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2015年2月28日 (土)

コーヒーと牛乳(明治事物起源)

Syouwa2   文明開化の明治になると、西洋の様々な食べ物、飲み物が入ってきた。牛肉、カレー、パン、ビール、ワイン。そしてコーヒーもその1つ。1888年に鄭永慶(1859-1895)が上野西黒門町に喫茶店「可否茶館(かふえさかん)」を開店した。この店には、本、トランプ、封筒、便箋などが備え付けられ、小説家のたまり場ともなったが、あまり儲からず、1891年には閉店している。日本最初の喫茶店は他にも諸説がある。1876年に下岡蓮杖が浅草に開いたコーヒー茶館、1874年の神戸元町の放香堂、1886年に日本橋で開業した洪愁亭が可否茶館より以前に存在していたらしい。本格的な喫茶店としては、1911年に水野龍が銀座に創業した「カフェー・パウリスタ」、松山省三が創業した「カフェー・プランタン」などがある。

   日常のあたらしい飲み物として、コーヒーよりもっと早くに普及したのは、むしろ牛乳であった。牛乳に関しては、その栄養上の理由から、政府もその飲用を奨励したので明治13年には、牛乳会社もでき、また手軽に牛乳を飲むことのできるミルクホールのようなものもつくられるようになった(参考:星田広司「日本最初の喫茶店「可否茶館の歴史」) 

便所の神様

C4d    「トイレの神様」という歌が数年前にヒットしたが、日本には古くから便所に神様がいるという信仰が全国各地にあるようだ。壷井裕子(園田学園女子大学)は長野県下伊那郡阿南町新野の事例を詳しく報告している。例えば、長野県大野市社舘之内では「便所には、便所の神様がいる。12月31日に、ススハキをしてきれいにしてからオカザリを供え、松もかざる」「お便所の神さんは粗末にしてはいけない。粗末にすると祟る」という。「便所を大事にするときれいな子が生れるという」諏訪郡原村では「便所には美人の神様がいて、月役(月経)・お産を軽くしてくれるという」

   禅宗では厠のことを雪隠(せっちん)といい、烏芻沙摩明王(うすさま)明王という穢跡、不浄潔の聖者が安置されている。(参考:壺井裕子「便所神考」 園田学園女子大学 史園5 2004年)

高身長、低身長

M_e5b2a1e794b0e58786e4b88012    日本人男性の平均身長は現在、170.7cmくらいである。終戦直後は160cmくらいで、この70年間で10cmも伸びたことになる。俳優の岡田准一の身長は169cmくらいで、高くもなく、低くもないのだが、周囲の共演者と比べると、とても低く見える。トム・クルーズも170cmあるのだが、アメリカ人男性の平均身長は175.7cmとなっているので、小柄な印象がある。高身長=かっこいい、というのは素直な印象だが、低身長でも魅力的に見えるのは、さらにカッコいい。

2015年2月27日 (金)

リオのカーニバルの起源

   リオといえばカーニバル。カーニバル(謝肉祭)とは、もともとヨーロッパ各地で四旬節の期間に入る前に行われる祝祭。16世紀ころ、ポルトガル人が「エントルード」を祝い始めたのが、リオのカーニバルの前身。1641年、ポルトガル皇帝ジョアン4世の王位継承を祝う総督の騎馬隊のパレードに発端がある。1855年にブラス・バンドが登場、ポルカやマルジャ(マーチ)の音楽とダンスがおこなわれた。サンバが登場するのは1917年から。現在のような仮装を中心としたカーニバルが始まったのは1940年から。

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   1822年のリオのカーニバル風景


自転車(明治事物起源)

   自転車という外国の乗り物が、近代日本に、いつ頃伝わり、どのように受容されたのであろうか。わが国に自転車が伝来したのは、長い間、1870年と見る説が定説のように流布されていた。これは石井研堂「明治事物起源」の影響が大きい。しかしこの説で日本で初めて自転車に乗ったとされる佐藤アイザックという人物の正体が明らかとなった。本名を横山錦柵といい、嘉永2年生まれで、18歳で英語を学ぶため渡米し、1877年に帰国している。つまり1870年の自転車渡来とは無関係であることが判明した。明治10年代には横浜で自転車のレンタル業が始まっている。また国産初の自転車製作は滋賀県長浜市の国友鉄砲鍛冶師が1891年に作ったともいわれている。

3d688a3a  自転車の発明は1817年ドイツのカール・フォン・ドライスが発明したドライジーネと呼ばれる木製の二輪車が今の自転車の元となったとされている。ところが自転車の発明は西洋ではなく、江戸中期に日本人がすでに発明していたという説が近年あきらかにされた。増田一裕によると、武州児玉郡北堀村の組頭の庄田門弥が1729年に「陸船車(りくせんしゃ)」という木製の乗り物を作った。徳川吉宗も興味をもち、陸船車を江戸に献上させたという。

 自転車といえば徳川慶喜。慶喜は明治20年ころ当時珍しかった自転車を購入し、静岡で乗り回し余生をエンジョイしている。 日本に自転車が一般に普及するのは1890年代に入ってからである。福沢諭吉や夏目漱石は自転車に乗れたのか?福沢は高齢になっているので少し無理かもしれない。ただし1902年に慶応義塾自転車競技部が設立され、息子の福沢一太郎が初代部長であるから、自転車にはなみなみならぬ関心があったことと思う。漱石には「自転車日記」という作品がある。1902年、留学先のロンドンで下宿の婆さんに薦められて自転車に初めて乗った。すでに35歳になっていたが、運動神経のよい漱石は悪戦苦闘のすえ、どうやら無事乗りこなすまでに上達した。漱石と同世代の東洋史学者、那珂通世は自転車博士といわれるほど自転車が好きで、朝鮮や満州に自転車旅行している。中村春吉は1902年、自転車で世界一周旅行を達成した。

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  徳川慶喜

Niigata192x300  最近、新潟県加茂市で「なるべく自転車に乗らないように」という文書が小中学生に配布された。交通事故防止のためであるが環境整備が大事であるとの批判もある。近代人にとってもはや自転車は不可欠なものだが、交通マナーなど安全教育の徹底を若いうちに図る必要がある。「人生とは自転車のようなもので、倒れないようにするには走らなければならない」(アインシュタイン)

スンプ法と鈴木純一

Kn3150760_2  スンプ法とは、普通の生物顕微鏡では観察不可能なものを、独特の方法で標本を採り、物体の表面を顕微鏡で観察するための方法で、「鈴木式万能顕微鏡印画法」といわれている。昭和4年にグンゼ製糸の技師、鈴木純一が開発したため、Suzuki's Universal Micro Printing Methodの頭文字からSUMP(スンプ)と呼ばれ、世界的にも通用する言葉である。なぜかわからないが「広辞苑」に採録されていない。おそらく鈴木式という名称が気に入らない旧帝大系の学者が「レプリカ式」と呼ぶことで抹殺しようとしたのではないか。

0907_19sump1     生物体の表面をセルロイド板に写しとって検鏡する。葉の気孔の外形や哺乳類の毛の表面にある小皮の模様等を観察するのに便利であるし、プレパラートは保存に耐える。画像のような鳩の羽を観察できる。羽の表面は空気をうまく起こさせて空を飛ぶことができるようになっていることが観察によってわかる。スンプの方法はセットになったものが販売されている。①スンプ液をセルロイド薄板にぬる②観察する物にはりつける③しばらくしてピンセットではがす④スンプ台紙(画像)にはりつける⑤顕微鏡で見る。

    鈴木純一の略歴。明治19年三重県松阪市に生まれる。東京蚕業講習所卒。大正八年郡是製糸会社技師となり、昭和4年スンプ法を発明。昭和8年「朝日賞」受賞。昭和29年「藍綬褒章」受賞。大妻女子大学教授。スンプ研究所長。論文「スンプの発展」 応用物理5-6、1936。「カイコの絹糸工場」 農業毎日4(4) 1950年3月 毎日新聞社

