吉田大助と玉木文之進
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」。ドラマは1850年から始まり、吉田松陰の叔父大助は登場しなかった。彼は1835年に没している。
吉田松陰は後年、子供時代を振り返り「死ななかったのが不思議なくらいだ」と語っている。いったい何が悲惨だったのかというと、それは、彼が受けた教育だった。彼は叔父たちから、たいへんなスパルタ教育を受けており、それがまた、子供には想像を絶する詰め込み教育で、できなかったときは鉄拳制裁の嵐だった。彼の教育に携わったのは、二人の叔父だ。ひとりは、吉田大助。「名は賢良、字は子良、竜門と号す。剛直にして大志あり。つとに家学を興隆しようとする。深く経書と歴史書を講究し、文章を多く作る。あまねく諸家の説を渉猟して最も宋学を喜び、常に幕府の擅横を怒り、「王覇辨」一篇を作って極論した。二十九歳にして没す」 身体が弱く子供がなかったため、松陰を養子とした。わずか、五歳、六歳の松陰に、兵学をビシビシたたき込んだ。まもなく大助は29歳の若さで急死してしまった為、松陰が吉田家の家督を継ぎ、藩校明倫館の兵学師範になる宿命を背負う。そこで、松陰の兵学教育にあたったのが、山鹿流免許皆伝であった玉木文之進であった。この人も厳格で気性の激しい武士で、何度も、松陰を気絶するぐらい殴りつけたという。
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