葬祭や市役所への転入・転出など諸届。

   現代を生きる我々にとって何が常識で、何が非常識であるか区別するのは難しい。アメリカ人からみると、ある英会話のできる日本人が「わきの下」を表現できないのを不思議がっていた。(わきの下 armpit)。身近な事柄や日常よく使われる言葉を徹底的に身つけることだろう。

  昨夜、クイズ番組「Qさま!学力王」を見る。問題の傾向は中学生程度の学習、国語、社会、理科、数学、からの内容が多い。ところが文化人、教養人といわれる学者・タレントがなかなか答えられない。視聴者はわかるのにどうして先生が知らないの?と思うことが多々あった。あくまでお遊びなのであまりこだわらないか…。一例では、夏目漱石、スターリン、魯迅といった鬚の肖像写真を並べて誰かを問うもの。あの言語学者の金田一秀穂は中国近代文学うみの親として尊敬されている魯迅を答えられなかった。父は金田一春彦、祖父は金田一京助という学者の家系である。現代の教養人とはその程度なのか。もちろん金田一さんの場合は明らかに「ど忘れ」だが。

   ここで魯迅のことは、現在、中学校の教科書で取り扱っているのか調べてみたい。残念ながらは手元に新しい教科書がない。1976年頃の学校図書株式会社の「中学校社会 歴史」には次のように解説している。「魯迅は、日露戦争のころ日本で医学を学んでいたが、これをすてて帰国した。そして、民衆の立場に立った文学作品を発表し、中国の青年に大きな影響をあたえた。「阿Q正伝」「藤野先生」をはじめ、著作が多い。」

歴史のヒーロー土方歳三

Photo   天保6年5月5日、武州多摩郡石田村の土方義諄の四男として生れた。歳三が生まれた時、父はすでにこの世の人ではなかった。母も6歳の時に失い、14歳年上の次兄喜六に育てられた。文久3年の上洛浪士組に参じた歳三は、近藤、沖田とともに京に残留して新選組発足の礎となった。その後、芹沢鴨や新見錦の両局長を粛清して、近藤一門の結束を固め、新選組の副長として、その辣腕ぶりを発揮した。近藤が高台寺の残党に狙撃された後、鳥羽・伏見の戦いを指揮した。甲州勝沼、小山、宇都宮と官軍に抗戦するも江戸城無血開城となる。8月、会津戦争が開始され、母成峠の戦いに敗れた後、会津から後退し、さらに仙台より奥羽の脱藩兵と箱館に逃れ、榎本武揚の指揮下に入り、甲鉄艦奪取の宮古湾海戦に失敗。明治2年5月箱館五稜郭で抗戦中、流弾に当たって戦死した。

広辞苑の「ハウスマヌカン」

T02200293_0336044811174747698   最近、少し昔の歌、やや「夜霧のハウスマヌカン」を聴いた。「♪お金もないのに見栄をはる、また昼はシャケ弁当~」ふざけた歌詞である。

   「ハウスマヌカン」とは自社製品を着用して販売に当たるブティックの女性店員をいう。1983年頃、最先端の職種であったが、いまでは完全に死語である。ところが広辞苑第4版(1991年)から最新の6版(2008年)まで所載している。2008年の時点ですでに死語化の徴候がみられていたが広辞苑は一端載ると削除しない方針がある。そのため新語、流行語の新規採録にはきわめて慎重な広辞苑編集部だが、この一過性の「ハウスマヌカン」という怪しげな造語にだまされたようだ。新語にあたっては、まだ時期尚早と見送るケースと即採用するケースがあるが、そのセンスの悪さが目立つ。頭の固い学者集団だからであろうか。

2015年3月23日 (月)

岩倉使節団の副使、山口尚芳

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   クイズ番組「学力王№1」やくみつるが優勝。漢字、世界の通貨、動植物などの分野が強い。歴史問題で岩倉遣欧使節の5人の名前を問う出題。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文までは分かるが、直立の姿勢で帽子を抱いている人物はだれ?山口尚芳という。

   武雄出身の佐賀藩士で、長崎の致遠館で英語を学び、佐賀藩で翻訳兼練兵掛となる。明治元年に明治政府に出仕し、英語力を活かして外国事務局御用掛になり、明治4年から6年まで岩倉使節団で副使として随行した。その後、外交官のほか、元老院議員、会計検査院、貴族院議員等として活躍したが、明治27年、54歳で没した。名の「尚芳」はマスカと読むが、最近では普通にナオヨシと読まれることもある。

   このほか使節団には、長崎藩主・大村純熙、長岡治三郎(長岡半太郎の父)、朝永甚次郎(朝永振一郎の祖父)らも留学参加している。

札幌時計台

   明治11年に建てられたこの時計台は、正式名称「旧札幌農学校演武場」。当時は、現在のような時計塔ではなく小さな鐘楼が設置されていたが、黒田清隆開拓長官が塔時計の設置を発案したのを受け、ウィリアム・ホイラー教頭が塔時計をアメリカに発注した。この塔時計は思いのほか大がかりで、かなりの大改修を余儀なくされた。時計の設置工事は明治14年の5月頃に着手され、同年6、7月頃に完成した。明治34年、札幌農学校は現在の北海道大学の位置へ移転されることになったが、演武場はその場に残ることになった。

2015年3月22日 (日)

歴史のヒーロー沖田総司

Photo_2   新選組の天才剣士といわれる沖田総司(1842-1868)は、白河藩士の家の長男として生まれた。家庭の事情で、少年の頃から試衛館に預けられ、免許皆伝、塾頭を努めるほどの腕前になった。剣は大へんな天才で、電光石火の三度突きという天然理心流の達人であった。池田屋斬り込みの時は一番働いたとさえいえた。

   背の高いやせた男で肩がぐんと上がり、頬骨が高く口は大きく、それでいてどこか愛嬌があった。ドラマ映画では、よく美男であったとされるが、特にそのような伝承はない。

   ドラマ新選組血風録第8回「長州の間者」では沖田総司の武士としての清冽な一面がみえる。浪人の深町新作(片山明彦)は桂小五郎(名和宏)の命で新選組に間者として入隊する。古高俊太郎の書類から深町が長州の間者であることを知った土方は、沖田に深町を斬ることを命ずる。

沖田「命令によって、長州の間者を働いていた君を討ち取る」

深町「知らん。古高俊太郎なんて、俺は知らん」

沖田「君も間者として新選組に入隊したぐらいの志士だ。武士らしくしたまえ」

   司馬遼太郎の原作は次のようにある。「新作は、主膳の最期をおそらく見とどけることはできなかったろう。主膳を斬ったとたん、どうしたことか、夏雲を見た。さらにのけぞり、鉾の尖端の余りが眼に入った。それらが大きくまわってやがて暗くなったとき、新作の死骸の横で沖田総司が、鉾を無邪気にながめながら丹念に刀をぬぐった」

