« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »
是枝裕和監督の最新作「海街diary」が話題である。豪華な四姉妹のキャスティング。男の兄弟が存在しない純粋な四姉妹は、現実では中々お目にかかれないが、フィクションでは屡みられる。元祖四姉妹ものはオルコットの「若草物語」だが、マーチ家の四姉妹の特徴を受け継いでいることが多い。長女はしっかり者、次女は活発、ボーイッシュ。メインヒロインの確率が高い。三女は控えめで大人しい。四女は甘えん坊だが、とてもマセていて耳年増。
上から次女はキャサリン・ヘプバーン、ジューン・アリスン、浅丘ルリ子、八千草薫、ウィノナ・ライダー、長澤まさみ。
今宵もBSでダイアン・レーン主演の「理想の恋人.com」を見る。離婚したばかりの幼稚園の教諭サラ・ノーラン(ダイアン・レーン)は落ち込んでいる。姉のキャロル(エリザベス・パーキンス)はサラになりすましてインターネットの恋人募集サイトに無断で登録する。「当方、グラマーでユーモア抜群。愛犬家に限る」まもなくサラは殺到する恋人候補とのデートで大忙しになる。なんと50歳といっていた男は、サラの父親の71歳のビル(クリストファー・プラマー)だった。悲惨な初デートの連続の中で、サラが気になる男性が一人だけ。ボートの設計者のジェイク(ジョン・キューザック)だ。ビルからジェイクの本当の気持ちを知ったサラは真実の愛を自ら進んでつかむ。ネットで見つけた理想の恋人探しをロマンチック・コメディとしてまとめている。
40歳を越えて主演作品が続くダイアン・レーン。思えば、80年代初頭は美少女スターが花盛りだった。ブルック・シールズ(「青い珊瑚礁」「エンドレス・ラブ」)、テータム・オ二ール(「インターナショナル・ベルベッド」「リトル・ダーリング」)、クリスティー・マクニコル(「リトル・ダーリング」)、ジョディー・フォスター(「白い家の少女」「フォクシー・レディー」)、そしてダイアン・レーン(「リトル・ロマンス」「ラスト・レター」)。ジョディー・フォスターは別格として、一番個性的ではなかったダイアン・レーンが今日までスター女優として生き残れたのは何故だろうか。それはダイアンが少女のみずみずしさを保ちながら、大人の女性としての知的なセンスを磨きあげたことに、現代女性から支持されたのだろう。映画「理想の恋人」は決して名作ではないかもしれないが、リラックスして大人が楽しめる娯楽作品に仕上がっている。ダイアン・レーンも適役である。美少女スターが年をとって老け顔になっても、年齢が魅力になって人気が回復したケースは稀であろう。
テレビコマーシャル「わんぱくシリーズ」(丸大食品) 田中浩 岡田裕介
いま学校給食の牛乳パックを口をつけてそのまま飲むか、ストローを使って飲むかで論争がある。姫路市内の小学校では68校のうち56校がパックの上部を開封して口をつけて飲むようにしていた。校長の一人は「環境保護につながると思い、現場では疑問を感じなかった」と言っている。おそらく父兄のなかから食事マナーで疑問に思う人がいて、教育委員会で問題になったのだろう。教育委員会というところは騒ぎを一番嫌うところで、本質的な論議もないまま、現場へ異例の「ストローを使うように」と改善命令の指示をしている。現場では子どもたちはあまり抵抗感なく直接飲みをしていたようだ。一部にストローを使いたい子どもがいれば渡せば済むこと。他府県の小学校でも直接飲みをしているところもある。全国一律にストローを使う必要が本当にあるのだろうか。環境保護にあまり効果はないと言うが、牛乳は毎日のことであるし、全国の児童数だけのストローが1日に消費されると膨大な量である。直接飲みかストローを使うかはストロー業者にとっては死活問題かもしれない。学校給食の習慣というのは家庭においても、また将来もそうするように、というマナーを身につける意味があるのだろう。そうすると学校での「紙パック直接飲み論争」は将来にわたる日本人の慣習の根幹にかかわることであり、経済的な問題も大きい。学校教育に使われる税金だけではなく、家庭での消費にも及ぶ。つまり一律をまなぶのではなく、多様性を学ぶことも大切だと思う。マナーはマナーで別の時間にきちんと学べばいい。むしろ「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」も大切。地震などでの避難所生活や困窮者になっても生き抜いていけるサバイバル力を身につけたほうがいいのではないかと脱脂粉乳で育った世代は思う。たぶん教育論争、とくに子どもの「しつけ指導」は意見が分かれるだろうと思うが。
一見まじめそうなサラリーマン風のおじさんが小指をたてて「私はこれで会社を辞めました」というCMが大ヒットしたのが1985年のことである。マルマンの禁煙パイポは3倍に売り上げを伸ばした。イタリアの諺に「勇敢な男とうまいワインは早くなくなる」というのがある。上手い言い方や口調はすぐに流行するが、飽きられるのも早い。CMのキャッチコピーを知るっているか、知らないかで世代がわかる。