闘牛の歴史

20100804_2018711   闘牛といえばスペインが有名だが、ラテンアメリカなど(メキシコ)でもかなり盛んで人気がある。現在、闘牛が行われている国は、スペイン、ポルトガル、フランス南部、メキシコ、エクアドル、ベネズエラ、コロンビア、ペルーの8ヵ国。しかし本場のスペインでもその人気が闘牛からサッカーに移り、観客数が激減している。また動物愛護団体からの強い反対運動もあり、衰退傾向が著しい。闘牛の起源は、はっきりと分からない。古代ローマでも闘牛が行われていたといわれるが、近代の闘牛はスペインで発達した。スペインへ闘牛を移入したのはムーア人だともいわれている。11世紀スペインで馬上の騎士の訓練の一つとして始まり、16世紀に様式化されて、「牛追い祭」などが開催される。18世紀には現在の闘牛に近い競技場での見世物として発展する。画家のゴヤが闘牛が好きだったことは有名で、彼自身も闘牛士になりたかったといわれる。メリメ「カルメン」(1845年発表)によって闘牛=スペインとして世界中に広く知られるようになった。

常陸山から大鵬まで

Photo_3   夏目漱石の講演記録にこんな話が記されている。「お伽噺や歴史の本などを見て、昔の英雄などについて(子供から)やはり同様な質問をかけられる事がある。太閤様と正成とどつちが偉いとか、ワシントンとナポレオンとどつちが強いとか、常陸山と弁慶と相撲を取ったらどつちが勝つとか。中には返答に困らないのもあるが、多くは挨拶に窮する問題である。」

   漱石の晩年、明治末期から大正にかけては、相撲人気が復活してきたころらしい。漱石は相撲見物によく出かけた。第19代横綱、常陸山谷左エ門(1874-1922)は「相撲中興の祖」といわれ大正3年に引退した。漱石は豪快な突っ張りを得意とした太刀山(画像)が贔屓だった。そのころの優勝力士を一覧すると、明治42年夏・高見山、明治43年春・常陸山、明治43年夏・太刀山、明治44年春・太刀山、明治44年夏・太刀山、明治45年春・太刀山、明治45年夏・太刀山、大正2年春・鳳、大正2年夏・太刀山、大正3年春・太刀山、大正3年夏・両国、大正4年春・鳳、大正4年夏・太刀山、大正5年春西ノ海、大正5年夏・太刀山。漱石はこの年12月に死亡している。つまり晩年の漱石の時代は太刀山の全盛期と重なる。

相撲の強者は以降、栃木山、常ノ花、玉錦、双葉山、羽黒山、千代の山、照国、栃錦、若乃花、朝潮、大鵬と続く。

戦後レジームとこの70年

Photo  「永遠の0」や「風立ちぬ」など零戦をテーマとした映画・小説の影響で、零戦ブームだという。自分の中でも戦後70年はマイ・ブーム。天皇、戦艦大和、東京大空襲、沖縄、ヒロシマ・ナガサキ、占領、再軍備、逆コース、安保などなど。昨年、松江市で「はだしのゲン」を学校図書館で閲覧制限するという問題がおきた。「図書館戦争」や「華氏451」のテーマは近未来ではなく、現実的な課題となっている。この戦後70年は左右の思想のせめぎ合いの中で、日本のスタンスが今、世界に問われている。

琉球か?沖縄か?

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    大江健三郎の著書「沖縄ノート」に、あるアメリカ政府高官に日本地図を書かせたら、四国や九州や北海道、そして本州よりも大きく沖縄を描いた、というエピソードがある。米軍基地はいまだ圧倒的な存在感でそこにある。そして多くの矛盾を抱える沖縄。琉球新報・沖縄タイムス、琉球銀行・沖縄銀行、そして琉球大学・沖縄大学。

    琉球・沖縄に関係する文献を一瞥すると、書名に「沖縄」とある場合と、「琉球」とある場合がみられる。

アサヒ写真ブック『琉球その後』 1955

沖縄の歴史研究会編『沖縄の歴史』 1984

高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』 1993

新城俊昭『高等学校 琉球・沖縄史』 1994

中山盛茂編『琉球史事典』 1969

    このように名称一つ比べても沖縄問題は歴史的、文化的に複雑である。沖縄には沖縄の顔と琉球の顔があるといわれる。沖縄の文献上の初見は、8世紀に書かれた鑑真の伝記『唐大和上東征伝』である。ここでは「阿児奈波島」と書かれている。753年11月21日に沖縄に上陸している。そして12月20日、薩摩坊津(南さつま市)に到着した。「平家物語」(長門本)には「おきなは」という呼称が初めて見える。ただし、古代の東アジア世界では、一般的に用いられた名称は「琉球」であった。隋の煬帝が607年に朱寛を琉求に遠征させたとある。(「隋書東夷伝」)『隋書』の「琉求」の所在については、新井白石が琉求=沖縄説を唱え、フランスの学者が琉求=台湾説を唱えて、明治30年代から昭和30年代にかけて国際的な論争となったが、有力な学説はでなかった。明末のマテオ・リッチの「坤與万国全図」(1584年)には、大琉球と小琉球が描かれ、大が沖縄、小が台湾をさす。明代を通じて、「琉球」の呼称は東アジアに定着し、江戸幕府も琉球と呼んでいた。ところが明治日本は1872年、琉球王国を廃して琉球藩を設置し、国王尚泰を藩主とした、さらに、1879年に琉球処分により沖縄県とした。つまり琉球と呼ぶと古代からの独自の文化概念をも包括することとなるが、沖縄とすれば明治以降の日本の一つの県としての色彩が鮮明に出てくるのである。

2015年2月26日 (木)

永遠の「四月の雪」

    韓国で姦通罪が廃止されたというニュース。2005年に公開されたヨン様の映画「四月の雪」を思い出した。自動車事故で互いの配偶者が不倫関係にあったことを知るインスとソヨン。同じ境遇の2人はいつしか愛し合うようになる。姦通罪が残っていた韓国では不倫は大罪だった。日本ではダブル不倫などという言葉も軽々しく耳にするが、韓国では重いテーマなのだろう。配偶者に裏切られた思いは、他人からはなかなかわかりにくい。計り知れない困惑、悲しみ、不安、耐え難いほどの哀しみ、幾多の眠られぬ夜。自分自身を責めて、「自分はどんな間違いをしたのだろう」と思うことだろう。配偶者の過ちを許せるだろうか。現実には、経済的な理由で、離婚せずに和解することが多いかもしれない。インスとソヨンの2人はどのような結論をくだしたのか。以前にみたはずなのに、結末が不思議と思い出せない。年月が過ぎても、やはりこの映画はペ・ヨンジュンの最高傑作になるのではないだろうか。インスとソヨンは幸せに暮しているのだろうか。結末が視聴者が自由に想像できる恋愛映画はいいものである。

マリー・レクザンスカ

Marie_leszczyska_reine_de_france__2  フランス革命でルイ16世とその妃マリー・アントワネットがギロチンの露と消えた話は誰でも知っているが、ルイ15世の妃マリー・レクザンスカ(1703-1768)の名前を知る人は少ない。

    1725年、ルイ15世は15歳のとき、ストラスブールで結婚式をあげた。お相手は7歳年上のマリー・レクザンスカ(レクチンスカ)。前ポーランド王で現在は王位を追われているスタニスワフ1世の娘である。美人ではないが、信心深く教養豊かなこの妻は、みんなから愛され2男8女を産んだ。フランスの伝統菓子マドレーヌやクリスマス・ツリーをヴェルサイユ宮殿にもちこみ、パリに広めたのも彼女といわれている。

キヤト・ボルジギン氏

Photo_2  ヤフー知恵袋で「チンギス・ハンの苗字は?」という質問がある。チンギスとは「強大な」、ハーンは「可汗」で称号である。本名はテムジンで、元朝になってから太祖という廟号を贈られた。つまり「苗字は無い」という回答である。

   しかし世界帝王事典などを調べると、清に愛新覚羅氏(アイシンキョロ)、明は朱氏、金は完顔氏、宋は趙氏、唐は李氏とみな姓はある。元朝だけが国姓がないのも不自然であろう。モンゴル族のボルジギン氏族に属するキヤト族の出身なので「キヤト・ボルジギン」(あるいはキャット・ブルギュキン)と書いた本もある。 Qiyad Borjigin

勝負は下駄を履くまでわからない

Photo    野球中継で、「勝負は下駄をはくまでわからない」という表現をしばしば耳にする。「勝負事は、すべて終わるまで結果はわからない」という意味である。もともとは囲碁からできた言葉で「下駄を履く」は、勝負が終わって碁会所から帰るときを意味する。

  これによく似た表現はアメリカにもある。ヤンキースの名選手で監督を務めたヨギ・べラが「全部終わるまで試合は終わらない」という言葉は有名である。

 The game isn't over till it's over.

