富田木歩と新井声風
富田木歩(とみたもっぽ、1898-1923)。大正の俳人。本名、富田一(はじめ)。明治30年4月14日、東京本所区向島小梅町に生まれる。両親は鰻の蒲焼「大和田」を経営していた。しかし洪水の被害にあい、貧してから姉妹たちは遊郭に身を落とす。木歩は2歳のとき、病により、歩行不能となり、小学校教育も受けられなかった。文字は「いろはかるた」「軍人めんこ」や雑誌のルビで覚えた。やがて足萎えのまま、友禅型紙切りの奉公に出る。そんな日々のなか土手米造を知る。土手は20歳で「波王」の俳号で「小梅吟社」を結成し、木歩は「吟波」と号する。ホトトギスの原石鼎に師事し、「ホトトギス」初学欄に句を投じ、大正5年、臼田亜浪に師事。ここで木歩は同じ年の新井声風(1897-1972)を知り、二人は生涯の友となる。声風の父は浅草で映画館を経営しており、そのころ慶応大学に通っていた。大正10年に声風が「石楠」を去るや木歩もこれに従い、その後は「曲水」に作品を発表した。その間、妹と弟は結核で亡くなり、木歩も大正7年ころから客血するようになり、病臥の身となった。大正8年12月、向島玉の井に移る。大正10年夏、貸本屋「平和堂」を開業する。遊郭に売られた姉の旦那から出してもらった金で開業したらしい。店のお客も玉の井の遊女がお得意であった。
大正12年9月1日、関東大震災。木歩は近所の人々に助け出されて、辛くも牛の御前近くの堤の上に避難した。当時凸版印刷会社に勤めていた新井声風は、漸くの思いでそこに駆けつけ、木歩を帯で背負い、浅草公園の姉の家に送るべく吾妻橋さして急いだ。しかし枕橋はすでに燃え落ちていた。火の手は三方にまわっていた。目前の隅田川は津波で水かさが増し、急流が渦を巻いている。逃げ場を失った二人は今生の別れを告げ、火をふくむ熱風の中で涙の最後の握手をした。声風が水火のなか隅田川を泳ぎきり、竹屋の渡し近くに辿りついたのはそれから4時間後のことであった。木歩は焼死した。わずか26歳の生涯であった。
現在、富田木歩終焉の地である枕橋近くに句碑がある。(平成元年3月建立)
かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花
震災後、自分だけが助かった声風は慙愧の念に苛まれる。そのため句作をやめ、ひたすら木歩の句を広めることに精魂を傾ける。
「木歩文集」新井声風編、素人社書屋、昭和9年
「定本木歩句集」新井声風編、交蘭社、昭和13年
「富田木歩全集」新井声風編、世界文庫、昭和39年
木歩の俳号は、彼が歩きたいの一念で自分で作った木の足に依る。現在、富田木歩は歩行不能、肺結核、貧困の三重苦に耐えて句作に励み、「俳壇の啄木」といわれている。
わが肩に蜘蛛の糸張る秋の暮
稲架かげに唖ん坊と二人遊びけり
面影の囚われ人に似て寒し
遠火事に物売通る静かかな
奉公に出し妹を思ふ
妹とゐぬ淋しさ羽子を飾りけり
(参考:大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」)
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