   原作ではニヒルな沖田の一面が描かれている。屯所での沖田はいつも笑談をいっていて、天真爛漫であった。酒は飲んだようだが、女遊びなどはしなかった。しかし、そんな沖田にも恋があった。ある医者のもとで病気を診てもらっている時、行くと取次ぎに出てくる娘がしとやかで初々しく、顔を会わせると、沖田の方でも顔を赤らめた。娘の方でも沖田を好きになったらしい。沖田は、悩んだ末に近藤に打ち明けた。近藤はよくよく考えて「それは断念した方がよい」と首を横にふった。新選組隊士は九分通り命はないものと思わなければならぬこと、沖田は肺結核の病者であること。「とてもお前ではその娘の一生を幸福にしてやれない。ほんとうにその娘が好きならば、あきらめるべきだ」と、しみじみさとした。「わかりました」と沖田は近藤の前を退いた。これが沖田総司の短い生涯で唯一の恋だった。

歴史のヒーロー平手造酒

Photo   玉川勝太郎の浪曲 「利根の川風袂に入れて」で知られる平手造酒は大酒飲みで肺結核を患う孤高の剣士というイメージがある。講談だけでなく、映画や歌謡曲でしばしば登場した人物なので、彼を実在した人物と思っている人も多いことだろうが、架空の人物である。ただしモデルはいた。関東一の大親分といわれた笹川繁蔵の客分となった手習いの師匠の平田深喜(1809-1844)である。だが手習いの師匠では面白くも何ともないので、講釈師の宝井琴凌が平手造酒という人物を想像でつくり上げ、神田お玉が池の北辰一刀流千葉道場の高弟だったが、酒好きがわざわいして破門され、ヤクザの用心棒となり、喀血しながら何人も斬った、という話にしてしまったらしい。本物は剣ではなく筆の達人だったわけである。(参考文献:「雑学面白ことば」三省堂)

灯台(明治事物起源)

240276_19   江戸時代から、航海の安全のため岬や港に燈明台が設置されていたが、開国後、さらに光力の強い西洋式灯台が必要となっていた。明治元年11月1日、日本初の洋式灯台、観音崎灯台が三浦半島東端(横須賀市)に起工し、明治2年2月に完成、点灯を始めた。翌年には、品川灯台が初めて火がともされた。その強い光力は旧式の燈明台とは段違いで、近代的照光装置の威力を発揮した。

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   第一等六回転式折射玻璃(レンズ)フランス製

キャプテン・ジャーク

   「スタートレック」でミスター・スポックを演じたレナード・ニモイが83歳で永眠した。その死を大勢のファンが悼む中、同作品で長年共演したカーク船長役のウィリアム・シャトナーが葬儀を欠席したことでファンやメディアから非難がおきた。シャトナーは葬儀のあった日はフロリダでチャリティー・イベントがあり、葬儀が行なわれるロサンゼルスからは遠い。ある新聞にはシャトナーを「Captain Jerk」とからかっている。jerkとは、最低な、自分勝手な、無神経なというスラングで、カークをジャークと捩り、「最低野郎船長」の意味。葬儀は急にあるものだし、広い国土のアメリカは大変だね。

2015年3月21日 (土)

サクラの開花

3   本日は二十四節気のひとつ、春分。気温が日に日に高くなるころで、1年の中でも特に暖かさが増してくる時期です。鹿児島地方気象台では、花が5輪咲いているのを確認し、全国トップでサクラの開花を発表した。「サクラの開花日」とは、標本木で5~6輪以上の花が開いた状態になった最初の日のこと。

2015年3月20日 (金)

陽が当たらないからどいてくれ

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    アレクサンドロスはディオゲネスの評判を聞いて、コリントにいた老哲学者を訪ねた。学者は酒樽を住まいとし、物質的なものを求めず、無欲な生活をしていた。王は「ディオゲネスよ、望みを1つ言うがよい。かなえてやろう。費用はいくらかかっても構わぬ」と言うと、ディオゲネスは「ならば、ちょっとよけて陽が当たるようにしてくれ」と言った。居合わせた供の者たちは、学者の無礼に憤激してしきりに愚弄した。それをなだめて王は言った。「余が仮にアレクサンドロスでないならば、ディオゲネスになりたいところだ」

    この逸話は世界史の数あるエピソードのうちでも秀逸である。大王が33歳の若さで夭折したことを思うと、「陽が当たらないからどいてくれ」という言葉は、老哲学者の警告と取れないこともない。人生の大事なことを認識しなさい、物質的なもの、予測可能なものばかりを追わずに、心のなか、精神や魂に目を向けなさい、と言いたかったのかもしれない。参考;ヘルゲ・ヘッセ「その一言が歴史を変えた」(Diogenes)

篠田一士の「日本の近代小説」論

   文芸評論家の篠田一士の代表的著作は「日本の近代小説」(1973年)ではないだろうか。篠田はこの著書において有島武郎「或る女」を日本の近代小説の中で最高位としている。

「有島武郎の小説「或る女」を、私は日本の長篇小説のなかの中心的作品の一つと考えている。日本近代文学のなかで長篇小説もすでにかなりの数に上っているが、二葉亭四迷の「浮雲」から島崎藤村の「破戒」「家」、田山花袋の「田舎教師」も、夏目漱石の「道草」「明暗」などと数えて来ても、私は有島武郎の「或る女」がやはりそれらのすぐれた作品群のなかでも、一頭地を抜いて、しっかりとその姿をこの日本のなかに、示しているのを見るのである。

「ん」で始まる言葉

Photo   古代の日本語には「ん」という発音はなかったらしい。仏教伝来とともにサンスクリット語の「阿吽(あ・うん)」が入ってきた。しかし「ん」はそれほど普及しなかった。だが近年グローバル化とともに、「ん」から始まる言葉も散見するようになった。アフリカのスワヒリ語には「ん」から始まる言葉は多い。サッカー選手の「ンボマ」、マラソン選手の「ンデレバ」、政治家の「ンクルマ」など人名も当たり前に「ん」で始まる。ただ日本人には発音しにくいので、「エムボマ」「ヌレデバ」「エンクルマ」という。アフリカ以外の地域にも「ん」で始まる言葉はある。チベットの柄つきの太鼓は「ンガー」(画像)という。ただし単に「ガ」と表記することもある。イタリアの4大マフィアのひとつに「ンドランゲタ」がある。沖縄県宮古島の伝統芸能「ンナフカ祭り」など。

