カントのアジア認識
17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ諸国ではアジアをどのように見ていたであろうか。軍事力で圧倒的な優位に立つことを知り、ヨーロッパ諸国の政治家、商人たちは侵略と威嚇をもってアジア諸国の植民地化を画策していたであろう。しかし戦争に明け暮れるヨーロッパの現実を目の当りに見る学者たちの中には、アジア諸国に干渉してはいけないと考える人たちもいた。
1680年代に長崎出島に逗留した経験のある庭師ゲオルク・マイスターは、1639年に日本が鎖国政策をとったことを高く評価している。「若し、この世に行動において賢く、国の政治や取り引きではちゃっかりと、戦いにおいては果敢で恐れを知らぬ勇気をもった民族がいるとしたら、それこそ日本人である」(「東洋とインドの芸術風庭園と娯楽用庭園の庭師」)と述べている。また18世紀末に出版された医師ケンペルの『日本誌』(1777-1779)は、1639年に日本が鎖国政策を肯定的に評価している。そこでは、鎖国は日本を脅かしつつあった西欧列強への服従を阻止するとともに、国有の文化を「最も幸いな状態の極致にまで発展ならしめた」と記している。イマヌエル・カント(1724-1804)も日本の鎖国政策に一定の理解を示している。その著書『永久平和のために』(1795)で次のように述べている。
中国と日本が、これらの来訪者を試した後で、次の措置をとったのは賢明であった。すなわち前者は、来航は許したが入国は許さず、また後者は来航すらもヨーロッパ民族のうちの一民族にすぎないオランダ人だけに許可し、しかもその際にかれらを囚人のように扱い、自国民との交際から閉め出したのである。こうした状態でもっとも悪いこと(道徳的裁判官の立場から見れば、むしろもっともよいこと)は、かれらヨーロッパ人がこの暴力行為から決して好結果を得ていないこと、これらの商業組織がすべて崩壊の危機にひんしていること、またもっとも残酷でもっとも巧妙な奴隷制の本拠である砂糖諸島が、なんら実益をあげず、ただ間接的に、しかもあまり称賛できない意図のために、つまり艦隊の乗組員を養成するために、したがってヨーロッパでふたたび戦争を行なうために役立っていること、であって、しかもこれらすべてを行なっているのは、敬虔について空騒ぎし、不正を水のように飲みながら、正統信仰で選ばれたものとみなされたがっている列強諸国なのである。
カントは中国とチベットについても次のように書き残している。
絹が大チベットをこえてヨーロッパに運ばれたことがわかるが、このことは、この驚くべき国の古代について、これをチベットや、チベットを通じて日本と結びついていたヒンドゥスタンの古代と比較することで、多くの考察へと導くのである。しかしシナやチナといった、近隣諸国がこの国に与えた名称からは、なにも導かれることはない。またこれまで精確に知られてはいなかった太古のヨーロッパとチベットとの間の交流は、へシュキオスがそれについてわれわれに書き残してくれたことを、つまりコンクス・オームバークスという、エレウシウスの密儀で導師が叫ぶ言葉から、解明されるであろう。
チベットに関する知識もわずかながらではあるが、当時のヨーロッパに伝わっていたようだ。ダライ・ラマという称号はモンゴルのアルタン・ハーン(1507-1582)が当時の座主であったソナム・キャツォ(1543-1588)に贈ったことに始まる。18世紀後半のカントの認識では、モンゴル、チベット、中国、日本という国家がアジアに存在していたのである。
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