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大河ドラマ「平清盛」では今、大輪田泊(神戸)に経が島を築いて、日宋貿易が盛んに行われるようになる。物々交換から貨幣経済へ進展していく。1160年南宋の四川・成都では交子という世界最初の紙幣が発行されている。清盛の海外や交易への憧れは世界史の必然ともいえる。
ラージェンドラ1世(在位1012-1044)は南インドのチョーラ朝の全盛期を築いた王である。スマトラのシュリーヴイジャヤの衰退に乗じて、2度の遠征をおこない、1025年、シュリーヴィジャヤの王を捕らえて、マレー半島やスマトラ島にチョーラ朝の拠点をおく。北はインド・ガンジス川河口付近、南はセイロン、東はスマトラまで勢威を及ぼし、インド洋から中国に至るまでの制海権を支配し、貿易を独占した。インド半島を統一したラージェンドラ1世が即位したのは1012年、ちょうど1000年前のことである。(Rajendra Chola Ⅰ)
仏教の開祖、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)は前563年(一説に前565年)頃、カピラ城で生まれたといわれている。カピラヴァストゥといい、ネパールのタラーイ地方ティラウラコットにその遺跡がある。2001年、ブラッドフォード大学が発掘調査したが、当時の遺物は出土しなかった。最近では現在のピプラーワーがカピラ城ではないかともいわれている。釈迦の生没年は諸説あり、前563-前483説、前463-前383説。つまり孔子より12歳年長でほぼ同時代とする説とソクラテスと同時代とする説がある。およそ100年の誤差があるのがインド史の年代設定がいかに困難かを示している。(Gautama Siddhartha,Kapla-vasta,TilauraKot,Piprahwa)
本日は「図書館記念日」。1950年のこの日、図書館法公布にちなむものである。「女性の書斎ひとり好き」も自宅1階を地域文庫として開放して、読書活動を行っている図書館及び文庫等読書施設の1つである。日本図書館協会によると「私設図書館」にあたるという。蔵書数は10000冊を超える。だが個人経営である限り、後継者がいなければやがていつかは閉館しなければならない。どのような形で幕引きをするのか今から真剣に考えなければならない。ある家の遺品整理をしながら考えたことだが、当人がすべてを清算・整理する必要はない。また本の最終的行き先を図書館とかに求めるのは止めるつもりである。むしろカートンにぎっしり詰めて、ブロックを積み上げた本のピラミッドを室内につくる。1人が侵入できるだけの狭い通路である。白骨化した自分の死体が3階の寝室にあって、おびただしい蔵書が周囲に置かれている。遺産の受取人もなく最終的には国庫に入る。役人が来て、蔵書の調査をして初めてその文化的価値に驚く。タイムカプセルのような役割をするしか道はない。
川端康成の「伊豆の踊子」は大正15年に雑誌「文藝時代」1月号と2月号に分載された。単行本は翌年、昭和2年3月に金港堂より刊行された。作者が大正7年、伊豆に旅行したときの体験を基に書いている。薫は学生と下田で活動写真を見に行く約束をするが叔母の反対で果たせなかった。活動が最新の流行となった時代は大正であり、若き日の淡い恋の思い出が昭和初期の人にとって切なく感じられる。平成になっても数人のヒロインが演じているが、もはや当時の情感を醸し出すことが困難になってきた。現在まで15人の女優が映画・ドラマ・舞台で薫を演じた。田中絹代、美空ひばり、光本幸子、鰐淵晴子、小林千登勢、吉永小百合、内藤洋子、栗田ひろみ、山口百恵、島本須美、増田未亜、小田茜、早勢美里、後藤真希、戸田佳世子。
