高村光太郎の戦後
高村智恵子(1886-1936)は、昭和13年10月5日夜、ゼームス坂病院(品川区)で世を去った。智恵子を失い、芸術の制作目標まで見失った高村光太郎(1883-1956)は、心の空白を埋めるかのように戦争協力に傾斜していく。芸術を戦争政策に奉仕するものと捉え、多くの戦争協力詩を発表した。
昭和20年4月13日夜、空襲により駒込林町のアトリエは炎上する。多くの制作、草稿などを失う。僅かに持ち出したのは、父からゆずられた木彫用小刀と砥石だけだった。一時、近くの妹よしの婚家藤岡幾方に仮寓する。5月、岩手県花巻市の宮沢清六(宮沢賢治の弟)方に疎開。しかし8月には宮沢家も空襲で被災し、佐藤昌方に移る。9月、佐藤隆房方に寄寓。10月、岩手県稗田郡太田村山口に鉱山小屋を移築して生活する。高村光太郎の7年間の山小屋での農耕自炊の生活は、戦争中に多くの戦争協力詩を作っていたことへの自省の念からでた行動であろう。昭和22年に連作詩「暗愚小伝」という厳しい内容の記録を発表した。昭和27年、十和田湖記念像の制作のために帰京し、翌年完成した。昭和31年4月2日、中野アトリエにて没する。享年74歳。
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