ンガー     チベットの太鼓

ンガウンデン カメルーンの都市

ンギグミ   ニジェールの都市

ングニ棒術 南アフリカのズーニー族(ングニ族)に伝わる棒術

ングラライ  インドネシアの独立戦争の英雄グスティ・ングラライ

ングル    ナイジェリアの都市

ンクルマ   ガーナの初代大統領クワメ・ンクルマ

ンゲマ    赤道ギニアの初代大統領フランシスコ・マシアン・ンゲマー

ンゴウンデレ カメルーンの都市

ンコ文字    マンデ語の文字

ンゴロンゴロ  タンザニアの国立公園

ンコンべ    トマトとカレーを煮込んだケニアの料理

ンジャメナ   チャドの首都

ンジャミ     沖縄の海の祭礼

ンデベレ人形 南アフリカのンデベレ族のビーズで作った民芸品

ンドゥール   セネガルの歌手、ユッスー・ンドゥール

ントモ・クン  マリ共和国に居住するバンバラ族が着用する仮面

ンドーラ    ザンビアの鉱山都市

ンドランゲタ  イタリアのマフィア

ンドンバ    カメルーンの郷土料理

ンナフカ祭り 沖縄県宮古島の伝統芸能 

ンブフル    沖縄県竹富島にある丘

ンム      沖縄の方言、さつまいも

戦後の流行「ルーズソックス」

Artc9812024    連続テレビ小説「おひさま」。真知子が父に「東京行きを許してくれなかったら、私、パーマネントします」と。パーマ嫌いの父は仕方なく許す、という設定。昭和14年、街に「パーマネントはやめましょう」の標語も登場し、電髪は華美で戦時下にふさわしくないとみられていた。戦後いっきにみんなパーマをしだした。モンペ姿からショート・スカートへ。髪は笠置シズ子や原節子、戦後の写真はみんなパーマだ。「美しくなりたい」と洋裁学校がはやった。昭和28年にはミス・ユニバースの伊東絹子の出現で「八頭身」という流行語が生まれた。昭和30年には落下傘スタイルのスカートの裾が大きく広がったスタイルが流行する。昭和36年にはシームレス・ストッキングが発売される。「♪ふりむかないで~」とザ・ピーナッツが歌う。そして昭和40年からミニ・スカートが大流行。

   時代はとんで平成8年から仙台の女子高生が膝うえ丈のスカートにふくらはぎまでのダブダブにはいた白いルーズソックスを防寒用に考案。数年後、ミニスカの流行とともにコギャルたちの間でルーズソックスが広がっていった。ルーズlooseとは「だぶだぶの」の意味の和製英語で、欧米ではほとんど通用しない。しかし靴下そのもののルーツは1982年にニューヨークのエリック・G・スミスが「ブーツ・ソックス」(E.G.スミス社製)として販売されたもので、彼は、日本の女子高生のためにそんな靴下を作ったわけではなかった。老若男女がリラックスしてるはける靴下として売り出したのだが、1992年、日本市場に進出すると、あっというまに女子高生が殺到し、他の若男や、老男・老女は、はけなくなってしまったのである。とくに長さ60㎝、90㎝のものが人気であった。だが2004年頃になると「ダサい」「古い」「時代遅れ」と、流行は花火のようにアッというまに消えてしまった。

2015年3月19日 (木)

炎の街

   ジョン・ウェイン主演「炎の街」(1945年)を見る。サンフランシスコの賭博場をエルドラドでモンタナから来た牧童デュークは集金を全部すってしまう。ギャンブラーとなって舞い戻り、町を牛耳るキャバレーのオーナーと張り合い、自分の店を開くが、その時、大地震がおこる。サンフランシスコでは実際に1906年に大地震があった。戦時中の映画だが、西部劇というより、歌やダンスがメイン。歌姫を演じるアン・ドヴォラック(1911-1979)は30年代ジェームズ・ギャグニーの暗黒映画の情婦役で有名だった女優。

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 Ann Dovarak

2015年3月18日 (水)

消えたハーモニカ

Georgebenjaminlukstheharmonicaplaye  最近、学校であまり見かけなくなったもの。鉛筆を削るボンナイフ。校庭を走るブルマ姿の女子。理科室のアルコール・ランプ。図書室の代本板。ベルマークの回収箱。彫刻刀とバレン。校庭裏の百葉箱と焼却炉。そしてハーモニカを吹く子どもの姿も見なくなった。むかしは小学校の音楽教材だったが、いまでは鍵盤ハーモニカに取って代わられたからだろう。ハーモニカの発明者は諸説あるが、ドイツのクリスチャン・フリードリッヒ・ルードヴィッヒ・ブッシュマン(1805-1864)が有力である。彼はアコーディオンの発明者としても知られている。1821年、16歳のとき、オルガンの調律用に鉄製リードを付けた笛を作ったのが始まりと考えられる。

    画像はアメリカのイラストレーター、ジョージ・ベンジャミン・ラックスの「ハーモニカを演奏する少年」(Christian Friedrich Ludwing Buschman,Gerge Benjamin Luks,harmonica)

2015年3月17日 (火)

スポーツと怪我

Sportinjuriesaccidentalinjuries250x   大相撲の遠藤が左膝負傷、安美錦が右膝負傷で休場。ダルビッシュが右ひじの手術。巨人の大田泰示が肉離れ。スポーツに怪我は、つきもの。スポーツしていれば、捻挫とか、肉離れとか必ずするものです。「突き指」、英語で何というのだろう?

injuries       傷病

bone fracture  骨折

pulled muscle   肉離れ

bruise            打撲傷

sprain            捻挫

dislocation      脱臼

sprained finger  突き指

「回力球」って何?

