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1996年度日本公開の外国映画の中から雑誌スクリーン執筆者が10作品を選出。1位は「ファーゴ」フランシス・マクドーマンド、雪深いアメリカの田舎町を舞台に、ほんの手違いで単純な偽装誘拐から血生臭い殺人へと発展していく犯罪事件を描く。2位「秘密と嘘」ブレンダ・ブレッシン、養子として育てられた女性が実の親を探し、その家族の中に入っていくことから明かされる、家族をめぐる秘密と嘘、そこから生まれる新しい家族の姿と和解を描くヒューマン・ドラマ。3位「ユリシーズの瞳」ハーヴィ・カイテル、4位「いつか晴れた日に」エマ・トンプソン、ケート・ウィンスレット、5位「セブン」ブラッド・ピット、モーガン・フリーマン、6位「イル・ボスティーノ」マッシモ・トロイジ、7位「リーピング・ラスベガス」ニコラス・ケイジ、エリザベス・シュー、8位「大地と自由」イーアン・ハート、9位「デッドマン・ウォーキング」スーザン・サランドン、10位「ユージュアル・サスぺクツ」スティーヴン・ボールドウィン。
1992年度日本公開外国映画の中から雑誌スクリーン執筆者が10作品を選出。1位は「美しき諍い女」エマニュエル・べアール、ミシェル・ピコリ。4時間に及ぶ上映時間もさることながら、エマニュエル・べアールのヘアが猥褻か芸術かで物議をかもした問題作。2位は「フライド・グリーン・トマト」人生に目的を失った中年主婦が、老人ホームで知り合った老女の昔話を聞くようになる。老女の語る南部田舎町のさまざまな物語は、主婦に生きることの価値を再び教えてゆく。キャシー・ベイツ、ジェシカ・タンディ、メアリー・スチュアート・マスターソン、メアリー・ルイーズ・パーカー、3位「フィッシャー・キング」ロビン・ウィリアムズ、ジェフ・ブリッジズ、4位「JFK」ケビン・コスナー、シシー・スぺイセク、ショー・ペン、5位「バートン・フィンク」ジョン・タトゥーロ、ジョン・グッドマン、6位「仕立屋の恋」ミシェル・ブラン、サンドリーヌ・ボネール、7位「愛人 ラマン」ジェーン・マーチ、レオン・カーフェイ、8位「プリティ・リーグ」トム・ハンクス、ジーナ・ディビス、9位「こうのとり、たちずさんで」マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モロー、10位「クーリンチェ少年殺人事件」チャン・チェン、リサ・ヤン。
松本清張生誕105年記念としてこの冬、BS・CSでは清張作品を多数放送している。清張は1909年に福岡県で生まれたことになっているが、実際は広島市である。82歳で亡くなるまでの約40年間で短編を含め千篇以上を執筆し、その多くが映画・ドラマ化されている。いま放送中は「中央流砂」「虚飾の花園」「一年半待て」「ゼロの焦点」「迷走地図」「馬を売る女」「内海の輪」「時間の習俗」「波の塔」「突風」「白い闇」「張込み」「霧の旗」「聞かなかった場所」など。何度も映画・ドラマ化された作品もあるので、製作年代でテイストがちがう。時代背景を現代にかえて、ケータイやメールがでてくるのもある。昨夜みた「球形の荒野」は原作に忠実なほうで火曜サスペンス劇場で放送された作品だが、三船プロが加わっているので三船敏郎はじめキャストが豪華だった。(6年前の松竹作品では芦田伸介) 島田陽子は映画版、ドラマ版と2度ヒロインを演じている。3月テレビ東京放送予定の剛力彩芽主演の「黒い画集~草」は現代の医療問題をテーマとしているらしい。
舟木一夫の「高原のお嬢さん」「♪あの人に逢いたい、たまらなく逢いたい~リーフ、リーフ」夏の恋が終わって、今はもう秋…枯れ葉が散る季節となった。リーフとは「葉っぱ」のこと。当時としては斬新な歌詞だったが、漫談の牧野周一が「リーフとは何ですか」と茶々を入れていた。でも時代は移って、歌詞に英語が入るのは当たり前になった。安室奈美恵の曲などデビュー曲を除いて全部英語のタイトル。とくに結婚式の定番となった「CAN YOU SELEBRATE?」。canは「~してくれる」の意味で「(結婚を)祝福してくれる?」の意味らしいが外人にはさっぱり通じないとのこと。ドラマ「バージンロード」のテーマ曲で、和久井映見が不倫の子供ができて、反町に代理の夫になってと頼む。つまり「こんな私だけど、みんなが祝福してくれるなんて、おそれおおいわ」という意味らしい。
「コタンの口笛」は昭和32年の石森延男(1897-1987)の児童文学で第1回未明文学賞を受賞し、昭和33年にはNHKでドラマ化され(主演・武部秋子、山崎猛)、昭和34年には成瀬巳喜男監督で東宝映画「コタンの口笛」(主演・森雅之、久保賢、幸田良子)が制作されている。
アイヌを父としてシャモ(日本人)を母とする畑中マサは中学3年生。弟ユタカは中学1年生。父イヨンは日雇いで、母は早くなくなっている。星一徹と同じ家族構成である。ちなみに映画版で、教室で金がなくなった件でマサがクラスメイトから嫌疑をかけられるシーンがあるが 、アニメ版「巨人の星」でも同様の話があった。
アイヌの子であるばかりに、シャモの子にいじめられる。町の百貨店経営者の娘後藤ハツと弟のゴンは、マサやユタカと同級であるが、ふたりに対し、ばかにしたり、つらくあたったりした。ある日、ユタカは、ゴンに「この者売り物なり」という紙を背にはりつけられ、とうとう決闘を申し込む。しかしユタカは、ゴンの友だちのサボにバットでなぐられ、失神してしまった。
それ以来、酒飲みだったユタカの父は禁酒して、きこりとなり、新しく生活をたてなおそうとしていた。
マサは図画の谷口先生が好きで、美術展入選作「湖畔の少女」のモデルになったりした。
ある日、父は倒れる木の下敷きになって死ぬ。叔父の金二が姉妹を町へ行かせては働かせる。家は売られて、二人はコタンの部落をでていく。映画「コタンの口笛」でマサを演じた少女スター幸田良子はわずか2年で映画界から消えた。「コタンの口笛」「愛の鐘」「恐るべき火遊び」「夜の流れ」わずか4作品しかない。
