毛利元就「三矢の訓え」(さんしのおしえ)は作り話か!?
毛利元就は長男毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景の三人の子供を臨終の枕頭に呼び寄せた。矢を一本ずつ配り「折ってみよ」といった。みんなが難なくそれを折ると、こんどは何本かの矢の束を渡したが、だれも折ることができなかった。「この矢一本折れば、最も折りやすし。しかれども一つ束ぬれば折り難し。なんじらこれを鑑み一和同心すべし。必ずそむくことなかれ」と諭した。これを「束矢(そくし)の教え」あるいは「三矢の教え」「弓矢の教訓」などといい、幕末の人、岡谷繁美が著した 『名将言行録』にも載っている故事で、戦前の修身の教科書にもよく使われた。
しかしこれと同様の話はもともとイソップにある。安土桃山時代、宣教師により伝えられ、「天草本伊曽保物語」が1593年に刊行されているが、毛利元就の死後のことである。なぜイソップの話がアジアに伝わって、どのような経緯で後人が毛利元就に附会したのかは定かではないが、元就自身も兄弟の協力は、くりかえし説いている。「露ほども兄弟の仲が悪いことが芽生えてくれば、滅亡の基と思うべきだ」(隆元宛ての書状)。また61歳のときに書いた三子への教訓状が残っているので、江戸時代に生まれた逸話は同様の趣旨の言葉が基となったのであろう。
ちなみにサッカーJリーグ「サンフレッチェ広島」というチーム名は、サンは日本語の「3」で、「フレッチェ」はイタリア語のfrecce(「矢」の複数形)からとったものである。
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