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2014年7月10日 (木)

福島正則と広島

Photo    中国の太守毛利輝元(1553-1625)は、天正17年から慶長4年まで10年をかけて、太田川を自然の外堀に仕立てた広島城を築城した。輝元は慶長5年、関ヶ原の戦いには西軍の総大将として、豊臣秀頼を擁して大坂城に入る。だが関ヶ原の敗北で、毛利氏は周防・長門へ減封され、代わって、石田三成と犬猿の仲だった福島正則(1561-1624)が安芸・備後49万8000余石を与えられ、翌年海路より広島城に入城した。

   正則は桶屋の倅として生まれたとも伝えられる。いわば卑賤の出である。幼年のころから豊臣秀吉に仕え、市松とよばれて秀吉に愛され育った。そして22歳の若さで、近江賤ヶ岳合戦のさい、いわゆる賤ヶ岳七本槍のひとりとして、しかもその勇猛さにおいて筆頭に数えられるほどの武勲をたてて5000石の恩賞をうけるのである。以来、秀吉のあるところつねに正則の勇姿があるといわれるほど秀吉の信頼をうけ、かずかずの武功をたてて、秀吉が死ぬときには、尾張清洲24万石を領有する大名であったのだ。加藤清正と並んで福島正則こそ、秀吉子飼いの豊臣家恩顧大名の第一人者であった。その彼らが、天下の行方を決する関ヶ原の戦いで、大坂方を見捨てて徳川についたのである。しかもこの戦いでも猛将の名に恥じない抜群のはたらきをみせた。戦後、徳川家康が福島正則に与えた25万石余の破格の恩賞は、その戦功に対してでもあるが、いまひとつ正則が率先して徳川方についたことを政治的に高く評価したためでもある。

   慶長6年、広島城城主となった福島正則は、城を改修、太田川などに堤を築き、ここに櫓を配置した。城下も武家屋敷を縮小して町家を拡大した。街道整備、太田川とその分流、運河にも架橋して町並みを整えたが、それが幕府の警戒を生む。

    元和3年の大洪水のさい、損壊した石垣・櫓などの城郭普請を幕府に無断で行なったことに対して、「公儀を窺はずして広島の城新に石壁を築き、城池を掘り、其の城郭内を繕ふ事、大神君の御遺法に背く、其の罪遁れ難し、早く二州を捧げ城を渡すべし」(東武実録)という幕命を、正則は元和5年6月9日、江戸の藩邸で受け取っている。かくて正則はその後に続く幕府の外様大名改易策の、最初の犠牲者となったのである。正則は信濃高井郡高井野に蟄居を命じられた。寛永元年7月13日、病没した。享年64歳。

Photo_2  広島市東区の不動院に福島正則の墓がある。他には長野県小布施町の岩松院の廟、東京都港区の正覚院、京都市右京区の妙心寺海福院、和歌山県高野山の悉地院にも墓がある。

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コメント

う〜む、徳川幕府、理不尽ですなぁ

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