1953年 ゴホンといえば龍角散
1957年 クシャミ3回、ルル3錠
1961年 トリスを飲んでハワイへ行こう
1963年 私にも写せます
1964年 りんごをかじると血がでませんか
1966年 スカットさわやかコカ・コーラ
1968年 わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい
1968年 大きいことはいいことだ
1969年 オー猛烈
1970年 男は黙ってサッポロビール
1970年 う~ん、マンダム
1975年 わたし作る人、ぼく食べる人
1977年 すこし愛して、ながく愛して
1980年 いまのキミはピカピカに光って
1982年 タコが言うのよ
1985年 私はコレで会社をやめました
1990年 女房酔わせてどうするつもり
1994年 すったものだがありまして
1995年 見た目で選んで何が悪いの
1995年 ひとやすみ、ひとやすみ
キャッチ・コピーの元祖は浜田四郎の「今日は帝劇、明日は三越」
年末になると「第九」が演奏される。なぜ年末に「第九」なのか。むかし、オーケストラの団員が貧しくて、年越しのお金を稼ぐために演奏会に第九を演奏したのが始まりといわれる。べートーヴェンは交響曲を9番まで作って亡くなった。それ以後の作曲家たち、シューベルト、ブルックナー、ドヴォルザークも、何故か交響曲を9番目まで作ると死んでいる。マーラーはこのことを非常に怖れて、9番目の交響曲にはNoをつけず、「大地の歌」という題をつけた。しかしマーラーは「第九の呪い」を克服しよう、迷信を打破するために、ついに9番目の交響曲「第九」を作曲し、10番目の交響曲にも着手したが、ついに完成を迎えることなくこの世を去ってしまった。
高倉健の追悼番組が続く。彼の暖かい人柄を感じさせるエピソードは多い。気遣いの人でお世話になった人への手紙やスタッフたちへの心遣い、その律儀な性格はむかしの良き日本人を思わせる話ばかりである。彼のとっておきのエピソードを1つ紹介する。
特攻隊の生き残りが苦悩する「ホタル」という映画の試写会で鹿児島の高校生と高倉健がトークするという事があった。冒頭に女子高生がこう質問した。「高倉さんは日本人に生れてよかったと思いますか」高倉は「日本人に生れて誇りに思います」と率直に答えた。だが健さんの言葉少ない対応に、会場がシーンとなった。しばらく沈黙していた健さんも、会場の異様な沈黙に気が付いたのか、怪訝な口調でこういった。「何か変なこと言いましたか?」ところが質問をした女子高生が沈黙のまま泣き出した。そこで、空気を読んだ他の高校生がこう質問した。「高倉さんが実際の特攻隊員だったら、それでも日本を誇りに思いますか」それまで椅子に掛けて対応していた健さんは、会場の異様な空気に気が付き、立ち上がってこう答えた。「取り乱してスミマセンでした。実際に特攻隊になった場合のことはわかりません。ただ私は日本人として生れたことを誇りに思っています」
この高校生たちと健さんとのトークはここで終わっている。おそらく高校生たちは健さんが若者が特攻で犬死したのは、日本という国が悪い、という批判的な発言を期待していたのだろう。そのため健さんの想定外のコメントに女子高生は動揺して泣いてしまった。健さんは大人の対応で謝罪したが、「取り乱した」のは高校生側であり、健さんは何も取り乱していない。健さんは素直に日本人として当たり前の発言をしたに過ぎない。高校生には賢しらな政治的発言が受け入れやすいが、真っ直ぐで純朴な健さんの生き方が分かるのは多少時間がかかるのかもしれない。
ナイアガラ運動(Niagara Movement)とは、アメリカの黒人解放運動の指導者ウィリアム・デュボイス(1868-1963)の呼びかけではじまり、黒人の権利獲得のために黒人を組織化しようとした運動である。第1回会議は1905年7月ナイアガラ瀑布付近で、第2回は1906年8月ジョン・ブラウン(1800-1853)の叛乱の地ハーバーズ・フェリー(ウェストバージニア州ジェファーソン郡)で行われ、黒人のための完全な人権の確立、公共施設における差別待遇の撤廃、だれとでも交際できる権利の獲得、黒人保護のための効果ある法律の制定、子弟の教育の保障を要求した。第3回、第4回はボストン、オバーリンとそれぞれ東部と西部における奴隷解放運動の中心地で開かれた。アメリカの近代黒人解放運動に果たした役割は大きい。(世界史)
奈良時代から平安時代、紙はまだ貴重だったので通常は木簡が書写の材料として用いられた。長さは20センチから30センチ程度のものが多い。ところが2007年、歌会専用の推定74センチもある長い木簡が存在したことが報道されていた。(朝日新聞2007.11.29)「儀式で長い木簡に和歌を書き、出席者全員で唱和したのではないか」と栄原永遠男教授(大阪市立大大学院)は話している。
ところで古代中国では、木簡の長さに一定の規準があったようである。その長さは、文書の用途や重要度によって異なっていた。六経(易・書・詩・礼・楽・春秋)はすべて2尺4寸、「孝経」は1尺2寸、「論語」は8寸の簡だった。というのは、「孝経」と「論語」は、9世紀に至るまでは、儒教における経典とは見なされていなかったからである。
