永田秀次郎と関東大震災
1923年9月1日に発生した関東大震災は死傷者数10万5000人といわれる。震災当時、東京市長だった永田秀次郎(1876-1943)は、衛生上の理由から膨大な数にのぼる遺体を身元を確認しないまま火葬にするという苦渋の決断をした。永田は後にその時の気持ちを「心中は実に痛苦に堪えざりし所なり」と記している。永田は震災から7年後、高野山奥の院に関東震災霊牌堂を私財を投じて建立した。この度、地下の霊牌堂から約5万4700人分の氏名が書かれた名簿が見つかった。「関東震災殃死者名簿」で長期保存できるためタイルが使われている。このタイルは永田の出身地である淡路島で作られたことが確認された。「殃死」(おうし)とは「災いで死去する」の意。
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