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2014年12月 6日 (土)

梶川与惣兵衛と刃傷松の廊下

Hqdefault   毎年この時季になると全国12000人の梶川さんは憂うつになるという。テレビできまって忠臣蔵が放送される。「武士の情けをご存じあれ。その手をはなし今一太刀討たせて下され。梶川どの・・・」梶川与惣兵衛とは浅野匠頭を背後から抱きかかえて止めた人物。そのため吉良の傷は浅手で済んだ。

   元禄14年3月14日午前10時頃、江戸城中で公式の儀式が行なわれる白書院近くの松の廊下で刃傷事件が起こった。勅使接待役である播州赤穂5万3千石の領主浅野内匠頭長矩が差していた小刀を抜いて、梶川頼照と立ち話をしていた高家吉良上野介義央に切りかかった。長矩は、遺恨がある、と叫んでいる。頼照が抱き留める。急を知った高家衆が駆けつけ、両者を引き離し、監察の任にある大目付・目付に連絡をした。まず、城中の自分の控室にいた義央が事の次第を聞かれた。そしてその言い分が聞き入れられ、帰宅を許される。大目付の部屋で監察されていた長矩は、田村右京大夫建顕に当分の間預けるということで、その屋敷に移されたが、午後6時過ぎには建顕邸で切腹の申し渡しを受けた。この時、吉良義央は62歳、浅野長矩は37歳であった。以上が赤穂浪士討入り事件の発端となった「刃傷松の廊下」の概略である。

   松の廊下の主役となった三人、浅野長矩、吉良義央、梶川頼照。この中で梶川のその後はあまり知られていない。大奥留守居番、梶川与惣兵衛頼照は、突然目の前で起こった刃傷に動転し、浅野長矩を組み止めた咄嗟の行為に世間から強い非難の声が上がり、心ならずも彼の人生を、悔恨と自責の一生に終わらせる結果となった。事件より五日経って、刃傷を制した功績によって梶川に五百万加増の沙汰があり、千二百石に取立てられた。本来ならば家門の名誉と喜ぶべきところ、この事件に関する限り世間の目は冷たく、浅野が家名を捨て、死を賭しての刃傷になぜ討たせてやらなかったのか、武士の情けも弁えぬ武骨者よと、厳しい非難の声のみが彼に集中したのであった。晩年の梶川は、享保4年、御鎗奉行の任を辞し、同8年8月8日、77歳で亡くなっている。墓は天徳院(中野区上高田)にある。武士の墓らしく立派な墓塔であるにもかかわらず、無縁墓地の中に置かれ、殆ど訪れる人も無いという。彼もまた、刃傷の犠牲者の一人であった。(参考:林亮勝「元禄事件 その虚と実」、窪田孟「刃傷の犠牲者 梶川与惣兵衛」『忠臣蔵のすべて』新人物往来社収録)

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 梶川与惣兵衛の墓(天徳院)

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