漢代に用いられた木簡の標準的な長さは、約23センチである。23センチというのは、漢尺の1尺に当たる。木簡の長さが意味をもっている。漢には「尺一詔」(しゃくいつのしょう)という言葉がある。普通の文書が1尺であるのに対して、皇帝の詔は1尺1寸の木簡を使ったことからできた言葉である。「塩鉄論」貴聖篇には「二尺四寸の律」とあり、「史記」酷吏伝には「三尺の法」という言葉もある。律令は長い簡に書かれていたらしい。後漢の劉熙の書いた「釈名」には「槧」(ざん)という文字に「版の長さ三尺のもの」という説明がある。漢代の3尺というと約70センチの長さである。ただし三尺もの長い木札をどのように使われたのかは知らない。
滝沢英輔という監督は長谷川一夫の「伊那の勘太郎」(小畑実の主題歌がヒット)など時代劇で知られる。二川文太郎の実弟(阪東妻三郎の「雄呂血」の監督)でキャリアは古い。戦後は日活再開第一作「国定忠治」(昭和29年)も彼の作品。この老監督が美少女にぞっこんだったらしい。「無法一代」で芦川いづみを起用すると、その後、「佳人」(昭和33年)、「祈るひと」(昭和34年)、「しろばんば」(昭和37年)と得意の時代物をやめて現代劇に挑戦している。芦川いづみの持つ最も清楚な少女性を開花させた監督は滝沢英輔かもしれない。
ところで「祈るひと」で終戦直後の少女の思い出シーンがある。実際に芦川いづみは昭和10年生まれなので、終戦の記憶はあるだろう。この戦争体験のある少女が結婚適齢となって変っていく東京で自分の幸せをどう探していくかがテーマになっている。北原三枝(昭和8年生まれ)、浅丘ルリ子(昭和15年生まれ)、吉永小百合(昭和20年生まれ)となるが、芦川いづみは日活全盛期の昭和32年から35年まで、22歳から25歳という女性として最も美しい時代と重なったことは映画女優として幸福であった。吉永小百合などは斜陽が見え出した時期なので日活と揉めている。昭和10年生まれとは、戦争の記憶のある最後の世代といえる。戦争体験が重要なファクターとみれば、日本人は昭和10年を境に大きく変る。今年で芦川いづみ79歳である。ちょっと信じられないが。
上掲の地図は吉川弘文館の「標準世界史地図」を一部引用したものである。8世紀後半、西から吐蕃、ウイグル、唐、渤海、新羅、日本という国家が存在していたことがわかる。吐蕃とはいまのチベットのことである。
7世紀の頃、東アジアに強大な勢力を振るった唐も、玄宗皇帝の治世を頂点として8世紀の後半から次第に衰えはじめた。安史の乱(755-763)によって、華北の要地の多くは反乱軍に奪われたが、ウイグルなどの援助で回復した。唐は節度使の軍閥化により、衰退に向かう。
チベット西方高原にいた「吐蕃」の漢字名称は、もともとチベット族の有力部族名「発」「蕃」などの呼称に由来している。吐蕃王朝の起源は明らかでないが、その祖先はネパールの北西部からカシミールの東部チベットのカムに移動して活発となった。中央チベット南部のヤルルン(渓谷)に拠った一部が、6世紀後半に台頭して王朝の基礎をつくり、7世紀中葉、ソンツェン・ガンポ(?-649)のとき吐蕃は国力が強大となった。鮮卑族の吐谷渾(とよくこん)の没落に乗じて勢いを伸ばし、しばしば唐を侵攻したので、唐は和蕃公主として皇女・文成公主を降嫁させ、その慰撫に努めた。8世紀後半以降、吐蕃は軍事国家として、西南部の支配権を完全に握った。
吐蕃は仏教を受容し、インド系の文字をもとにして独特のチベット文字をつくった。823年、ラサに建てられた「唐蕃会盟碑」は、両国の和約を記したものである。吐蕃の隆盛期は約200年にわたった。11代目のラン・ダルマが仏教弾圧してから衰退に向かった。ダルマ廃仏以後は、中央チベットの情勢は不明の点が多いが、宋代では、これをやはり吐蕃と称している。元代にも吐蕃という名称は用いられたが、それは単にチベットという地域的な名称にすぎないものとなっている。チベット独立問題、つまりチベット人のアイデンティティーの歴史的根拠は吐蕃王国にあるといえる。
明治後期、将棋界は新聞の勝ち抜き戦連載によって新世紀を迎えた。時の十二世名人小野五平はすでに老齢、現役を退いて久しい。代わって関根金次郎八段が陣頭に立った。関根はたびたび全国を遍歴して強豪を訪ね、実績を重ねて八段位を戦いとったが、旅の間に大阪の鬼才坂田三吉が世に出る機会を作り、さらに四国の天才児土居市太郎を発掘、一番弟子とした。しかし、坂田の進境は実に目覚ましく、関根・坂田の時代となる。「♪明日は東京に出ていく行くからは、何がなんでも勝たねばならぬ」流行歌「王将」の歌詞に出てくる坂田三吉の初上京は大正2年4月のことである。「銀が泣いている」という名セリフを生んだほど苦戦した坂田が名角を放ち、逆転勝ちした。八段に昇った坂田はまず井上義雄を降し、大正6年に三度上京して関根にも勝つ。東京棋界あわや制圧、の危機に土居市太郎七段が平手で坂田を破り救世主となる。これで、関西から名人を、という夢は消えた。殊勲の土居は6年末、八段に昇り関根に代わって将棋同盟社を率いる。8年夏、坂田・土居の大阪対局は延べ6日、50時間を費やして坂田勝つ。大正13年、三派に分かれていた棋士団体が、「東京将棋連盟」として生まれ変わり、土居は初代会長になる。昭和15年、定山渓の決戦で木村義雄ら敗れるまで、実質、「土居時代」が続いた。だが土居は名人位に就くことは一度もなかった。