1865年リンカン大統領が暗殺された。翌日ピーターセンハウスで死去したが、現在リンカンがこのとき使用した血がついた枕が展示されている。英語で枕はピロー(pillow)だが、仏語はオレイエ、独語はキッセン、伊語はグァンチャーレ、西語はアルもアーダ、と世界各国で枕を意味する言葉は全然違う。これは枕がそれぞれの民族で大昔から使用されてきたからである。では人類が枕を使い始めたのはいつ頃からか。アウストラロピテクスの頭蓋骨の下に、砕石が敷かれていたことから猿人のとき、すでに使われていたと考えられる。現在のようなフカフカ枕は12世紀のヨーロッパにさかのぼる。この頃、アラブ人が広く使っていたクッションが、十字軍の遠征によってヨーロッパにもたらされ、まくらとして使われるようになった。
ドイツ語 キッセン Kissen
フランス語 オレイエ oreiller
イタリア語 クシーノ cuscino
スペイン語 アルモアーダ almohada
韓国語 ペゲ
ギリシア語 プロスケパライオン
ロシア語 パドゥーシカ
韓国語 ぺゲ
アグネス・チャン(陳美齢)は1972年「ひなげしの花」でアイドル路線で売り出したが、もともと香港ではメッセージ性の強いフォーク歌手だった。デビュー曲はバフィー・セントメリーの「サークル・ゲーム」(團転的人生)。映画「いちご白書」でエンディングテーマで使われた曲として知られる。反戦フォークを日本で歌うことはあまりなかったが、「恋のシーソーゲーム」や「ポケットいっぱいの秘密」などカントリー調の曲をいくつかリリースしている。「ポケットいっぱいの秘密」(作詞・松本隆)には歌詞に隠された秘密がある。
あなた草のうえ
ぐっすり眠っていた
寝顔やさしくて
好きよってささやいたの
頭一文字を繋げると「アグネス」となる。
Mステ「恋うたランキング」10代から60代の男女3000人が選んだ「恋うたランキング」。10位がプリンセス・プリンセスの「M」。以下、嵐「One Love」、一青窈「ハナミズキ」、尾崎豊「I LOVE YOU」、YUI「CHERRY」、ドリカム「未来予想図付Ⅱ」、AKB48「恋するフォーチュンクッキー」、GREEEEEN「愛歌」、2位ドリカム「LOVE LOVE LOVE」。そして居並ぶ名曲を押し分けて第1位に輝いたのは沖縄のバンドMONGOL800の代表曲「小さな恋のうた」であった。司会のタモリも「意外でしたね~」と言っていた。若い人々の選曲がいかに多様であるかをものがたる。J-POPに限定しているが歌謡曲の恋うたランキングはどのようになるだろか。「影を慕いて」「酒は涙か溜息か」「君恋し」「好きだった」「骨まで愛して」「恋あざみ」「また逢う日まで」「別れても好きな人」「つぐない」「夢追い酒」「さざんかの宿」など。洋楽ではチャップリンの「スマイル」、「ムーン・リヴァー」、「愛の讃歌」、「慕情」、「雪が降る」、「いとしのジジ」、「オール・ザ・ウェイ」、「砂に消えた涙」、「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」、「The Shadow of Your Smile」(いそしぎ)、ビリー・ジョエル「オネスティ」などをエントリーする。
むかしの四股名には出身地にちなんだものが多い。若秩父(埼玉県)、青葉城(宮城県)、天竜(静岡県)、安芸ノ海(広島県)、栃赤木(群馬県)、栃乃和歌(和歌山県)、恵那櫻(岐阜県)など。横綱の輪島は石川県出身ではあるが四股名ではなく本名である。現役幕内・十両力士では隠岐の海をはじめ土佐豊、大砂嵐、豊響、阿夢露、北磻磨が故郷にちなんだ四股名である。
EU(欧州連合)は現在28か国にまで拡大している。19世紀以降、ヨーロッパではほぼ言語ごとにまとまった国家が領土などをめぐって対立し、しばしば大きな紛争に発展した。第二次世界大戦ではヨーロッパのほぼ全土が戦場になり、多くの犠牲者が出た。その反省から、戦後、国家を超えた連合を作ろうという動きが生まれた。1952年、西ドイツ、フランスなどの6か国が、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を発足させた。さらに1958年、西ドイツ、フランス、イタリアなど6か国がヨーロッパ経済共同体(EEC)を結成した。EECは、1967年には、ヨーロッパ共同体(EC)へと発展した。これが現在のEU(ヨーロッパ連合)の母体となっている。1991年、オランダでマーストリヒト条約が合意され、EU・ヨーロッパ連合を作ることが決まった。こうして1993年に発足したEUは、人・物・資本・情報が国境を越えて自由に行き交う、政治・経済両面での統合をめざしている。
1985年に始まったシェンゲン協定により、調印した国同士では、国境の出入りにパスポートの必要がなくなり、移動が自由化している。EUの共通通貨であるユーロは、2002年1月に流通を始めた。ユーロの導入国はドイツやフランスなど16か国。経済大国であるイギリス、デンマーク、スウェーデンは、今のところユーロは導入されていない。2009年のリスボン条約に基づきファンロンパイEU初代大統領(ベルギーの政治家)が就任した。
鶏は約5000年前にインドで家禽化された。家禽化された鶏は、ペルシア→エーゲ海→ギリシアの道筋と、黒海→ドイツ→イタリア→イギリスの道筋を通って西方へ伝えられ、一方東方へは中国を経て日本へ伝えられた。わが国には紀元前にすでに鶏がはいっている。鶏を経済動物として最初に改良したのは古代ローマ人であったが、ゲルマン人のローマ侵攻で鶏の改良は放棄された。その後19世紀のイギリスによって養鶏が始まった。19世紀後半には現在実用的に使われている多くの品種が主としてイギリス、アメリカ両国で成立した。日本で鶏が飼われるようになったのは古墳時代からであるが、仏教が伝来すると鶏や卵を食べることが禁じられた。後に南蛮人が渡来してその影響で卵を食べ、しだいに親鳥も食べるようになった。大規模な養鶏場は発達せず、一般に卵を食べるようになったのは目玉焼き、オムレツといった西洋料理を知るようになった明治時代からである。
新番組「問題のあるレストラン」男社会で働いていた田中たま子が同僚や知り合いを集めてビストロをオープン。なんと雑居ビルの屋根のない屋上レストラン。脚本は「最高の離婚」の坂元裕二。真木よう子、YOU、臼田あさ美、二階堂ふみ、高畑充希と個性的な顔ぶれ。極度の人間嫌いの家出娘の正体は不明。松岡茉優が扮しているらしい。
