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2014年10月 3日 (金)

太閤検地の歴史的意義

   検地とは封建領主が行う土地調査のことである。竿入・竿打・縄入・縄打などともいうが、太閤検地以来、検地が公用語となる。戦国大名の多くは検地を実施したが、検地の方法、石高などの表示、桝の大きさなどがまちまちであり、自己申告される指出(さしだし)だった。これに比べて、豊臣秀吉の検地は画期的なものだった。1582年から1598年まで実施されたが、全国統一を終えた1591年にすべての大名に検地帳を提出させ、石高が正式に定まった。1594年の「文禄検地」はもっとも厳しいもので、薩摩から山城・大和・河内など15か国で実施された。まず、度量を統一して1間=6尺3寸、1段=300歩と定め、京桝を基準として、その生産高を、原則として玄米の収穫量に換算し、石盛を定め、石高によって表した。それら耕地の一筆ごとについて、年貢負担者が決定されたものである。これは、全国の土地の生産力が統一政権によって掌握されたことを意味する。秀吉の検地は、年貢をとる者ととられる者という兵農分離の経済的側面を遂行し、近世封建階級関係を確定する性格をもつものであった。

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