唐と吐蕃
上掲の地図は吉川弘文館の「標準世界史地図」を一部引用したものである。8世紀後半、西から吐蕃、ウイグル、唐、渤海、新羅、日本という国家が存在していたことがわかる。吐蕃とはいまのチベットのことである。
7世紀の頃、東アジアに強大な勢力を振るった唐も、玄宗皇帝の治世を頂点として8世紀の後半から次第に衰えはじめた。安史の乱(755-763)によって、華北の要地の多くは反乱軍に奪われたが、ウイグルなどの援助で回復した。唐は節度使の軍閥化により、衰退に向かう。
チベット西方高原にいた「吐蕃」の漢字名称は、もともとチベット族の有力部族名「発」「蕃」などの呼称に由来している。吐蕃王朝の起源は明らかでないが、その祖先はネパールの北西部からカシミールの東部チベットのカムに移動して活発となった。中央チベット南部のヤルルン(渓谷)に拠った一部が、6世紀後半に台頭して王朝の基礎をつくり、7世紀中葉、ソンツェン・ガンポ(?-649)のとき吐蕃は国力が強大となった。鮮卑族の吐谷渾(とよくこん)の没落に乗じて勢いを伸ばし、しばしば唐を侵攻したので、唐は和蕃公主として皇女・文成公主を降嫁させ、その慰撫に努めた。8世紀後半以降、吐蕃は軍事国家として、西南部の支配権を完全に握った。
吐蕃は仏教を受容し、インド系の文字をもとにして独特のチベット文字をつくった。823年、ラサに建てられた「唐蕃会盟碑」は、両国の和約を記したものである。吐蕃の隆盛期は約200年にわたった。11代目のラン・ダルマが仏教弾圧してから衰退に向かった。ダルマ廃仏以後は、中央チベットの情勢は不明の点が多いが、宋代では、これをやはり吐蕃と称している。元代にも吐蕃という名称は用いられたが、それは単にチベットという地域的な名称にすぎないものとなっている。チベット独立問題、つまりチベット人のアイデンティティーの歴史的根拠は吐蕃王国にあるといえる。
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