月末になると翌月の番組表が送られてくる。洋画だけでも600本以上の作品が放送される。その中から見たい映画を予約録画しておくのも楽しみではあるがかなりの注意力と作業時間を要する。いままで1980代以降の比較的新しい作品が多かったが、ムービー・プラスやイマジカ、BSプレミアムでは1930年代の作品も放送している。エルンスト・ルビッチ監督の「結婚哲学」(1924)、ヒチコック監督「サボタージュ」(1936)、チャップリンの「独裁者」(1940)、アルレッティ「天井桟敷の人々」(1945)、ロック・ハドソン「限りなき追跡」(1951)、ビング・クロスビー「上流社会」(1956)、マルセル・カミュ監督「黒いオルフェ」(1959)など。
本日はサダム・フセインの誕生日であり、ベニト・ムッソリーニの忌日である。石田三成、東条英機、カダフィ。敗軍の将は横死する運命にあるようだ。だがイタリアのムッソリーニの場合は少し違っていた。ドイツによって助けだされ、北中部に傀儡政権のイタリア社会共和国を建国した。そのため内戦となり、ムッソリーニはパルチザンによってコモ湖付近で処刑された。もしも、イタリアの共産主義者たちが彼を殺さず、戦犯裁判が行われていたとしたら、21年間イタリアの首相の地位(1922-1945)にあったこの男を、どのような罪で裁いたであろうか。ムッソリーニは、ユダヤ人虐殺も捕虜虐待もかぶせることはできない。ただドイツ側について戦争したという一事だけで、死刑にできたであろうか。ムッソリーニが裁判にかかっていたならば、極東軍事裁判もかわっていたかもしれない。戦争に敗れた国家の指導者が、戦勝国民によって死刑に処せられるという原則は正当性をもつものであろうか。世界中はフセインのとき疑問を感じたであろう。(4月28日)
1810年のこの日、ベートーヴェンが「エリーゼのために」を作曲した。ベートーヴェンのピアノ曲「エリーゼのために」はクラシックファンならずとも多くの人に知られている。たとえばカテリーナ・バレンテやザ・ピーナッツの「情熱の花」はアレンジ曲であるし、ザ・ヴィーナスの「キッスは目にして」や千葉ロッテマリーンズの応援にも使われる。ところでエリーゼ(Elise)とは誰だろう。ベートーヴェンがこの曲を作ったときのタイトルは「テレーズのために」だった。ベートーヴェンの字があまりに汚いために「テレーズ」が「エリーゼ」と誤読されたらしい。エリーゼの正体は貴族の娘テレーズ・マルファティ(1792-1851)嬢で当時18歳だった。(Therese Malfatti,Beethven)4月27日
魂をできるだけすぐれたものにするように気づかいなさい
アテナイの法廷でソクラテス(前469-前399)は死刑の宣告をうけた。「ソクラテスは青年たちを惑わし、堕落させ、国家の神々を信じないで、他の精霊を信じている」という罪状であった。当時の司法制度を詳しく知らないが、裁判官は抽選で任命された数人の市民から構成されている。ちょうど現在の裁判員制度のようなものであろうか。ソクラテスの弁明が終わると裁判員の投票が行われ、有罪と決まった。告訴人であった詩人のメレトスは、死刑を要求した。次にソクラテスが立って、どういう刑を受けたいか述べることになっている。裁判官の多くは、ソクラテスがおそらく、アテナイを去るといいだすだろうと思った。だが、ソクラテスの口をついて出たのは、「罰金が適当」。死刑か罰金か、再び投票が行われ、死刑が宣告された。ソクラテスは立ち上がって述べた。「いまわたしは、諸君から死刑を宣告されれてここを出ていく。しかし告訴人は、真理という裁判官から、卑劣と不正の罪を宣告されてここを出ていくのである」
死刑を控えてのソクラテスは、筆舌を越えて、堂々としていた。神に祈りながら、息をとめて一滴のこらず毒ニンジンの杯を飲みほした。こうして、人類史上偉大な思想家ソクラテスは、生涯を閉じたのである。それは4月27日のことであった。( Sokrates,conium )
