老人の小言
人間だれしも歳をとると小言(こごと)が多くなり、些細なことで怒るらしい。どうも、これは一般社会だけでなく、芸能界でもニュースとして週刊誌のネタとなる。浜村淳が無愛想な女優、北川景子の態度に激怒したり、小林旭の過剰な演技指導で東てる美が降板したりする。先日も高橋英樹が蛭子能収に「お前、バスの旅が当たっているからって調子にのるな」と罵声を浴びせかけたという。栄光を築いてきたスターも年をとって怒りぽくなるようだが、ファンのためにも晩節を汚さないでほしい。
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人間だれしも歳をとると小言(こごと)が多くなり、些細なことで怒るらしい。どうも、これは一般社会だけでなく、芸能界でもニュースとして週刊誌のネタとなる。浜村淳が無愛想な女優、北川景子の態度に激怒したり、小林旭の過剰な演技指導で東てる美が降板したりする。先日も高橋英樹が蛭子能収に「お前、バスの旅が当たっているからって調子にのるな」と罵声を浴びせかけたという。栄光を築いてきたスターも年をとって怒りぽくなるようだが、ファンのためにも晩節を汚さないでほしい。
フエキ糊(不易糊工業株式会社)という黄色い容器に入った糊がある。明治19年5月に大阪の足立商店(不易糊工業株式会社の前身)が発売した新発明の腐らない澱粉糊のことである。かつて広辞苑には「不易糊」として掲載されていた。広辞苑第2版の解説では、「硼酸またはサリチル酸のような防腐剤と香料とを入れて長く保存できるようにした糊」とある。ところが商品名という理由で、第6版では「不易糊」の項目が削除されている。
このほか広辞苑に掲載されている商品名には、サクラの「クレパス」(第1版から)、寺西化学の「マジックインキ」(第2版)、「セメダイン」(第2版補訂版)などは、いまでも第6版に掲載されている。
新たに追加された商標名としては、「コカ・コーラ」は第4版には無かったが第6版では掲載されている。ちなみに「ペプシ・コーラ」は掲載されていない。岩波書店の社員はコカ・コーラが好きなのだろうか。
アラビック・ヤマトのような新種の糊も発売されているが、ケペルは昔ながらのフエキ糊を指先につけてベタベタ貼るのが好きで今でも愛用しているし、ペプシ・コーラもよく飲む。広辞苑の採用基準はやはり謎である。
糊の発生時期は不明であるが、御伽話の「舌切り雀」に登場してくるくらい古くから使われていた。国内では、古来から膠(にかわ)や漆(うるし)などの粘着性のあるものが使われていたが、江戸時代中期に澱粉質を原料として「姫糊」が普及した。明治中期頃までは、この姫糊が多くの用途に使われていた。当時の姫糊は腐りやすく買い置きができなかった。そこで、腐らない固体糊の開発を行ったのが東京の木内弥吉(現ヤマト)のヤマト糊と大阪の足立市兵衛(現不易糊工業)の不易糊だった。不易糊は1896年、ヤマト糊は1899年にそれぞれ腐らない糊を発売している。液体糊は明治40年頃、イギリスからステペンスの瓶入りゴム糊が輸入される。大正8年に国産の液体糊が開発された。この液体糊が普及した背景には、大正12年の関東大震災の後、物資不足から切手の裏面に糊の塗っていない切手が発行され、液体糊が家庭や事務所で注目、愛用されるようになった。澱粉糊の販売数は減ったものの、幼稚園ではよく使われているそうである。
小学生のとき誰もが使った三角定規。あの丸い穴はなぜ開いているのか?定規を紙の上に置いたとき、穴が開いているとそこから空気が抜けて定規と紙は密着しない。そうすることで定規を動かしやすく、手に取る時スッと取ることができる。もう一つの理由は定規の変形を防ぐため。プラスチックは暑くなるとわずかに伸び、寒くなるとわずかに縮む。穴はその伸縮を調節する役目も果たしている。
厚生労働省は従来「脱法ドラッグ」と呼ばれていた取り締まり対象外の麻薬と同様の効果を持つ物質のことを、「危険ドラッグ」という呼称に変更した。このところ呼称の変更がしばしばみられる。「オレオレ詐欺」が「母さん助けて詐欺」と変更された。また「前期・後期高齢者」の新たな呼び名に「若年・熟年高齢者」が浮上している。しかし「若年高齢者」は若いのに老けてる若者のことを指すように思われる、との声もある。「母さん助けて詐欺」があまり浸透しないように残念ネーミングにならなければいいが…。
明治期から大正期にかけて和製漢語が大量に造られたが、今日の基本的な熟語として定着しているものが多い。「歴史」「国家」「宗教」「警察」「理想」「新聞」「交通」「芸術」「法律」「学校」「空気」など挙げるときりがない。われわれは明治人の造語力を学ばねばならない。そのためには普段から漢字の学習はもとより、漢字を豊富に駆使して、日頃から自由な表現力を養う必要がある。
1860年9月、イギリス大使ラザフォード・オールコック(1809-1897)ら8名のイギリス人が外国人で初めて富士山に登山し、9月11日に富士山の山頂を登りつめた。登山の後に熱海の温泉が気に入り、2週間滞在している。8名の名前を記す。ラザフォード・オールコック、リチャード・ユースデン、アベル・A・J・ガワー、L・フレッチャー、J・マクドナルド、ロビンソン、ヴィーチ、エドワード・バーリングトン・デ・フォンブランク。
富士山は静岡県と山梨県にまたがり、長く裾を引く秀麗な山容や高く清い姿から、いにしえより多くの歌に詠まれてきている、日本でもっとも高い(標高3776m)コニーデ型の火山。(山頂付近が静岡県か、山梨県なのかは、はっきりと決まっていない)。富士山の南側と北側とでは気象条件が異なるため、植生分布には独特なものがあります。富士山の森林限界は2400~2500mだが、高山でみられるようなハイマツはなく、カラマツ、ヒメコマツなどが低く生えている。また、高山植物も種類が少ないが、御中道付近の林にはハクサンシャクナゲやコケモモが見られる。山麓には針葉樹の広大な樹海が広がり、ツガ、ヒノキ、ウラジロモミ、ハリモミなどが多く見られる。初秋には溶岩が露出した荒れ地にフジアザミが咲く。動物は、青木ヶ原などの原生林でツキノワグマやキツネ・ヒメネズミ、大沢あたりでカモシカなどを見かける。鳥類は豊富で、キジ、イワヒバリ、ホトトギス、ヒヨドリ、ホオジロなど200種を数え、また、渡り鳥の繁殖地としても知られる。2010年、西湖で絶滅種とみられていた魚「クニマス」が生息していることがわかった。(7月26日,Ratherford Alcock)
参考;宮永孝「富士山に登ったヨーロッパ第1号 オールコック英公使」社会志林51-4,2005年
「富士登山と熱海の硫黄温泉訪問」 オールコック著 露蘭堂 2011年
寝ていても団扇(うちわ)のうごく親心
暑い夏の午後、母親が幼い子を昼寝させ、かたわらに添い寝をしながら、団扇であおいでやっている。やがて、子供はすやすやと眠り、母親もだんだん眠くなって、こっくりこっくりとしながらも子供をあおいでいる。子を思う親の姿がすこしユーモラスに表現されている。
大阪市此花区のUFJに新エリア「ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリーポッター」がオープン。この猛暑にもかかわらず大盛況。かつて森首相は「大阪は痰ツボ」と言い放ったことがある。「金儲けだけを考えて、公共心のない汚い町」と京都の政経文化懇談会で演説している。「大阪=タンつぼ」報道がされて浪花っ子たちはカンカンだったが、本人は「タンつぼというのは、私が言うのではなく大阪の人がそう言っていることだ」と釈明していた。
紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから高徳の僧が朝廷から賜った。幕府は禁中公家諸法度で、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。だが後水尾天皇は幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。幕府は、1627年大徳寺、妙心寺などの僧の勅許状の無効を宣言し、紫衣を取り上げた。1629年7月25日、沢庵を出羽国上山に、大徳寺住持宗珀を陸奥国棚倉に、前妙心寺住持単伝を陸奥国由利に、同東源を陸奥津軽へ配流した。この事件によって面目を丸潰れにされた後水尾天皇は憤激して、にわかに明正天皇に位を譲り、院政を行なった。院政期間は霊元天皇の代まで51年の長きに及んでいる。後水尾天皇は学問(有職・和歌・連歌・詩・儒学など)や芸術に関心が深く、多くの御製や「当時年中行事」をはじめ多くの宮中行事関係などの著作を残した。日本屈指の名庭園、修学院離宮を造営した。
書物はひもとかなければ一片の木片にすぎない
A closed mind is like a closed book,just a blook of wood.
