緑衣女
科挙試験のために山寺の一室で勉強している若者がいた。本をひらいて読んでいると、女が窓のそとにいて、「ずいぶんご勉強ですわね」とほめるのだった。若者はびっくりして立ち上がってみると、緑色の着物をきて、長い裙(もすそ)をはいた、目のさめるような美人であった。若者は物の怪だろうと思って、どこに住んでいるかをしつこくきいたら、「私が貴方を取って食うような者ではありませんし、やかましくおたづねにならないでください」と女はいった。
若者はその女が好きになって、泊まっていくように誘った。薄ものの肌着を脱ぐと、腰が細くて、手のひらで抱けるほどであった。夜が明けようとすると女は帰って行った。それからというもの毎夜訪れて来ない夜はなかった。
ある晩一緒に酒を酌み交わしながら話すうちに、音楽に詳しいことがわかったので、一曲所望すると、ためらっていたが、聞き取れないくらいの小声で歌いだした。
こずえの鳥、夜なかに鳴いて
わたしやだまされて帰って来たよ
靴のぬれるはいといはせぬが
別れた貴方が懐かしい
その声は蜂のように細くてやっと聞きとることができた。歌い終わって「誰かに聞かれたかしら?」といって、外へ出て家のぐるりをよく見廻って、それから部屋に帰って来た。若者はいった。「あなたはどうしてそんなに警戒するのか?」女は笑いながらいった。「胸さわぎがするんです。私はもう生きていられないと思います」
若者は慰めていった。「胸さわぎがしたり、目がちらちらするのはよくあることだ。何もそうだからといって、いきなりあなたのように考えなくてもいいでしょう」
女はそれで少し気をよくして、また楽しく語り合った。
やがて夜が明けたので、着物をきて寝台を下り、戸を開けようとしながら、ぐずぐずして引き返して、いった。
「どうしたのか知らないけれど、なんだか気が落ちつかないのです。私の姿が見えなくなるまで、見送ってください」といいながら、おびえた足取りで歩いて行った。
女の姿が見えなくなったので、帰って寝ようとすると、女の救いを求めて叫ぶけたたましい声を聞いた。若者は走って行き、あたりを眺めたが女の姿が見えない。見上げると大きな蜘蛛に捕らえられた蜂が悲しげに鳴いているのだった。
急いで蜘蛛から引き離し、手のひらにのせて部屋に持ち帰った。身にまつわる糸をとりのけてやったが、それは緑色の蜂で、もう息も絶え絶えであった。
やがて蜂はよたよた歩きだした。しずかに硯の池に登って行って、その身を墨汁に投げ入れ、そしてまた出てくると、机の上にうつ伏したままで這って歩いた。その墨跡をたどると、「謝」(ありがとう)の一字になっていた。蜂はしきりに二枚の羽をひろげていたが、やがて窓から外へとんでいった。
このときから緑衣の女は若者の前に二度と姿をみせなかった。(蒲松齢「聊斎志異」)
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なんと魅惑的なお話なのでしょう
投稿: | 2014年10月29日 (水) 19時18分