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2014年10月 5日 (日)

川柳にみる日本史

1.湯にはひる とき入道 ぢうといふ (平清盛はたいへんな熱病で水を入れた湯舟にはいるとじゅっと水が沸き立ったことだ)

 

2.清盛の 医者は裸で 脈をとり  (富士川合戦の翌年清盛は熱病で死んだ。積年の罪業のむくいだったのだろう)

 

3.一門は どぶりどぶりと 奏問(そうもん)し (安徳天皇と平家一門は壇ノ浦で入水した。「奏問」は天皇に奏上すること)

 

4.珍らしい 忠義主君を ぶちのめし  (安宅の関で弁慶は主君義経を打ちのめして無事関を通った)

 

5.武蔵坊 とかくしたくに 手間がとれ  (弁慶は七つの道具を持っていた)

 

6.生業(なりわい)や 弘法さまの 草の餅  (弘法大師さまの足跡は全国にあまねく、大師ゆかりの名所旧跡は数しれない。どこかの茶屋で弘法さまが召し上がったという草餅を売っているだろう)

 

7.緋縅(ひおどし)も 柿色になる 前九年  (奥州での9年にわたる戦いは長い。源頼義が出陣のときに着用していった紅あざやかな緋縅も色あせて、凱旋のときには柿色に変わったことだろう)

 

8.諸事前の とおりと触れる 後三年  (同じ奥州で、清原氏と後三年の役を戦ったのは、頼義の子八幡太郎義家であった。戦いのようすは万事前のとおりだったという) 

 

9.垢すりの 糠(ぬか)のと長田 世辞をいい(保元の乱で平清盛とともに戦い、平治の乱で清盛と戦って負けた源義朝は、東国へ逃げる途中、尾張の長田忠致(おさだただむね)の館で、入浴中に裏切られて殺された)

 

10.鹿が谷 みんなが道を かへて来る  (おごる平家は久しからず、平家打倒のために、ひそかに鹿が谷に集まるのは後白河法皇の近臣の藤原成親、俊寛らであった)

 

11.けさみれば 四五か所鵺(ぬえ)に ひっかかれ  (夜な夜な紫宸殿の屋根に現れる鵺は、顔が猿、体が虎、尾は蛇の怪獣だった。この怪獣を退治して武名をあげた源頼政は、しかし以仁王を奉じての平家追討の戦いには敗れて死んだ。平清盛は鵺以上の怪物だったのだろう)

 

12.清盛は 意見いはれる 年でなし  (藤原成親らを誅し、後白河法皇をも討とうとする清盛に対し、長子重盛は「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」といって諌めたという)

 

13.一門の 仇は禅尼が 慈悲から出  (平家は源頼朝に滅ぼされた。平治の乱に負けて、父義朝とともに斬られるところを、清盛の義母の池禅尼のなさけで助けられ、伊豆に流されていたのである)

 

14.朽木(くちき)から 源氏の運が 芽を出した  (石橋山の戦いに負けて逃げかくれる頼朝に、平家方の探索の手はきびしかった。追手の梶原景時の目をのがれて、頼朝は朽木の洞に身を隠していたという)

 

15.北からも 一度旭は 昇るなり  (清盛の死後、落日の勢いにある平家を討って都に入ったのは、北陸路を進撃してきた木曽義仲であった。そのすさまじい勢いから、旭将軍といわれた)

 

16.わざわひは 上からおこる 一の谷  (木曽義仲の軍勢を都から追い、守りを堅める福原の平家軍を裏山づたいに鵯越から一の谷に討って入ったのは源義経であった)

 

17.熊谷は 不承ぶしょうの 手柄なり  (関東武士の熊谷直実は、わが子のような若武者である平敦盛の首を斬り、その後いくさをはかなんで出家した)

 

18.底抜けの 戦いをした 桶狭間(西上する今川義元の大軍を奇襲した織田信長の闘志は凄絶だった。その大勝利も桶の底を踏み抜くほどの底ぬけぶりだったという。信長の武運はこれから開けていった)

 

19.瓢箪の 留守に 桔梗のはなざかり(瓢箪は羽柴秀吉の馬じるし。桔梗は明智光秀である。秀吉の中国征討を救援のために本能寺に足をとめた織田信長を討ったのが明智光秀である)

 

 

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