近くに映画館がないのでこの10年間、映画館で映画をみていない。いまどんな映画が公開しているかも知らない。2014年から2015年公開予定を含めてネットで調べる。「ゴーン・ガール」(ベン・アフレック)、「きっと、星のせいじゃない」(シャイリーン・ウッドリー)、「泣く男」(チャン・ドンゴン)、「6才のボクが、大人になるまで」、「マレフィセント」(アンジェリーナ・ジョリー)、「トランセンデンス」(ジョニー・デップ)、「天国はほんとうにある」、「神は死んだのか」(シェーン・ハーバー)、「ガガーリン」、「イミテーション・ゲーム」、「チャーリー・モルデカイ」、「アニー」、「エクソダス」、「ジュピター」、「シンデレラ」、「ワイルド」、「セオリー・オブ・エヴリング」「リライト」「ホーンズ」、「余命90分の男」、「トレヴィの泉で2度目の恋を」、「アナベル」、「MIRACLE」、「おみおくりの作法」。
「セオリー・オブ・エヴリシング」
「きっと、星のせいじゃない」
「おみおくりの作法」
本日はロシアの天才数学者ニコライ・ロバチェフスキー(1792-1856)の誕生日。本人の写真は1枚も残っていないので、頼れるのは肖像画だけである。だが十数種類はどれも同一人物とは思えないほど異なっている。1829年、彼はユークリッド幾何学とは、まったく異なる幾何学が成り立つ可能性を発表したが、難解のため人々に認められなかった。彼の著作はフランス語に訳され、非ユークリッド幾何学の創始者として認められている。彼の名言に、「いかに抽象的であろうと、いつの日か現実世界の理象に適用されないような数学の分野は無い」と言うのがある。( Nicolai Ivanovitch Lobatchevskii,11月20日 )
小熊秀雄(1901-1940)は、昭和15年11月20日、東京の豊島区千早町のアパートの一室で39歳の若さで死んだ。「泥酔歌」という詩はおそらく死ぬ前年ごろに作られたものであろうか。
暗い隅から
レコードが歌ひだした
不安なキシリ声から始まった
哀愁たっぷりのジャズだ
女に歌の題をたずねると
「夢去りぬ」といふ、
俺はそれを聞くと
酔ひが静かに醒めてきた
ほんとうだ 夢は去ったのだ、
とつぜん俺は機嫌がよくなった。
よろよろと扉をひらいて戸外にでた、
古ぼけた痲痺を追っている
多数の人々の姿を
俺はぼんやりと瞳孔の中に映しだした
夢去りぬ、俺は蚊の鳴くやうな
小さな声で人々にむかって呟やいた
小熊が聞いたレコード「夢去りぬ」とは、どんな曲であろうか。「夢去りぬ」は昭和14年に発売されたときは、「Love‘s Gone」という題で、ラベルにもハッター作曲、ヴィック・マックスウェル楽団演奏と刷られていた、と資料にある。当時ジャズ音楽は敵性音楽とみなされ、服部良一(1907-1993)が盟邦ドイツのタンゴと偽装して出したレコードだった。戦後の昭和23年に霧島昇が日本語歌詞のレコードを出した。
ところが、当時を知る老人(高柳重信)の思い出を語るブログ記事では、確かに日本語歌詞で題も英語ではなく、日本語の「夢去りぬ」であったといっている。これを老人の記憶違いと記事者(須永朝彦)は書いているが、この小熊秀雄の「泥酔歌」を読むかぎり、「夢去りぬ」は「レコードが歌ひだした」とあることから、歌詞があったようで、女(カフェーの女給)が咄嗟に英語の題を訳して「夢去りぬ」といったとは考えにくく、おそらくレコードのレーベルに日本語で「夢去りぬ」と書かれていたのであろう。つまり「夢去りぬ」は二種のレコードが昭和14年に存在していたのである。
抵抗の詩をうたいつづけた詩人・小熊秀雄と音楽家・服部良一という二人のモダニスト・芸術家が日中戦時下、お互い名前も知らぬまま間接的に遭遇していたのである。「夢いまだ さめやらぬ 春のひと夜 君呼びて ほほえめば 血汐おどる ああ 若き日の夢 今君にぞ通う この青春のゆめ さめて散る花びら」
将棋の歴史を書きはじめるにあたって、いつの時代に求めるかは悩ましい問題である。将棋を指すことを職業とする棋士が存在し、その棋士たちが一定の秩序のもとに組織化されたのは、初代大橋宗桂からで、つまり西暦1612年のことである。大橋宗桂以来330有余年、名人位は終身制であったが、小野五平12世名人の次の名人を決める大正6年ころから実力による名人がいわれるようになった。終身名人の小野は長命であったため関根金次郎はなかなか名人を襲位することができなかった。やがて大阪から阪田三吉が台頭すると、関根・阪田の時代が大正から昭和と続いた。大正13年、関根は13世名人を襲位する。昭和12年になってようやく第1回の名人戦が行われ、木村義雄が優勝し、実力による短期名人戦の時代がはじまる。昭和25年、大山康晴が木村に勝利し、29歳で名人位に就く。昭和47年の第31期名人戦で中原誠が大山康晴を4対3で破り、名人位に初めて就く。以後、中原時代が長く続き、少しだけ谷川浩司の時代があり、すぐに羽生善治の時代となる。