しかしアメリカには他にこんな英語表現もある。

 The opera isn't over till the fat lady sings.

「太ったプリマドンナが歌わないことにはオペラは終わらない」つまり「出てくるべき人が出てきて、やるべきことをやらないと、終わりにならない」、転じて、「全部終わってしまうまでは何が起るかわからない」「まだまだこれからだ。あきらめるのは早い」の意味に使われることがある。(ことばの疑問)

 

宝島小中学校の図書館「古写真に写った図書貸出簿」

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   宝島というロマンを秘めた名前の島は日本に2ヵ所ある。北海道の積丹と鹿児島のトカラ列島の宝島である。トカラ列島の宝島は面積7.14k㎡で人口114人の小さな島だが古くから宝島小中学校がある。昭和29年5月刊行の「アサヒ写真ブック トカラの暮らし」には当時の宝島小中学校の図書館の風景が掲載されている。写真右にぶら下がったノートの表題は「図書貸出簿」と判読できる。

2015年2月25日 (水)

山口少佐自決のピストル

Photo_4   明治32年1月、青森歩兵第五連隊の山口鋠少佐が率いる一個大隊が冬季の八甲田山を雪中行軍して殆ど全滅する惨事は小説や映画でよく知られている。しかし新田次郎の「八甲田山死の彷徨」はノンフィクション小説と扱われることが多いが、かなり作者の創作が加えられている。とくに映画で三國連太郎が演ずる山口鋠は悪役として描かれている。実際は温厚な人柄だったといわれる。ラストで山口鋠が拳銃自殺する。陸上自衛隊青森駐屯地の資料館には自殺に使用した拳銃が展示されている。だが公式な資料によると山口少佐の死因は心臓麻痺となっている。「凍傷を負うた指で銃の操作は不可能」という指摘もある。遭難の詳細は、いまとなっては真相は不明だ。カンジキのみで、全く死の山に突入した暴挙を批判されるのを逃れるため軍部は事実を隠蔽した節がある。

破笠筆芭蕉像

Photo_2   小川破笠(1663-1747)は芭蕉門の俳人で絵をよくした。寛保元年(1741年)、師匠であった芭蕉の肖像画を描いている。実際に芭蕉と親しく接していた者による肖像画だけに、芭蕉のおもかげを最もよく伝えるものであろう。芭蕉翁記念館所蔵。

地名「別府」と「大分」の由来

Photo   「別府」という地名は、全国各地に大字、小字も数えると40ヶ所以上もあり、読み方も「べふ」「べぶ」「べっぷ」「べっぶ」あるいは「びょう」「びゅう」など特殊な読みが九州にあり、さまざまである。つまり大分県の温泉地の別府だけの固有の地名ではなく、平安時代末期から鎌倉時代、荘園の租税を特別扱いするところをさしたものである。大分県の別府は宇佐八幡宮の荘園があった。免符が与えられて新たに新田開発されたところも多い。「別符」と表記されることもある。かつて兵庫県の加古川には「別府鉄道」が走る別府という地名あるが、荘園領に由来するものであろうか。

    県名「大分」もなぜ「おおいた」と読むのだろうか。諸説あるが、大きく3つに分かれる。①「豊後国風土記」による景行天皇が訪れた際、「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田(おほきだ)国と名づくべし」と言ったとして土地の広大さや「大き田」から転化した。オオギタ→オオキダ→オオイタと変化したらしい。②オホ(接頭語)、キダ(刻まれた地形)の転で、河岸段丘を表わす③天皇直轄説。「キダ」とは「刻まれて」天皇直轄領、もしくは神社領となった、つまり領主から「分けてもらった土地とする説が有力である。

難しい人名漢字

現在では人名で使われる漢字は制限されているが、これは1946年に戸籍法が改正されたためである。つまり戦前は漢字に制限はなく、自由に難しい漢字が使えた。有名なところでは南極探検家の白瀬矗(しらせのぶ)。「矗」という漢字をほかで見かけることは少ない。物理学者に桑木彧雄がいる。「あやお」と読む。東洋史学者の桑原隲蔵。「じつぞう」と読む。「隲」という漢字はそれほど難しくはないかもしれないが、現在では人名に使用できないであろう。

明治期の群馬県庁移転問題

   群馬県の中央部よりやや南に位置し、利根川の両岸地域をはさんで高崎市と前橋市がある。不思議なことに県庁所在地である前橋市には新幹線の駅がない。昔から交通の要所は高崎だった。廃藩置県により1871年に誕生した群馬県の県庁は当初、高崎に置かれた。しかし当時の高崎には県庁舎となりうる建物がないため、前橋城内の建物を仮庁舎として使用することとなった。県令の楫取素彦は、住民に対して「県庁移転はあくまで一時的なもの」と説明したが、1881年正式に前橋に県庁を置くことが決まり、ついに県庁が高崎に返ることはなかった。

2015年2月24日 (火)

仏教説話集「打聞集」の作者について

Photo  インド・中国・日本における仏教説話を集めた「打聞集」(うちぎきしゅう)は、僧栄源の筆録による下巻のみ現存する(国宝)。栄源は、この本の所持者であり、これを書き写した筆者といわれる。作者は延暦寺に縁のある天台宗の僧で、1070年代から1134年の間に成立したと考えられる。

庭園散策

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    「花のない庭は、星のない夜のごとし」とは、イタリアの著名なバラ育種家の言葉である。むかしロンドンに滞在中よくケンジントン公園を散策した。そこにはピーター・パンの像がある。作家バリが散歩に訪れたケンジントン公園で出会った、ある兄弟たちとの交流から名作「ピーター・パン」が生まれた。庭園の歴史は遡れば、古代エジプトやバビロンもあるが、近代的公園の概念が成立するのは意外と新しく、18世紀のイギリスである。自然主義思想の影響により、自然風景をそのまま庭園に持ち込もうとして、掘割で仕切ることによって、庭園内と外部の景色に一体感を持たせようとした。これを「ハハア(Ha‐hah)」の技巧というそうだ。

 



2015年2月23日 (月)

アッティラの野望

Auto_jlq2e2   451年、フン族のアッティラ(395-453)は北ガリアに侵入し、カタラウヌム(フランス語でシャロン)の戦で、西ローマ軍のアエティウスに敗れた。その後、フン族は北イタリアで略奪を繰り返し、ローマを目指して進軍したが、452年ローマ教皇レオ1世との交渉によって、撤退することに同意し、本国パンノニア(今のハンガリー)に帰った。なお教皇に同行し、会談の席に臨んだ随行員によると、「アッティラ王はずんぐりとした小男で、人並みはずれた大きな顔の持ち主だった。短気な性格のようだが、外交に関しては意外とねばり強く交渉していた」とその印象を述べている。アッティラは翌年、新婚の妃に殺害された後、彼のつくった大帝国は急速に瓦解した。テレビシリーズでジェラルド・バトラー主演「騎馬大王アッティラ」(2001)がある。

ぶりかまめし

Photo_4 日本で最初の駅弁は明治18年、宇都宮駅で売られた2個のおにぎりとたくあんだった。それから130年、全国各地で名物駅弁が生れた。横川駅の「峠の釜めし」や塩尻駅の「山菜釜めし」、厚岸駅の「かきめし」などが有名。最近の駅弁ランキングでは、富山の氷見駅「ぶりかまめし」が人気である。ぶりかまとは、ぶりのえらの後ろをさし、一匹に2箇所しか取れない貴重な食材。そのぶりかまを骨までじっくりやわらかく煮込み、こだわりのタレにつけて香ばしく焼きあげた。

 

