無料ブログはココログ

« 水子貝塚 | トップページ | 戦争に敗れた国家指導者の運命は »

2014年4月27日 (日)

項羽と劉邦の名前と生い立ちの謎

    項羽(前232-前202)は姓は項、名が籍、字が羽。つまり正式な名前は項籍であるが、一般に項羽と記されることが多い。 項羽は秦王政15年(前232年)、楚の下相(かしょう)、現在の江蘇省宿遷に生まれた。羽(う)とは、字(あざな)、つまり呼び名である。項氏は、代々楚の将軍をつとめる名門の家柄で、項(河南省項域)に封ぜられて食邑を得たために、項をその姓にしたといわれる。項羽の末の叔父に項梁がいて、項梁の父すなわち項羽の祖父は、楚の名称項燕である。項羽は幼くして孤児となり、項梁に養われた。項羽の父・母の名前を調べたがわからなかった。 2014年放送のNHK「古代中国よみがえる伝説 項羽と劉邦~王者の条件」では、項羽の子孫が現在もおり、項羽は項家の29代目となるが、両親の名前は明らかではなかった。

    漢高祖劉邦(前247-前195)、姓は劉、名は邦、字は季。実は、生まれた年が分からない。死んだ年は史書に記されている(紀元前195年6月1日)。「漢高祖12年(前195)4月、黥布(:げいふ)を撃ったときの傷がもとで病み、長楽宮で崩ず」とある。ただし卒年が62歳、60歳、あるいは53歳などがあり、逆算すると生年は前256、前249、前247年となる。いずれにせよ、劉邦のほうが項羽より年長であったことは間違いない。 本籍だけは沛郡豊県中陽里(江蘇省徐州市沛県)と、やけに詳しく記されている。 

   劉邦の家はごく平均的な農民であった。父は劉太公、母は劉媼。彼には、長兄に劉伯、次兄に劉喜、異母弟に劉交がいる。劉邦は末っ子で劉季(りゅうき)、つまり「劉の末っ子」と呼ばれていた。 

500_31228667  ところで劉邦の家族の名前をみると「父の名は父親といい、母の名は劉氏の老母という」という程度の意味である。漢の創業者である劉邦の家系のことは司馬遷の時代にすでにほとんどわからなかった。 

   劉邦自身の名である「邦」というのも、もっともらしい名がつけられているが、それほどの意味がある文字でない。劉邦の字は「李」(末っ子)というのだが、ある人は李が本名で、邦というのは皇帝になってからつけられた名前だという説もある。なぜなら史記、漢書には劉邦という記録はない。後漢の荀悦の「漢紀」に「劉邦」の名前がはじめて記されている。ともかく劉邦の出自は微賤なものであったからその名も知れず、だから史記漢書の著者はよんどころなく太公、劉媼などと記したのである。しかし近年の説では、曽祖父は劉清、祖父は劉仁浩といい、豊城の西北6㎞の地、金劉塞村に古碑があり、裕福な農夫だったことがわかった。従って史書に両親の名がないのは、忌諱に触れるのを憚ってあえて記録しなかったと考えられている。 

   劉邦の容貌は生まれつき隆準(鼻が高い)で竜顔、あごひげほおひげが美しく、左の股に72の黒子があったという。72という数字は9と8かけたもので、九は天の数、八は地の数とされるから、天地の徳をあわせもった人、すなわち天子たるべき人であることを示したもので、五行思想にもとづいて後世に付け加えられた話であろう。「古代中国よみがえる伝説」では劉邦は4人兄弟の末っ子とあるが、3男であろう。また江蘇省豊県の「劉清之墓」遺跡は観光地を目的に近年整備されたもので考古学的な裏付けがあるようには見えない。

« 水子貝塚 | トップページ | 戦争に敗れた国家指導者の運命は »

「世界史」カテゴリの記事

コメント

劉邦偽称説、久々に拝見しました。
日本の教師・学者先生方で、この説を語ってるのを
拝見したのは高島俊男先生依頼です。
何か嬉しい気分に浸らせていただきました。

昨今はネット上のフリー百科事典とかが横行して
いて俗説が史書のように扱われてたりしてるので
こういう文章をみると嬉しくなります。

一つ疑問なのは劉喜、これの典拠はどこにあるので
しょうか?
たしか『史記』『漢書』とも劉仲だったように
覚えてますが、勘違いかな。

コメントありがとうございます。伯(上の兄さん)、仲(中の兄さん)、李(末っ子)という呼び名は「行」といって「兄弟の順序」をあらわす字です。劉李を劉邦といい、劉仲は劉喜といいます。「史記」「漢書」でさがすのがわずらわしいので、「漢書索引」(台湾大通書局)で確認しましたところ(300p)「劉喜・漢高祖兄代王」とあります。執筆のときは、人物往来社の古い雑誌を何冊も参考にしているので、どれを典拠にしているかわからないです。漢高祖の両親の名が不明なのは古来から学者を悩ませているところで、とくに高祖の父は長命で記録にないのが不思議だと、福井重雅が「中国古代史疑浅釈」(歴史と地理1983.8、山川出版社)で述べています。

そうすると劉喜というのも、劉邦といっしょで典拠不明なのかもしれませんね。劉邦の父の名が知れてないというのは、やはり卑賤の身なので全員名無しのゴンベエであったと考えるのが穏当なんでしょうか。劉邦の弟だけは、『史記』にも名が残っており、こちらの方は劉邦が沛公になって以降に出来た子供なら名があってもおかしくないですね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 水子貝塚 | トップページ | 戦争に敗れた国家指導者の運命は »

最近のトラックバック

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30