土居市太郎
明治後期、将棋界は新聞の勝ち抜き戦連載によって新世紀を迎えた。時の十二世名人小野五平はすでに老齢、現役を退いて久しい。代わって関根金次郎八段が陣頭に立った。関根はたびたび全国を遍歴して強豪を訪ね、実績を重ねて八段位を戦いとったが、旅の間に大阪の鬼才坂田三吉が世に出る機会を作り、さらに四国の天才児土居市太郎を発掘、一番弟子とした。しかし、坂田の進境は実に目覚ましく、関根・坂田の時代となる。「♪明日は東京に出ていく行くからは、何がなんでも勝たねばならぬ」流行歌「王将」の歌詞に出てくる坂田三吉の初上京は大正2年4月のことである。「銀が泣いている」という名セリフを生んだほど苦戦した坂田が名角を放ち、逆転勝ちした。八段に昇った坂田はまず井上義雄を降し、大正6年に三度上京して関根にも勝つ。東京棋界あわや制圧、の危機に土居市太郎七段が平手で坂田を破り救世主となる。これで、関西から名人を、という夢は消えた。殊勲の土居は6年末、八段に昇り関根に代わって将棋同盟社を率いる。8年夏、坂田・土居の大阪対局は延べ6日、50時間を費やして坂田勝つ。大正13年、三派に分かれていた棋士団体が、「東京将棋連盟」として生まれ変わり、土居は初代会長になる。昭和15年、定山渓の決戦で木村義雄ら敗れるまで、実質、「土居時代」が続いた。だが土居は名人位に就くことは一度もなかった。
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コメント
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土居市太郎先生は時代に翻弄された可哀想な方でしたね。
関根十三世名人が名人位の移譲を行っていれば。
木村義雄名人との対決の際に全盛期であれば。
間違いなく名人位を得ていたでしょうに。
投稿: きたろう | 2015年2月11日 (水) 09時35分