元(はじめ)ちとせ、中(あたり)孝介。奄美大島の歌手には一文字姓が多い。奄美の姓の一文字化は1609年の薩摩藩の奄美大島制圧にはじまる。制圧以前はもちろん奄美の人々の姓は2文字姓だった。しかし制圧者・薩摩藩の人間と区別するために奄美の人々は姓を一文字にするように命ぜられた。元、伊、龍、中など10種類程度の中から選び、藩が名字を許可する。奄美の一文字姓には差別支配の歴史が刻まれている。
1960年代、米国TV史上最高といわれる高視聴率を稼ぎ出したスター「逃亡者」のデビッド・ジャンセン(1931-1980)が亡くなって最早34年が過ぎた。テレビ界ではスターだが映画ではイマイチ代表作がない。日本語版ウィキペディアではわずか映画は9作品が紹介されている。実際は45本ある。内訳はテレビ「逃亡者」出演以前の1963年以前が31本、1964年から1980年までが14本である。1950年代は映画スターだったのだ。「戦場よ永遠に」(1960)はサイパン島で日本人に投降を呼びかけた海兵隊員ガイ・ガバルドン(1926‐2006)の実話戦記。ガバルドンには主役のジェフリー・ハンターが演じた。早川雪舟も出演しているが、日本ではあまり注目されなかった。デビッド・ジャンセンは「グリーンベレー」(1967)にも出演している。Guy Gabaldon
中央で座っているのがガイ・ガバルドン。左からジェフリー・ハンター、ビッグ・ダモン、デビッド・ジャンセン。 写真は英雄を囲んでのスナップだが、リラックスしたいるジェフリー・ハンターとは対照的にジャンセンは緊張して表情が硬い
寛永11年(1634年)1月28日、将軍徳川家光が芝増上寺参拝の帰りに愛宕山を過ぎる際騎馬で山上の梅花を折ってくる者を求めた。3人が試みたがいずれも落馬し登れる者は1人もいなかった。改めて翌日行うことを決めての帰り際に讃岐高松藩の丸亀城主生駒高俊に仕える曲垣平九郎が申し出て馬に乗り、一気に86段の石段を登って紅梅、白梅を一枝ずつ取り家光に差し出した。家光は「日本一の馬術の名人だ」と誉め、名刀一振を与えたという。石段はこの故事にちなみ「出世の石段」といわれる。本当に曲垣平九郎は出世したのだろうか?
講談「寛永三馬術」で知られる曲垣平九郎はこれまで長い間、架空の人物といわれてきた。広辞苑にも「伝説上の人物」と記されている。だが「新修丸亀市史」によると、生駒高俊の家臣と曲垣平九郎の名前を史料上で確認している。つまり石段を馬で駆け登ったという話は創作らしいが、曲垣平九郎という人物はほぼ実在したと考えられている。江戸前期の馬術家で、名は盛澄といい、丸亀城主生駒家に仕えていた。1640年、生駒家が御家騒動で滅びると、越前国の松平忠直に仕えたが、忠直も罰せられたので浪人のすえに没した。平九郎は出世せず、不遇の人生だった。
1980年に、日本の自動車生産台数は1100万台となり、アメリカを抜き、世界一の王座を占めた。この一事が象徴するように、第2次世界大戦の敗戦からわずか35年で急速に立ち直った日本経済の目覚ましい発展ぶりに対する世界の驚きは、他方では、日本文化への好奇心と畏敬という形で盛り上がり、さまざまな面で日本独自の現象がみられた。これをジャパネスク現象と呼び、一種の流行語となる。1981年の流行語は「なめんなよ」(なめ猫)「クリスタル族」「ハチの一刺し」「ぶりっ子」「ギンギラギンにさりげなく」「ルビーの指輪」。またこの年「ノーパン喫茶」が全国的にブームとなる。発祥は1978年の京都市河原町の「ジャニー」だが数年後には、東京で170店舗、大阪で140店舗以上が現れた。喫茶店の給仕の女性がパンツを穿いていないことと、床を鏡張りにして、覗きやすいように工夫している。コーヒー1杯はだいたい2000円~3000円程度。
Live fast,die young,have a beautiful corpse
速く生き、若く死に、美しい死体になろう
「名言名句」の類の本にはジェームズ・ディーンの言葉とある。1955年に24歳の若さで自動車事故死した青春スターの言葉にとても相応しい。だが出来過ぎの感がある。本当に彼の言葉なのか調べたが出典がわからない。もとは彼の言葉ではなく1949年のハンフリー・ボガート主演の映画「暗黒への転落」のセリフであることがわかった。シカゴの貧民街に住む不良青年ジョン・デレクが警官殺害の嫌疑を受ける。弁護士のボギーが熱弁をふるって、勝利を得たかにみえたが、一転、死刑の判決を受ける。「速く生き、若く死に、美しい死体になろう」というジョン・デレクの台詞がアメリカ社会にちょっとした衝撃を与えたようである。それが数年後、ジェームズ・ディーンの事故死によって、彼の言葉にすり替わってしまったのであろう。
