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2014年12月 5日 (金)

寺坂吉右衛門の真相

247ah   赤穂義士はふつう四十七士としている。これは荻生徂徠が「四十七士の事を論ず」の中で、寺坂吉右衛門は大石良雄の密命を受けて離脱(これを黙契という)したと考えたからである。元禄事件が史実を離れて文芸としての「忠臣蔵」とみるならば四十七士でもよかろう。しかし歴史として史料から検討すると、寺坂の黙契説には疑問がある。原惣右衛門の手紙によれば、「寺坂はどう気後れしてか、今少しのところまで来ながら逐電した」とある。寺坂の主人である吉田忠左衛門の記述には「寺坂は不届者、二度と彼の名を言ってくれるな」(堀内伝右衛門筆記)とある。吉田は寺坂が連判状に名を連ねながらいなくなったことに対して「彼は除名だ」という意志を表明しているのである。寺坂が逐電しても世間で問題とならなかったのは、足軽の参加を壮とし称賛する心から、寺坂は知らせの使に行ったのであろうと推測したからである。寺坂の孫信成が編纂した「寺坂私記」なる史料があるがむしろ顕彰するための作り話が多い。またウィキペディアなどに寺坂が四十七士が切腹した後、幕府に自首したとあるが、これも作り話の可能性が高い。四十六士と寺坂の生との間には大きな隔たりがあると考える。平成元年、赤穂市尾の別冊赤穂市史では寺坂は逐電し、義士は46人であるとしている。これは神戸大学の八木哲浩の研究成果が基になっている。これに対して地元の郷土史家たちが異議を唱え、平成4年には当時の市長が「義士は47人である」とする見解を市議会本会議で表明している。政治的、経済的なさまざまな思惑や利権が絡んで騒動となったが、平成9年に市から「赤穂義士論」という冊子を刊行し、飯尾精と八木哲浩との両論を併記することで、この問題は今後の研究にゆだるねことにしている。(参考:八木哲浩「寺坂吉右衛門、その実像」兵庫県の歴史27)

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