新選組の近藤勇(1834-1868)は明治元年4月25日、東京・板橋で斬首された。享年33歳。首は京都の三条河原で梟首された。
ドラマ「新選組血風録」第25話「流山」。近藤勇(鶴田浩二)は大久保大和と名を変えて下総流山に潜んでいる。土方は官軍との戦いに備えているが、近藤は戦をする気がなかった。「京都で集めた、新選組の隊士たちは、剣一筋に己の運命を切り開こうというつわもの達だった。しかし、今私の下に集まっている二百何十人の若者たちは、そういう人たちではない。一将功成るために、万骨を枯らしてはならない」近藤は、慶応四年四月三日、官軍陣営に出頭せよという書状に従い、流山を出た。新選組の最高責任者として、隊士たちの完全撤退を願った生贄として、敵に身を委ねたのである。幕末維新史の中で、最高責任者が自ら家臣のために身を犠牲にしたのは、近藤勇をおいて他にはない。近藤が武士として切腹の処遇に与らず、斬を以って処されたことは、総督府側に武士の情を知る者がいなかったということに過ぎない。近藤が武士として、屈辱的な最期を遂げたようにみえるが、彼が自刃せずに投降した真意は、あくまでも隊士の救命にあったとするなら、わが身に被る屈辱を犠牲に、士道の実践を最期まで貫いた近藤は立派であったといえよう。今回のドラマには若い隊士役で「柔道一直線」の桜木健一が出ていた。台詞も多く、演技もしっかりしていた。
4月17日、「百年の孤独」で知られるコロンビアの小説家ガルシア・マルケスが死去した。20世紀、南米は文学の盛んな地である。アルゼンチンでは1840年代に入ってロマン主義がおこり、「エルビーラ」その他の詩と、有名な風刺的短編「賭殺場」の作者エチェベリーア(1805-1851)、政治家・教育家として活躍し、現在ラテン・アメリカ文学の古典となっている散文「ファクンド」の作者ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント(1811-1888)、ローサスの暗黒時代をえがいた「アマーリア」の作者ホセ・マルモル(1818-1871)などが出現した。
20世紀になって多くの優れた小説家が現れたが、写実小説で大きな足跡を残したのはチリのバルザックとよばれるブカレスト・ガーナ(1830-1920)や、アルゼンチンの近代生活をえがいたガルベスである。またチリのミストラル、アルゼンチンのストルニ、ウルグアイのイバルボロといった女流詩人が現れた。まちチリの詩人パブロ・ネルーダ、ペルーの革命詩人バリュッホ(1893-1938)など現代ラテンアメリカ詩の先駆者である。
ブレスト・ガーナ ガブリエラ・ミストラル
パブロ・ネルーダ ロムロ・ガリューゴス
第二次世界大戦後のラテン・アメリカ文学は独自の世界を切り開くことに成功した。アルゼンチンではボルヘス、コルタサール、サバト、ブイグ、そしてキューバではレサマ・リーマ、カルペンティエル、カブレラ・インファンテがいる。メキシコではルルフォ、フエンテス、ウルグアイではオネッティ、ベネデッティ、マルティーネス・モレーノの名があげられる。その他の地域では、グアテマラのアストゥリアヌス、コロンビアのガブリエル・ガルシア・マルケス、ペルーのバルガス・リョサ、チリのドノソ、パラグアイのロア・バストス、ブラジルのローザらが出現した。
横浜DeNAの選手に靏岡賢二郎がいる。「靏」という漢字は珍しい。「つる」と読む。江戸時代の古書に「靏千岡亀万両 三巻」(1700年)がある。江戸期は「靏」の字が使われているので、いまでも「靏」の字は苗字にしばしばみられる。
中世末期になり今日のドイツ、ベルギー、オランダの地方にも商工業が発達するにつれて、イタリアのルネサンス芸術もアルプスの通商路を北に越えてこれらの土地に運ばれ、北方的な心情がそれぞれの伝統的な芸術方式と結ばれて、いわゆる北方ルネサンスとよばれる16世紀ドイツ、オランダの若々しい芸術が生れた。
ヒエロニムス・ボッス 1450-1516