Spq0811102302014p1   スポーツ競技名を漢字表記すると、バスケットボールは「籠球(ろうきゅう)」ですが、バドミントンは「羽球(うきゅう)」(毛球もうきゅうとも)と書きます。スポーツ競技漢字表記は以下のとおり。

ドッジボール 避球(ひきゅう)
ボーリング  柱技(ちゅうぎ)または十柱球
ラグビー     闘球(とうきゅう)
ゴルフ     打球(だきゅう)、孔球(こうきゅう)
ホッケー    杖球(じょうきゅう)
ゲートボール 門球(もんきゅう)
アメリカンフットボール 鎧球(がいきゅう)
ハンドボール  送球(そうきゅう)
ビリヤード    撞球(どうきゅう)
アイスホッケー 氷球(ひょうきゅう)
ハイアライ    回力球

古池や蛙飛びこむ水の音

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山吹や蛙飛びこむ水の音

    芭蕉の門人、各務支考の『葛の松原』によると、貞享3年の晩春のころ深川の芭蕉庵に、芭蕉と其角が対座している折から、蛙の水に落ちる音を聞いて、芭蕉が「蛙飛びこむ水の音」という七五だけを得て、上五文字を案じていると、其角が傍から「山吹や」とつけた。しかし芭蕉はそれをしりぞけて、「古池や」と定めたのであるという。一説では「古池や蛙飛ンだる水の音」おそらくは山吹は実景で、古池のあたりに咲いていたのであろう。それに山吹と蛙は、和歌以来の詩的配合であり、かつまた都会人ではなやかなことの好きな其角の趣味にかなったのであろうが、しかしそれでは印象的な山吹の明るさが一句の中心になって、一通りの写生句になってしまうのである。この句の中心は、音でなければならぬ。静寂の領する芭蕉庵の晩春の昼下り、芭蕉と其角の間にかわされた風雅の私語も、その静寂を乱すにいたらない。折から思いがけず、庭前の古池に飛びこんだ蛙の水音が、芭蕉の心に波紋を描いた。静から動へ、動からふたたびまた静へかえるしばしの乱れが、いよいよ幽玄閑寂への思慕をかき立てるのである。

    「古池や」の句の季語は「蛙」。かえるの鳴き声が聞こえるのは梅雨時なので「夏」をイメージするが、旧暦なので春となる。

ため口

    ドラマなどを見ていると、「ため口をいうな」という言葉をしばしば耳にする。「ため口」とは比較的新しい言葉で戦後のようである。「ため」とは、博打用語で「ぞろ目(同目)}をさした語。「どうめ→とうめ→ため」と変遷し、タメ口となる。1960年代から、不良少年の隠語として「五分五分」の意味で使われるようになり、「対等」や「同じ」という意味も表わすようになった。そのため、敬語を用いず同じ年の相手に話すような口のきき方を「タメ口」と言うようになった。韓国社会では日本語以上に人間関係によって言葉遣いが異なるので、敬語で話すか、タメ口(パンマル)で話すか、気をつけなければならない。

2015年3月16日 (月)

暴君と寵妃

Photo_2  「殷鑒(いんかん)遠からず」 殷の王の鑑とすべき先例は、さほど遠くにもとめずとも、夏の后桀の時のことなるをお思い起こしなされましょう、の意味。転じて、他人の失敗を自分の戒めとすべきこと。

    夏・殷・周の三代の王朝の興亡は繰り返しの歴史であった。極悪非道の残忍な君主であっても後世になってその評価が大きく変わることがある。その典型は秦の始皇帝だろう。とくに1974年の兵馬俑坑の発見以来、中国では最高の偉人としての評価である。その考古学上の遺物が豊富なことや歴史研究も進んでいるが、暴君につきものの愛人や寵妃の話はほとんど明らかでない。阿房宮という壮麗な宮殿もあり、後宮三千人も誇張ではないと思われるが、皇妃の名前すら明らかでない。夏の桀には妹嬉(末喜、妹喜ともいう)、殷の紂王には姐妃、周の幽王には褒似、晋の献公には驪妃がいた。ところが始皇帝は母である荘襄王の妃ですら、名前が明らかでない。もとは邯鄲の芸者。宰相呂不韋の愛妾で史記には始皇帝の父は呂不韋だとしている。このような自分の出生の秘密が残忍性を生んだと考えられている。

ワシントンと桜の木

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  ワシントンといえば桜の木の逸話で知られる。ジョージは、叔父さんから斧を借りると、ためし切lりがしたくなった。そして庭にある一本の桜の木が目についた。「よし、あれを切ってみよう」と思いたった。父のオーガスチンが帰ってきて驚いた。「だれだ、あの桜の枝を切ったのは」そしてジョージに訊ねた。「お前だね。桜の枝を切ったのは」「はい、ぼくが切りました」とジョージは正直にいいました。「ジョージ、お前のしたことはたしかに悪い。切った木はもとにもどらないからね。でもねぇ、わたしはお前が正直にわびてくれたので、とてもうれしいよ。よし、許してあげよう」ジョージは「ほんとうに、ぼくが悪かったと思います。これからは気をつけます」と心から反省した。あまりにも有名なこの逸話は、後世の伝記作家パーソン・ウィームズ(メーソン・ロック・ウィームズ)が子ども向けの本「The Life of Washington」(1800年)で書いた創作といわれている。

2015年3月15日 (日)

ゴリラ

Thomassavage   ゴリラは凶暴で密林の奥深くいるため19世紀までその正体がよくわからなかった。1836年、アメリカの宣教師トーマス・サページ(1804-1886)が西アフリカで類人猿の骨を発見し、「ゴリラ」(Trolodytes gorilla 穴居人)と命名した。これは紀元前480年頃にカルタゴの航海者ハンノが西アフリカで「ゴリライ」と呼ばれる毛深い部族を発見したという文献にもとづいて名付けたものである。Gorilla、Thomas Savage

エルチェ婦人像

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    スペインのマドリードにある国立考古学博物館の名品の1つで、古代イベリア彫刻のなかでも、その完成された造形性、精緻な装飾モチーフの表現などによって、最高傑作といわれている。うすい瞼や口唇、端正で冷ややかな相貌には明らかにギリシア厳格様式の影響をみることができる。しかし、その簡潔な相貌に対して、突起文装飾のあるディアデーマ、車輪のように大きく飛び出た頭側両脇の櫛飾り、重々しく豪奢な胸飾りはギリシア的というより、フェニキア系の装飾であり、厳格様式の顔貌とはっきりとした対照をなしている。制作年代に関しては諸説あるが、紀元前5世紀から前4世紀と推定される。また婦人像が女神の像なのか、女祭司、それとも名門の貴婦人なのか、未だ解明されていない。

安田作兵衛の槍

   安田作兵衛国継は、本能寺の変で信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森蘭丸に槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取る功を挙げた。古川九兵衛、箕浦新左衛門とともに明智三羽烏の1人に数えられた。作兵衛は山崎の戦いの後、浪人となり、森長可に500石にてかかえられたが、長可の死後は九州へ落ち延び、唐津藩・寺沢広高に仕えこの地で生涯を終えた。唐津の浄泰寺には安田作兵衛の墓がある。唐津城には作兵衛が本能寺で使用したとされる槍が展示されている。

