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2014年4月10日 (木)

篤姫、大奥最後の日

Atuhime_p   天璋院篤姫(1836-83)。初めの名は敬子(すみこ)。島津安芸守忠剛の女として生まれる。薩摩藩主島津斉彬のはからいで、1854年、近衛忠熙の養女となり、篤姫(あつひめ)と改名し、1856年、21歳のとき徳川家定に嫁した。心身ともに虚弱な家定には子がなく、次代の将軍たるべき世子に徳川一門中から誰を選ぶか、将軍継嗣問題で一橋派と紀州派で対立していた。 

   篤姫入輿の半年後、1857年6月17日、一橋派の老中の阿部正弘が38歳という壮齢で死去し、彦根藩主井伊直弼が大老に就任した。1858年、徳川家定、島津斉彬が死去し、御台所たること2年足らずで、23歳の未亡人となった。以後、天璋院と称する。 

   天璋院となって以後の篤姫については、家茂夫人として降嫁した孝明天皇妹和宮との間の不和が伝えられ、大奥の天璋院づきの女中260人、和宮づき280人が慶喜派と家持派に分かれ対立した。 

   1868年4月10日、33歳の天璋院は、江戸城明け渡しを明日に控え、住みなれた大奥に別れを告げて去っていく。そして江戸攻めの総指揮官ときく西郷吉之助は、あの当時、養父斉彬の腹心として縁組の成立に奔走した人間である。 

   維新後は、徳川家達(とくがわいえさと)の教育に専念し、1883年11月、東京千駄ヶ谷の徳川邸で死去、享年48歳であった。

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コメント

篤姫のこと、和宮のこと、小説に書いたことがありますので、懐かしいですね。( ̄ー+ ̄)

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