マティアス・グリューネヴァルト 1470-1528
アルブレヒト・デューラー 1471-1528
ルーカス・クラナッハ(父) 1472-1553
アルブレヒト・アルトドルファー 1480-1528
マルカントーニオ・ライモンディ 1480-1534
ハンス・ジュース・フォン・クルムバッハ 1480-1522
ハンス・バルドゥング・グリーン 1484-1534
ヤン・ファン・スコーレル 1495-1562
ハンス・ホルバイン 1497-1543
ゼーバルト・ベーハム 1500-1550
ルーカス・クラナッハ(子) 1515-1586
ピーテル・ブリューゲル 1525-1569
エル・グレコ 1541-1614
コルネリウス・ケテル 1548-1616
ルドウィコ・カラッチ 1555-1619
アゴスティーノ・カラッチ 1557-1602
アルラハム・ブルーマールト 1566-1651
ルーラント・サーフェリー 1576-1639
ピーテル・バウル・ルーベンス 1577-1640
フランス・ハルス 1582-1666
ヘンドリック・テルブルッヘン 1588-1629
ヘラクレス・セーヘルス 1589-1638
ヤン・ファン・ホーイェン 1595-1656
トーマス・デ・ケイセル 1596-1667
ピーテル・クラース 1597-1660
ウィレム・クラース・ヘダ 1597-1680
ピーテル・ヤンス・サーンレタム 1597-1665
サロモン・ファン・ロイスダール 1602-1670
アールト・ファン・テル・ネール 1603-1677
レンブラント・ファン・レイン 1606-1669
アドリアーン・ステーン 1610-1685
バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト 1613-1670
フェルディナント・ボル 1616-1680
エマヌエル・デ・ウィッテ 1617-1692
ウィレム・カルフ 1619-1693
アルベルト・カイプ 1620-1691
カレル・ファブリティウス 1622-1654
ヤン・ステーン 1626-1679
ヤーコブ・ファン・ロイスダール 1628-1682
コルネリス・ビスホップ 1630-1674
ヨハネス・フェルメール 1632-1675
ニコラース・マース 1634-1693
フランス・ファン・ミーソス 1635-1681
アドリアーン・ファン・デ・ヴェルデ 1636-1672
メインデルト・ホッベマ 1638-1709
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ 1696-1770
ドイツ北西部、ノルトライン・ヴェストファーレン州にあるボンは、ベートーヴェンの生家やシェークスピアの翻訳家シュレーゲルが在職したボン大学で知られる。この地名は、先住民族のケルト語ボナbona「都市、建物」から出た、とされる。ライン川沿いの道と東西交通路の交差点に位置するこの地は、古くからケルト人集落があった。紀元前13年、ローマ皇帝アウグストゥスが義理の息子ドルススにライン川東岸のゲルマン人征討を命じ、防衛拠点をこの地に築かせ、カストラ・ボネンシアと呼んだ。カストラとはラテン語で「城砦」の意味。ボネンシアの城砦都市がボナになってボンとなった。(Castra Bonnensis,North Rhine Westphalia)
映画における最初のヌードシーンの1つとして、チェコ映画グスタフ・マハティ監督「春の調べ」(1933)がよく知られている。美人女優へディ・ラマー(1914-2000)が全裸で泳ぐ場面が話題となった。だがこれより17年前、ハーバート・ブレノン監督「神の娘」(1916)でアネット・ケラーマン(1887-1975)がフルヌードを披露している。ケラーマンはもともと水泳選手で、「映画界のヴィーナス」といわれ、「海の女皇」「女性の好物」「海底のヴィーナス」などの作品に出演している。