石原莞爾「写生事件」

    関東軍参謀、満州事変の主導者、石原莞爾の若き日の話。陸軍幼年学校在学の折、図画の宿題で苦しみ、「便所に於て我が宝を写す」と題して、自身の男根をリアルに写生して提出した。このことは品性下劣にして教官に対して反抗心があるとして退校まで検討されたが、この時は校長が石原の才能を惜しんで身柄を一時預かるということで一応、終結した。このときの成績は十点満点で八点だった。

2015年2月22日 (日)

もしも上手に口笛が吹けたなら

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   ジョン・ウェイン主演の「紅の翼」(1954年)ディミトリ・ティオムキン作曲の「ハイ・アンド・マイティ」が哀愁ただようメロディーで、もしも副操縦士ダンのように上手に口笛が吹けたならよかったのにと思う。乗員・乗客22人を乗せた旅客機が遭難。海に不時着するか、そのままシスコに向かうか、決断をせまられる。いわゆるグランドホテル形式で豪華なスター。といっても古い作品なので俳優名がなかなか思い出せない。ジョン・ウェインと「駅馬車」で共演したクレア・トレヴァーが出演している。スチュワーデスのドー・アヴドンもあまり知らない女優さん。朝鮮娘のジョイ・キムは英語版ウィキにもない。機長のロバート・スタック(アンタッチャブル)や新婚のジョン・スミス(ララミー牧場)は後に日本でもお馴染みのスターになった。

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 ラレイン
・デイ              クレア・トレヴァー

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 カレン・シャープ            ジャン・スターリング

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 ロバート・スタック             ジョン・スミス


 





 



2015年2月21日 (土)

トトラ

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   ペルー、チチカカ湖の浮島ウロス島では、トトラscirpas totoraという藁のような草で作られた島の上で、トトラの家に住み、トトラ舟を操って、主として漁労に従事する民族がいる。

2015年2月20日 (金)

和泉式部

あらざらむ この世のほかの思ひでに 今ひとたびの逢ふこともがな

    百人一首、和泉式部のこの歌は敦道親王との恋を詠んだものとして知られている。和泉式部は「恋多き女」の代名詞として、紫式部も「和泉はけしからぬかたこそあれ」と非難している。

    和泉式部は978年、大江雅到(まさむね)の娘として生れた。橘道貞と結婚し、夫に従って和泉に下り小式部内侍を生んだが、平凡な地方官の妻としてはあきたらなく冷泉天皇の皇子為尊親王と恋におち道貞と別れた。やがて親王が薨去したので長保5年親王の4歳下の弟、敦道親王と情を通わすに至り、師宮に迎え入れられた。師宮家における彼女の華やかな生活もわずか4年、宮の死によってまた幕を閉じた。寛弘6年、中宮彰子に仕え、翌7年藤原保昌と結婚した。保昌の任国丹後に下ってから万寿4年ごろまでは生存していたと思われるが、それ以後はどうなったのかわからない。

非日常から日常へ

   日頃の暴飲暴食がたたり、ついに緊急入院しました。そのためしばらくブログを休みました。担当医は伊藤蘭に似た若い女医さん。先生のお陰で、昨日、無事、退院できました。病名は胃潰瘍。ご飯も食べれます。本日のメニュー。昼食はハンバーグとバターロール2個。夕食はご飯150g。野菜炒め。みそ汁(豆腐、玉ねぎ)。

胃腸は大切。むかしはどこの家庭にもキャベジンコーワ、パンシロン、ビオフェルミンなどが常備薬としてあった。親父の薬だが、なんとなく昭和レトロのひびきがある。市販薬は多くの成分を少量ずつ含み、病院で処方される薬は、患者の病気に適した単一成分を含む薬である。つまり適当に市販薬を飲む時代ではなく、医師の管理下で副作用の少なく安全で効果的な治療をする人が多くなったから市販薬を飲む人が少なくなったのだろう。

2015年2月14日 (土)

書名インデックス

613mi3q5ssl__sl500_aa300_     佐藤紅緑の「嗚呼玉杯に花うけて」のような、書名に「嗚呼、ああ」など感動詞を冠すると、図書館の目録カードの書名配列で最初のほうにくる。和書トップは何か。配列規則にもよるが、詩集「あああああ」石崎虚空、芳文堂、1977年刊行がある。また官能小説「月夜のクラゲ」松嶋節、叢文社、2001年刊行には「アアア・ア・ア」という短編が収録されている。泡坂妻夫の「亜愛一郎の転倒」など亜愛一郎(ああいいちろう)シリーズは、書名排列トップを狙った命名ではないだろうか。

映画インデックス

Imgc928d947zik1zj  映画タイトルを50音順に並べると、次のような作品があげられる。邦画「あ」のトップは神代辰巳監督「嗚呼、おんなたち猥歌」(1981)角ゆり子、中村れい子、内田裕也。

  ラストは都会で暮らす女性を描いた「ワンルーム・ストーリー」(1991)兵藤ゆき、戸川純、中村れい子。東映動画「わんわん忠臣蔵」(1963)。

   洋画はヴィットリオ・デシーカ監督「ああ結婚」(1964)。ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ。かつてオーソン・ウェルズ「アーカディン秘密調査報告書」(1955)がトップだったが「秘められた過去」とタイトル変更。

   ラストはディズニー映画「わんわん物語」(1955)、エミール・アルドリーノ監督「ワン・モア・タイム」(1989) シビル・シェパード。

「リンカーン」か、「リンカン」か、それが問題だ

    1863年秋、ゲティスバーク演説「人民の、人民による、人民のための政治」で知られる米大統領アブラハム・リンカーン(1809-1865)。日本では誰もが「リンカーン」とやや引き伸ばして発音するが、実は「リンカン」(Lincoln)なのだ。最近の世界史教科書では、「リンカン」と表記されている。いつごろから変わったのは明らかではない。1970年代までは、「リンカーン」だった。1980年ごろから原音に近い表記をするようになったらしい。「詳説世界史」山川出版社(1982年)ではすでに「リンカン」とある。同じ時期の「世界史辞典」(数研出版社)は「リンカーン」のままだった。いまでも、車名の「リンカーン」やニューヨークにある建物リンカーン・センターがあるので、「リンカン」を日本国民に浸透さすのはハードルが高い。一般には「フランクリン・ルーズヴェルト」で知られているが、NHK「世界史」の番組では「ローズヴェルト」と言っている。

2015年2月13日 (金)

ノートル・ダム・ド・パリ

 パリのシテ島にあるノートルダム大聖堂は、西暦365年すでに現在の位置にバシリカが建っていたといわれる。ガリアム人がローマ時代のユピテル神殿跡を壊して建てた。しかし6世紀と9世紀の再建を経て、現在の教会堂の工事が始まったのは12世紀の司教モーリス・ド・シュリーによってであり、1163年に着工し、1225年に完成した。

   ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォートルを支えるフライング・パットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。しかし、18世紀には、革命による激動を経て、廃墟と化してしまった。彫刻は打ち壊され、教会の歴史を語る装飾も剥ぎ取られた。ヴィクトル・ユーゴは小説「ノートルダム・ド・パリ」で、大聖堂の復興運動の意義を国民に訴えた。大聖堂の修復は建築家ヴィオレ・ル・デュク(1814-1879)によってなされた。ただし尖塔は以前よりも10mほど高くなり、また尖塔基部に福音史家と十二使徒の彫刻を付加して、歴史的建造物修復において修復以上の大幅な変更がなされた。

2015年2月11日 (水)

ビー玉の語源

Photo_2    語源研究のなかでも、「タンポポ」とか「ビー玉」は難題の一つである。ビー玉遊びは明治中期以降から子どもの遊びとして流行した。ラムネの栓をするガラス玉のうち、基準適合品をA玉、基準非適合品をB玉と呼び、不良品は「ビー玉」と呼ばれたとする。しかし権威ある辞書「広辞苑」はこの説に否定的である。「ビー」とは「ガラス」を意味するポルトガル語の「ビードロ(vidro)」に由来するという。「ビー」は「vi」でありも「b」ではない。もちろん江戸時代には高価品で遊びとして使えない。江戸時代、子供の遊びに「穴一(あないち)」があり、地面に10㎝程の穴を掘り、穴から数メートル離れた踏切船線から穴を狙って小石を投げる。穴に入った者が勝ちというゲーム。これが明治になってビー玉遊びの主流になった。