流れの静かな川は深い→能あるタカは爪を隠す
Still waters run deep.
早起きは三文の得
The early bird catches the worm.
結婚はくじ引き
Marriage is a lottery.
鉄は熱いうちに打て
Strike while the iron is hot.
良い弁護士は悪い隣人
嫁を選ぶなら土曜日に選べ
まっすぐな棒も水の中じゃ曲がる
三度目はうまく行く
All things thrive at thrice.
雄弁は銀、沈黙は金
Speech is silver,silence is gold.
指輪をなくしても指はある
If I have lost the ring I still have the fingers.
青年は希望に生き、老人は追憶に生く
Youth lives on hope,old age on remembrance.
森鷗外の「人の長」(時事新報連載「智慧袋」)に見える名言。鷗外といえば今夜放送のBSプレミアムドラマ「孫のナマエ」が面白そうである。伊武雅刀が演ずる鷗外が孫の名前を決めるにあたって引き起こされる珍騒動を題材にしている。
この一句は「人の長を以て我長を継がんと欲する勿れ。人の光を藉(か)りて我光を増さんと欲する勿れ。日の光を藉りて照る大いなる月たらんよりは、自ら光を放つ小き燈火(ともしび)たれ。これ鶏口牛後の説の骨髄なり」とある。鶏口牛後とは、今の言葉でいえば、大きな団体で人のしりについているよりも、小さな団体ながらその首領になっているほうがましだと自主独立の気概をうながしたものである。これと反対に「寄らば大樹の蔭」というのがある。人は常に自由をもとめてやまないが、そのくせ僅かな虚栄や物欲のために、ともすればおのれの信念をまげて強大なものに追従したり、あるいは他の権威などにすがって己を大きく見せようとふるまったりする。立候補の議員の立会演説会に政党幹部が応援に賭けるつける光景などまさしく既成の権威を振りかざしたものであろう。しかし月はいくら大きくとも自ら輝くものではない。自ら光を発せぬ星は死せる星である。これに反して燈火はいくら小さくとも自ら闇夜を照らし、しかも一本の蝋燭はよく千本の蝋燭にも火を点じることすらできる。してみれば、われわれの生けるしるしは、たとえ小さくとも自ら信ずるところを守って独自の光を放つ燈火になることにあって、人の光を藉りて照りかがやいたり、人の肩車に乗って高きを誇ろうなどと考えるべきではない。肩車に乗った小人は所詮小人にすぎない。まして親の光を背負うて得々としたり、虎の威をかりる狐であったりしたのでは、自らいやしめるも甚だしいというべきである。
哲学者カントは、その一生のほとんどをケーニヒスベルク(現カリーニングラード)という小さな町で暮らしていた。毎朝5時起床、10時就寝と定まっていた。朝食にはコーヒーを2杯飲んで、タバコを吸う。午後3時になると必ず街に散歩にでる、というのが1日の習慣である。カントの体のなかに時計があるかのごとく、実に規則正しい生活であった。
下男のランベは5時15分前に、ベッドの傍へ行ってカントを起す。前日どんなに夜ふかしをした朝でも、彼はこの声で飛び起きた。「ランベよ、お前と30年も暮らしてきたが、1日でも、2度も3度も私を起こさねばならなかったことはあるまい」と自慢していた。
詩人ハイネの話によれば、カントはいつも午後に散歩をしたが、その時刻は1分とちがわなかった。それで街の人々は、時々とまったりする大通りの時計を当てにできず、彼の通る姿を見て、めいめいの時計を合わせたというほど規則的であった。(参考:西元篤『逸話365日』創元社 1958年)Immanuel Kant,Konigsberg
映画名曲大全集などのCDを聞きながらブログを書いていてふと感じた。最も美しいメロディーの映画音楽は?マイ・ベストは「赤い風車」の「ムーラン・ルージュの歌」である。この曲には歌詞もついてジュリエット・グレコなどが歌っている。しかしパーシー・フェイスなどのイージー・リスニングが心地よい。作曲はフランスのジョルジュ・オーリック(1897-1983)という有名な音楽家である。代表作に「自由を我等に」「美女と野獣」「ローマの休日」「悲しみよこんにちは」など。「ローマの休日」の音楽も担当していたとは知らなかった。「ローマの休日」はヴィクター・ヤングも担当しているらしい(ノンクレジット)。大使館のダンス・シーンで使われた「ワルツ」はジョルジュ・オーリックのものらしい。
「お母さん、タンクロー飴、買って頂戴!」
阪本牙城(1895-1973)の漫画「タンクタンクロー」は戦前に子供だった方は御存知かと思う。チョンマゲ頭の豪傑でボーリングの球のような胴体をしている。そして胴体の8つの穴の中から大砲、日本刀、ピストルなど何んでも出てくる。プロペラを出して空を飛ぶこともできる。ケペルは実際に漫画本を読んだ記憶はない。昭和9年に雑誌に連載され、単行本になったのは昭和11年である。豪傑物語で悪人を退治するので戦時中も盛んに読まれたと思う。戦後、GHQの指示で発禁になったかどうかは定かではない。ともかく確実に言えることは、戦前に販売されていたタンクロー飴は戦後もかなり経つまでお菓子屋さんで販売されていたことである。ケペルが幼稚園にあがる前、昭和33年頃、市場のお菓子屋で母に買ってもらっていた。タンクローに因んで黒くて丸い形の飴だった。工場で大量生産されたもので、おそらく全国的に販売されていたであろう。サイトで調べたが、タンクロー飴の存在したことは確認できたが、販売元など実体を明確にするには至らなかった。おそらく漫画キャラクターとしては、のらくろ以上に長い生命力(推定20年間くらい)を持っていた商品であろう。
「昭和日本史11」(暁教育図書)を見ていたら、昭和10年代の菓子類に「タンクロー飴」が載っていた。(画像下段左)ケペルが見た戦後の商品とほぼ同様である。販売元は大阪のカル素本舗らしい。
バッキンガム宮殿やウィンザー城等において英国陸軍の衛兵交代式はイギリスの観光の名物の1つである。とくに赤い制服と大きな熊毛帽(Bearskin)が有名である。存在をアピールする大きな帽子には意味がある。かつての擲弾の投擲を任務とする兵士の名残りで、今日では儀式のみ見られるようになった。擲弾兵の組織はフランスの陸軍中佐マルティネが1667年に発案したといわれる。
1670年代には他の国でも擲弾兵が編成された。とくにプロシアのフリードリヒ兵隊王の軍には装甲擲弾兵とよばれる、怪力の大男を集めた部隊が存在した。そこで身長をより大きくみせて敵を威嚇するため大きな帽子を着用した。ミトラ帽とよばれる司教冠型の帽子、フランスでは全長35㎝もある熊毛帽をかぶった。三角形の帽子が一般的である。
ルネサンス。なんとも響きのよい言葉だ。ルネサンスの文化は、まずイタリアに起こった。中世のイタリアはヨーロッパと異なり、あまり封建制度も強化していず、11世紀から早くも農奴が解放され、封建領主に対抗して自由都市が生まれた。ことに十字軍の輸送路にあたり東方貿易の中継地として、海港都市のベニス、ジェノアが栄え、内陸都市のフィレンツェは織物工業や教皇庁と結んだ金融業で栄えた。
そこで、早くからイスラムや東ローマとの交渉を通じて、ギリシア・ラテンの古典が大量に輸入された。古代ローマの発祥地であるイタリアは、偉大な古代へのあこがれがつよく、中世を通じて古典文明の伝統が残っていた。
