中世インドは暗黒時代ではなかった
インドは最古の文明の時代から繰り返される民族移動とそれに伴う文化の波が押し寄せ、多様な世界がつくられた。日本人にとってはインドは仏教文化の揺籃地であり、インド古代文化への研究は深いものの、グプタ朝以後のインドへの関心は低い。中世インドはだいたいにおいてグプタの古典的文化をモデルとして各地に流布した。南インド東海岸のパッラバ王朝、デカンの西チャールキャ朝、つづいてガンジス流域のパーラ朝、それから西インドのプラティハーラ朝、デカンのチャンデーラ朝などのうち、パーラ王朝が仏教の保護した以外は、いずれもヒンズー教の文化を擁護した。ヒンズーの宗教・神学・文学・美術は発達し、いくたの聖者・詩人・哲学者が輩出した。インドにイスラム教徒の軍が最初に進出したのは8世紀にさかのぼるが、イスラムが本格的に北インドに侵入するのは11世紀に入ってからである。クトゥブッディーン・アイバクはマムルーク(奴隷軍人)としてゴール朝のムハンマド・ゴーリーに仕え、ムハンマドの死後、デリーに都して新王朝を建てた。インド中世は暗黒時代ではなく、新しい文化発展の始まりの時代であった。デリー諸王朝時代(1200年ころ)につくられた建築物としては、デリー南郊にあるクトゥブ・ミナール(画像)がとくに名高い。高さが72.5mあり、世界で最も高いミナレットである。
南インドのチョーラ王国は、紀元前3世紀から13世紀にかけて存在したタミル系のヒンドゥー王朝(846年頃ー1279年頃)。首都はタンジャーヴール、ガンカイコンダチョーラプラム。チョーラ諸王は、交易の振興や道路網の整備を行い、灌漑のためにダムを築くなど、大土木工事を営んだ。デカン、南インドには多数の神殿が造営された。
13世紀、ヤーダバ朝の学者へーマードリはサンスクリットの研究で知られる。
Qutub Minar、Tanjore、タンジョール
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