四角な座敷を掃除するのに、まん中だけを丸く掃いてすますところから、横着でいいかげんな仕事のたとえ。チャップリンの言葉に「アメリカ人は四角い部屋を丸く掃くが、日本人は四角く掃く」がある。これはチャップリンの自伝に登場する秘書の高野虎市(画像、こうのとらいち 1885-1971)のことで、細かいところまで気を配る勤勉な人だった。しかし「四角な座敷を丸く掃く」の逸話は寛永の頃の老中、土井利勝(1573-1644)の逸話で知られる。家康、秀忠に仕え、家光のとき、後の大老にあたる職に就いた。後任者に大老の心得をきかれて、「四角な座敷を丸く掃くようになされよ」と答えたという。つまり、政治の大局に立つ者は細かいことまで厳しくせず、見逃していいところは見逃せという教えである。言葉の起源は正反対の意味で使われたのである。なお土井利勝には家康の庶子説がある。(大島四郎「佐倉城主土井大炊頭利勝」 佐倉地方郷土文化研究同好会 1957、鷹見安二郎「土井利勝」)
キリコの絵は自分がかって、この光景を見た、という不思議な憂鬱、そして不安感と幸福感をもたらす。精神分析でいう「既視感(デ・ジャブ)」である。アニメ「千と千尋の神隠し」の冒頭シーンに古い階段に立ち並ぶお店や料理屋。大正か昭和の初めころに似た風景だが、台湾の九份茶坊がモデルといわれる。本当はみたことはないのだが、どことなく郷愁をさそう。キリコの絵も本当は見たことはないのに、「どこかでみた風景」を感じさせる。明石知幸監督の「キリコの風景」(1998年)。刑務所から出所した亭主が別れた妻・霧子を探して、函館の町をさまよう話だが、超能力がついてどこかシュールな感じがする。興行的には失敗しただろうが、小林聡美はこの後「かもめ食堂」「めがね」「プール」と続くシュールな感じの先駆的作品となった。アラン・レネの晩年の作品「風にそよぐ草」(2009年)を見た。流石にフランス映画のシュールな感覚はすばらしい。盗まれた財布をきっかけで、初老の男女が魅かれあうプロセスをコミカルに、そしてシュールに描いている。題名はアスファルトの隙間に咲く草にも、人を愛する情熱は絶えることがない、といつたような意味であろうか。ラストで飛行機があっけなく墜落して死んでしまうのもシュールな結末である。
増位山の歌には女性の名前がついた曲が多い。「そんな夕子にほれました」「夕子のお店」「冬子のブルース」。小林旭の歌にも「昔の名前で出ています」にはたくさんの名前が出てくる。旭はほかに「和子」「幸子」「並子」「麻衣子」「夕子」「ゆきこ」「ゆき子は銀座を離れます」がある。ホステスの源氏名でほんとの名前はわからない。「純子」はほんとうの名前かもしれない。千昌夫「アケミという名で十八で」、内藤國雄「おゆき」、長渕剛の「順子」やばんばひろふみ「SACHIKO」、ニックニューサ「サチコ」。
女性名前で一番古いのは津村謙「上海帰りのリル」(1951年)、続いてフランク永井「霧子のタンゴ」(1962年)あたりだろうか。
土佐の「いごっそう」とは「異骨相」「威豪相」などと書かれ、「頑固一徹で筋を通す、どこか憎めない男の人」の意味。これに対して、女性は「はちきん」と言われる。代表的な人物は坂本龍馬、浜口雄幸、吉田茂。吉田茂の実父・竹内綱(1841-1922)は、天保10年、土佐国宿毛に生まれる。竹内家は土佐藩主山内家に仕える伊賀家の家臣であった。大江卓の父・斎原弘も伊賀家の家臣であった。大江卓(1847-1921)は幼名を斎原治一郎といい、弘化4年、柏島で生まれたが、嘉永6年、父が宿毛に帰るに従い、宿毛で成人している。つまり竹内綱と大江卓とは自由民権の人脈でつながっている。明治の自由民権思想家・中江兆民(1847-1901)の娘・千美は竹内綱三男・虎治の妻である。
高知県宿毛市は人口3万人ほどの小都市であるが、なぜか明治以来多数の逸材がでている。政治家でいえば、総理大臣と5人大臣がいる。吉田茂(1878-1967)は戦後外相を経て、吉田内閣を5度組織し、日本の復興に大きな役割を果たした。岩村通俊(農商務大臣、1840-1915)、林有造(通信大臣・農商大臣、1842-1921)、岩村通世(司法大臣、1883-1965)、林譲治(厚生大臣、1889-1960)である。
このほか、岩村三兄弟の一人、岩村高俊(1845-1906)などの政治家、小野梓(1852-1886)などの法学者、竹内明太郎(1860-1928)などの実業家など多くの人物がでている。
岩手県の面積は北海道に次ぐ全国第2位の広さ。海岸からは北上山地、秋田県の境には奥羽山脈、その間に流れる北上川の渓谷が美しい。奥羽の山地は寒冷である。とくに北東風(やませ)が強く吹くと、それが直接さらされて冷害が起る。
近代文学史上、最も国民に愛された詩人は石川啄木(1886-1912)であろう。日戸村に生まれ渋民村(のちに玉山村、現在は盛岡市)に育った。16歳で盛岡中学を退学し、明星歌人となるも、貧窮により苦労し26歳の短い生涯だった。「銭形平次捕物控」の野村胡堂(1882-1963)は紫波郡彦部村(現在の紫波町)の生れ。盛岡中学の一級下に啄木がいた。「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」などの童話で知られた宮沢賢治(1896-1933)は花巻の生れ。岩手県は原敬(1856-1921)、斎藤実(1858-1936)、山屋他人(1866-1940)、米内光政(1880-1948)、後藤新平(1857-1929)、及川古志郎(1883-1958)と政治家、軍人が多い。幕末明治の鉱山学者の大島高任(1826-1901)は近代鉱山業の基礎を築いた。近代的な国語辞典と文典の「言海」「広日本文典」をまとめた大槻文彦(1847-1928)は江戸の蘭学者・大槻玄沢の曽孫になる。
ほとんどの人は一生天職といえるものに巡り会うことがないまま、人生を終える。一つでも天職といえるもが見つかればたいへん幸福である。それが社会的に認められて有名人になることを仮に「ブレイクした」と言おう。元都知事の猪瀬直樹は作家から政治家へと転身した。東京五輪の招致に成功し、政治家として栄華をきわめたとき、金銭トラブルで辞任した。「結局、僕は作家だったんだよ」と発言。人生においてブレイクは1回だけである。2回ブレイクする人はほとんどいない。瀬古俊彦も高橋尚子もマラソン界だけである。2つの異なる分野で2度ブレイクした人がいるだろうか?タレント議員は除く。増位山太志郎は大関になり、歌手では「夕子のお店」「冬子のブルース」とヒットを連発して再ブレイクしためずらしいケースである。「冬子」という名前、あんまり幸せじゃない雰囲気がある。「♪冬子、冬子、~冬子」と叫んで、「ほんとの名前は知らないが」というフレーズがしびれる。異分野で名を残した人物はアラビアのロレンス(軍人、考古学者)と森鷗外(軍医、文学者)くらいしか思いうかばない。