しかもイタリアは、古代ギリシアのように都市が対立し、互いに繁栄を競っていた。これらの専制君主や教皇などは、互いに新しい文化の保護奨励を競った。イタリアのルネサンスは、このようにして、14・15世紀にまずイタリア最大の商業都市フィレンツェを中心として起こった。庶民出身の大銀行家・メディチ家の支配の下に、都市国家的な民主制度が発達して、一時に学者や芸術家が輩出して、15世紀後半はイタリアのルネサンスの一大中心地となった。16世紀になると、フィレンツェは衰え、文化の中心はローマに移った。ルネサンスは、いく人かの芸術的な天才たちが作ったものではなく、都市に集まった人と物とが交流し、せめぎあっているうちに、おのずと形ができあがっていったものである。物と物が出会うところには商業が栄える。ルネサンスは商業の発展が生んだといえる。
この文化興隆現象にルネサンス(再生)という言葉を初めて適用したのはジュール・ミシュレ(1798~1874)の「フランス史」(1855)であった。そして1860年にブルクハルト(1818-1897)が『イタリア・ルネサンスの文化』を出版し、古代文化の再生による人間と世界との再発見の時代と定着して以来、世界各国の関心は急速に高まり、それとともにルネサンスという言葉にも、古代復興・近代の誕生というイメージが定着した。
同じイメージは、しかしすでにルネサンスの同時代人にも見られるものである。レオナルド・ブルーニ(1369~1444)は、700年もの間、古典が埋もれ続けてきたことを嘆き、これを闇の中から再び光の中に呼び起こした人として、ペトラルカの名をあげ、古代文化のリナシタ(再生)をたたえた。15世紀のマッテオ・パルミエール(1406-1475)も今日使われているのとまったく同じ意味で用いている。( Jacob Burckhardt,Jules Michelet,Leonardo Bruni,Fracesco Petrarca,Renaissance )
ウナギと梅干し、西瓜と天ぷら、タニシと蕎麦、じゃがいもと薄荷、海老と胡桃、家鴨と山羊、カニと柿(キュウリ)、青梅と黒砂糖、トコロテンと生卵、あずき飯とカニ、スイカとタコ、カニと氷水、きじとくらげ、牛肉とキビ。いずれも同時に食べると、下痢や腹痛などを起こして、よくないと言われてきた。だがこうした食い合せの事例は、食品成分が化学的に反応して毒素になるということは科学的には証明されていない。もともと「食い合せ」は古代中国の陰陽五行説から出たもので、これらの多くは迷信といってよい。ただし、食中毒の多い季節、消化のわるいものは適度の注意が必要であろう。ところで「ウナギと梅干し」だが、貝原益軒「養生訓」には「ウナギと銀杏」とある。これが変化して「ウナギと梅干し」になったといわれる。
梅は中国が原産である。6世紀の「斉民要術」に梅干や梅酢の作り方など゛が記されている。梅は日本には奈良時代以前に伝わったが、「鳥梅(うばい)」と呼ばれる薬のようなものであった。梅干しのにおぎりは戦国時代の陣中食として生れ、江戸時代に一般庶民にまで広まった。
売名行為とは、自分自身の名前を売るために行う行為で、通常、悪い意味で用いられる。違法な手段を使うと、当然、刑事や民事の法律問題が生じるが、芸能人が震災後、被災地へ行ったことをブログに書いて、その行為が「売名行為」として世間から非難されるという事例など現代社会には枚挙にいとまがない。ここでは犯罪や社会的逸脱行為としての売名行為をとりあげる。
記録に残る最も古い売名行為はBC356年7月21日、古代ギリシャの羊飼いへロストラトスが歴史に名を残したいという理由でエフェソスのアルテミス神殿に放火した事件であろう。政府はヘロストラトスに死刑を宣告したのみならず、彼に関する全ての記録を抹消する「記録抹消罪」を適用し、この先ヘロストラトスの名を口にした者も死刑にして彼の名を歴史から抹殺することを決めた。だが彼の名前は消えることはなく、むしろ皮肉にも後世に長く残った。歴史家テオポンポスがこの事件と犯人を記録に残し、キケロ、プルタルコス、ストラボンら歴史家たちもこの事件に触れており、欧米では有名な故事のひとつになっている。英語で「ヘロストラトスの名声」Herostratic fameとは、「どんな犠牲を払っても有名になる」という意味。通常の場合、売名行為のことは、publicity stuntとか、act of self-advertisementという。
我が国における売名行為に関わる事件としては、力道山刺殺事件(1963年)があげられる。村田勝志は力道山を刺した男ということでヤクザ組織での知名度がアップし組長にまで出世した。豊田商事永野会長刺殺事件(1985年)では犯人2人が英雄視され翌年ビートたけしで映画化された。秋葉原通り魔事件(2008年)の加藤智大は犯行メールを流し、世間の関心を買おうとしている。現代社会における都市的逸脱行為がさまざな問題をはらんでいる。殺人、リンチ、放火、自殺と自己中心的パーソナリティーが劇場型の犯罪行為になる可能性がみられる。都市生活者が携帯で撮影する姿も異常といえる光景である。(Herostratus)
野球用語(ネットの俗語)で活躍を期待されながらなかなか飛躍しない若手・中堅選手を指す。その姿からロマンを感じるのだが、目立った実力を発揮できずレギュラーになれない。由来は、楽天で期待された一場靖弘が登板した際、解説者が「一場にはロマンを感じる」とコメントしたことから、「ロマン」と書くと一場のことを指していた。2012年にヤクルトにロマンという外国人投手が入団したため判別ができなくなって、ロマン枠は各球団の目立った活躍ができない選手を指すようになる。
いま、マシュマロ女子の人気が高まっている。好きな女性アナウンサーランキング第1位は日テレの水卜麻美。NHKニュースの橋本奈穂子や「おはよう日本」のお天気姉さん渡辺蘭もマシュマロ系である。Mステの司会者、弘中綾香もマシュマロみたいなふんわかした雰囲気の女性。今は体型がふくよかで、白い肌、マシュマロカラーの服や小物を身に着けたりすることが重要な要素となっているが、もともはマシュマロ女子は性格や雰囲気が重要視されていた。70年代の吉沢京子や80年代の菊池桃子がその例である。菊池は、マシュマロみたいなふんわりとした歌い方で「マシュマロ・ボイス」と呼ばれた。2000年代では、マシュマロ・ボディとして、安めぐみ、磯山さやか、深田恭子らがあげられる。
プロ野球前半戦が終了。巨人とオリックスが首位。個人打撃成績は打率、1位大島(中日)、2位ルナ(中日)、3位マートン(阪神)、4位山田(ヤクルト)、5位鳥谷(阪神)の順。ところでヤクルトの山田哲人(22歳)の活躍が注目される。先日の巨人戦でも3試合連続ホームラン、15号ソロと適時2塁打の孤軍奮闘の活躍ぶり。前半戦の成績は0.331、15本塁打、50打点。これまで年間200安打以上打った打者は、左打者と外国人はいるが、右の日本人は1人もいない。80試合で109安打。後半戦64試合と数字的には厳しいが、活躍によっては200安打も夢ではない。
わが家のテレビの傍には広辞苑がある。テレビで気なる言葉があるとすぐに引く。「リーガルハイ」で広末涼子の裁判長が「監置」(かんち)という命令を下す。広辞苑には「秩序罰の一種。法廷等の秩序維持に関する法律で規定する制裁。監置場に留置する」とある。「35歳の高校生」では「便所飯」が登場する。広辞苑には収録されていない。学校でもランチタイムは仲のいい友達と一緒にお弁当を食べるが、友達からイジメにあっている子は一人誰にも気づかれないようにトイレで食べることを言う。ランチメイト症候群、ぼっち飯。学校や職場で一緒に食事をする相手がいないことに一種の恐怖を覚えるというもの。現代世相を表わすイジメ語。