相撲の語源は素舞(すまひ)という説があり、相撲は奉納するものだった。静岡市駿河区八幡山にある八幡神社(はちまんじんじゃ)には幼児の成長を祈願する相撲神事がいまものこる。「古式土俵子供土付」といって、小学生の子ども横綱と、5歳までの赤ちゃん力士が土俵に上がる。対戦は、一度横綱が押し、その後押し出しで、赤ちゃんが勝つ。起原は、今川義元の父、今川氏親(1470-1526)が5歳の時に小鹿範満との間で起こった跡目相続が由来とも伝えられている。
さびしくなると訪ねる坂道の古本屋
立ち読みをする君に会える気がして
むかしの流行歌にはいい歌詞が多い。一節歌えば青春時代にタイムスリップできる。ちょっと貧乏くさいところが若者らしくて好きです。この古本屋はおそらく駅前にある小さな古本屋。古くからあってあまり学術的な本のあるところでなく、読物や雑誌の安物。でも若者には古い雑誌って、結構新鮮で新しい発見があった。いま、図書館でもブックオフでもキレイで品揃いもいいけど、ワクワク感がなくて何か物足らない。むかし古本屋めぐりをしたときは何が出てくるか分からない古本屋がいろいろあった。戦前のゴッホの画集を発見したときは驚きだった。今日、ブックオフで古本を7冊持っていって買い取ってもらったら、なんと10円と査定された。一冊だけ値がついたが、あとは古くてダメ。ブックオフは内容ではなくて本の状態により値が決まる。
ニヒリズム nihilism とは、この世界には真理、本質的な価値などないとする哲学的立場である。名称はラテン語のNihil(無)に由来する。
日常生活を営む中で、我々の周囲には常に他者がいる。恋人や友人、家族、職場の同僚、単なる知人や全くの見知らぬ人。相手の親しさや関わりの深さはそれぞれの異なるものの、我々は常に他者との繋がりを求めているように思われる。そのため、他者による拒絶に出会って、目標追求を喪失するという体験をしばしばもつ。たとえば、恋人からの別れの言葉、友人のからかい、イジメ、知人による無視、両親の無理解など。その程度に差はあるが、社会的拒絶はわれわれすべての人の日常生活に偏在している。このような社会的拒絶は、当事者にとって極めてネガティブな体験であり、苦痛となる。「なぜ相手から嫌われるのか」「自分のどこが悪かったのか」と不安を感じる。そして生きていくことそれ自体が無意味に感じられたりする。これは程度の差こそあれ、すべての人が抱く感情である。哲学的定義としてのニヒリズムではないが、日常的なニヒリズム体験である。明るく希望を持ち、努力を通じて自己を実現し続け、死への恐れを全く知らないで大往生することが、はたして究極の人生であろうか。耐え難い苦痛や不安の中でニヒリズムとつきあいながら、平常心で死んでいくという立場もあるのではないか。
中村修二が元勤務先の日亜化学に対して仲直りを求めたところ、断られたという。ノーベル賞や文化勲章をもらった自分はエライので、何でも通用すると思ったのだろうが不発に終わった。ネットではむしろ日亜化学の対応を支持する意見も多い。そもそも企業は利潤を追求するところで、親睦会ではない。退職者と仲良く面談する必要などないというニヒリズムの世界。中村は優れた研究者ではあっても思想や行動はいただけない。
ドイツ・テューリンゲン州の都市ワイマール(Weimarer)は18世紀バッハやゲーテ、シラーなど古典主義の文化が花開いた地として知られる。また第一次大戦後、帝政が倒れて共和国となったのでワイマール共和国と呼ばれている。ワイマールはヴァイマール、ワイマル、ヴァイマー、ワイマー、ウァイマーなどとも表記される。教科書では「ヴァイマル」と表記するのが一般的である。「wei」から始まるドイツの人名・地名は多い。言語学者ワイスゲルバー、哲学者ワイスハウプト、家具製作者ワイスワイラー、哲学者ワイセ、小説家ワイゼンボルン、女優のワイゲル、物理学者ワイッゼッカー、人類学者ワイデンライヒ、鉱物学者ワインシェンク。「ターザン」で知られる米国の俳優ワイズミュラーも名前からわかるようにドイツ系移民の子である。やはり慣用的になれ親しんだからか「ワイマール」「ワイズミュラー」のほうが使い勝手がよい。
紀伊半島中部から、四国北部、瀬戸内海沿岸をへて北九州にかけての、いわゆる二上火山列に沿って分布する黒色堅緻な紫蘇輝石安山岩。讃岐(香川県)屋島などで産出することから早くから「讃岐岩」として知られたが、明治になってドイツの鉱物学者アーネスト・ヴァインシェンク(画像1865-1921)によって「サヌカイト(sanukite)」という学名が命名された。ヴァインシェンクがどのように入手したかは不明であるが、おそらく当時来日していた地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマンから入手したものであろう。考古学者の浜田耕作が大阪府国府遺跡の発掘で出土した「石核」について大阪と奈良の境にある二上山出土の原石によることを指摘して以来、これが有名になった。先縄文、縄文および弥生時代に打製石器の主な材料となった。(参考:樋口清之「大和竹之内石器時代遺跡」 1936) E. Weinschenk、ワインシェンク、バインシェンク)