無声時代にもヌードが盛んに現れたようで、フルヌードではないがジョージ・プラット監督「インスピレーション」(1915)でもモデルのヌードが見れる。
日本映画初のヌードシーンは吾妻光(のちの大仏次郎夫人、1898-1980)主演の「幻影の女」(1920)といわれる。
タラスコンは南フランスのプロヴァンス地方のローヌ川の右岸沿いにある人口13000人余りの都市である。1888年、画家ゴッホはパリから鉄道でアルルへ来た。アルルの夏の日の朝、写生地に向う自分の姿を絵に描いている。「タラスコン街道の画家」という。この絵は第二次世界大戦で焼失してしまった。タラスコンという地名はゴッホを通じて知られるが、ルネ1世(1409-1480)の居城である。ルネ王はプロヴァンス以外にも広大な領地を持つ大諸侯だが、芸術を愛して画家や詩人と交わるなど、文化人であった。このルネ1世により築城されたのが現存するタラスコン城である。ただし、タラスコンは交通の要路なので、12世紀には早くも城砦が営まれていた。ゴッホはドーデの小説「タルタランの3部作」を読破しており、荘厳な中世の城の町にも立ち寄っているのであろう。
松平定常(1767-1833)は因幡国鳥取藩の支藩若桜藩の第5代藩主。小藩ながら学芸に深い造詣があり、諸大名からももその存在を知られた人物である。弘福寺(東京都墨田区)に松平定常(池田定常)の墓がある。墓石の下に亀趺(きふ)がみえる。碑文には亀趺はよくあるが墓碑にはめずらしい。亀趺とは「亀の形にきざんだ、碑の台石」(広辞苑)にある。もともと中国から朝鮮に見られるものであるが、亀は相当古くから長寿の象徴と考えられ、石碑を末永く後世に伝えるという意から発達した。亀の甲羅に石碑があるものはよく見られるが、亀の頭部がもたげるように伸び、脚も立体的に造型されている。
亀趺で最も有名なものとしては韓国の慶州市にある太宗武烈王碑の魑首と亀趺である。武烈王(603-661)は新羅29代の王で百済を滅ぼし、高句麗遠征中に没した。662年に陵碑が建てられたが、いまはその碑身は破損してなく、魑首と亀趺だけが残っている。亀の像身が3.8m、高さ0.8m、幅2.5mと唐様式の堂々とした立派な造りである。
中村順平(1887-1979)は大阪生まれの異才の建築家である。20世紀の建築は19世紀以前の様式建築を批判し、機能性、合理性を追求したモダニズム様式が普及した。中村は1920年に渡仏し、エコール・デ・ボザールに留学、芸術性を追求する作風を学んだ。建築の美しさや芸術性を排除する時代に抗して、「建築は芸術である」という信念を貫く。震災後の東京の都市計画や多くの船舶の室内装飾を手がけた。近年、中村順平を再評価する展観が催されている。
参考文献
「東京の都市計画をいかにすべき乎」 中村順平 洪洋社 1924
「建築という芸術」 中村順平 彰国社 1961
「情念の幾何学 形象の作家中村順平の生涯」 網戸武夫編 建築知識 1980
1824年のこの日、詩人ジョージ・ゴードン・バイロンの忌日。バイロンは36歳の若さで早世した。「死者はいつまでも若い」というがその典型は米俳優ジェームズ・ディーンであろう。インディアナ州のフェアモントという小さな町に眠るジミーの墓石には「JAMES B DEAN」と刻まれている。BとはバイロンByronである。ロマン主義の詩人と20世紀のハリウッド・スターと時代は大きく隔たるが、奇縁である。バイロンは「ある朝目覚めると、自分が有名人になっている」と自身の言葉通り、20代で一躍名声を獲得した。ジミーもわずか数本でスターに。バイロンは偽善に満ちた社会の因習・道徳を冷笑し、ギリシア独立のために戦う。バイロン的理想像は40年代から50年代ハリウッドスターによって具現化され、「カサブランカ」のハンフリー・ボカートやジェームズ・ディーンの反逆精神となって世界中に広がった。(James Dean,Fairmount,Byron)