「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであった。」
太宰治がふるさと、蟹田、外ヶ浜、津軽浜、川辺、金木、深浦を旅する「津軽」は名作として今も読み継がれている。石坂洋次郎、葛西善三は弘前市、三浦哲郎は八戸市、寺山修司は三沢市の出身。
青森県が舞台となった作品は、三浦哲郎「忍ぶ川」「白夜を旅する人々」、長部日出雄「津軽世去れ節」「津軽じょんがら節」、水上勉「はなれ瞽女おりん」、新田次郎「八甲田山死の彷徨」、川上健一「翼はいつまでも」、高村薫「晴子情歌」「新リア王」、鈴木喜代春「十三湖のばば」。
北海道にゆかりのある近代以降の著名人たち。幕末の蝦夷探検家・松浦武四郎(1818-1888)は伊勢国の生まれであるが、北海道とは所縁が深い。明治政府に蝦夷地開拓御用掛を命ぜられ、長年の知識に基づき道名・国名・郡名を選定した。北海道の地名は、アイヌ語を指す言葉「カイ」を含む「北加伊道(ほくかいどう)」を考案。いつしか松浦は「北海道の名づけ親」と呼ばれるようになった。
坂本龍馬の甥の坂本直寛(1853-1911)はキリスト教徒として北海道開拓移民の指導にあたった。北海道開拓使の初代判官の島義勇(1822-1874)は札幌を碁盤目状の都市にしようと計画。その志は2代開拓使判官の岩村通俊(1840-1915)に継がれた。「屯田兵の父」と呼ばれた永山武四郎(1837-1904)はロシアから守るため北海道開拓のため生涯を捧げたる晩成社を設立した依田勉三(1853-1925)は十勝帯広地方の開拓につとめた。夏はラベンダー、冬はスキーと年中観光客が訪れる富良野の発展の礎を築いたのが中村千幹(1866-1916)である。広井勇(1862-1928)は小樽港の開発に尽くした。マルハニチログループの創業者の堤清六(1880-1931)と平塚栄次郎(1881-1974)。空知集治監の教誨師を務めた牧師の留岡幸助(1864-1934)は、1914年に遠軽に北海道家庭学校を開設した。今井藤七(1849-1925)は小間物の屋台店から出発して、今井百貨店を創業。フルヤミルクキャラメルの古谷辰四郎(1868-1930)は苦労ののち古谷製菓を創業。川田龍吉(1856-1951)はジャガイモの栽培に成功、今に伝わる「男爵イモ」である。木下虎一郎(1903-1966)はサロマ湖でホタテの人工養殖に成功した。斜里町長の藤谷豊(1913-1994)は自然破壊に抗して、1977年に知床百平方メートル運動を始めた。知里真木保(1909-1961)は叙事詩ユーカラの研究をした。萱野茂(1926-2006)はアイヌ文化資料館を設立した。遠藤吉三郎(1873-1921)はスキージャンプを日本に普及した。札幌ラーメンの大宮守人は「味の三平」を創業。
文学者では伊藤整(小樽)、井上靖(旭川)、下母沢寛(石狩郡)、島木健作(札幌)、長谷川四郎(函館)、三浦綾子(旭川)、渡辺淳一(札幌)。岡本太郎の父、岡本一平(1888-1948)は漫画家の始祖といえる。女優の高峰秀子は大正13年の函館生まれ。ノーベル化学賞の鈴木章(むかわ町、1930年生まれ)。大鵬幸喜は1940年、上川郡弟子屈町出身。優勝32回、6連覇2度、全勝優勝8回など、双葉山と並ぶ昭和の大横綱。「♪果てしない大空と広い大地のその中で いつの日か幸せを自分の腕でつかむよう」と松山千春(1955生)は足寄にこだわる。演歌界の大御所・北島三郎(1936生)は知内町、細川たかし(1950生)は虻田郡真狩村、玉置浩二(1958)とは旭川市。アイドルではザ・リリーズ(夕張)、モーニング娘の安倍なつみ(室蘭)、飯田圭織(札幌)。1981年、室蘭の生まれ。宇宙飛行士の毛利衛は余市町。
田中要次、八木さおり、中村昌也の三人が特急列車に乗って鹿児島から稚内までを行く。ルールは最低20種類以上の特急に乗車し、5日間でゴールに到着すること。
1日目、鹿児島~隼人(はやとの風)、隼人~宮崎(きりしま)、宮崎~大分(にちりん)、大分~別府(九州横断鉄道)
2日目、別府~小倉(ソニック)、普通(お助けカード)小倉~新山口、新山口~出雲市(スーパーおき)、出雲~姫路(ランライズ出雲)
3日目、姫路~城崎温泉(はまかぜ)、城崎温泉~豊岡(こうのとり)、豊岡~天橋立(たんごリレー)、天橋立~京都(はしだて)、京都~金沢(サンダーバード)
4日目、金沢~新潟(北越)、新潟~秋田(いなほ)、秋田~青森(つがる)
最終日、新青森~函館(白鳥)、函館~南千歳(北斗)、南千歳~札幌(スーパーおおぞら)、札幌~旭川(オホーツク)、旭川~稚内(スーパー宗谷)。
鹿児島から稚内まで3200㎞、旅費は106,580円。秋田でポートタワー・セリオンに寄ったため、乗り遅れたこと以外は順調であった。やはり路線バス乗り継ぎ旅のほうが面白い。
2014年、赤ちゃんの名前人気第1位は、男の子が「陽翔(はると)」、女の子が「椛(もみじ)」だそうだ。今年から「みこ」ちゃん「かんなぎ」ちゃんが増えるかもしれない。1月7日、法務省が人名漢字に「巫」の字を使えるようにしたからだ。
名前は単なる記号ではなく、目には見えないが、その人の人生を左右するような神秘的な力が宿っているように思える。「山村貞子」という名前がある。実際にその名前の方には失礼な話であるが、現在いちばん嫌われる名前の1つであろう。何の変哲もないありふれた名前であるのに、小説「リング」が書かれたり、映画化されたり、揚句にフィギュアまで販売されている。松本清張などは小説に扱う名前は、同姓同名の人への迷惑を考慮してかなり珍しい名前を作品に使っている。ただし「河野信子」は平凡なので、ドラマ化するときに、「石崎秋子」に変更された。これは「家政婦は見た」の主人公の名前である。
静岡県の教育長は、何と「安倍徹」さん。悪役俳優の「安部徹」とは一字違いながら音は同一。成田三樹夫という名前の人もどこにおられるだろうか。赤ちゃんの名前を命名するとき、犯罪者の名前などは避けたいものである。ネットなどで調べておくとよい。草加次郎、大久保清、梅川昭美、勝田清孝、宅間守(吉岡守)、宮崎勤、松本智津夫など。お岩、お菊、累(かさね)、お露など幽霊・怪談の名も避けたい。