明智光秀の家臣団の主な武将を記す。明智秀満、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤利光、溝尾少兵衛、松田太郎左衛門、柴田源左衛門、明智孫十郎、松生三右衛門、加成清次、山崎長門守、林亀之助、開田太郎八、進士作左衛門、村越三十郎、堀尾与次郎、山本仙入、三宅孫十郎、荒木氏綱、小畠左馬之助、片岡藤五郎、川勝継氏、川勝秀氏、城戸十乗坊、内藤備前守、中川駿河守、並河掃部、延水宗清、松田摂津守、矢野弥三郎、渡辺太郎左衛門、四天王政孝、小野木重次。

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2015年3月14日 (土)

美術(明治事物起源)

   明治5年2月に日本政府はウィーン万国博覧会の事務局が東京に設けられたとき、その出品勧誘の官令のなかに「美術」という新熟語があり、その註に「音楽、画学、像を作るの術、詩学等を美術と云」とある。これはドイツ語クンストゲヴェルべ(美術工芸)あるいは英語ファイン・アートという言葉を、官僚の大鳥圭介がほんのまにあわせに思いついての訳語としてだしたものであったが、のち明治10年8月の第一内国勧業博覧会のさいに「美術館」をもうけて美術という言葉が、公に使われるようになった。Kunstgewerbe、fine arts

ブラック・リスト

    要注意人物や危険人物を記載した一覧表のことを英語でブラック・リストという。むかしイギリスでは常習的な泥酔者には酒を売ることを禁じ、その名簿をつくってこれをブラック・リストといったことに始まる。この言葉はしばらく死語になっていたが、第一次世界大戦のとき、イギリス政府は自国の商人にたいし、中立国の商人のうちで、ドイツと通商するものとの取り引きをおこなうことを禁じ、それらの中立国の注意人物の名簿を発表したが、これを民間ではブラック・リストと呼ぶようになった。black list

外国人名には新鮮なひびきがある

Halilhodzicjugadordelnantesfrancs19  アギーレの後任にサッカー日本代表監督に就任したヴァヒド・ハリルホピッチ。名のほうは、「バヒド」「ヴァイッド」とか表記の揺れがある。ボスニア・ヘルツェゴビナの生まれで、日本人にはなじみのない名前であるが相当な名選手だそうである。ハリルホジッチというのは名前が長いのでハリルと略して呼ぶ人もいる。Vahild Halilhodzic

中世西洋哲学

Uni_deutschland_1400 中世ヨーロッパでは、最高の学問は、キリスト教の教理を研究する神学であり、哲学は神学を理解するために役立つかぎりで価値があるとする。哲学は「アンシラ・テロジア」(神学の侍女)という言葉によく示されている。(アンシラとはラテン語で「はしため、召使い、下女の意味)トマス・アクィナスは「神学大全」(1266年)を著わし、スコラ哲学を完成した。philosophia ancilla theologiae

中世都市とゴシック美術

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   中世初期の間、ローマ帝国時代から続いた都市はほとんど荒廃し、新しくできた都市はまだ小さく、あまり重要なものではなかった。人びとの多くは田園に住み、修道院や貴族に従属して農耕した。しかし、12世紀以来、都市はふたたび栄えはじめる。人びとはだんだんと田園を捨て、自由な自治都市の住民となり、土地所有者である君主にしばられなくなった。このことが中世の生活に大きな変化をもたらした。自由市民は熟練した職人であり、企業力ある商人だったので、都市はやがて、富と芸術と学問の中心地となった。また、都市生活は人びとに独立心と実行力とを与えた。人びとは新しい考えにめざめ、自分たちの周囲の世界により多くの関心を持つようになった。やがて国王がパリに定住するようになると、首都にふさわしい権威を象徴する建築物がつくられていく。この新しい精神から、ゴシックと呼ばれる、新しい芸術様式が生まれた。ゴシックは1150年頃フランスにはじまって、西ヨーロッパ全域に広まった。ゴシック時代、フランス、イギリス、ドイツでは小さな色ガラスがいろいろな形に裁断され、鉛の枠(ジョイナー)で組み合わされ、聖堂建築において不可欠なものとしていちじるしい発展をみた。フランスのシャルトル大聖堂、ル・マン大聖堂、ノートル・ダム大聖堂、イギリスのヨークおよびカンタベリーなどの諸聖堂のものが、12~13世紀の代表的な作例として名高い。教会そのものがまるでガラスの家のように見え、壁として残る部分は、はなはだ少なくなった。ただイタリアだけは例外である。イタリアでは、教会はかたい壁を保存し、壁画は数世紀間主要な芸術であった。イタリア人はいろいろな点で北方の国民とちがっていた。彼らはローマと初期キリスト教の継承者であることを決して忘れなかったし、また、都市生活のこともずっとよく知っていた。イタリアには豊かな、強力な中世都市が他の諸国より、はやくからある。13世紀末から14世紀にかけてチマブーエ、カバリーニ、ジョットその他の画家が活躍した。とくにジョットの描く大胆な人物像は近代的精神が見られる。(参考:H・W・ジャンソン「絵画の歴史」1963)Cathedrale Notro-Dame de Paris、世界史

僭主と陶片追放

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  アテネでは、ペイシストラトス家の僭主政治が倒れたのち、平民の指導者クレイステネスは貴族をおさえ、オストラキスモス(陶片追放制度)により、僭主(チュランノス)の再出をもおさえて民主政の基礎を確立した。前510年クレイステネスの創設といわれるが、前487年になって初めて用いられた。

  毎年、春の民会で、この制度を適用するかどうかが決定され、必要となると一定の日にアゴラで投票が行われた。投票には、オストラコン、すなわち陶片が使われた。陶片に追放者の名前を刻んで投票し、一定数に達すると(一説では6000枚)追放された。

    発見された陶片に書かれた名前を見ると、当時のアテネ市民から、僭主の地位をうかがう者として、疑惑の目を向けられていたことがはっきりわかる。ヒッパルコス、アリスティデス、テミストクレス、キモン、カリクセノス、そしてペリクレスの名前もある。もっともペリクレスは追放の憂き目には遭わなかったという。陶片追放は刑罰ではないので、これにあった者は10年間アテネから一定の距離をはなれたところに住み、解除後は市民となって帰国できることになっていた。また財産権など私法上の市民資格を失うことはなかった。アテネは、この制度でデモクラシーを確立したといわれている。(世界史、tyrannos)

2015年3月13日 (金)

箱根用水と友野与右衛門

   箱根用水は箱根にある芦ノ湖の水を駿河の国に流した用水路。1670年完成。友野与右衛門は干害に苦しむ村民のために、箱根用水を建設するも、完成後、悲運にも磔、または石牢で殺害されたと伝えられる。友野は義人ではなく、横領犯として捉えられたらしい。

