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2014年9月16日 (火)

ああ上野駅

8536f471    昭和20年代終わりから40年代にかけて、中学校を卒業したばかりの子どもたちが就職するため、まとまって都会に出る集団就職が盛んになった。そのための専用臨時列車は就職列車と呼ばれた。第一期、昭和29年春の卒業生は昭和13、14年生まれで、父親を戦争で亡くした子どもが多く、家族の生活を助けるために親元を離れ就職しなくてはならなかった。だがその後は、仕方なく働きに出るという暗いイメージの就職ではなく、都会にあこがれ成功を夢見て働きに出る子どもたちが増えた。青森の労働市場年報によると、昭和38年度の中卒の平均初任給は青森県が7408円なのに対して東京は10520円。女の子が、寮のついた大きな紡績工場で20歳まで地道に働けば、結婚資金が楽にためられた。一方、高度成長の波に乗った雇い主側は、賃金が安くて若い労働力をますます求めた。若い労働力は金の卵と歓迎され奪い合いまでが起きた。15歳そこらの子どもたちに都会での労働は辛いことも多い。「辛いことがあると上野駅にきて、故郷につながる列車を見ていた。ここに来ればいつでも帰ることがてきるんだと確かめて、元気に仕事に戻った」という。当時の上野駅の駅長はアイデア駅長として知られた齋藤純三だった。齋藤はそうした子どもたちをすこしでも励まそうと、集団就職の若者を歌った「ああ上野駅」の歌手、井沢八郎をよんで激励会を開いたという。(参考:「戦後史開封」産経新聞社)

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