江戸の狂歌に「ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」(つむりのひかり作)がある。田舎暮らしは風情があるものの生活するには不便だ。やはり年中無休で長時間営業しているコンビニが近くあるのはとても便利である。古くから雑貨店などコンビニ近い商店は存在したものの、今日見られるようなチェーン店のコンビニの登場したのはいつ頃か定説はないらしい。井田泰人の研究では、1969年、大阪府豊中市にマイショップの1号店が開店した、これを日本初のコンビニの事例とするそうである。いずれにしても1970年代から80年にかけて急速にコンビニは日本人の生活に浸透していった。都会人の孤独な心のなぐさめにもなる。おつりを受け取る時、キレイな女店員がさりげなく手をそえて釣り銭を渡してくれるとドキドキする。(参考:井田泰人「黎明期のコンビニエンス・ストア」生駒経済論叢)
回文という言葉遊びは、「新聞紙」「竹屋が焼けた」「たい焼き焼いた」「まさこさま」のたぐいで、上から読んでも下から読んでも同じになる。「伊丹の酒、けさ呑みたい(いたみのさけ、けさのみたい)」も回文で、江戸時代に流行った。(12月21日)
旦那が何だ!
わたし、負けましたわ
絵かき終えて、絵置き換え
好きよダメだよキス
夏まで待つな
羊羹買うよ
確かに貸した
鳥と小鳥と
草花は咲く
バッハBachといえば偉大な作曲家。だが本来はドイツ語で「小川」という意味である。カーペンターcarpenterは英語で「大工」、ポッターpotter(ハリー・ポッター)も「potを作る人」「陶工」「陶芸家」の意味である。このような意味をもつ苗字を集めてみよう。
バトラー 判事(ジェラード・バトラー)
スペンダー 浪費家(スティーブン・スペンダー)
ブッシュ 茂み(ジョージ・ブッシュ)
ブッチャー 肉屋(アブドーラ・ザ・ブッチャー)
ブリューワー ビール醸造人(テレサ・ブリュワー)
クーパー 桶屋(ゲーリー・クーパー)
メイソン 石工(ジェームズ・メイソン)
テーラー 仕立て屋(ロッド・テーラー)
ターナー 旋盤工(キャスリーン・ターナー)
チャップマン 行商人(アロルディス・チャップマン)
ハンター 猟師(キム・ハンター)
ベイカー パン屋(キャロル・ベーカー)
ミラー 粉屋(アーサー・ミラー)
自転車を意味する「チャリ(ンコ)」は、韓国語の「チャジョンゴ」から来ている。韓国ドラマを原語で見ていると日本語と似たような発音を持つ単語がたくさんでてくる。外来語「ピアノ」「カメラ」「コーヒー」「バス」はそのまま発音するが、「ピアノ」「カメラ」は全く同じだが、ほか2つは「コピ」「ポス」と聞える。自動車は「チャドンチャ」、漢字が同じだと発音も似てくる。韓国のドレミは「ドレミパソルラシド」と聞える。
なかには全違う単語もある。サンヒョクがユジンのために「スミレ」という曲をかける場面がある。「スミレ」は「チュピッコッ」と発音する。
春 ボム
夏 ヨルム
秋 カウル
冬 キョウル
四季 サゲジョル
初雪 チョンヌン
晴れ マルグム
雨 ピ
風 パラム
雨傘 ウサン
花 コツ
マフラー モットリ
手袋 チャンガプ
ハンカチ ソンスゴン
指輪 パンジ
眼鏡 アンギョン
消しゴム チウゲ
学校 ハッキョ
高等学校 コドウン八キョ
雪だるま ヌンサラム
愛 サラン
結婚 キョロン
ばかみたい パボガッチ
わかめスープ ミヨックク
紙コップ チョンイコプ
入学式 イッパッシッ
卒業式 チョロプシッ
コンビニ ピヨニジョム
居眠り チョルタ
のり巻き キムパブ
痔といえば中年の男性というイメージがあるが、女性にも結構多いらしい。痔はとくに日本人に多くみられる病変であり、成人の50~80%は痔核を有するといわれている。だが西洋人にもないわけではない。ルイ14世、ナポレオン、マーラー。ルイ14世は世界で最初に痔の手術をした人物である。それにベートーヴェンは耳疾から聴覚を失ったことはよく知られているが、生涯人知れず痔にも苦しんだ。女性よりも男性に多くみられるが、患部の位置が位置だけに羞恥心から診療・治療を受けずに放置しておく場合が少なくない。
歴史上の人物では、加藤清正、大岡忠相、杉田玄白、乃木希典、野口英世。野口は「実は小生昨年十月頃より痔をなやみ夜分も安眠を不得ず、月を追うて重り行く傾向有之候」と手紙に書いている。作家は作品や日記に痔疾のことを書くので記録として残りやすい。松尾芭蕉、正岡子規。夏目漱石は「彼岸過迄」を執筆中に神田の佐藤病院に通院していた。芥川龍之介は「歯車」で「暫らく歩いているうちに痔の痛みを感じ出した」とある。横光利一は「機械」の執筆中の痔疾のため2ヵ月入院している。(参考:立川昭二「病いの人間史」)
歌手のジェロやクリス・ハートはいつも帽子をかぶっている。ミュージシャンや芸術家には帽子を愛用する人が多いが、通勤のサラリーマンはあまり帽子をかぶっている姿は見ない。大正期はカンカン帽が日本でも大流行した。その後、カンカン帽は消えたが、コントの世界で植木等がステテコ姿でカンカン帽をかぶったり、月亭可朝がカンカン帽をかぶってギターを弾いて歌っている。
1900年代にはソフト帽(中折れ帽)が世界的に流行し、背広とソフト帽というスタイルが定着する。1940年代、映画でハンフリー・ボガートが「トレンチコートを着て、ソフト帽をかぶったタフガイ」というスタイルが確立される。岡譲二、片岡千恵蔵、波島進、丹波哲郎もこのスタイルを踏襲した。
小学生のとき以来、お世話になっている鉛筆だが、ボールペンの登場で、筆記用具の王座は奪われた感はある。しかし、老人にとって鉛筆の書き心地や感触はなかなか心をなごませるものがある。ブログ記事のネタを見つけたら、専用のノートに書いてあとで参考にするのだが、最近は古い使わなくなった鉛筆がでてきたのでよく使っている。短くなっても鉛筆ホルダーやキャップをつなげて使って長くできる。短くなるまで大切に使おう。最近の鉛筆は芯が折れたりしない。木の部分が削りやすい。100円ショップで買った1ダースの鉛筆でさえ優れているのだからメーカー品はなおさらだろう。この鉛筆で今まで気づかなかったいろいろな事柄を調べてみよう。
スイスの有名な筆記具メーカーに「カランダッシュ」がある。画家エマニュエル・ボアレ(1858-1909)の雅号に因んでいる。もともとロシア語で鉛筆という意味である。
机の引き出しを整理するといろいろな文房具がでてくる。消しゴムをフランス語、イタリア語、スペイン語で何というか?