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天皇、ローマ教皇、イスラム教シーア派

T02200188_0600051311040201540   2月11日は神道、キリスト教、イスラム教にとって大切な記念日である。紀元前660年、記紀の伝えるところによれば、神日本磐余彦尊(神武天皇)が畝傍山の東の橿原宮で即位したとされる。この日を「建国記念の日」としている。名称に「の」を挿入したのは「建国されたという事象そのものを記念する日」であると解釈できるようにしたからという。つまりこの日が歴史的事実とは言い難いため、あえて「建国記念日」とすることをさけたのであろう。同日にイタリアとイランも重要な記念日になっている。イタリアでは1861年イタリア王国成立以来、ローマ教皇庁とは対立が続いていたが、1929年のこの日、ムッソリーニがローマ教皇と和解しラテラノ協約が締結された。これによってバチカン市国の独立が国際的に承認されたのである。イランでは1979年のこの日、イスラム教シーア派の最高指導者アーヤットラー・ホメイニが政権を掌握した。今日、イラン革命記念日として首都テヘランでは毎年盛大な式典が行われる。天皇教、キリスト教、イスラム教の重要な記念日が同日というのも畏ろしいほどの偶然の一致である。

2015年2月10日 (火)

西宮「蓬莱峡」

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    昨夜テレビで「内海の輪」を観た。将来を嘱望された考古学者の江村宗三(滝田栄)が不倫相手の西田美奈子(宇津宮雅代)を殺害。完璧にみえた完全犯罪もネーム入りのライターから露見する。原作は「黒の様式」第6話の「霧笛の街」。小説は読んでいないが、ドラマでは西宮と宝塚との境にある蓬莱峡がでてくる。地元では有名な場所で花こう岩の奇岩がある。それほど高くはないので、登山家でなくても初心者でも楽しめる。松本清張がここを本当に訪れたかは知らない。彼が晩年に芦屋ルナ・ホールで講演があったとき、突如、車の運転手に「六麓荘をみたい」と注文して、車で市内を案内した。最後まで創作への執念は衰えていなかった。ドラマは岩下志麻の松竹映画とは、かなり異なる設定である。ホリプロの岡まゆみは「赤い運命」から大映テレビと縁があり、宇津宮雅代も現役で頑張っている。西田美奈子が高所恐怖症というのがポイントか。写真で見る蓬莱峡は、のこぎり状のそそり立つ岩山のように見えて断崖は一見険しそうだが、この斜面を数十メートルすべり落ちても、擦り傷程度で死ぬのかな?といった身近なハイキング・コース。

角万(かどまん)

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Kadoman

EUの父「青山栄次郎」

180pxcoudenhovekalergi_1926   1951年署名のパリ条約によって設立された欧州石炭鉄鋼共同体に事実上の起源を持つEU(欧州連合)は2013年のクロアチア加盟により28ヵ国にまで増えている。第二次世界大戦のさなかの1942年にポーランド亡命政府の首相ヴワディスワフ・シコルスキがロンドンで元ベルギー首相パウル・ヴァン・ゼーラントに対し、欧州統合への道筋を具体化することを呼びかけたことにはじまる。しかし、ヨーロッパ統合の理想はこれに先立つ1人の人物がいる。クーデホフ・カレルギー伯爵、日本での幼名は青山栄次郎(1894-1972)である。父はオーストリア・ハンガリー帝国駐日特命全権大使のハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵、母は青山みつ。栄次郎は7人の子の次男として東京で生まれた。その一生をヨーロッパ統合に捧げ、「ヨーロッパ人は国境をなくすることに全力を傾けなくてはならない」と著書「パン・ヨーロッパ」(1923年)で記している。映画「カサブランカ」に登場するヴィクトル・ラズロ(ポール・ヘンリードが演じた)は彼をモデルにしているといわれる。

2015年2月 9日 (月)

印象派30人の画家たち

Works_c3a_32    19世紀後半の絵画の流れをふりかえった場合、その主流をなすものは、モネなどの印象派グループの活動であろう。しかし、彼らの活動は、まとまった芸術運動としてはざっと10年ほどしか続かなかった。1874年のこの日、パリで第1回印象派展覧会が開かれ、1886年まで前後8回にわたって続いた。しかし、その最後の展覧会は、メンバーからいっても出品内容からいっても、もはや正統な印象派の枠を完全に越えてさらに新しい方向へとむかうものであった。スーラたちの新印象派や、一般に後期印象派と呼ばれるゴーギャンやゴッホの作品であった。強烈な色彩による感情表現は表現主義の先駆となり、やがて20世紀に入り抽象表現を生んでいく。(4月15日)

コンスタン・ギース    1802-1892
ルイ・ウジェーヌ・ブーダン 1824-1898
カミーユ・ピサロ     1830-1903
エドゥワール・マネ    1832-1883
エドガー・ドガ      1834-1917 
ポール・セザンヌ    1839-1906
アルフレッド・シスレー 1839-1899
クロード・モネ      1840-1926
オディロン・ルドン    1840-1916 
ピエール・オーギュスト・ルノワール 1841-1919
フレデリック・バジール 1841-1870
アルマン・ギヨマン   1841-1927 
ベルト・モリゾ      1841-1895
メアリー・スティーヴンソン・カサット 1844-1926
アルベール・デュボワ・ピエ 1846-1890
ポール・ゴーギャン   1848-1903
ギュスターヴ・カイユボット 1848-1910
フィンセント・ファン・ゴッホ 1853-1890
イポリット・プティジャン  1854-1929
シャルル・アングラン 1854-1926
アンリ・エドモン・クロス 1856-1910
マクシミリアン・リュス  1858-1941 
 
ジョルジュ・スーラ    1859-1891
レオ・ゴーソン      1860-1944
テオ・ファン・ライセルベルク 1862-1926
ボール・シニャック       1863-1935
リュシアン・ピサロ    1863-1944
アンリ・クレメンス・ヴァン・デ・ウェルデ 1863-1957
 
アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック 1864-1901
ルイ・エ          1864-1940 

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 アルベール・デュボワ・ピエ「夜明けのマルヌ河」  

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 クロード・モネ「黄昏、ヴェネツィア」

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マクシミリアン・リュス「ルーブルとカルーゼル橋、夜の効果」 1890年


「カフワ」と「コーヒー」

Photo_2   ある日本人がアメリカで珈琲を注文すると、いつもコーラが出てくる。英語のコーヒーの発音がコークと聞えるからである。coffeeはアラビア語の「カフワ(qahwa)」が語源で、16世紀の中近東でコーヒーを飲む習慣が始まった。「欲く削ぐもの」という意味で、食欲を減らすということでイスラム教徒の間に広まった。それがトルコに伝わり、「カフウェ」と転化され、17世紀にヨーロッパに伝わった。

英語 caffee  カフィー

フランス語 cafe  カフェ

ドイツ語  Kaffee カッフェー

イタリア語 caffe  カッフェ

スペイン語 cafe  カフェ

ロシア語 コーフィ

ギリシア語 カフェス

トーマス・ハンコックと輪ゴム

Close_up_rubber_band300x300    物を束ねたりする時などに用いる輪状のゴム。日本語ではゴムバンドというが英語ではラバーバンド。ドイツ語でグンミリング、フランス語でエラスティーク、ロシア語でリズィーンカ。

   イギリスの馬車製作工だったトーマス・ハンコック(1786-1865)は、馬車の乗客を保護したいと防水布に興味をもち、1819年までに数々のゴム液を使って実験をしていた。輪ゴムは1820年、中南米の先住民族が使用していたゴム製の袋を薄く輪切りにすることで、靴下や服の袖を止めるのに利用できることを発見したことに始まる。

   加硫ゴムの特許を得たのは、1843年11月21日のことで、アメリカのチャールズ・グッドイヤー(1800-1844)の8週間前のことである。加硫ゴムの発明によりゴムはべたつきにくくなり、タイヤ・ホース・靴の踵が効率的に製造できるようになった。( rubber band,Thomas Hancock,Charles Goodyear,Stephen Perry )