17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ諸国ではアジアをどのように見ていたであろうか。軍事力で圧倒的な優位に立つことを知り、ヨーロッパ諸国の政治家、商人たちは侵略と威嚇をもってアジア諸国の植民地化を画策していたであろう。しかし戦争に明け暮れるヨーロッパの現実を目の当りに見る学者たちの中には、アジア諸国に干渉してはいけないと考える人たちもいた。
1680年代に長崎出島に逗留した経験のある庭師ゲオルク・マイスターは、1639年に日本が鎖国政策をとったことを高く評価している。「若し、この世に行動において賢く、国の政治や取り引きではちゃっかりと、戦いにおいては果敢で恐れを知らぬ勇気をもった民族がいるとしたら、それこそ日本人である」(「東洋とインドの芸術風庭園と娯楽用庭園の庭師」)と述べている。また18世紀末に出版された医師ケンペルの『日本誌』(1777-1779)は、1639年に日本が鎖国政策を肯定的に評価している。そこでは、鎖国は日本を脅かしつつあった西欧列強への服従を阻止するとともに、国有の文化を「最も幸いな状態の極致にまで発展ならしめた」と記している。イマヌエル・カント(1724-1804)も日本の鎖国政策に一定の理解を示している。その著書『永久平和のために』(1795)で次のように述べている。
中国と日本が、これらの来訪者を試した後で、次の措置をとったのは賢明であった。すなわち前者は、来航は許したが入国は許さず、また後者は来航すらもヨーロッパ民族のうちの一民族にすぎないオランダ人だけに許可し、しかもその際にかれらを囚人のように扱い、自国民との交際から閉め出したのである。こうした状態でもっとも悪いこと(道徳的裁判官の立場から見れば、むしろもっともよいこと)は、かれらヨーロッパ人がこの暴力行為から決して好結果を得ていないこと、これらの商業組織がすべて崩壊の危機にひんしていること、またもっとも残酷でもっとも巧妙な奴隷制の本拠である砂糖諸島が、なんら実益をあげず、ただ間接的に、しかもあまり称賛できない意図のために、つまり艦隊の乗組員を養成するために、したがってヨーロッパでふたたび戦争を行なうために役立っていること、であって、しかもこれらすべてを行なっているのは、敬虔について空騒ぎし、不正を水のように飲みながら、正統信仰で選ばれたものとみなされたがっている列強諸国なのである。
カントは中国とチベットについても次のように書き残している。
絹が大チベットをこえてヨーロッパに運ばれたことがわかるが、このことは、この驚くべき国の古代について、これをチベットや、チベットを通じて日本と結びついていたヒンドゥスタンの古代と比較することで、多くの考察へと導くのである。しかしシナやチナといった、近隣諸国がこの国に与えた名称からは、なにも導かれることはない。またこれまで精確に知られてはいなかった太古のヨーロッパとチベットとの間の交流は、へシュキオスがそれについてわれわれに書き残してくれたことを、つまりコンクス・オームバークスという、エレウシウスの密儀で導師が叫ぶ言葉から、解明されるであろう。
チベットに関する知識もわずかながらではあるが、当時のヨーロッパに伝わっていたようだ。ダライ・ラマという称号はモンゴルのアルタン・ハーン(1507-1582)が当時の座主であったソナム・キャツォ(1543-1588)に贈ったことに始まる。18世紀後半のカントの認識では、モンゴル、チベット、中国、日本という国家がアジアに存在していたのである。
田中将大投手がヤンキースへ移籍。ソチでは羽生結弦が金メダル。大島優子のAKB48卒業、STAP細胞や現代のベートーベン、号泣謝罪会見などの騒動があった2014年上半期に流行した言葉を集める。まだ1年を振り返るのは早いけど、小まめに整理しおくことは大事なのです。やっぱり「集団的自衛権」がトップか。「消費増税」「成長戦略」も安倍晋三がらみ。広島東洋カープを応援する女性ファン「カープ女子」が話題となる。「STAP細胞」「リケジョ」(小保方晴子)、「ゴーストライター」(佐村河内守、新垣隆)、「号泣」(野々村竜太郎)と注目の人が次々と登場した。「この娘は大事なときに必ず転ぶ」(森喜朗)、「少し後悔していると思います」(浅田真央)、「レジェンド」(葛西紀明)、「妊活」(大島美幸)、「ダイオウイカ」、「ビットコイン」、「アンナカ(安息香酸ナトリウムカフェイン」、「脱法ドラッグ」、「ゴミ屋敷」、「北陸新幹線」、「ありのままの~(レリゴー現象)」(アナと雪の女王)、「天使すぎる」(橋本環奈)、「歴史的大敗」(ブラジル)、「転妻(転勤族の妻)」、「バクマン。」、「サイコパス」、「お言葉を返すようですが」(花咲舞が黙っていない)、「アイドルにとって大切なこと。自分に自信を持つこと」(道重さゆみ)、「天地神明に誓って」(佐村河内守)、「ベースロード電源」、「マウスオーバー広告」、「マウンティング女子」、「意気消沈ゴリラ」(小川菜摘)、「ハーフハーフ」(浅田真央)、「大人AKB)」、「地震なんてないよ」(東森美和)、「タモロス」(「笑っていいとも!」が終わったことによって発症した喪失感を表現した造語)、「孤独のグルメ」、「げん玉」、「ロマン枠」、「こけしブーム」、「かっぽう着」、「アイスバケツチャレンジ(氷水チャレンジ)」、「デング熱」、「ヌーダル」、「アギーレ」、「エボラ出血熱」。
18世紀末、パリでは食糧難がはなはだしく、ついに暴動に発展した。1789年7月14日、群衆はバイティーユ監獄を襲撃した。フランス革命の始まりである。ルイ16世の王妃マリ・アントワネットは「ロートリヒェンヌ(オーストリア女)」と蔑みをこめて呼ばれ、浪費癖や薄情な態度は国民の目にも余るものだった。そこにさらに花を添える噂が広がった。それは次のようなものであった。あるとき馬車で町に出かけていたマリ・アントワネットは、人々が不幸な顔をしているのはなぜか、と訊いた。それに対して「人民は食べるパンがないのです」という答えが返ってきた。食糧難で人々は苦しんでいた。しかし、マリ・アントワネットの反応は「パンがなければ、お菓子を食べればよいものを(S'ils n'ont pas de pain,qu'ils mangent de la brioche.)」だったという。ブリオッシとは現在はパンとして扱われているが、当時は贅沢なお菓子であった。しかし、これは実際の彼女の発言ではない。ルソーの「告白」のなかにある王女が飢えている民衆を見てこう言った記述がある。実は、この王女はルイ14世の妃のスペイン王女マリ・テレーズ(1638-1683)だったというのが通説である。この逸話はマリ・アントワネットを誹謗するため革命派が捏造した噂だったのである。(Marie Antoinette)
「風と共に去りぬ」第1部のラスト・シーン。南北戦争で荒廃したタラの農園に戻ってきたスカーレット・オハラ。空腹に耐えかねて、土から掘り起こしたばかりの野菜をむしゃむしゃ食べて、「私は、強盗をしても何をしても2度と飢えて泣きません」と大地に立ちつくして神に誓う。
As God is my witness,I will never go hungry again!
