比較文学と海軍マニア少年
島田謹二(1901-1993)は、文学を国際的な比較の目で検討する比較文学の日本における創始者として知られている。明治34年、東京神田に生まれ、東北大学英文学科卒業後、台北大学講師、旧制一高教授、東大教養学部教授、東大大学院比較文学・比較文化課程主任となる。エドガー・アラン・ポー、バイロン、マラルメ、上田敏、永井荷風、北原白秋、佐藤春夫、泉鏡花などを詳細に研究。後年、研究分野は、明治期ナショナリズムに及ぶ。「ロシヤにおける広瀬武夫」(昭和36年)「アメリカにおける秋山真之」(昭和45年)などの著書は、司馬遼太郎「坂の上の雲」(昭和43年から46年)に見られる司馬史観に影響を与えた。晩年には、89歳で「ロシヤ戦争前夜の秋山真之」(平成2年)を刊行した。
島田は中学生の頃から海軍マニアで日本の軍艦のみならず、世界の軍艦をすべて知っていた。どこの国の駆逐艦は何トンで、大砲が何門あるか。日本の連合艦隊の軍艦から巡洋艦、魚雷艇まですべて艦名、排水量、だれが艦長か、いつどこでつくられたか。(いつどこで沈没したかは未来のことなのでもちろんのこと知らなかった)
ある日、島田少年はイギリスの有名なジェーンズ年鑑を読んで間違いを見つけた。そしてその間違いを英語で書いてイギリスに送った。次の年のジェーンズ年鑑に、「プロフェッサー島田の指摘によってここに訂正する」と載ったという。
島田謹二に限らず、大正から昭和初期に育った少年たちには軍事知識の豊富な少年は多い。不思議なことに戦後世代の中にも軍事マニアは多い。昭和35年から40年代にかけて少年誌は軍事ブームだった。初期の「少年サンデー」「少年マガジン」は特集記事が詳細で零戦や戦艦大和が人気だった。多くの少年は戦艦の名前ぐらいは総べて暗記していだろう。さらにマニアは「丸」という大人の雑誌を読む。夏の恒例東宝戦争映画が始まったのもこのころからだ。いろいろ批判もあろう。軍事史は複雑であり、資料も豊富なので、少年時代にそれを出発点として専門の歴史学や文学へと育っていくこともある。島田謹二の場合は語学に秀でていたので、比較文学へと進み、後年、広瀬武夫や秋山真之への人間学的洞察へと展開していった。「ロシアにおける広瀬武夫」の副題が「武骨天使伝」とあり、「「詩人北原白秋氏に献ず」とあり、石上露子の和歌「海こえてこゆきちりくる夕べなど こひしさの身に湧きまさるかな」が載せられているなどみても、比較文学で培われた視野の広さと実証的資料研究が融合されてユニークな研究成果となって結実したことがうかがわれる。
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司馬遼太郎さんとマハンについて調べていたところ、司馬さんが大変島田先生を尊敬されていていることを知りました。
島田先生の「アメリカにおける秋山真之」は読んでいるのですが、島田先生が大海軍フアンであったことをこのケペル先生でしることができました。
ところで、ポーはアメリカの海軍兵学校卒だと思っていましたが、違いますかね。
投稿: 橋本金平 | 2007年8月23日 (木) 18時09分
コメントをありがとうございます。ポーは1830年7月、ウェストポイント陸軍士官学校に入学しましたが、翌年2月に放校処分になっています。なお、島田先生の初期の著作に「ポーとボードレール」(昭和23年)「エドガア・ポオ詩集」(昭和25年)がありますが、あくまで詩人としてのポーが研究の対象のようです。
投稿: ケペル | 2007年8月23日 (木) 20時00分
「海軍と異端」というエッセイの材料にしようと思いましたが、残念でした。「アメリカ外交の悲劇」を書いたニューレフとのウイリアムズがアナポリス出身ということで、もう一人ぐらいいないかなと思っています。
島田謹二先生を尊敬していた司馬遼太郎さんが、「フランス派英文学の研究」を購入されて、島田先生の90歳の写真を机上にかざっておられたという記事をよみました。
島田先生は海上自衛隊幹部学校で講義をされたと聞いていますが、当時海上自衛隊に話に来てくださる先生はほぼ皆無だったのです。
投稿: 橋本金平 | 2007年8月26日 (日) 16時02分