ふるさとの偉人

Photo   郷土にゆかりの歴史上の人物を現在の都道府県別で調べると愛知県や山口県のように、列挙するに事欠かない県もあれば、島根県、徳島県のように3人探すのに苦労するところもある。ケペルが選んだ「ふるさとの偉人ベスト3」を紹介する。

北海道 シャクシャイン 安倍公房 大鵬幸喜

青森県 津軽為信 陸羯南 太宰治

秋田県 安東実季 大井満安 佐竹義宣

山形県 上杉鷹山 本間宗久 最上徳内

岩手県 石川啄木 宮沢賢治 高野長英

宮城県 伊達政宗 工藤平助 吉野作造

福島県 山本覚馬 山川健治郎 野口英世

茨城県 平将門 佐竹義宣 徳川斉昭

栃木県 足利尊氏 田沼意次 田中正造

群馬県 関孝和 内村鑑三 萩原朔太郎

埼玉県 渋沢栄一 熊谷次郎直実 太田道灌

千葉県 日蓮 佐倉惣五郎 長嶋茂雄

東京都 勝海舟 夏目漱石 浅沼稲次郎

神奈川県 源頼朝 北条早雲 二宮尊徳

静岡県 今川義元 杉山彦三郎 清水次郎長

愛知県 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康

岐阜県 土岐頼遠 斎藤道三 明智光秀

山梨県 武田信玄 早川徳次 小林一三

長野県 佐久間象山 天下の糸平(田中平八) 木下尚江

新潟県 上杉謙信 直江兼続 田中角栄

富山県 佐々成政 安田善次郎 松村謙三

石川県 前田利常 野口遵 西田幾多郎

福井県 橋本左内 由利公正 岡田啓介

滋賀県 井伊直弼 石田三成 伊藤忠兵衛

三重県 九鬼嘉隆 松尾芭蕉 荒木又右エ門

京都府 紫式部 平清盛 本阿弥光悦

大阪府 大塩平八郎 与謝蕪村 井原西鶴

奈良県 蘇我馬子 柳生宗厳 津村重舎

和歌山県 徳川吉宗  南方熊楠 華岡青洲

兵庫県 黒田官兵衛 赤松円心 大石良雄

島根県 西周 森鷗外 山中鹿之助

鳥取県 吉川経家 名和長年 後藤又兵衛

岡山県 吉備真備 雪舟等揚 犬養毅

広島県 毛利元就 頼山陽 土生玄碩

山口県 吉田松陰 高杉晋作 伊藤博文

高知県 長曾我部元親 坂本龍馬 岩崎弥太郎

徳島県 細川頼之 賀川豊彦 鳥居龍蔵

香川県 空海 平賀源内 菊池寛

愛媛県 河野通有 村上義弘 秋山真之

福岡県 鳥居宗室 立花宗茂 栗山大膳

佐賀県 竜造寺隆信 大隈重信 鍋島直正

大分県 大友宗麟 島田虎之助 福沢諭吉 三角寛

長崎県 大村純忠 末次平蔵 長岡半太郎

熊本県 天草四郎 横井小楠 宮崎滔天

宮崎県 小村寿太郎 伊東義祐 高木兼寛

鹿児島県 西郷隆盛 大久保利通 東郷平八郎

沖縄県 尚巴志 野国総管 遠弥計赤蜂(おやけあかはち)

 

 

2015年2月 8日 (日)

ベトナム、交趾、安南、越南

Photo   ベトナムの歴史は外国の侵略に対する抵抗の歴史でもあった。紀元前2世紀、漢の武帝の侵略に始まる。交趾太守が置かれた。紀元40年、メリン県の有力者の娘として生れたチュン・チャク、チュン姉妹(微側、微弐)は反乱を起こした。光武帝は41年、馬援を派遣し、姉妹を捕らえて処刑し、中国支配が復活した。

  ベトナムを安南と呼ぶのは679年に唐が辺境統治のため安南都護府を置いたことに由来する。安南都護府は現在のハノイにあたって、ベトナム北部を治め、南海諸国を管轄していた。その後、ベトナム民族が中国から独立すると、自らを大翟越、大越、越南、大南などの名で呼ぶことがあったが、中国では依然安南の名を使い、他の諸外国もこれらにならった。安南の黎利(1385-1433)が1428年に明から独立し、大越と号す。黎朝は17代、18世紀末まで続く。1802年グエン(阮)王朝が成立し、1884年フランス領インドシナ連邦に編入される。

安南通史 岩村成允 冨山房 1941
安南史研究 1  山本達郎 山川出版社 1950

豊臣家最後の姫・天秀尼

21   天秀尼(1609-1645)。豊臣秀頼の娘で、千姫の養女。東慶寺の20世住持。秀頼は16歳の時、1608年側室の成田吾兵衛助直の娘お石に国松を産ませ、1609年に女子を産ませている。大坂落城の1615年、国松と妹は脱出したが、兄国松は捕えられ、六条河原で殺害された。しかし妹は千姫の養女として東慶寺に入れられることを条件に助命された。東慶寺は縁切り寺(駆け込み寺)として有名であるが、実際にその力を発揮しはどめたのは、天秀尼が住持になってからのことという。

新京ペスト流行と731部隊

Ishii_shiro_1_2    昭和15年9月29日、人口50万を誇る満州国の首都・新京(現在の長春市)で一人のペスト患者が死亡した。関東軍防疫給水部の石井四郎軍医中佐(画像、1892-1959)は直ちに発生地区の「三不管」の家屋を焼却し、ペスト騒動は1ヵ月半で終息した。石井部隊の実に迅速なる防疫活動であった。一説では感染者は57人で26人の死者であったという。

    この新京ペスト騒動は、あまり日本では知られることはなかったが、中国では有名な作家・古丁(1914-1964)が昭和20年に「新生」(芸文書房)で取り上げ、日本でも戦後、左翼作家・山田清三郎(1896-1987)の「明けない夜はない、東方の虹第一部」(理論社、昭和30年)で描かれていた。そのころすでに噂で新京ペストが自然発生的なものではなく、第七三一部隊によるものであるということは知られており、山田清三郎の小説の「あとがき」にもふれられている。

    しかし近年、常石敬一の「戦場の疫学」(海鳴社)によると、731部隊がノミを使用してペスト菌などの細菌兵器を開発していたとしている。英文の報告書「人体解剖記録報告」の「Q報告」には、昭和15年6月から秋にかけて中国東北地区の農安と新京で行なったペスト菌による細菌戦研究の状況が記録されている。

    関東軍の石井部隊は昭和11年に創設され、ノモンハン事件(昭和14年)にさいして、ハルハ河をコレラ菌で汚染したり(石井部隊は防疫活動をしたとする説もある)、細菌兵器の開発のために人間をモルモットとして病理解剖していたことは、森村誠一「悪魔の飽食」以来大きな話題になったが、その真偽のほどはおいておくとして、新京ペスト流行においては、関東軍石井部隊が大きく関与しているとみなして間違いないであろう。731部隊に関与した医師たち。石川太刀雄丸(1908-1973)、岡本耕造(1908-1993)、笠原四郎ほか。

剣術の祖・愛洲移香斎

F30006   室町時代の剣術家、愛洲移香斎(1452-1538)の名前はあまり知られていない。もし日本の歴史人物名を五十音順に排列すると、かなり始めのほうに掲げられる名前である。「あいすいこうさい」本名は愛洲太郎久忠、または左衛門尉や日向守と称した。移香斎は法名である。幼少より剣術の才能があったため、武者修行をもって生業とし、諸国を巡ったり、上洛した。36歳ののとき日向国鵜戸の岩屋に参籠して、蜘蛛の動きから極意を得て「陰流」を開いたといわれる。時代劇などでよく聞く、「柳生新陰流」も、愛洲陰流がもとになっている。つまり剣術が最も盛んだった江戸時代には、600もの流派があったが、元祖はすべて愛洲移香斎が起こした陰流で、あらゆる剣法の祖である。