英語 イレイサア eraser
フランス語 ラ・ゴム la gomme
ドイツ語 ラ・ディーアグニ ger Radiergummi
イタリア語 ラ・ゴンマ la gomma
スペイン語 ラ・ゴマ la goma
韓国語 チウゲ
地中海に接する国の言葉には共通性がみられる。
英語 ペンスル pencil
フランス語 ル・クレイヨン le crayon
ドイツ語 デア・ブライシュティフト der Bleistift
イタリア語 ラ・マティータ la matita
スペイン語 エル・ラピス el lapiz
ポルトガル語 lapis ラピス
ロシア語 カランダッシュ
中国語 鉛筆(チィエンピー)
韓国語 ヨンピル
「そのころ私たちの家は、池上本門寺近くの石段を上がった所にありました」というナレーション(黒柳徹子)で始まる向田邦子新春シリーズは1985年(「眠る盃」)から2002年(「風立ちぬ」)に至るまで17年間続いた。時代や家族の設定はだいたい同じである。戦争の足音が少しずつ近づいてくる昭和13年から15年頃の東京の山の手。父は役人だったが数年前に他界している(数作品には父が健在なこともある)。母と娘3人の女だけの家に男が登場して、様々な波紋が広がっていく。ヒロインは長女、あるいは次女が多く、三女の目線で物語が進行していく。全体に戦前東京の都市文化(映画・レコード・喫茶店・ダンスホールなど)に対する強い憧憬が垣間見られる。元日の朝、家族全員が晴れ着を着て、神棚に手を合わせたり、「おめでとうございます」と挨拶して、お節料理をいただくシーンがある。正月ドラマだが、家族が死んだり、病気がちだったり、破談になったり、縁起悪いのも特徴の一つである。常連の俳優は加藤治子、田中裕子、小林薫。他の配役は毎回ごとに変更している。シリーズ中で最高傑作はどれか只今検討中。「隣の神様」(国生さゆりが病弱な妹で登場する話)は「赤マントの男」という奇妙な都市伝説の話であるが、味わいある作品の1つ。
シーリズ中で田中、加藤、小林の3人が出演していること②田畑智子が出演していること③四谷シモン医師で出演している④ナレーションは黒柳徹子。この条件を満たす作品は「小鳥のくる日」(1999年)
明治から昭和の作家で本名のままという作家はめずらしい。二葉亭四迷は文学に行きづまった作者が自嘲して「クタバッテシメイ」と言ったものをもじったもので滑稽味がある。樋口一葉の本名は奈津だが、夏子の署名が多くみえる。昔、達磨大師が揚子江を一葉の葦の葉に乗って下ったという故事に由来する。一葉は「達磨さんも私も、あおし(銭)がない」とシャレていた。「漱石」という雅号は、漢籍の「蒙求」の中の「石ニ漱(クチスス)グ」という語からとったもので、偏屈者という意味。直木三十五は、本名の植村の字を分解して直木とし、毎年自分の年齢をペンネームにしていたが、三十五で死んだ。北杜夫は愛読書「トニオ・クレーゲル」をもじって杜二夫としていたが。二をとって杜夫とした。北は学生時代に過ごした北の都、仙台にちなんでつけた。立松和平。本名は横松だが、横だと語感が悪いので、横の松を立てたのだ。泡坂妻夫は本名「厚川昌男(あつかわまさお)」の7文字を並び替えて作った。色川武夫は麻雀小説作家として阿佐田哲也のペンネームがある。「朝だ!徹夜だ!」に由来する。埴谷雄高は本名が般若(はんにゃ)豊。姓の音を少し変え、名の音を二つに分けた。寺内大吉は大吉寺という寺の住職で、「大吉寺内○○様」という郵便が来るから。城山三郎は名古屋の東部、城山の地に三月に移転したことから。最近の作家で馳星周は香港スター周星馳をひっくり返してつけた。冲方丁は暦の用語を並べたもの。赤染晶子は赤ちゃんのころ、百人一首、赤染衛門の札を齧ったから。漫画家の矢沢あい。矢沢永吉のファンで矢沢Loveの愛をひらがなにした。漫画家やくみつる。麻雀の「役満」から。
アララギ派の歌人、島木赤彦(本名・久保田俊彦)のペンネームの由来はゴーギャンの「赤い花」の絵を見たから、という話は有名である。しかし、大正初期に赤彦が見たゴーギャンの絵というのはどの絵であろうか?斎藤茂吉によると「島木の名は、八丈島から採って「島の木」とした」とある。つまりゴーギャンに憧れて八丈島へ渡ったことを意味するので、筆名の由来はゴーギャン説と反しないものと解する。「赤彦」の名は、広丘小学校在職中、中原静子との恋愛関係の中から出たものらしい。推測ながら、赤彦が見たゴーギャンの絵とはメトロポリタン美術館所蔵の「赤い花と乳房」という絵ではないだろうか。もちろん赤彦はアメリカへ行ったことはなく何かの本で見たのであろう。
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」。ドラマは1850年から始まり、吉田松陰の叔父大助は登場しなかった。彼は1835年に没している。
吉田松陰は後年、子供時代を振り返り「死ななかったのが不思議なくらいだ」と語っている。いったい何が悲惨だったのかというと、それは、彼が受けた教育だった。彼は叔父たちから、たいへんなスパルタ教育を受けており、それがまた、子供には想像を絶する詰め込み教育で、できなかったときは鉄拳制裁の嵐だった。彼の教育に携わったのは、二人の叔父だ。ひとりは、吉田大助。「名は賢良、字は子良、竜門と号す。剛直にして大志あり。つとに家学を興隆しようとする。深く経書と歴史書を講究し、文章を多く作る。あまねく諸家の説を渉猟して最も宋学を喜び、常に幕府の擅横を怒り、「王覇辨」一篇を作って極論した。二十九歳にして没す」 身体が弱く子供がなかったため、松陰を養子とした。わずか、五歳、六歳の松陰に、兵学をビシビシたたき込んだ。まもなく大助は29歳の若さで急死してしまった為、松陰が吉田家の家督を継ぎ、藩校明倫館の兵学師範になる宿命を背負う。そこで、松陰の兵学教育にあたったのが、山鹿流免許皆伝であった玉木文之進であった。この人も厳格で気性の激しい武士で、何度も、松陰を気絶するぐらい殴りつけたという。