19世紀フランス画家5人男

    アングル(1780-1867)、ドラクロワ(1798-1863)、コロー(1796-1875)、ミレー(1814-1875)、クールベ(1819-1877)の5人の顔をそれぞれ識別できるだろうか。ドラクロワはよく自画像を描いているので知っている人も多いだろうが、他4人はなかなか区別しにくい。最年長アングルと最年少クールベとの年の差は39歳である。ところでドラクロワの本当の父親は外相のタレーランと言われている。

Photo_3 アングル

Photo_4 ドラクロワ

487pxcamille_corotnadar コロー

472pxjeanfrancoismilletnadar ミレー

Gustave_courbet クールベ

八百比丘尼の伝説

Img_0  人は必ず死ぬ。争いの絶えない世の繰り返し。そのいとなみの空しさ。娘は120歳になったとき、剃髪して尼僧となった。そして、諸国行脚の旅に出て、行く先々で歴史を語り、仏の法を説き、杉や椿の樹を植えて、自らの記念とした。また、手にはいつも玉と白い椿の小枝をたずさえていた。

   諸国を巡り歩いたのち、尼僧はふたたび若狭へ帰った。そのときすでに八百歳となっていて、八百年の人生を味わい尽くしていた。無を知り尽くしての終焉地であった。それゆえに、人々はこの尼僧を八百比丘尼と呼び、その幼な顔から、童の尼とも称し、また持ち歩く白い椿から、白比丘尼とも言った。

   八百比丘尼の伝承は日本各地にある。人魚の肉を食べたため、800歳まで生きたともいわれる。「康富記」や「臥雲日件録」には、15世紀中頃(1449年)に白比丘尼という200余歳の尼が若狭国から上洛し、見世物として料金を取ったという記述がみえる。画像は福井県小浜市の空印寺にある八百比丘尼の像。

「鶴は千年、亀は万年。浦島太郎は八千歳、東方朔が九千歳、三浦大介百六つ」という。架空人物としても八百比丘尼の800歳は長い。中国の彭祖と同じ800歳。

世界長寿一覧(架空人物含む)

常陸坊海尊 430歳

武内宿禰 300歳

トーマス・バー 152歳

景行天皇 143歳

垂仁天皇 139歳

桃林契悟禅師 139歳

孝文天皇 137歳

ジャンヌ・カルマン 122歳

モーゼ  120歳

2015年3月12日 (木)

ケン・アンロク

Ok_ken_arok1   インドネシアは赤道南北の1万3700の島々からなる世界最大の群島国家である。1891年、ジャワ島のトリニール付近で直立猿人(ジャワ原人)が発見され、インドネシアの旧石器時代における人類の活動が認められている。現在のインドネシア人は、紀元前2500年から紀元前1500年ごろにかけて中国西南地方から移住した民族で、水稲耕作を行なった。

   670年ごろにシュリーヴィジャヤ王国が、マラッカ海峡を制圧して東南アジアの海上交通を支配し、仏教文化が栄えた。8世紀になると、シュリーヴィジャヤ王国のシャイレンドラ朝がジャワ島北部に進出し、800年ごろにボロブドゥールを建設した。農業の盛んなジャワ島には、8世紀前半にマタラム王国が成立し、ヒンドゥー教の信仰が隆盛を極めた。10世紀前半になるとクディリを都とするクディリ王国が成立し、マラダム王国をしのぐ勢力を誇った。12世紀になるとクディリ王国とシュリーヴィジャヤ王国が栄えて、13世紀になるとジャワ島東部にシンガサリ王国が興った。

   シンガサリ王国(1222-1292)の始祖はケン・アンロク(画像)である。彼は農民出身ながら、クディリ朝最後の王クルタジャヤを暗殺して、東ジャワを統一して、新王朝を興し、シンガサリに都した。ケン・アンロクは王号をラージャサ(在位1222-1227)といい、5年の治世ののち、暗殺される。アヌーサパティ、トクジャヤ、ヴィシュヌヴァルダーナと続き、第5代のクルタナガラ王時代に最盛期を迎えたが、元の世祖の怒りを買う。1292年宰相ジャヤカトゥアンにより殺され、王朝は滅亡した。 ken Arok、Singasari、Rajasa

2015年3月11日 (水)

いろいろなお茶

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カワラケツメイの花

   日本には製法の違いによって、玉露、抹茶、煎茶、番茶、ほうじ茶、粉茶、茎茶、玄米茶などいろいな種類のお茶がある。地方にも独自のお茶がある。冨山のバタバタ茶、出雲(島根県)のボテボテ茶、愛媛のボテ茶、沖縄のブクブク茶。このほかにも、いわゆるお茶ではないが、茶の代用として波布茶、クニ茶、マテ茶、甘茶、麦茶などがある。カワラケツメイ(河原決明、エビスグサの類)を原料として、茎葉を干してきざんで、合歓茶、豆茶、浜茶、弘法茶などのお茶があり、利尿剤としても用いられている。このほかアマチャヅル茶、カリン茶、ビワ茶、柿の葉茶など特種なお茶もある。

   茶は雲南省に近いインドのアッサム地方が原産地といわれ、古代に四川に伝わり、揚子江流域にひろがり、2・3世紀ごろからすでに飲まれていたというが、主として医薬として用いられ、3世紀には「茶」という字はなかった。三国時代以降、仏教ことに禅宗と結びついて、座禅の眠気ざましから喫茶が流行した。

インドと第一次世界大戦

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     第一次世界大戦は近代兵器がつぎつぎ現れた。はじめ飛行機は偵察に使われるだけで敵味方の飛行機が空中で出会うとハンカチをふったといわれるが、そのうちに空中戦もはじまった。ドイツの撃墜王リヒトホーフェンは80機を撃墜したといわれる。また、戦場からはなれたロンドンやパリなども空襲をうけるようになった。

    毒ガスはドイツ軍がイーブルの戦いで初めて使った。戦車(タンク)はイギリス軍がソンムの戦いで初めて使用した。とくに機関銃の登場は歩兵の突撃を困難にし、双方が塹壕を掘ってにらみ合う膠着状態をつくり出した。参加した国は連合国25国、同盟国4国、6600万人の兵員が動員された。だが、380万人以上の植民地からの徴募兵員がいる。イギリスの植民地であるインドは、戦争に協力すれば、代償に自治権が得られるという期待を抱き、144万人以上の兵員が徴兵された。ガンディーも、みずから野戦衛生隊を募り、積極的に戦争に協力した。だが約9万人もの犠牲者を出し、そのうえインドがもつとも期待した自治は、結局与えられず、反英運動が高まっていく。