青柳武明「日本剣法の古流陰流と愛洲移香」 歴史公論1933年10月号、「増補、愛洲移香斎久忠傳考」南伊勢町教育委員会 1999年

日露戦争と号外

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   2月8日、旅順港のロシア艦隊を日本軍が攻撃した。10日に日本がロシアに対して宣戦布告し、日露戦争は開戦した。国木田独歩の小説「号外」のなかで読者は「何度読んでも涙がこぼれる」と言っている。新聞は今とは違って美文調である。鈴を鳴らして「号外、号外」と大声で叫んで配っていた。赤刷りだった。明治37年3月27日の第2回旅順閉塞作戦は次のような感じである。

    「戦死者中福井丸の広瀬中佐および杉野兵曹長の最後はすこぶる壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬を点火するため船艙におりし時、敵の魚形水雷命中したるをもって、ついに戦死せるもののごとく、広瀬中佐は乗員をボートに乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるため自ら三たび船内を捜索したるも、船体漸次に沈没、海水甲板に達するをもって、やむを得ず、ボートにおり、本船を離れ敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部をうち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり」

    明治38年5月27日早朝の日本海海戦は次のとおり。「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動これを撃滅せんとす、本日天侯晴朗なれども波高し」旅順の陸戦の模様については、「死屍は累々として相重なり、肉片は地上に飛散し、鮮血は淋漓として萌え出る若草を染む」とある。

2015年2月 7日 (土)

唐哀帝

Photo_3   「哀帝」とは文字通り、哀しい諡号である。短命の皇帝に贈られるもので、秦始皇帝以降、歴代皇帝で確認できるところでは少なくとも5人いる。

前漢の哀帝(劉欣) 在位前7~前1

代(五胡十六国時代)の哀帝  在位316年

成漢(五胡十六国時代)の哀帝(李班) 在位334年

東晋の哀帝(司馬丕) 在位361-365年

唐の哀帝(李祝) 在位904-907年

唐王朝最後の皇帝、哀帝が一番知られている。朱全忠によって父の昭帝が殺害されると、13歳で即位させられたが、それは禅譲形式を整えるためであり、3年後、朱全忠に位を奪われて、唐朝は23代290年で滅亡した。済陰王に降格されて山東に移ったが、翌年殺害された。唐哀帝は16歳で亡くなったのに、肖像でみると鬚をたくわえた中年であるのも奇妙である。

「冬来りなば春遠からじ」の誤解

   寒い冬はいやなものだが、新年が来ればすぐ暖かい春になる。「冬来たりなば春遠からじ」

If Winter comes,can Spring be far behind?

   イギリスロマン派の詩人シェリーの「西風に寄せる歌」(1819年)という長詩の最後の一句にある。「おまえ荒々しい精よ、わたしの魂となれ!烈しいものよ、 わたしとなれ!わたしの言葉を人類のあいだにまき散らせ!おう風よ、冬来なば 春や遠からずや」 木村毅が、ハッチンソンの小説「If Winter comes」(大正12年)を翻訳したとき詩を扉に載せた。収録されたとき最初は「冬来なば」であったが、アメリカ映画が大正14年、日本で公開されたとき、邦題が「冬来りなば」となってしまったので、それ以来、「冬来りなば春遠からじ」として親しまれている。ところで原文には疑問符?がある。つまり「春が來るからがんばりましょう」という意味ではなくて、「冬が来たとしても、春が後方にいる、なんてことはありえません、そうでしょう」というちょっと皮肉な表現なのである。(冬来たりなば春遠からじ,Shelly)

思い違い集

Photo_2   世の中、カラスはみんな黒いものだと思っていたら、白いカラスもあるそうだ。▽フレンチ・キスは軽い、挨拶程度のキスと思い込んでいる人がいるが、本当はお互いの舌を口の中に入れあうディープ・キスのこと。▽石井・ランシング協定を締結した外交官はシャンソン歌手の石井好子の父だとおもっていたが誤りで、石井菊次郎と石井光次郎をずっと混同していた。▽「ウルトラマン」に登場するバルタン星人の名前は、フランスの人気歌手シルヴィ・バルタンからだと思っていたが、本当は「バルカン半島」に由来するものらしい。▽喜望峰はしばしばアフリカ大陸の最南端だと間違えられるが、正しくは最南端はアガラス岬である。▽梅蘭芳(メイランファン)を女性と思っている人がいる。京劇の女形役者で男性である。

ヴァネッサ・ハジェンズ

Vanessa_hudgens_in_journey_2640x960  昨夜「センター・オブ・ジ・アース2」を観る。ドヴェイン・ジョンソン、ジョシュ・ハッチャーソン、マイケル・ケインらが出演しているが、お目当てはカイラー役のヴァネッサ・ハジェンズちゃん。役ではパラオ生まれとなっているが、実際は父はアイルランドとネーティブ・アメリカンの血を、母からはフィリピンと中国とスペインの血を引いている。2006年「ハイスクール・ミュージカル」でヒロインに抜擢されて、今や押しも押されもせぬ世界一のアイドルスターである。

2015年2月 6日 (金)

それって名前だったの?

Photo_2   サンドイッチがイギリスのサンドイッチ伯ジョン・モンタギューに由来しているのは有名な話であるが、このように一般的なものの名称にされた人物はほかに多くいる。ノーベル賞のアルフレッド・ノーベル、レントゲンのヴィルヘルム・レントゲンなどお馴染みの著名人物であるが、それって人の名前だったの?というのもある。微量のアンモニアを検出するのに用いられるネスラー試薬。ドイツの化学者ユリウス・ネスラー(画像 1827-1905)によって発見されたので命名されたである。
エポニム

肺活量計

09103004    人の肺活量を測るには、できるだけ息を吸わせた状態から、最大限に息をはかせ、その呼気を肺活量計に吹き込んで、その呼出気量を測る。1846年にジョン・ハッチンソンが肺活量計を発明した。円筒を紐で吊り下げて水中に入れ、円筒内にゴム管を介して呼気を吹き込むと、円筒内の空気が増した分だけ円筒が上に動き、その動いた距離から呼気量を知る装置である。KYS式回転式肺活量計もその改良した装置である。現代ではデジタル式の肺活量計が使われている。

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前線

   気象用語には「ゲリラ豪雨」「爆弾低気圧」など戦争やテロを連想させる言葉が多い。「前線」も第一次世界大戦で使われた言葉だが、現在の気象用語の重要な概念となっている。1919年にヤコブ・ビヤークネス(1897-1975)が論文「移動性低気圧の構造」を発表し、前線と低気圧の関係を明らかにした。大気の中にはその性質が比較的一様な「気団」があり、これを分けるように、温度や湿度が急変する細長く延びた領域がある。このような気団を隔てる境目を「前線」という。

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 ヤコブ・ビヤークネス

日本語化された「ん」の話

Img_1791863_65707888_0    古代の日本語には「ん(N)」という発音はなかった。仏教伝来とともにサンスクリット語の「阿吽(あうん)」が入ってきた。しかし「ん」はあまり普及せず、「ん」から始まる言葉はいまでもほとんどない。しかし室町時代ころから庶民の間で「ん」を連発するようになる。たとえば「ふどし」を「ふんどし」と言葉の中間に入れて発音しやすくする。「こぶ」も「こんぶ」と発音するほうが一般的である。明治になって移入された外来語にも「ん」が多用されている。tunnelは「タネル」と発音するが、日本語化すると「トンネル」となる。釧路にB級グルメ「釧路ザンギ」がある。「ザンギ」とは中国の炸鶏(ザーギー)に由来する。鶏の骨付き肉を唐揚げにしたもので、ザーギーに「ん」をつけて「ザンギ」と呼んだといわれる。

豊臣秀吉誕生日

    豊臣秀吉は俗に1月1日に生れたとして知られるが、これは後世の創作で(絵本太閤記)、実際の誕生日は天文6年2月6日とされる。前田利家やルイス・フロイスの話によれば、秀吉の片手は「親指が1つ多かった」と言っている。専門医によれば、秀吉が多指症だった可能性はあるらしい。

  確実に1月1日生れの有名人は、鳩山一郎、杉原千畝、田中美知太郎、富田常雄、人見絹枝、田端義夫、長門勇、倉本聰、役所広司など。ジミー大西と増田明美は同年同日の元日生れである。