ロンドンを訪れた人が郊外まで出かけるとき、必ず立ち寄るといわれる観光地ウィンザー。ウィンザー城(Windsor Castle) はロンドンの西方36㎞に位置し、テムズ河に臨む閑静な地。1066年、ウィリアム1世によって創建されたといわれる。ノルマン王朝、プランタジネット王朝などの諸王たち、エドワード3世(在位1327-1377)、ヘンリ4世(在位1399-1413)などこの城で生れている。このようにウィンザー城は中世から近世に至る850年間の長い間、イングランド王家の重要な城郭宮殿であった。19世紀ヴィクトリア女王のとき、バッキンガム宮殿を王宮と定めてからは、ウィンザー城は離宮となり、現在に至っている。(世界史)
ローマカトリックのもっとも重大な儀式がおこなわれるバチカンにあるサンピエトロ大聖堂の壮麗な建物を知らない人はいない。現在の建物は16世紀初めから17世紀にかけ建造されたもので、この聖堂の起源は313年コンスタンティヌス大帝時代にさかのぼる。当時は教皇の居所はラテラノにあり、14世紀後半、教皇の居所と聖庁がバチカンに置かれるようになり、サンピエトロ大聖堂に隣接して教皇の宮殿が建てられた。画像はコンスタンティヌス帝時代のバシリカ想像図。現在のサンピエトロ大聖堂の基礎石の設置式典が行われたのはユリウス2世の時代1506年4月18日である。貴重な歴史的コレクションが所蔵されているバチカン図書館は愛書家のシクストゥス4世の時代、1475年に創設された。
(Basilica di San Pietro in Vaticano、世界史)
パリで最も美しいゴシック建築であるノートルダム大聖堂は1225年ルイ8世のとき完成した。左右に2つの塔を配し、戸口は正面に3つ並び、中央戸口の上方に美しいステンドグラスで有名な「バラ窓」がある。心理学者フロイトが1885年に観光で立ち寄り、あまりの美しさに感動して2度上り、後に妻となる女性に聖堂の写真を土産にした。
ところで建物の終端に飾られた怪物などをかたどった彫刻はなんのためにあるのか。ガーゴイルと呼ばれ、外に大きく突き出ているのが多いのは、雨水が石壁を伝わって流れることで壁にある彫刻を侵食してしまうのを避けるためである。西洋建築ではローマ時代から水の排水口などに怪物をかたどった彫刻が作られたが、中世には雨樋や建物の終端としての機能をもつようになった。排水口としてではなくつくられた石造はキメラと呼ばれる。(gargoyle,chimera、世界史)
北海道の開拓事業は明治8年の屯田兵制とならんで、旧士族を主体とした組織によってはじめられた。明治11年に旧藩士たちを山越郡の八雲村へ送り込んだのをはじめに、旧山口半が余市郡大江村に、旧佐賀藩が石狩郡当別村に開墾事業をおこした。翌年から民間団体の移民も始められた。代表的なものに開拓社、赤心社、晩成社がある。
開拓社 民間移民による開拓事業は、明治12年和歌山県人岩橋徹輔によってはじめられた開拓社が最初である。開拓社は本社を函館に、第二会所を乙部町に置き、欧米式農業をおこなった。
赤心社 赤心社は明治13年3月、兵庫県の三田藩士の鈴木清、加藤清徳らによって設立され、明治14年、広島と兵庫の二県から54戸の移民が日高の浦河町に入植し、明治15年には鈴木清と沢茂吉が移民80名余りを率いて元浦河の荻伏に入植した。
晩成社 明治15年1月、伊豆の豪族依田一族は晩成社を設立して、依田勉三、渡辺勝らは明治16年、下帯広に13戸27人が入植した。晩成社は十勝平野内陸部の開墾につとめたが、冷害、野鼠、バッタの襲撃に何度もあい、開拓事業は失敗し、昭和7年に解散した。しかし帯広にとって依田勉三らの努力は十勝開拓の先駆となった。
写真週刊誌やスポーツ新聞のトップ記事はスターの熱愛報道。パパラッチが撮った写真が決めて。予定稿がすでにある。「国民的アイドルA。まさかの熱愛発覚。戸惑うファンたちの中に、泣き崩れるファンの姿も。お相手はモデルのB子。自宅近くの渋谷を手をつないで歩き焼き肉店へ。深夜に路上チューをしてB子の自宅マンションへ」
ところでこの「熱愛」という言葉。これほど辞書の説明と実際とが大きくことなるのも珍しい。広辞苑は「熱烈に愛すること」例として「妻を熱愛する」。大辞林は「心の底から愛すること」例として「一人息子を熱愛する」。現実の使われ方としては、単なるデートなどの交際だったり、自宅へ泊る同棲だったり、不倫であったり、「熱愛」にはまさまざなスキャンダル的要素が含まれている。
欧米のキリスト教世界では、最後の晩餐のユダを連想させるため、13人で食卓を囲むのを避ける習慣がある。とくに「13人で食卓を囲むと、最初に席を立った者が1年以内に死ぬ」という不吉な迷信があった。これをトリスカイデカフォビアという。
イギリスの詩人マシュー・アーノルド(1822-1888)は1888年のある晩、友人の画家ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-1896)のディナーに招かれたたとき、急に欠席者がでてしまい、なんと13人で食卓を囲まなければならなくなった。
「最初に席を立った者が1年以内に死ぬ」
