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2014年11月17日 (月)

曲垣平九郎は出世したか!?

Img_836671_25170222_1     寛永11年(1634年)1月28日、将軍徳川家光が芝増上寺参拝の帰りに愛宕山を過ぎる際騎馬で山上の梅花を折ってくる者を求めた。3人が試みたがいずれも落馬し登れる者は1人もいなかった。改めて翌日行うことを決めての帰り際に讃岐高松藩の丸亀城主生駒高俊に仕える曲垣平九郎が申し出て馬に乗り、一気に86段の石段を登って紅梅、白梅を一枝ずつ取り家光に差し出した。家光は「日本一の馬術の名人だ」と誉め、名刀一振を与えたという。石段はこの故事にちなみ「出世の石段」といわれる。本当に曲垣平九郎は出世したのだろうか?

    講談「寛永三馬術」で知られる曲垣平九郎はこれまで長い間、架空の人物といわれてきた。広辞苑にも「伝説上の人物」と記されている。だが「新修丸亀市史」によると、生駒高俊の家臣と曲垣平九郎の名前を史料上で確認している。つまり石段を馬で駆け登ったという話は創作らしいが、曲垣平九郎という人物はほぼ実在したと考えられている。江戸前期の馬術家で、名は盛澄といい、丸亀城主生駒家に仕えていた。1640年、生駒家が御家騒動で滅びると、越前国の松平忠直に仕えたが、忠直も罰せられたので浪人のすえに没した。平九郎は出世せず、不遇の人生だった。

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