2015年3月10日 (火)

古代文明の文様の謎

11_02  本来、原始時代に土器は煮沸や容器として使用するものであるのに、縄文人はなぜ過剰なまでに装飾をほどこすのかよくわからなかった。古代人は空白を恐れるといわれる。これを「空白の恐怖」horror vacuiというのだ。目をおく中心点がないことは、確かに人々を不安にするものだが、空白を嫌う人間の心理は、器物に模様をつけるという行為、技術に示される。例えば殷周の青銅器には大きな眼と太い鼻すじをもち、眼の上に角をつけた動物の顔の正面図が模様としてつけられている。これを饕餮文とよぶ。古代エジプトのスカラベや精霊模様、クレタの双斧の模様、縄文土器の模様など、それぞれ意匠は異なるが、原点は「空白の恐怖」にあると考える。

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  古代中国
の饕餮文

 

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  古代エジプト
のスカラベ


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  メキシコ バレンケ遺跡

クロムウェルと航海条例

   1651年10月、イギリス議会が輸入品を積む船を自国船に制限する航海条例を可決した。

   この条例は「クロムウェルの航海条例」ともよばれるが、彼はこのときスコットランドに遠征中で、条例制定には関与していない。むしろクロムウェルは重商主義者とは反対の立場にあった。この条例は貿易のライバルであるオランダに対抗しようとする貿易商人が強く要求したもので、翌年から第一次英蘭戦争を引き起こした。

2015年3月 9日 (月)

功過格(こうかかく)

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    功過格とは中国の道徳書。「功過」とは、日常の行為を善(功)と悪(過)とに分け、その程度を数量化し、それによって天の賞罰がくだるとされた。起源は漢代にさかのぼるが、宋代以降盛行し、とくに明末の袁黄の「功過格」は、以後多種の「功過格」に大きな影響を与えた。

2015年3月 8日 (日)

かえるの子はかえる

   伝統的な修辞学では、「ヒトは人間である」「雨は降る日は天気が悪い」といった同語反復ないし同義反復のことであったが、現代論理学では、要素命題の真偽いかんにかかわらず、全体として常に真となるような複合命題のことをトートロジーという。tautology

犬が東向けば尾が西向く

目は二つ鼻は一つ

とうがしはからくて砂糖はあまい

赤道は暑くて南極は寒い

2015年3月 7日 (土)

風が吹けば桶屋が儲かる

   風が激しく吹けば、砂ぼこりがたち、眼を病む人が多くなる。そのために失明した人は身過ぎた三味線を習うことが多いので、三味線に使う猫の皮がたくさん入り用になる。そこで猫が殺される。猫が減ると鼠が増え、桶をかじるから桶を作る桶屋が繁盛するという連鎖作用が生じると。もちろん、個々の事柄同士の蓋然性は低く、現実に起こる確率はきわめて低いはず。さりながら、こじつけも面白さのうちといえよう。なお、江戸時代には、「風が吹いたによって箱屋が儲かる」「大風が吹けば箱屋が儲かる」という表現もあった。

受領の貪欲

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 任国に赴く受領(因幡堂縁起絵巻)

   「今昔物語」に収められている話である。平安中期の天禄(970-973)の頃、信濃国司藤原陳忠(ふじわらのぶただ)は任期を終えて京へ戻る途上、誤って谷底へ転落してしまった。郎党たちが途方にくれていると、谷底から「籠に綱をつけて下ろせ」という陳忠の声がする。郎党たちが籠を下ろして引き上げたところ、籠には平茸が山盛りになっていた。陳忠は次に籠に乗って上がってきたが、その手にはやはり平茸が握られていた。陳忠が言うには、「平茸が生えていたので捨てておけず、手の届く限りを取ったのだ。まだ取り残しがあったのに、ひどく損をした気がする」と。受領は国司の別名で、遥任、重任の国司と区別して任地にあって政務をとる国司の最上席者。「今昔物語」には「受領は倒るる所に土を掴めとこそいえ」とその貪欲ぶりを伝えている。

シドッチ神父舶載の宗教画

Carlo_dolci_mater_dolorosa  東京国立博物館所蔵の名画に「悲しみの聖母」(親指の聖母)がある。カルロ・ドルチの1655年の作品。この絵画を所持していたのはイタリアの神父ジョヴァンニ・シドッチ(1668-1714)である。シドッチは1708年、屋久島に上陸し捕らえられ、江戸で幽閉生活の後、6年後、衰弱死した。将軍の命令を受けた新井白石は小石川のキリシタン屋敷でシドッチとの対話をもとにして「西洋紀聞」「采覧異言」を著わしている。白石は天文地理に関しては学ぶところ多いが、キリスト教は全面否定している。(Giovanni Sidotti,Carlo Dolci)

鉄道(明治事物起源)

Photo_2  明治5年10月14日、新橋・横浜間の鉄道が開通。明治22年には東海道線新橋・神戸間が全通した。それまで船で2日かかっていた東京・大阪間が直通列車で20時間で行けるようになり、まさに交通革命と言えるものであった。明治14年に設立された日本鉄道は上野から線路を北に延ばし明治24年には青森まで全通させ、山陽鉄道は神戸・三原間、九州鉄道は門司・熊本間を開通させて、幹線網も次第に形成されていった。

乗合馬車(明治事物起源)

Photo   明治5年、新橋ー浅草間を一区一銭全線三区で乗合馬車が開業し、のちに鉄道馬車や市内電車が出現するまでの庶民の足となった。当時の人気落語家橘家円太郎は、高座で真鍮のラッパを吹いて、乗合馬車のまねをしたが、これが聴衆の大人気を博し、以来、乗合馬車は「円太郎馬車」あるいは単に「円太郎」と愛称されるに至った。また、そののちも乗合自動車を円太郎バスなどといった。ただし、お馬さんなので、線路上に馬糞をまき散らすため、東京は汚物、悪臭などの問題を抱える。明治末期に電車の敷設されてくると、馬車鉄道は衰退する。

2015年3月 6日 (金)

海水浴場(明治事物起源) 

  明治15年、千鳥が浜(常滑市)に日本最初の海水浴場が開かれた。ヘボン博士が横浜の富岡海岸の水質がよいことから海水浴を奨励したのが明治18年ころのこと。これらから明治20年代に全国各地に海水浴場が普及した。(James Hepburn)

2015年3月 4日 (水)