ふとしたはずみで、そんな話題がでた。みんなは一瞬全身が凍りつき、お互いに顔を見合わせた。「誰が最初に席を立つのだろう…。」
そこで、アーノルドは「何人かで同時に席を立ってはどうか」と提案し、自ら友人2人をともなって同時に席を立ち、その場をあとにした。ところが迷信通り、1年とたたないうちに、アーノルドは心臓発作で急死した。友人2人のうち、ひとりは水難事故で、もうひとりは自ら命を絶ってしまったのである。不吉といわれる13という数字には言い難い不気味さを持ち続けている。(Matthew Arnold,Triskaidekaphobia)
「ゆるキャラグランプリ2014」。「ひこにゃん」「くまモン」「さのまる」に続く人気ゆるキャラはどれか?「ふっかちゃん(埼玉県深谷市)」「みきゃん(愛知県)」「オカザえもん(愛知県岡崎市)」「ことちゃん(香川県)」「イーサキング(香川県)」「がくとくん(福島県)」などが人気を集めた。1699体の中から群馬県の「ぐんまちゃん」が優勝した。
東条内閣退陣後、首相となった小磯国昭(1880-1950)の出生地は、「コンサイス日本人名事典」では出生地・山形県とあった。平凡社の「世界大百科事典」には「栃木県生まれ」とある。「グランド現代百科事典」には「山形県士族の長男として宇都宮(栃木県)に生まれる」とある。つまり父・小磯進が山形県士族(旧新庄藩士)で警察署警部だった関係で生まれた場所が宇都宮だったのだろう。父の転勤が多かったので「山形の人」とある本もある。戸籍欄に出生地とあるが、実際に幼少期を育ったのは別という場合もあるだろう。郷土が生んだA級戦犯の政治家がいまどれほど、知られているか不明であるが、小磯国昭が山形県が栃木県かで悩む人はいるだろうか。鈴木貫太郎記念館は千葉県野田市にあるが小磯国昭記念館はまだつくられていない。小磯内閣時の出来事とは、米軍硫黄島上陸、東京大空襲、米軍沖縄上陸と敗色が決定的となったときである。未曾有の難局に際しての責任者でありながら、その名前や人物像が知られていないのも不思議である。わかっているのは容貌は眉目秀麗とは言いがたく、A級戦犯として終身刑の宣告を受けた小磯は昭和25年11月3日、巣鴨プリズンで病死したことだけである。
愛の書
書物の中の最も驚くべき本は
愛の書。
注意ぶかく読むと
喜びのページはまれで
全編みな悩み。
一章は別れが占め、
再会は、短い章で、
断片。悲しみの巻は
説明でひきのばされ、
はてなく、節度もない。
おお、ニザミよ。だが、しまいに、
おん身は正しい道を見つけた。
解き難いものを解くのはだれか。
再び相会う愛するふたり。
*
まこと、わたしを見たのは、
わたしにキスしたのは、
あの目、あの口であった。
腰は狭く、胴はまるかった。
天国の快楽を受け入れるためのように。
あの人はあそこにいたのか。
どこに行ったのか。
まこと、あの人であった。あの人がそれを与えた。
逃げながら身を与え、
わたしの命をすっかり捕えた。
高橋健二訳
すばらしい人生を送りたいと思ったら、
過ぎ去ったことは気にせず、
腹もたてないよう努め
いつも現在をたのしみ、
とりわけ誰も憎まず、
先のことは神様にまかせること
木原武一訳
椅子は、大昔からその形状がほとんど変化していない。もちろんそれに座れるのは絶対的な権力者のみであるが。ルーヴル美術館に古代エジプト新王国時代(前1550-前1069年頃)の館蔵品「椅子」がある。エジプトの英国領主であったヘンリー・ソールトが1819年から1824年にわたって収集した骨董品コレクションのひとつ。その後、1826年にルーヴル美術館が購入した。出所については何もわかっていない。新王国時代の古典的な様子の典型でありながら、この作例は、そのバランスや保存状態において卓越している。
Die Erinnerung ist das einzige Paradies,woraus dem wir nicht vertrieben werden konnen.
われわれが追い出されずにすむ唯一の楽園は思い出である
18世紀から19世紀のドイツ文学といえばゲーテやシラーが思いだされるが、ジャン・ポール(1763-1825)という作家は全集65巻といわれ、多作で当時の人気はゲーテをしのぐといわれた。今日、「巨人」「生意気盛り」「陽気なヴッツ先生」などの代表作はドイツ文学研究家には読まれるが、一般の日本人にはほとんど馴染みがない。ただし名言集や格言集にはその名前がよく登場する。
「愛あるところ常に楽園あり」 家庭に愛が満ちていれば家庭が心の安らぎの場となり、楽園になる。さらに社会、国家、そして世界に愛が満ちあふれるようになれば、人類は真の楽園を得るようになる、との意味。わかりやすい名言で、結婚式のスピーチにしばしば引用する人も多い。ジョン・パウルの皮肉な味はない。二、三の皮肉な感じの格言をあげる。
「人生は一冊の書物に似ている。患者たちはそれをペラペラとめくっていくが、賢者は丹念にそれを読む。」
「貧乏と希望は母と娘である。娘と楽しく語らっていれば、母のほうを忘れる。」
最近のコメント