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2014年6月 2日 (月)

未知の女の手紙 続

   私はレストランで会った陽気な友達にさそわれダンス・ホールにまいりました。いつもの私でしたらすぐにも断ったにちがいないのですが、なにか拒みがたい魔力にひかれたと申しましょうか。そこになにかが私を待っているような期待を感じました。シャンパンをぬき、さわぎがひとしきりたかまったとき、私は不意に心臓がしめつけられるような気持で思わず立ちあがりました。隣りの卓子にお友達のかたとあなたが坐って、ほれぼれとした眼差で私を見つめていられたのです。あなたは眼で私に合図をして店をお出になりました。私はもちろん後を追いました。

   あなたは瞳を輝かし、微笑みながら私を待っていらした。そのとき、私はすぐに感じました。やはりあなたは私を御存知なかったのです。そして、あなたはまた新しく知らない女の私をお誘いになったのです。その様子で、あなたは、私をただの夜の女としか見られなかったことがよくわかりました。私は御一緒に車であなたのお宅にまいりました。そのときの気持ち、私にはすべてが過去と現在がぴたりと重なりあったような格好でした。

   あなたは私を抱いて下さった。私はもう一度、楽しい夜をあなたのお側ですごしました。朝ごはんをあなたの居間で一緒にいただいたのもこれがはじめてのことでした。でも、あなたは私の名前も住所もお訊きになろうとはなさらなかった。あなたにとって私はやはり一夜の火遊びの相手でしかなかったのです。あなたは近いうちにアメリカに旅行なさると仰いました。私はどんなにか「一緒に連れていって」と叫びたかったことでしょう。

   私は、「私の好きなひとも、いつも旅行がちなのです」と申しました。私を思いだしてくれるにちがいないと、あなたの瞳をじっと見つめておりました。けれども、あなたは「きっと帰ってきますよ」と慰めてくださっただけです。私は「帰っていらしても、もうすっかり忘れていますわ」と答えました。あなたは優しい瞳で私を御覧になって、「楽しい思い出は忘れ難い。あなたのことはいつまでもおぼえていますよ」と仰いました。でも、とうとう私のことは思い出してくださいませんでした。

   私は鏡の前で乱れた髪をなおしているとき、あなたがこっそりと私のマフの中に紙幣を押しこむ様子をみたとき、どうしてあなたをぶたなかったのでしょう。忘れるだけでなく、卑しい商売女にまで私をひきおとさなければならなかったあなただったのでしょうか。私は居たまれませんでした。私は机の上にあなたの誕生日のために贈った白薔薇が花瓶に生けられているのを見て、ねだりました。あなたは「どうぞ」といい、「贈主はまるで見当つかないんです。誰だかわからないだけに、ぼくはなお好きですよ」とお答えでした。私は、もう一度じっとあなたを見つめ、思い出して!とねがいましたが、あなたは接吻してくださっただけでした。

   私はあふれそうになった涙を見せまいと大急ぎで扉の方にまいりました。そのとき、あぶなくヨハン爺やにぶつかりそうになりました。ヨハンはこの瞬間に私を見てあっと驚いたようでした。子供のときから会ったことのないこの老人が私を思いだしてくれたことを知りました。私はあなたがマフの中に押し込んだ紙幣をヨハンの手に押し込んでやるのがやっとでした。ヨハンはこの一秒の間にあなたが一生かかってなさったことよりも、もっとたくさんのことをしてくれたのでした。あなただけが私を忘れ、思い出してくださいませんでした。

   坊やが亡くなりました。もはやこの世のなかでは私の愛する人はあなただけです。でも私のことを思い出してもいただけなかったあなたは私にとっては死んだも同然の私が、どうしてこれから生きている必要がありましょうか。ほかのどなたよりもあにたを愛しあなたを待ちながら、一度も呼んでくださらなかったその女の遺書をあなたが御覧になるのは、私がもうこの世にいないときでございましょう。

   これから、あなたのお誕生日に誰が白薔薇をお贈りましょうか?あのカット・グラスの花瓶も空になりましょう。せめて私のささやかなそして最後のお願いをきいていただけましょうか。これからのお誕生日ごとに白薔薇を、その花瓶に生けてくださいませ。私は神も、ミサも信じません。ただ、あなただけを信じ、あなただけを愛します。あなたを愛し、死ぬ女より、ではさようなら…。

    (シュテファン・ツヴァイク「見知らぬ女よりの手紙」)

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コメント

少し内容は違いますが、「百万本のバラ」という歌の歌詞を思い出します。男性と女性の立場が逆ですが…。
一途な思いを相手はなんとも思っていないというお話。

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