連続クイズホールドオン(204)の問題。「1939年のアメリカ映画で主人公の女性が大根をかじり泣き崩れるシーンが有名な映画のタイトルは何でしょう?」答えは分かったが、あの野菜は大根だったのか。ずっとニンジンだと思っていた。調べたら、やはりダイコンが正解。長い間、わたしは思い違いをしていた。
ホールドオン(267)の回答者で、音楽アーティスト「いきものがかり」を「いきものがたり」と答えていた。 みかんで有名な「有田みかん」は「ありだみかん」と濁るのが正しい。フリーマーケット flea market は「のみの市」であるが、free(自由な) marketと思っている人がおおい。俳優の筒井道隆を小説家・筒井康隆の子と思っている人が多い(実際は無関係)。インド初の女性首相インディラ・ガンジーはガンディーの娘ではなく、ネルーの娘。「フレミングの法則」のイギリスの電気工学者とアオカビからペニシリンを発見した細菌学者とは別人。食料品の家計に占める割合を「エンゲル係数」というが、これはドイツの社会主義者エンゲルスのことだと信じて疑わなかった。実は、ほぼ同時代のドイツの経済学者エルンスト・エンゲルの発表したエンゲルの法則である。建礼門院と建礼門院右京大夫とは別人。
保育園や幼稚園などでも広く知られている絵本「おおきなかぶ」。再話アレクセイ・トルストイとある。「戦争と平和」のトルストイとは別人。ネットでみるとよく間違えている人が多い。
北原ミレイの歌「マゼンダの黄昏に」の「マゼンダ」とは何か?日本では唐紅(からくれない)と呼ばれた明るい赤紫色のことで、magentaと書くので「マゼンタ」と濁らず発音するほうが原音に近い。パソコンのインクにもマゼンタがある。マゼンタはシアン(青)、イエロー(黄)と共に、3原色に位置づけられる。つまり、この3色の割合を調節して重ね混色すればどんな色でも作り出すことができる。マゼンタという名前はイタリア北部の都市マジェンタ(Magenta)に由来する。1859年イタリア統一を目指していたサルディニアのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、ミラノの西にあるマゼンタとソルフェリーにおいてオーストリア軍を破った。この戦いの後まもなく、人工染料フクシンが発見されたので、1860年からその色がマゼンタと呼ばれるようになった。イタリア人にとっては栄光の色である。(地名エポニム)
許由は陽城槐里の人でその人格の廉潔さは世に名高い。許由が堯の譲位を断って、箕山に隠れ節操を守ったこと。自らの節操を守り、政治に関与しないこと、自分の信念に忠実であることのたとえ。漢書鮑宣伝の故事から。
ラブレーがフランソワ1世の使いでイタリアへ旅したときの話である。彼はパリへ戻る途中のリヨンで所持金がすっかりなくなって困っていた。そこで熟考すること15分間、一計を案じた。外国帰りの名医だという触れ込みで変装して講演会を開いた。講演会の後で、人払いをして声を潜め、「ここに効果抜群の毒薬がある。皆さんは国王が人民に苛酷な政治を強いていると思いませんか?この毒薬で国王一家を毒殺したいと思う」と言った。はたせるかな警察が踏み込んで、目論見どおりにまんまとパリまで官費で護送された。国事犯として国王の前に引き出されたラブレーは、そこで変装をとき事情を説明したので、国王はこの策略に大いに笑い、彼の機知をほめたという。
フランソワ・ラブレー(1494?-1553)は、長らく単なる滑稽物語の作者とみなされていたが、19世紀後半以降の研究によって、彼は典型的なユマニストのひとりとしてフランス文学史に確立されるようになった。トゥレーヌ州シノンに生まれ、はじめ修道院にはいったが、このころから向学心が強く、ギリシア語を学び、古典研究にいそしんだ。やがて在家僧として各地の大学を遍歴し、1530年には南フランスのモンペリエの医科大学で得業士の資格を得、古典医学書の校訂翻刻本数種を刊行した後、1532年リヨン市立病院付医師となった。イタリアにも三たび旅行した彼は、真のルネサンス人として到るところで学び、多くの知識を身につけた。その豊かな体験と知識と、思想とをちりばめて成ったのが「ガルガンチュワとパンタグリュエル物語 全5巻」である。当時流行した作者不詳の中世伝説「巨人ガルガンチュワ大年代記」に想を得て、まず「パンタグリュエル」を出版し、その売れ行きに乗じて「ガルガンチュワ」をつくり、「パンタグリュエル」の続編3冊(1546-1564)を書きついだ。これらの作品に対してソルボンヌの神学部の弾圧は巻を追ってきびしさを加え、ラブレーは一時ドイツ領に亡命したこともある。彼の晩年の消息は明らかでないという。
深編み笠の天蓋を被り、袈裟を着て、尺八を奏でながら虚無僧の集団が街中を行脚する異様な光景を子どもの頃、見た記憶がある。最近は虚無僧を見かけることはない。もちろん映画村へ行けば、アトラクションで虚無僧をみることができるかもしれない。映画好きには何故か虚無僧は美男という印象がある。「薩摩飛脚」「鳴門秘帖」「隠密剣士」いつも公儀の隠密で、本性は僧侶ではなく武士である。なぜ徳川幕府は虚無僧を保護したのだろうか。一説によれば、浪人対策といい、他説では諜報の蒐集に利用したのだという。
虚無僧は禅宗の一派である普化宗である。江戸時代には全国16門派を形成し、一月寺(千葉県松戸市小金)、鈴法寺(東京都青梅、現在は跡のみ)、明暗寺(京都府東山区本町東福寺山内)が虚無僧宗門の三本山として有力であった。しかし明治新政府の方針により、幕府と縁の深い普化宗は廃止された。留場制度、ねだり行為が、近代市民社会の構成要素として不適当であると判断されたのだろう。しかし一月寺は昭和30年代に日蓮宗に改宗し現在に至っている。鈴法寺は明治28年に焼失している。京都の明暗寺は明治21年に明暗教会として復活し、現在も尺八根本道場として活動が継続されている。(参考:保坂裕興「普化宗について」歴史と地理463号、1994年3月、武田鏡村「虚無僧」三一書房)、
「ちゃちな造りの家」というように「粗末で安っぽいようす」「貧弱なようす」を「ちゃち」という形容詞が使われる。語源には諸説あるが正確にはよく分からない。①「茶」からくる説。中国語の差勁(さけい)は「チャチン」と発音され、それがいつしか「チャチ」に音転化して、当て字に「茶」が用いられた。②芝居用語「ちゃちろべゑ」からくる説。このちゃちろべゑを略したのが「ちゃち」である。
昭和5年に法政大学出版部から刊行された東川徳治(1870-1938)の「典海」は、中国の官制・官職を知る基本工具書として知られていた。「増訂支那法制大辞典」(昭和8年)「中国法制大辞典」(昭和54年)と書名が変更されているが、やはり東川・典海の印象がある。
ところが東川の原著「典海」を復刻しようと、寺田隆信や山根幸夫らが遺族を調査しようとしたが、本籍地が名古屋であるということだけで、遺族の所在は不明であった。昭和54年の話なので、その後、判明したかも知れないが、東川徳治という高名な学者の遺族がわからないという一事に驚きを禁じ得なかった。
