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2014年7月13日 (日)

東川徳治と「典海」

   昭和5年に法政大学出版部から刊行された東川徳治(1870-1938)の「典海」は、中国の官制・官職を知る基本工具書として知られていた。「増訂支那法制大辞典」(昭和8年)「中国法制大辞典」(昭和54年)と書名が変更されているが、やはり東川・典海の印象がある。

   ところが東川の原著「典海」を復刻しようと、寺田隆信や山根幸夫らが遺族を調査しようとしたが、本籍地が名古屋であるということだけで、遺族の所在は不明であった。昭和54年の話なので、その後、判明したかも知れないが、東川徳治という高名な学者の遺族がわからないという一事に驚きを禁じ得なかった。

   日清戦争の結果、台湾は日本の植民地となった。第4代台湾総督・児玉源太郎、民生長官・後藤新平のとき、台湾統治の必要上、現地の旧法規を知る必要性に迫られ、京都大学法科の教授であった織田萬(1868-1945)、岡松参太郎(1871-1921)らを主任として台湾総督府臨時台湾旧慣調査会が明治38年に設置された。このとき東川徳治、浅川虎夫(1877-1928),加藤繁(1880-1946)らが清国行政に関する制度の調査に従事することになった。この経験が、東川を、わが国における中国法制史の研究の開拓者とならしめたのである。調査会は「清国行政法」全9冊(明治38年ー大正2年)、「台湾私法」全13冊、「台湾蕃族慣習研究」の3書を刊行した。東川徳治は、大正4年には「支那法制史論」、大正13年には「支那法制史の研究」、昭和5年には「典海」、昭和8年には「増訂支那法制大辞典」を刊行した。なお、東川は「清国行政法」編纂の完了した後、東北帝国大学において、法文学部、東北大学図書館に勤務した。昭和7年に東北大学講師に昇格、同年退職して、昭和13年に逝去した。

  東川徳治は、その学識、学問上の功績にもかかわらず、一介の図書館人としての人生をおくったようであり、教授になることはなかった。戦前学界の学歴偏重があったようである。

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コメント

東川徳治のひ孫です。たぶん。。。娘の祖母は、もう10年くらい前になくなっています。父の兄弟がもしかしたら何か知っているかもしれません。

ころころ様。この記事を見てくださり感謝します。江戸恵子さんが詳細な東川徳治の年譜を発表され、いまウェブ上で閲覧できるようになっています。高名な曾祖父の偉業が再評価されようとしています。

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