イベリア半島はカルタゴ勢力が駆逐されるとローマの支配下にはいり、ヒスパニア植民地となった。半島全体を征服するには約2世紀にわたる住民との激しい戦闘を必要としたが、後1世紀から2世紀にかけてヒスパニアのローマ化は急速に進んだ。イベリア半島は、西部のルシタニア、南部のべティカ、そして東部と北部のタラコネンシスという3つの属州に分割されていた。都市が発達し、交通路が開設され、農業・鉱山業も盛んとなった。ルシタニアにはスカルラーピス、ノルバ、エメリタ、パクス・ルリア、べティカにはメテルリヌム、コルドゥバ、イルリトゥルギス、ウクビ、アスティギー、イタリカ、トゥツキ、ヒスパリス、オノバ、ムンダ、ウルソ、ハスク、アシドー、パエロー、タラコネンシスにはフラウィオブリガ、クルニア、カエサル・アウグスタ、ケルサ、バルキーノー、タラコー、デルトーサー、ワレンティア、リビソーサ、イリキー、サラリア、カルタゴ・ノヮ、アッキーなどの諸都市がある。このようなヒスパニアの経済力の高まりを背景に、後74年、ヴェスパシアヌス帝はラテン市民権をヒスパニアの全都市に与えた。また後1世紀から2世紀にかけてヒスパニア出身のローマが皇帝となった。トラヤヌスは、現在のセビリャ近くにあったイタリカで生まれたと思われる。トラヤヌスのあとを継いだハドリアヌスもイタリカの出身だった。トラヤヌスやハドリアヌスの一族など裕福な人びとは、おもにスペイン南部の農作物を取引して富を築き、なかでもブドウ酒とオリーヴ油の輸出から莫大な収入を得た。
前漢の兵制の一班を考えるうえで、材官、騎士、軽車、楼船が記録にみえる。このなかで材官というのは、歩兵で弩の射撃訓練をうけた射手のことである。この材官は従来の説では正卒として服務すると考えられていた。大庭脩は論文「材官攷」(1951)で、材官・騎士らは特殊訓練を受けた職業軍人とみなすべきで、正卒の内に入れることに疑問を投じた。だが重近啓樹は「材官引疆」「材官蹶張」など強弩を引く能力をもつ弓の専門兵がいたことから、材官を一般的に歩兵の意と解している。(参考:大庭脩「材官攷 漢代の兵制の一般について」龍谷史壇36 1952年、重近啓樹「秦漢の兵制について 地方軍を中心として」 静岡大学人文論集36 1986年)
社会科地理で世界の国々の首都を丸暗記して覚えさせられるのは小学5年生くらいであろうか。だがアジアだけに限定しても暗記するには手ごわい要注意の地名がある。スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ(スリランカ)、イスラマバード(パキスタン)、ネビドー(ミャンマー)、バンダルスリブガワン(ブルネイ)、マレ(モルディブ)、ディリ(東ティモール)、マナーマ(バーレーン)、ティンプー(ブータン)、アブダビ(アラブ首長国連邦)、マスカット(オマーン)などの10ヵ国。
イギリス統治時代のインド帝国の首都はコルカタ(旧カルカッタ)だったが、夏は北部のシムラーに移転されていた。▽フィリピンの首都は1948年から1976年までケソンシティ、以後マニラ。▽1958年、中尾佐助はブータンを探訪し、その当時首都の置かれていたプナカを訪れた。しかしプナカは人気も家屋もなく、ただの谷と化していた。その後、中尾はティンプーを訪れ王宮を発見した、この出来事によって、同国の首都がティンプーに移転していたことが世界に明らかにされた。(1955年にはティンプーに首都移転していた。)