科挙試験のために山寺の一室で勉強している若者がいた。本をひらいて読んでいると、女が窓のそとにいて、「ずいぶんご勉強ですわね」とほめるのだった。若者はびっくりして立ち上がってみると、緑色の着物をきて、長い裙(もすそ)をはいた、目のさめるような美人であった。若者は物の怪だろうと思って、どこに住んでいるかをしつこくきいたら、「私が貴方を取って食うような者ではありませんし、やかましくおたづねにならないでください」と女はいった。
若者はその女が好きになって、泊まっていくように誘った。薄ものの肌着を脱ぐと、腰が細くて、手のひらで抱けるほどであった。夜が明けようとすると女は帰って行った。それからというもの毎夜訪れて来ない夜はなかった。
ある晩一緒に酒を酌み交わしながら話すうちに、音楽に詳しいことがわかったので、一曲所望すると、ためらっていたが、聞き取れないくらいの小声で歌いだした。
こずえの鳥、夜なかに鳴いて
わたしやだまされて帰って来たよ
靴のぬれるはいといはせぬが
別れた貴方が懐かしい
その声は蜂のように細くてやっと聞きとることができた。歌い終わって「誰かに聞かれたかしら?」といって、外へ出て家のぐるりをよく見廻って、それから部屋に帰って来た。若者はいった。「あなたはどうしてそんなに警戒するのか?」女は笑いながらいった。「胸さわぎがするんです。私はもう生きていられないと思います」
若者は慰めていった。「胸さわぎがしたり、目がちらちらするのはよくあることだ。何もそうだからといって、いきなりあなたのように考えなくてもいいでしょう」
女はそれで少し気をよくして、また楽しく語り合った。
やがて夜が明けたので、着物をきて寝台を下り、戸を開けようとしながら、ぐずぐずして引き返して、いった。
「どうしたのか知らないけれど、なんだか気が落ちつかないのです。私の姿が見えなくなるまで、見送ってください」といいながら、おびえた足取りで歩いて行った。
女の姿が見えなくなったので、帰って寝ようとすると、女の救いを求めて叫ぶけたたましい声を聞いた。若者は走って行き、あたりを眺めたが女の姿が見えない。見上げると大きな蜘蛛に捕らえられた蜂が悲しげに鳴いているのだった。
急いで蜘蛛から引き離し、手のひらにのせて部屋に持ち帰った。身にまつわる糸をとりのけてやったが、それは緑色の蜂で、もう息も絶え絶えであった。
やがて蜂はよたよた歩きだした。しずかに硯の池に登って行って、その身を墨汁に投げ入れ、そしてまた出てくると、机の上にうつ伏したままで這って歩いた。その墨跡をたどると、「謝」(ありがとう)の一字になっていた。蜂はしきりに二枚の羽をひろげていたが、やがて窓から外へとんでいった。
このときから緑衣の女は若者の前に二度と姿をみせなかった。(蒲松齢「聊斎志異」)
TBSドラマ「消えた箱舟」(1988年)東京の郊外に一戸建てのマイホームに暮らす男(江森陽弘)は4人家族の平凡なサラリーマン。山口美江扮する宇宙人が男の前に現れる。「14日後に人類は滅亡する。私を信ずるなら船で私とともに地球を脱出しましょう」という。男は家族に話すが誰も信じようとしない。当日、男は一人で指定された場所へいく。だが男は船に乗らなかった。結局、男はマイホームで家族と暮らす。戸外の雨は朝から降り続きやむことはない。
このドラマが制作された時代は情報化やグローバル化が急速に進展していった。そのな世の中で閉塞的な現実から脱出を夢みる人もいた。原発、地震、環境破壊、地球温暖化と異常気象と現在にもっとも重要な課題を提起している優れたドラマである。
1993年のNHK連続テレビ小説「ええにょぼ」。タイトルは丹後弁で「美人」という意味。全国の「美人」を意味する方言を集める。
じょうもん(福岡)
きりょーじん(山梨)
みよいすさん(富山県魚津市)
ちゅらかーぎー(沖縄)
よかおごじょ(鹿児島)
こ面(づら)がはげちょる(大分県宇佐市)
おなごぶりええ(秋田県横手市)
いいつらしといる(宮城県蔵王)
けっこい娘(香川県三豊郡)
じょーきりょう(岡山県玉野市)
めめこよし(千葉県君津市)
しびれかわのむけた人(奈良)
うつやかな娘(京都)
うるわしか(熊本県天草)
えがおよし(兵庫県明石市)
しゃあなおなご(三重県鳥羽市)
もうちゃんべっぴん(島根県益田市)
よけこ(八丈島)
せんみつ(千三つ)とは、「うそつき」「ほらふき」という意味。「千いふ事三つもまことはなしとて、といふ男あり」(浮世草子・桜陰比事)とあり、真実なのは千のうちわずか三つだけという。タレントせんだみつお、芸名の由来でもある。
毛利元就は長男毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景の三人の子供を臨終の枕頭に呼び寄せた。矢を一本ずつ配り「折ってみよ」といった。みんなが難なくそれを折ると、こんどは何本かの矢の束を渡したが、だれも折ることができなかった。「この矢一本折れば、最も折りやすし。しかれども一つ束ぬれば折り難し。なんじらこれを鑑み一和同心すべし。必ずそむくことなかれ」と諭した。これを「束矢(そくし)の教え」あるいは「三矢の教え」「弓矢の教訓」などといい、幕末の人、岡谷繁美が著した 『名将言行録』にも載っている故事で、戦前の修身の教科書にもよく使われた。
