泉鏡花「婦系図」
泉鏡花(1873-1939)は明治6年11月4日、石川県金沢市下新町で生れた。明治23年作家を志して上京。翌年尾崎紅葉の門下に入ることを許され玄関番として同家に寄宿。いくつかの作品を発表したが不評で自信を失い、帰郷したり自殺をはかったこともある。明治40年の「婦系図」は新派悲劇の代表作として広く愛された。画像は大映「婦系図」(昭和37年)の市川雷蔵・万里昌代の主税・お蔦の湯島天神の場面だが、「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ、…私にゃ死ねと云って下さい…」という有名なセリフは本来小説にはなかった。これは明治41年の新富座で上演したとき柳川春葉と喜多村緑郎が付け加えたもの。鏡花はそれを気に入って、大正3年、舞台のために「湯島の境内」を書き下ろし、これが湯島天神の場面として広まったものである。
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柳橋の芸者お蔦と恋仲になった早瀬主税は、恩師・酒井俊蔵に隠れて世帯を持つが、これが知れて怒った酒井は二人を別れさせる。早瀬は郷里静岡に帰り、お蔦は八丁堀に身を寄せ髪結いになるが胸をわずらって床につく。元軍医監・河野英臣は息子英吉の嫁に酒井の娘妙子を得ようと策動し、早瀬の妨害にあたったことから彼の身元を調査する。一方、お蔦の病は重く、駆けつけた酒井に手をとられながら、死んでいく。河野家の仕打ちに憤慨していた早瀬はお蔦の死を聞くや、河野の前に己の前身が巾着切りであったことを明かし、河野家の不倫を暴いてお蔦の黒髪を抱きながら毒をあおる。市川雷蔵版「婦系図」は後半の主税の復讐も省略せずに描いている。また題名の「婦系図」の意味合いがこの映画をみればわかる。妙子の女学校の国文の授業で系図が黒板に描かれる。実は妙子は柳橋の芸者置屋の女将・小芳(木暮美千代)の娘。河野の娘道子(藤原礼子)も夫人(水戸光子)が馬丁と不倫して生まれた子である。原作「婦系図」は新派のお涙頂戴ものではなく、複雑なテーマを含んだ近代小説だった。
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昔の俳優、女優は、今の人に無い気品と知性があります。市川雷蔵は、「眠狂四郎」の頃の映像でしか知りませんが、この画像はもっと若い時の作品でしょうか。綺麗ですね。
投稿: | 2014年8月 9日 (土) 09時54分