南方熊楠の納税意識

Photo_4   南方熊楠は14年間も海外を放浪し、16ヵ国語と博覧強記の学者となり、帰国したのち博物学や民俗学の先駆者となった。しかし生涯定職に就かなかったため安定した収入がなく、官学を軽蔑し、そこから距離を置いて研究したため、経済的には常に困窮していた。3歳下の弟、常楠(1870-1954)は酒造業に成功し、兄の代わりに本家の基盤を作った。熊楠の手紙には「この常楠というものは、幼時は同父同母の兄弟としていたって温厚篤実の者であったが、その妻が非常に気性の強い女で」「接弟の妻は拙弟方にかじりついて、この家で討死と覚悟を決めているから勢いが凄まじく、拙弟が頭が上がらない」、常楠が兄のために尽力した南方植物研究所についても「舎弟が我欲の強い吝嗇漢で、小生の名前で金を募り集め、それを自分方に預かって利にまわそうとして」とある。あるとき熊楠が税務署から所得税の徴収をされたとき、自分は金銭のことに疎いので知らないと言い、舎弟に納税してほしいと依頼したものの、断られ、「小生のように金銭にかけては小児同様のものをこのようになすとは、骨肉しかも同父母の弟としては非人道の至りである」と手紙に書いている。弟からみれば熊楠は、ちょっと困った兄貴であったといえる。世界を駆け巡り、国際感覚を身につけ、自然保護、人権問題などで現在ヒーローのように高く評価されている反面、実生活者としてみれば利己的であり、アンバランスな側面がみられる。

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 左から南方常楠、熊楠、孫文

 

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シャルコーの臨床医学講義

449pxpr_charcot_dsc09405    フランスの神経学者ジャン・マルタン・シャルコーはヒステリー研究やパーキンソン病の命名者として19世紀「科学の帝王」そのものだった。しかし、1893年に68歳で他界すると、かれのヒステリー研究は、次第に忘れ去られ、声望は減じていった。今日では、シャルコーが話題になるのはフロイトの師としてである。フロイトは、1885年から1886年にかけての4カ月間、パリのサルペトリエール病院でシャルコーに学んだ。

金閣寺の原風景

   足利義満は1397年より翌年にかけて鎌倉時代から名園として知られていた西園寺家の北山の邸宅を譲り受け、金箔を貼った3層の楼閣建築である金閣のほか、北御所、南御所はじめ諸殿を造営した。義満の死後、北山殿は寺となり、建物は金閣ただ1つを残すだけとなった。その金閣も1950年に焼失したが、1955年に再建され、1994年にはユネスコの世界遺産に登録されている。

   北山殿の盛時における建物規模はどれくらいだったのは記録がなくわからない。おそらく非常に大規模なもので、その地域は金閣のあるところを含んで、東方、南方に広がり、いまの数倍くらいの広さであった。金閣の北には天鏡閣があり、橋でつながっており、それを渡ると空をかける心地がしたといわれる。

2015年3月 3日 (火)

三豊市ではいまでも雛祭をしない?

Img_1489756_55498415_0_2  今日は楽しい雛まつり♪。だが香川県三豊市(旧仁尾町)の女の子はみんな一様に暗く沈んでいる。ここでは雛祭がないらしい。戦国時代、細川頼弘(異説あり)の仁尾城(現在の覚城院)があった。だが1579年3月3日、長曽我部元親の軍勢によって落城した。そのため3月3日の雛祭は祝うことが禁じられ、5月の節句に一緒にするという。

2015年3月 2日 (月)

小学校(明治事物起源)

「必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と、義務教育制の施行をうたった学制が頒布されたのは、明治5年8月のことである。しかし、京都府では学制頒布以前に近代的小学校が設立されていた。明治2年5月21日、日本最初の小学校、柳池小学校が開校した。年内には京都で64校が開校した。(参考:河野武司「明治初期における先覚的小学校の一例 京都府番組小学校(1) その胎動から開校まで」 兵庫女子短期大学論集5 1972年3月)

Ryuchi
  柳池小学校


2015年3月 1日 (日)

現在も残る「奇数吉、偶数凶」

 「ニンジャ・チアリーダー」(2008)を見ていると、リーダーの美女が「偶数はダメよ、奇数よ」と奇数に強く拘る。美女3人のパターンはチャーリーズ・エンジェルからの伝統で、験かつぎらしい。アメリカに奇数吉、偶数凶の思想が強いというが、日本にもある。結婚式のご祝儀に包む相場は2万円といわれるが、1万円札を2枚入れない。割れるという意味合いの数字が2人が別れてしまうことを連想させるから、1万円札1枚と5千円札2枚を入れて、合計3枚になるようにするほうが縁起がよい。

    イギリスのことわざに「三度目はみんなうまく行く」がある。日本にも「三度目の正直」「三度目は定の目」など同様のことわざがある。「七五三」の宮詣での風習も奇数信仰の一つであろう。

320x320_rect_2353700   ドジョウを暖簾に「どぜう」と表記するものいわれがある。江戸期、浅草の駒形屋の初代当主、越後屋助七の発案といわれ。ドジョウは泥鰌、鰌と書き、旧かなづかいでは「どぢやう」あるいは「どじやう」が正しいが、4文字では縁起が悪く、3枚の暖簾に書けないという理由から、発音の誓い「どぜう」の文字を文化3年(1806年)ころ用いた。老舗の名店がこの表記を採用したことから、幕末近くには江戸の町中の鰌屋はみなこの「どぜう」の文字を用いるようになった。江戸時代の商人が偶数を嫌い、3文字の「どぜう」にした奇数信仰は現在も続いている。

文房具(明治事物起源)

   明治19年、眞崎仁六が東京・四谷に眞崎エンピツ製造所(現・三菱鉛筆)という工場をつくり、日本で初めて鉛筆の生産を始めた。そのころの鉛筆は「はさみ鉛筆」といわれるもので、芯を溝にはさんだようなものだった。

  消しゴムも同じ年に東京の町工場で製造が始まっているが、その消去性能は悪く、輸入品にたよることが多かった。

  ノートは明治17年に松屋が万年筆向けのフールス紙の「大学ノート」を発売している。学生など一般に普及するのは明治40年以降である。関西でよく知られた「極東ノート」は大正期になってからである。

黒板(明治事物起源)

Hanzoumon2001   神田孝平(1830-1898、かんだたかひら)は美濃国不破郡岩手村(現・岐阜県垂井町)に生れる。旧幕臣の学者で蕃書調所や開成所で勉学に努めた。日本で最初に黒板を使ったのは神田といわれる。明治期、兵庫県令や元老院議員を勤めた。「経済学」の訳語確定、考古学や金星観測など博学多才の学者であった。養子の神田乃武(かんだないぶ、1857-1923)は英学者となり、「コンサイス英和辞典」や教科書を多く著述し、東京外国語大学を創設した。

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