しかしこれと同様の話はもともとイソップにある。安土桃山時代、宣教師により伝えられ、「天草本伊曽保物語」が1593年に刊行されているが、毛利元就の死後のことである。なぜイソップの話がアジアに伝わって、どのような経緯で後人が毛利元就に附会したのかは定かではないが、元就自身も兄弟の協力は、くりかえし説いている。「露ほども兄弟の仲が悪いことが芽生えてくれば、滅亡の基と思うべきだ」(隆元宛ての書状)。また61歳のときに書いた三子への教訓状が残っているので、江戸時代に生まれた逸話は同様の趣旨の言葉が基となったのであろう。
ちなみにサッカーJリーグ「サンフレッチェ広島」というチーム名は、サンは日本語の「3」で、「フレッチェ」はイタリア語のfrecce(「矢」の複数形)からとったものである。
日本に初めてピアノが来たのは、1823年のことで、シーボルトが来日したときピアノを持参したといわれる。
ピアノは1709年、イタリア・パドヴァの楽器の修復家バルトロメオ・クリストフォリ・ディ・フランチェスコ(1655-1731)が発明した。しかし18世紀後半のフランスではピアノはクリストフォリではなく、ゴットフリート・ジルバーマン(1683-1753)が発明されたと考えられた。ジルバーマンはピアノの歴史にとって重要な人物ではあるが、その設計は完全にクリストフォリに基づくことが明らかとなった。クリストフォリが製作したピアノが3台現存するが、1726年製作のピアノは、現代ピアノが有する特徴をすべて備えている。ヨーロッパでは木目を生かした茶色が主流であったが、明治になって国産のピアノが生産されるようになって、日本のジメジメした気候のため黒い漆塗りの技法が採用され、その後世界でも黒いピアノが普及していった。( keyword;Bartolomeo Cristofori di Francesco,Gottfried Silbermann )
ハイヒールが描かれている最古の絵は、紀元前4世紀頃のギリシャのテーベにある王侯墳墓の遺跡の中に見られるるそのハイヒールを履いていたのは男性である。ギリシャ演劇の男優たちは「コトルノス」という名のハイヒールを履いて背を高く見せようとしていたし、古代ローマの兵士のサンダルもかかかとが高かった。
ハイヒールの歴史で、巷間ハイヒールは汚物を踏むことを嫌った人たちによって作られた、とまことしやかに言われることがある。16世紀のヴェネチアで流行したチョピンというイスラム風ハイヒールを見ると、舞妓さんの厚底ぽっくりのようである。かえって汚物を踏むので、どうやらこの説は事実とは思えない。初期のハイヒールをいろいろ見たが、底面積の狭い靴を作るのは技術的に無理だったようである。
現在のハイヒールの出現は、20世紀になって女性のスカート丈が短くなったことと関連する。裾から垣間見るものだった靴がスカートの外に出たのである。そのことが、見られることを意識しヒールは様々な姿を生んでいく。「露出するヒール」として1920年代から30年代にアメリカでハイヒールが生まれ、フランスで改良されていく。
(high heels,chopines)
大河ドラマ「軍師官兵衛」の一場面に黒田官兵衛が家紋を「藤巴」にしたのは、有岡城に幽閉されている時に、獄の外から伸びて花を咲かせた藤の花を見て生命力を感じたからという逸話がでてくる。しかし、小寺家の家紋が「橘藤紋」であり、藤の意匠は小寺家から下賜されたもので、官兵衛が小寺姓を名乗っていた時代から使っていたと思われる。
これとは別に黒田官兵衛は、竹中半兵衛からもらった「白餅紋」がある。城持ちとかけたものである。藤の紋は小寺氏の裏切りから、縁が切れて、一時期使えなくなっていたので官兵衛といえば「白餅紋」のほうが知られている。とはいっても律儀な官兵衛は「藤巴紋」と「白餅紋」の2つの紋を併用していたらしい。明治になって侯爵となった黒田家は、「白餅紋」は国旗と意匠が相似することから使用しなくなり、「藤巴紋」を使うようになった。
時刻表にもとづき電車やバスは毎日全国各地を運行している。朝も昼も夜も、多くの人々が利用し、それぞれの人生がある。テレビ東京の人気番組「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」はとても面白い。今回、大阪から金沢の旅だが、汽車や高速バスを利用せず、路線バスだけとなると乗り継ぎがむずかしい。途中、バス路線がなく数キロの雨中行軍や、トンネル工事のため、やむをえずロケ車移動もあったが何とか時間内にゴールできた。この番組の醍醐味は太川陽介や蛭子能収の珍道中にあるが、実はバスの運転手や案内所の職員や旅館の女将、あるいは行きずりの市井の人であるような気がする。ラスト近くでダメかと思われたが、案内所の職員の機転で裏技が発見された。「松本清張のミステリーみたい」という言葉が印象的だった。
BSジャパンの「新春歌謡祭」。テーマ「流行歌100年」とは1914年に発表された松井須磨子「カチューシャの歌」を日本の歌謡曲第1号とするため。8時間の放送で、菅原都々子、青木光一、三条町子、安藤まり子、曽根史郎、雪村いづみ、白根一夫など懐かしい歌手が出演していた。天才少年歌手といわれた三宅広一。「逢いに来ましたお父さん」(1958年)戦死した父が祀られている靖国神社へ息子が訪れるという歌。NSP「夕暮れ時はさびしそう」は天野滋は2005年に死去しているので、中村貴之が一人で歌っていた。スタ誕出身の目黒ひとみ「わたしのシュガー・ボーイ」(画像1975年)も久しぶりのステージながらよく声がでていた。風見しんごの「僕笑っちゃいます」の作曲者が吉田拓郎とは知らなかった。倍賞千恵子のとき、高倉健の話を出して、八代亜紀「舟唄」、「トラック野郎」菅原文太という展開は上手い。歌手協会の主催なので、音楽そのものに愛情があって、紅白よりも心にしみる番組構成に感服。
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