「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」暗記しやすい年号である。しかし、現在の中学歴史教科書の多くは鎌倉幕府の成立が、1192年ではなく、1185年に変わっている。教科書の変更は歴史よりも地理に多い。とくに地名がよく変わる。昭和55年より以前に生まれた人は「チェコスロバキア」と覚えたはず。いまはチェコとスロバキアとに分離している。首都は小学校で覚えるが、チェコの首都プラハは言えても、スロバキアの首都は言えない人が多い。若い人は「ブラチスラバ」とスラスラと言えるらしい。もちろん歴史ある都市なので相当地理を学ばれた方なら知っているだろう。ウィーンとは約60㎞の距離で、世界中で首都間距離が最も近いといわれる。
むかし覚えた知識が過去の文化遺産、産業遺産になったものも多い。長崎の軍艦島(端島)、北見ハッカ、人形峠のウラン鉱床、児島湾干拓、コメコン、丹那トンネル、輪中。ガーナのエンクルマ大統領は「ンクルマ」という。ビルマはミャンマー、ラングーンはヤンゴン、ボルネオはカリマンタン、セイロンはスリランカ、東パキスタンはバングラデシュ。直江津や国分などの地名は地図帳から消えた。世界一高い山は一時期、青海省のアムネマチンだと言われたことがある。(Bratislava)
富田木歩(とみたもっぽ、1898-1923)。大正の俳人。本名、富田一(はじめ)。明治30年4月14日、東京本所区向島小梅町に生まれる。両親は鰻の蒲焼「大和田」を経営していた。しかし洪水の被害にあい、貧してから姉妹たちは遊郭に身を落とす。木歩は2歳のとき、病により、歩行不能となり、小学校教育も受けられなかった。文字は「いろはかるた」「軍人めんこ」や雑誌のルビで覚えた。やがて足萎えのまま、友禅型紙切りの奉公に出る。そんな日々のなか土手米造を知る。土手は20歳で「波王」の俳号で「小梅吟社」を結成し、木歩は「吟波」と号する。ホトトギスの原石鼎に師事し、「ホトトギス」初学欄に句を投じ、大正5年、臼田亜浪に師事。ここで木歩は同じ年の新井声風(1897-1972)を知り、二人は生涯の友となる。声風の父は浅草で映画館を経営しており、そのころ慶応大学に通っていた。大正10年に声風が「石楠」を去るや木歩もこれに従い、その後は「曲水」に作品を発表した。その間、妹と弟は結核で亡くなり、木歩も大正7年ころから客血するようになり、病臥の身となった。大正8年12月、向島玉の井に移る。大正10年夏、貸本屋「平和堂」を開業する。遊郭に売られた姉の旦那から出してもらった金で開業したらしい。店のお客も玉の井の遊女がお得意であった。
大正12年9月1日、関東大震災。木歩は近所の人々に助け出されて、辛くも牛の御前近くの堤の上に避難した。当時凸版印刷会社に勤めていた新井声風は、漸くの思いでそこに駆けつけ、木歩を帯で背負い、浅草公園の姉の家に送るべく吾妻橋さして急いだ。しかし枕橋はすでに燃え落ちていた。火の手は三方にまわっていた。目前の隅田川は津波で水かさが増し、急流が渦を巻いている。逃げ場を失った二人は今生の別れを告げ、火をふくむ熱風の中で涙の最後の握手をした。声風が水火のなか隅田川を泳ぎきり、竹屋の渡し近くに辿りついたのはそれから4時間後のことであった。木歩は焼死した。わずか26歳の生涯であった。
現在、富田木歩終焉の地である枕橋近くに句碑がある。(平成元年3月建立)
かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花
震災後、自分だけが助かった声風は慙愧の念に苛まれる。そのため句作をやめ、ひたすら木歩の句を広めることに精魂を傾ける。
「木歩文集」新井声風編、素人社書屋、昭和9年
「定本木歩句集」新井声風編、交蘭社、昭和13年
「富田木歩全集」新井声風編、世界文庫、昭和39年
木歩の俳号は、彼が歩きたいの一念で自分で作った木の足に依る。現在、富田木歩は歩行不能、肺結核、貧困の三重苦に耐えて句作に励み、「俳壇の啄木」といわれている。
わが肩に蜘蛛の糸張る秋の暮
稲架かげに唖ん坊と二人遊びけり
面影の囚われ人に似て寒し
遠火事に物売通る静かかな
奉公に出し妹を思ふ
妹とゐぬ淋しさ羽子を飾りけり