日清戦争の結果、台湾は日本の植民地となった。第4代台湾総督・児玉源太郎、民生長官・後藤新平のとき、台湾統治の必要上、現地の旧法規を知る必要性に迫られ、京都大学法科の教授であった織田萬(1868-1945)、岡松参太郎(1871-1921)らを主任として台湾総督府臨時台湾旧慣調査会が明治38年に設置された。このとき東川徳治、浅川虎夫(1877-1928),加藤繁(1880-1946)らが清国行政に関する制度の調査に従事することになった。この経験が、東川を、わが国における中国法制史の研究の開拓者とならしめたのである。調査会は「清国行政法」全9冊(明治38年ー大正2年)、「台湾私法」全13冊、「台湾蕃族慣習研究」の3書を刊行した。東川徳治は、大正4年には「支那法制史論」、大正13年には「支那法制史の研究」、昭和5年には「典海」、昭和8年には「増訂支那法制大辞典」を刊行した。なお、東川は「清国行政法」編纂の完了した後、東北帝国大学において、法文学部、東北大学図書館に勤務した。昭和7年に東北大学講師に昇格、同年退職して、昭和13年に逝去した。
東川徳治は、その学識、学問上の功績にもかかわらず、一介の図書館人としての人生をおくったようであり、教授になることはなかった。戦前学界の学歴偏重があったようである。
明治21年、鹿児島県宮之城町(現・川内市)に生まれる歌人、岩谷莫哀(いわやばくあい 1888-1927)。本名・岩谷禎次。七高を経て、東京大学経済科卒。尾上紫舟に学ぶ。短歌雑誌「車前集」「水甕」などの創刊・編集にかかわった。歌集に「春の反逆」「仰望」などがあり、死後「岩谷莫哀短歌全集」が刊行された。
朝髪もけづらずあはれわが妻のしぼれる乳は草に落ちつつ
1923年作。作者は初婚に失敗し、1920年再婚。翌年女児を得て、生活が順調になったと思った矢先、原因不明の発熱が続き、1922年9月、相州平塚に入院、1923年1月、安房館山に転地静養。5月には女児を失うという不幸にさいなまれた。この歌は子の失った悲愁の中でなしたもの。(参考:内田守人「歌人岩谷莫哀研究」)
これは古いイギリスの小話です。
9月のある朝、海で嵐があり、一隻の船が岩に打ち上げられました。そして数人の水夫たちは難破船の壊れた船体の一部にしがみついてなんとか生きながらえていました。
事故現場からあまり離れていない島に灯台がありました。灯台にはグレース・ダーリングという名前の少女とその父とが住んでいました。彼らは水夫たちが遭難しているのを見ました。グレースは「お父さん、なんとかあの人々を助けてあげて」といいました。「それはやってみてもだめだ。あそこまで行きつけないよ」グレースはあきらめませんでした。彼女と父はがっしりしたボートに乗って出かけました。グレースは片方のオールをこぎ、父はもう片方のをこぎました。ついにふたりは難破船に行きついて、水夫たちを救助しました。彼らをボートに乗せてふたりは灯台までこぎ帰り、温かい食物と着物を与えました。人々はその少女の勇気ある行動を褒め称えました。
ファーン諸島沖で難破船フォーファーシャイア号から9人を救助したグーレス・ダーリング(1815-1842)の勇敢な行動は実話で(1839年9月7日)、英語のリーダーのテキストでも広く知られていた。グレースは結核で26歳の若さでこの世を去った。(Grace Darling,Farne lslands,Forfarshire)
ダグラス・バチェラーの父は航空機産業の仕事で成功を収め、母はエルビス・プレスリーの歌を作るなど、芸能界では押しも押されもしない地位を築いていた。母との関係で、ダグラスは、スターたちにチヤホヤされて育った。芸能界の華やかな人たちの中には同性愛者がいたり、麻薬やアルコールにはまっている人たちが多かった。ダグラスは経済的には恵まれていたが、愛情には飢えていた。学校では大喧嘩したり、何度か自殺を試み、ついには家出をする。やがてヒッピー仲間と食べ物を求めてゴミ箱をあさる生活を始めるが、南カリフォルニアのパームスプリングスの大峡谷に辿りつく。奥深くの洞窟に住み着きはじめた。中に入ってみると、そこは居心地のよい場所だった。すすで真っ黒になった天井は、以前、誰かが住んでいたことを物語っていた。壁から突き出している岩棚の上には、ほこりをかぶった一冊の黒い本があった。ほこりを払うと、「聖書」と書いてあった。やがて、洞窟生活にも慣れ、大自然の懐の中で暮らすうちに、ダグラスの心は徐々に、どうすれば得られるのかわからない心の平安を追い求めていた。ある日、岩棚からあの聖書を再び取り出してほこりを払った。聖書を開くと、内側の扉に手書きのメッセージを見つけた。「1972年7月12日、生まれ変わる。この聖書を見つけた人がこれを読んで、私と同じ平安と喜びを見いだすように祈る」とあって、その人の署名がしてあった。(Douglas Batchelor)
日本人男性は海外でモテないといわれる。よくモテるのは女性に積極的なラテン系。映画「コレラの時代の愛」を観ると頷ける。物語は事故で夫を亡くし、傷心で葬儀に臨む老いたフェルミーナのもとにフロンティーノが現れ「この日を待っていた、ずっと愛していたんだ」と愛を告白するところから始まる。初恋の人を51年9カ月と4日待ち続けた男の話。だがずっと童貞ではなく、実は622人もの女性と性交渉をもち、日記に記録を残すという趣味がある。カサノバのような精神は伝統的にあるらしい。バラの花や愛の詩をささやくことは恋愛の必須アイテム。あるとき、フロレンティーノは友達から「なんでお前はそう女にモテるのか?」と聞かれると、「多分、私は愛が欲しいだけで、彼女たちを傷つける気がない、ということが、女たちにはわかるんだよ」と言う。つまり愛は理屈や、男らしさを誇示するセックスでもなく、「神の恩寵」を一緒に共有したいセックス体験が大事なのかな。フロレンティーノを演じた俳優ハヴィエル・バルデム。私生活でもモテるらしく、奥方は世界一の美女ペネロペ・クルズであります。
Stop trying to achieve perfection.Lose your fear of being wrong!
完璧を求めないで。間違っちゃいけないっていう気持ちは捨てていいよ。
何事も辛抱していれば、やがては必ず成功する、の意味で「石の上にも3年」などとよくいう。これは釈迦から数えて10代目の祖師、婆栗湿縛(バリシバ)尊者の故事によるものである。インドのバリシバは80歳になって出家したが、たいへんな修行を重ねた。学問もさることながら、樹上石上での坐禅を3年も続け、横になって休むことながなかった。井原西鶴の「西鶴織留」に「商人・職人に限らず、住み慣れたる所を替えることなかれ。石の上にも3年と俗語に云へし」とある。
英語にもよく似た表現がある。
Perseverance will win in the end.
With perseverance you will win in the end.
Patience wins out in the end.
By your endurance you will win your lives.