2015年2月 5日 (木)

立春の卵

Photo_3   毎日続いている哀しい話題のニュースばかり。でも春はもうすぐそこまで来ている。本日は「立春」。むかし中国では「立春に卵が立つ」という言い伝えがあった。物理学者の中谷宇吉郎は、太陽の位置や引力の関係があるというまことしやかな説を否定するため実験をしてみせた。昭和22年2月6日の朝日新聞には次のように報じられた。「上海やニューヨーク、そして東京で立春の日に一斉に卵が立った」でも、結論は卵は立春の日でなくとも根気よくやればだれでも立たせることができる。中谷は暗い世の中に明るい話題を提供したかったのであろう。

ちょっと古風な日本語

  日常の会話や文章に使われる言葉の中には、時がたつにつれ、本来の意味や使い方が忘れられたり、誤って解釈されたりしているものも少なくない。語源を調べると、昔の人たちの息づかいが聞こえてくるようである。

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 「うだつが上がらぬ」 なかなか出世できない、良い境遇になれない、等の意味であるが、うだつ(卯建、梲)そのものがよくわからない。2階の壁面から突き出した漆喰い塗りの袖壁。江戸時代は火よけ壁とも呼ばれれ防火の役目をしていたが、明治になると防火よりも装飾に変わってきた。裕福な商家は富の象徴として、この「うだつ」を競ってあげた。

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    「手ぐすねを引く」 十分に用意して機会を待つこと。てぐすね(手薬煉)とは、中世の武士が弓を引くとき、滑らないように弓手に「薬煉」を塗ることである。薬煉は松脂を煮て練り混ぜたもので、弓の弦を強化するために用いた。また日本刀の柄糸を巻くとき、クスネ(薬煉)を塗って糸の滑り止めに用いたことからも「手ぐすねを引く」というこの言葉が生まれたとする説もある。

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  「琴柱に膠(にかわ)す」 琴柱とは琴の胴の上に各弦に1個ずつ立てて弦を支え、その張りを強くし、また、これを移動して音の高低を調節するのにつかう。琴柱を膠で固定すれば、調子を変化させることができなくなることから、融通の利かないことのたとえとして使われる。

カトリーヌ・ド・メディシスとアイスクリーム

Catherinemediciscrmn_grandpalais_ge   最近は真冬でもアイスクリームを食べるのは当たり前にようになったが、人はいつ頃からアイスクリームを食べるようになったのか?。アイスクリームを食べるようになったのは、16世紀初め、イタリアで冷凍技術が発達したからである。初めはワイン等を冷やすのに利用していたが、次いで氷に硝石を混ぜることにより冷やす時間をスピードアップさせる技術が開発され、ついに飲み物を凍るらせることに成功し、天然水を利用しないシャーペットが作られるようになった。

  フィレンツェの大富豪メディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスは、1533年のちのフランス王アンリ2世となるオルレアン公との結婚に多くの菓子職人を連れてお嫁入りした。つまりカトリーヌのおかげで今日のフランス料理やアイスクリームがヨーロッパ中に広まった。

2015年2月 4日 (水)

流し台以外は何でも

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  「ありとあらゆる」「なんでもかんでも」という英語表現は、

  everything but the kitchen sink

である。「台所の流し台以外はすべて」とは「持ち運び可能なありとあらゆるもの」という意味である。一説によれば、第二次世界大戦中、あらゆる金属製品が武器のためになるなか、陶器製の流し台だけは使われなかったからだといわれる。

鈴木という名前に支配される長谷川博己

  俳優の長谷川博己はNHKドラマ「セカンドバージン」で一躍主婦層の人気者となった。ドラマでの役は年上の女性と不倫に落ちる「鈴木行」という経済アナリスト。そして共演の「鈴木京香」とは私生活でも深い関係にあるという噂である。翌年にはテレビ東京の「鈴木先生」で「鈴木章」という異色の教師像を演じ、大きな話題となった。長谷川にとって「鈴木」という名前がラッキーネームであるのか、怨霊であるのは定かではないが、不思議な話である。

2015年2月 3日 (火)

江戸っ子と納豆

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    よく煮た大豆を納豆菌で発酵させた食品が納豆である。納豆を入れた縄文土器が出土しており、日本人が古くから大豆を蛋白源として利用していたことがわかる。縄文人が何と呼んでいたか明らかではないが、後漢の中国では「豉(し)」と文献にある。平安朝の「和名抄」に「クキ」と見える。平安時代、寺院の納所(納屋)に置いていた豆が発酵して美味しかったので、売り出され、それが「納所の豆」と言われ納豆という語が生まれた。もともと納豆がよく食べるようになったのは山国である京都の人が最初であり、昔から納豆が作られ食されてきたが、江戸時代になって江戸で納豆が大流行した。早食いものが江戸っ子の気性に合っていたらしい。紀州田辺藩の原田某が書き記した随筆「江戸自慢」(安政年間成立か)の中で、「江戸に烏の鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし」とある。このように江戸の町では、毎朝、夜明けと共に納豆売りが長屋の隅々までやってきたのである。

ことこと笑う

Photo  「伊豆の踊り子」の湯ヶ野共同湯の場面。「若桐のように足のよく伸びた白い裸身をながめて、私は心に清水を感じ、ほっと深い息を吐いてから、ことこと笑った」

「ことこと笑う」の「ことこと」という擬音語は辞書にはない。川端康成の造語らしい。主人公の学生が旅館の窓から、対岸にいる踊子の真裸を見た。「ことこと笑う」という表現に、朗らかな喜びを感じて、心が澄んでゆくのがよく伝わっている。

   川端が1926年に発表したこの小説は、7年後に田中絹代で映画が作られ、1974年の山口百恵まで6度も映画化され、いずれも話題を呼んだ。いわばロードムービーとして映画化しやすのも理由の一つとしてあげられるが、やはり身分違いの淡い恋がどの時代にも大衆の感傷を誘うのであろう。しかし40年もの間、この名作が再映画化されないのも不思議である。ヒロイン薫には山口百恵以上に原作の雰囲気を醸しだす相応しい女優が現れないからであろう。

2015年2月 2日 (月)

エリトリア

Photo   第64回別府大分毎日マラソンはエリトリアのツールデ・エスティファノスが2時間10分18秒で優勝した。視聴者には「エリトリア」という国はどこにあるのか?という疑問がおきた。紅海に面し、エチオピアの北に位置する世界最貧国の一つといわれる。1993年エチオピアから独立した。しかし歴史は古く、紀元前から古代文明があったらしい。エリュトラとは「紅い」という意味で「紅海」とはここから名付けられた。紀元1世紀の古代ローマ支配のエジプトの商人(ペリプルスと呼ばれる))が「エリュトラ海案内記」を書いている。この古地名のエリュトラと現国名エリトリアと関連性があるのだろうか。本書にはエリトリアのアンネルー湾(第6章)が克明に記されている。1890年イタリア植民地となった時、イタリア人がエリュトラ海案内記に因んで州名が命名されたと思われる。

賢后衛子夫

123   中国宮廷ドラマ「賢后衛子夫」全47話がCSで放送される。王珞丹(ワン・ルオタン)主演。漢王朝最盛期の武帝から寵愛を受け、奴婢として生きながら、ついには皇后となった衛子夫人の物語は、「中国版トンイ」と宣伝されているが、トンイより歴史人物としては衛子夫のほうがずっと著名である。中国劇や映画で「漢武帝夢會衛夫人」が知られる。衛子夫は、父がだれなのか、名さえ不明である。かの匈奴討伐で名高い大将軍、衛青とは父を異にする姉にあたる。衛青の父の名は鄭季(ていき)であり、衛子夫の父も鄭季とする説もあるらしい。ともかく武帝の姉である平陽公主の下女をしていたが、ある宴席で武帝の見初められて後宮に入ることになる。武帝にはすでに陳皇后という正室がいるが、世継ぎができず、側室の衛子夫には3人の子(諸邑公主、陽石公主、劉拠(戻太子)が生まれ、武帝の寵愛を受けることとなるが、前91年、巫蠱の獄により自殺する。

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