大関琴奨菊が名古屋場所(13日初日)で3度目のカド番を迎える。大関は2場所連続で負け越すと、関脇に陥落する(1969年7月場所から)。ただし、関脇陥落場所で10勝以上を挙げると大関に復帰するという特例もある。
この「カド番」とは何か?囲碁・将棋で「何番勝負」を行うとき「これで勝負が決まる」という大詰の勝負の局番を「角番」という。これが大相撲の語源である。新聞などで表記されるときは分かりやすく「カド番」と記されることが多い。
もともと昭和初年から2場所負け越しで大関陥落の制度は定着していたが、1955年に年6場所が実施されたとき、3場所連続負け越しで陥落すると定められた。しかし、これでは甘過ぎるという意見もあり、1969年から現行にように変更された。カド番回数のワースト記録は千代大海の14回。
三波春夫の歌謡浪曲に「元禄男の友情・立花左近」がある。立花左近とは大石良雄が東下りで使う変名である。忠臣蔵では大概大物スターが演じる。萬屋錦之介のときは三船敏郎が立花左近を演じた。だがむかしは垣見五郎兵衛(垣見左内)だった。立花左近の名が生まれるのはそう古いことではなく、おそらく牧野省三の創案によるものではないかという説がある。というのは立花左近(1567-1643)は実在の人物だからである。九州柳川藩立花氏の祖で、大友宗麟の一武将から豊臣秀吉に取り立てられた戦国大名である。正式には立花左近将監宗茂という。左近将監は官名で宗茂だけでなく、代々受け継がれ、子孫もしばしば称している。つまり江戸時代には大名家の名前として有名な「立花左近」を使うということは考えられない。最近の戦国ブームで本物の立花左近(宗茂)もドラマなどに登場することがあるのでよく注意して観てみたい。(参考:中野等「立花宗茂」)
かつて南部アフリカ内陸にローデシアという国があった。古代の原住民はブッシュマンであったといわれるが、1850年代にイギリスの探検家リビングストンが到達してから、イギリスの植民地となった。1895年からはセシル・ローズにちなんだ地名「ローデシア」と呼ばれるようになる。1923年にはイギリスの植民地となる。第二次世界大戦後もイギリス保護領となったが、1964年、北ローデシアが「ザンビア」として独立、1980年には南ローデシアが「ジンバブエ」として独立し、ローデシアの名は地図から完全に消えた。
国土の半分以上が海抜900~1500m以上の高地であるため気候は概して温暖で、最も暑いザンベジ川、リンポポ川峡谷沿いでも、年間平均温度は30℃を超えない。主要部族はバンツー語系のマショナ族とマタベレ族。ジンバブエの面積(39万k㎡)は日本(37.7万k㎡)より少し広い。
1855年 リビングストン、ビクトリア滝を発見
1893年 ロベングラの反乱
1923年 イギリス植民地ローデシア
1953年 中央アフリカ連邦(ローデシア・ニヤサランド連邦)結成
1964年 ザンビア独立
1965年 白人のローデシア戦線(RF)、国名をローデシアとして独立宣言をしたが国連は承認せず
1980年 ジンバブエ共和国、完全独立
( Livingston,Zimbabwe,Rhodesia )
中国の太守毛利輝元(1553-1625)は、天正17年から慶長4年まで10年をかけて、太田川を自然の外堀に仕立てた広島城を築城した。輝元は慶長5年、関ヶ原の戦いには西軍の総大将として、豊臣秀頼を擁して大坂城に入る。だが関ヶ原の敗北で、毛利氏は周防・長門へ減封され、代わって、石田三成と犬猿の仲だった福島正則(1561-1624)が安芸・備後49万8000余石を与えられ、翌年海路より広島城に入城した。
正則は桶屋の倅として生まれたとも伝えられる。いわば卑賤の出である。幼年のころから豊臣秀吉に仕え、市松とよばれて秀吉に愛され育った。そして22歳の若さで、近江賤ヶ岳合戦のさい、いわゆる賤ヶ岳七本槍のひとりとして、しかもその勇猛さにおいて筆頭に数えられるほどの武勲をたてて5000石の恩賞をうけるのである。以来、秀吉のあるところつねに正則の勇姿があるといわれるほど秀吉の信頼をうけ、かずかずの武功をたてて、秀吉が死ぬときには、尾張清洲24万石を領有する大名であったのだ。加藤清正と並んで福島正則こそ、秀吉子飼いの豊臣家恩顧大名の第一人者であった。その彼らが、天下の行方を決する関ヶ原の戦いで、大坂方を見捨てて徳川についたのである。しかもこの戦いでも猛将の名に恥じない抜群のはたらきをみせた。戦後、徳川家康が福島正則に与えた25万石余の破格の恩賞は、その戦功に対してでもあるが、いまひとつ正則が率先して徳川方についたことを政治的に高く評価したためでもある。
慶長6年、広島城城主となった福島正則は、城を改修、太田川などに堤を築き、ここに櫓を配置した。城下も武家屋敷を縮小して町家を拡大した。街道整備、太田川とその分流、運河にも架橋して町並みを整えたが、それが幕府の警戒を生む。
元和3年の大洪水のさい、損壊した石垣・櫓などの城郭普請を幕府に無断で行なったことに対して、「公儀を窺はずして広島の城新に石壁を築き、城池を掘り、其の城郭内を繕ふ事、大神君の御遺法に背く、其の罪遁れ難し、早く二州を捧げ城を渡すべし」(東武実録)という幕命を、正則は元和5年6月9日、江戸の藩邸で受け取っている。かくて正則はその後に続く幕府の外様大名改易策の、最初の犠牲者となったのである。正則は信濃高井郡高井野に蟄居を命じられた。寛永元年7月13日、病没した。享年64歳。
広島市東区の不動院に福島正則の墓がある。他には長野県小布施町の岩松院の廟、東京都港区の正覚院、京都市右京区の妙心寺海福院、和歌山県高野山の悉地院にも墓がある。
「第3逃亡者」(1937)、女優の殺害犯人として、ロバートが容疑者になる。だが彼は無実を主張、警察署長の娘エリカと共に逃走する。「追われ型サスペンス」の秀作。「暗殺者の家」(1934)で誘拐される少女を演じたノヴァ・ピルビーム(1919年生れ)がエリカ役で主演するが、彼女は撮影時18歳、現在94歳で存命する。
少女スター、ディアナ・ダービンと活動期間はほぼ同時代の1940年代。ノヴァは1939年にペン・テニスンと結婚したが、夫が飛行機墜落で戦死し、スクリーンに復帰したが、もう30歳を超えかつての少女スターの出番は少なかった。セルズニックが「レベッカ」の主役に推薦したものの、ヒッチコックのイメージに合わず話は流れ、完全に映画界から身を引くことになった。Nova Pilbeam
NHKドラマ「そこをなんとか」の原作は麻生みことのコミックだが事件は超リアル。第6話「信じる力」は痴漢冤罪がテーマ。NHK某アナの事件があっただけにリアルそのもの。東海林は冤罪を主張する会社員にいつになく肩入れをするのを改世楽子(本仮屋ユイカ)は不思議に思った。実は東海林も昔ぬれ衣で会社を辞めた体験があった。そんな折、楽子は食い逃げの容疑で警察に捕えられる。数日前、弁護士バッチをなくし身分を証明するものがない。友人弁護士の赤星に助けてもらう。痴漢冤罪の会社員の無罪ははれた。被害者の女性が携帯を注意されたことに逆ギレしてウソを言ったのだ。東海林を演ずる市川猿之助がカッコイイ。赤星は楽子を愛しているが、楽子は東海林のことを好きみたいだ。全9話だが楽子の恋の行方が気になる。ところで、しゃぶしゃぶの五千円はでてきたのだろうか。あの改世楽子が8月から新シリーズ(全8回)でパワーアップして帰ってくる。
1810年にカメハメハ1世がハワイ諸島を統一し、1819年に大王は亡くなったが、5月には長子リホリホ(1797-1824)が王位に就いた。カメハメハ2世(在位1819-1824)である。当時、ハワイ諸島はイギリスではサンドウィッチ諸島と呼ばれていた。カメハメハ2世は青年君主で、背は180cmもあり、堂々とした体格であった。1823年11月にはイギリスとの同盟交渉のため、夫婦でロンドンに行った。2人はロンドンのアデルフィのオズボーンズ・ホテルに宿泊した。だがこのとき王妃は麻疹にかかり、翌年7月8日、24歳の若さで亡くなった。カメハメハはこの突然の出来事にショックを受けて、6日後の7月14日に急逝した。若い国王夫妻の異国の地での突然死は異例のことであった。2人の遺骸は船でハワイのオアフ島に運ばれた。免疫をもたなかった2人の危険な旅だった。1823年当時、スエズ運河(1869)もパナマ運河(1914)も開通していない。キャプテン・クックの太平洋航海から30年くらいしか経つていない。咸臨丸より34年も前のことである。西回りか、東回りかも分からないが、国家元首の旅行としては過去に例をみない大旅行だった。また途中、船内で持参したカメハメハ国王の大金が無くなるという盗難事件が起きている。イギリスの若い船長バレンスタイン・スターバックはこの件に関してその説明を拒否しており、いまだに疑惑は残ったままである。
あだち充の漫画に「みゆき」がある。妹の若松みゆき、同級生の鹿島みゆき。漢字の「美幸」「美由紀」「美雪」は多いが、ひらがなは意外と少ない。コミックの題名に使われる「みゆき」という名は若い溌剌とした娘を連想させるほど魅力ある名だった。おそらく「青春残酷物語」など松竹ヌーベルヴァーグのヒロイン桑野みゆき(1942年生れ)から生じたイメージだろう。「みゆき」と名の付く著名人は中島みゆき(1952年生れ)、児島美ゆき(1952年生れ)、宮部みゆき(1960年生れ)、演歌歌手の加賀城みゆき(1947-1991)、永井みゆき(1975年生れ)、山本みゆき(1977年生れ)。永井は意外と長身で「演歌界のスカイツリー」といわれる。最近は、その昭和っぽい響きから「みゆき」という名は減少している。
ちはやぶる 神代もきかず 龍田川
からくれなゐに 水くくるとは
古今集巻5の秋下の在原業平朝臣の歌。百人一首にも選ばれている有名な歌である。結句の「水くくる」には、古来から「水くぐる」と濁って読む解釈があった。つまり水をくくり染めにする説と、水を潜る説である。
中世においては「水くぐる」が通用していたらしい。顕昭の「古今集」註に「水くぐるは、紅の木の葉の下を、水のくぐりて流れるをいふ歌。潜字をくぐるとよむ」とある。(「顕註密勘」)江戸期の北村季吟の『拾穂抄』も「くぐる」と読んでいたらしく、契沖も『改観抄』に「錦の中より水のくぐると見ゆるを奇異のごとくみるゆへ」として「水くぐる」説をとっている。その後、賀茂真淵、本居宣長、香川景樹らが「水くくる」説をとり、今日ではその解釈が一般に通用している。しかしながら、百人一首の解釈は藤原定家らがどのように解したかということが重要であることから、あえて「水くぐる」としている注釈書もある。(島津忠夫「百人一首」角川文庫)(参考:石田吉貞「百人一首評解」有精堂、昭和31年、野中春水「異釈による本歌取「水くくる」をめぐって」国文論叢第3号)7
BeeTVの「ヒミツの関係~先生は同居人」(2010)を見る。BeeTVとは携帯専用放送局。わたしは携帯はないので見れないが、放送から期日が過ぎ、いまではDVDがレンタルされたり、CSで放送されている。お話は、高校教師と教え子の禁断のラブコメ。小泉孝太郎と福田沙紀が主演だが、佐藤江梨子が出ているのでみた。むかしのドラマ「おくさまは18歳」(1970)を思い出すが、コメディとしてのテンポがイマイチ悪い。「おくさまは18歳」のキャストは当初、吉沢京子と西郷輝彦だった。コメディ路線に変更し、岡崎友紀と石立鉄男が起用され、大成功を収めた。とくに隣に住む花咲ユメ子が2人の関係に疑惑をもち、「おかしいわ、おかしいわ、なんだかとってもおかしいわ」というノリのいい台詞が最高。「ヒミツの関係」では同僚教師の佐藤江梨子が小泉孝太郎に好意を抱き、何度も家を訪れる。サトエリの「おかしいわ、おかしいわ、なんだかとってもおかしいわ」が聞きたかった。
韓国映画「きみに微笑む雨」(2009)。原題「好雨時節」は杜甫の詩「春夜喜雨」の一節。「良い雨は、その降るべき時を知っている。春に降りはじめ、万物は萌えはじめる」 中国の女優、カオ・ユアン・ユアンが清楚で魅力的である。
NHKの番組に「突撃!アットホーム」がある。「あの人にサプライズをしたい」というコーナー。例えば、6年前に亡くした夫を忘れられない女性のため、秋川雅史がサプライズで夫の墓前で「千の風になって」を熱唱するという趣向である。
テレビを使って劇場型の感動が美しいものであるのかどうかはさておき、ここでは「サプライズ」という言葉の意味を考えてみたい。英語のsurpriseとは、驚き、不意打ちの意。日本では小泉純一郎首相の時代、閣僚の人事などで普通では予想もつかないような人事をすることを「サプライズ人事」などと呼んだ。ここから小泉サプライズともいい、2004年の流行語大賞トップ10入りした。サプライズは日本語の置き換える適当な言葉がないため、広く使われるようになっている。
和英辞典を引くと、撤回は「withdraw」とある。しかし論文の撤回など英文の新聞では「retraction」が使われる。「取り下げ」のような深刻でない場合であれば「引っ込める」の意でwithdrawを使うが、小保方さんの場合のように深刻な話だと、けっこう大事な感じで「retracted」が使われる。
「カラ出張」は、「bogus business trip」。「号泣する」は、「weep bitterly」。「うそ泣きする」は、「pretend to cry」、「そら涙を流す」は、「crocodile tears(ワニの涙)」ともいう。英紙ザ・タイムズは野々村の号泣会見を「full throttle apology(フルスロットルの謝罪)」という見出しをつけた。
ジャズ・ピアニストのエロール・ガーナーが1954年、飛行機で移動中に頭の中に浮かんだメロディが「ミスティ」、という話は有名である。もともとピアノ曲であるが、ジョニー・マティスが最初で、サラ・ボーン、エラ・フィッツジェラルド、ダイアン・リーブス、ジュリー・ロンドンなど数多のシンガーがカヴァーしてスタンダードナンバーになっている。映画「恐怖のメロディ」(1971)にも登場する。カリフォルニアでラジオ局のDJをやっているデイブ(クリント・イーストウッド)は精神異常の女のリクエスト曲「ミスティ」をかけたことから、この女につきまとわれ、やがて思いがけない事件へと進んでいく。捜査の刑事はなぜかマントヴァーニが好きだという。マントヴァーニも「ミスティ」を代表曲としている。原題は「Play Misty For Me」(ミスティをかけて頂戴、わたしのために)。マイケル・ダグラスの「危険な情事」(1987)は設定は異なるものの、この映画のリメイク版と思えるほど似ている。実際に下敷きとしたコメントがメイキングに収録されている。またセクシー系のドナ・ミルズと知性派のジェシカ・ウォルターの2人の女優が対照的で魅力的だ。
AKB握手会で川栄李奈と入山杏奈、スタッフの3名がファンに刃物で刺されるという事件が発生した。そもそもAKBは「会いに行けるアイドル」がコンセプトで始まったグループなので、ファンと直接触れ会える握手会は「AKBにとっての生命線」ともいわれる。
ところでこの「生命線」という言葉は「生きるか死ぬかの境。絶対に侵されてはならない最後の限界」という意味で、昭和6年ごろの流行語だが、いまでも時々、耳にする。とくに野球の解説者がよく用いられる。「投手にとって外角低めは生命線だ」などと使われる。広辞苑を引くと「生きるか死ぬか、物事が成り立つか成り立たないかの分かれ目で、絶対に守らなければならない地点や限界」とあって、近年は「ライフライン」の意味で用いられることもあるが、野球での使用には少し違和感がある。もともとは昭和6年1月の衆議院本会議で政友会の松岡洋右が「満蒙はわが国の生命線である」と幣原外交を批判したことによる政治の用語だった。戦時中もしきりに用いられたが、「生命線」は政治から離れても流行し、「お肌の生命線」「身体の生命線」「わが家の生命線」などと使われた。
もうひとつ野球解説でよく耳にするのが「空中戦」。ホームランによる得点の取り合う派手な試合につかわれる。一説によると長嶋茂雄監督が1996年頃にインタヴューでしばしば使ったのが起源で、この言葉が野球界に定着したといわれる。
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