(参考:大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」)
僕本月本日を以て目出度死去致し候間此段謹告仕り候也
これは斎藤緑雨(1867-1904)が自ら考えた死亡広告である。肺を患って転地療養をしていた緑雨は、明治37年3月頃から病状が悪化し、翌4月13日に死去した。享年38歳。その2日前、死期を悟った緑雨は馬場孤蝶を呼び、口述筆記させたのが、この広告である。死亡広告は、翌日付の「万朝報」と「朝日新聞」に掲載された。
緑雨は慶応3年、三重県鈴鹿市神戸で生まれた。少年の頃から俳句を習い、今日新聞(東京新聞の前身)に入社した。仮名垣魯文に師事。正直正太夫の筆名で、坪内逍遥、尾崎紅葉ら当時の作家を風刺した「小説八宗」で人気を得た。「初学小説心得」「小説評注問答」などで辛辣な評論家として知られる。明治24年、小説「油地獄」「かくれんぼ」などで認められたが、暮らしはそれほど楽ではなく、「筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」という言葉を残している。筆一本で食べていくのも楽でないということか。
緑雨は樋口一葉の理解者でもあり、一葉の死後に日記の刊行に尽力する。また、一葉の妹・くに子の結婚の世話までしている。
光あるところに陰がある。80年代初めに「チェミィ」の愛称で親しまれ、ドラマやバラエティーで活躍した甲斐智枝美は惜しいことに2006年に首つり自殺している。いま松田聖子や小泉今日子といった80年代アイドルが再び注目されているが、甲斐智枝美を知る人は少ない。とくに柏原芳恵とは1979年のスタ誕出身であり、デビューも同期。水着でクラビアを飾ったり、小柄な体型からタイプも似ていた。芳恵がヒットを連発していくが、智枝美にはヒットに恵まれず、映画、ドラマにその活躍の場を広げた。「唐獅子株式会社」「逃がれの街」「京都マル秘指令ザ新選組」「見上げればいつも青空」などの作品があるが、水谷豊主演の「逃がれの街」の体当り演技が印象に残る。小鼻の開き具合やヤンキー風な高音が気嫌いな人もいるかも知れないが、ファンにとっては逆に魅力なのである。
天璋院篤姫(1836-83)。初めの名は敬子(すみこ)。島津安芸守忠剛の女として生まれる。薩摩藩主島津斉彬のはからいで、1854年、近衛忠熙の養女となり、篤姫(あつひめ)と改名し、1856年、21歳のとき徳川家定に嫁した。心身ともに虚弱な家定には子がなく、次代の将軍たるべき世子に徳川一門中から誰を選ぶか、将軍継嗣問題で一橋派と紀州派で対立していた。
篤姫入輿の半年後、1857年6月17日、一橋派の老中の阿部正弘が38歳という壮齢で死去し、彦根藩主井伊直弼が大老に就任した。1858年、徳川家定、島津斉彬が死去し、御台所たること2年足らずで、23歳の未亡人となった。以後、天璋院と称する。
天璋院となって以後の篤姫については、家茂夫人として降嫁した孝明天皇妹和宮との間の不和が伝えられ、大奥の天璋院づきの女中260人、和宮づき280人が慶喜派と家持派に分かれ対立した。
1868年4月10日、33歳の天璋院は、江戸城明け渡しを明日に控え、住みなれた大奥に別れを告げて去っていく。そして江戸攻めの総指揮官ときく西郷吉之助は、あの当時、養父斉彬の腹心として縁組の成立に奔走した人間である。
維新後は、徳川家達(とくがわいえさと)の教育に専念し、1883年11月、東京千駄ヶ谷の徳川邸で死去、享年48歳であった。
ビール瓶の王冠栓のひだ(スカート)の数はいくつある?瓶口と王冠栓の寸法は規格化されており、口径27mm、王冠の高さは5.97mm。波型のスカートは通常21個ある。これは20個だと王冠が外れやすく、22個だと栓を抜く際に抜きにくいという事実に基づいている。つまり、スカートを3の倍数個にすることで、力学的に口を締める力が安定する一方、抜栓する際に、その力が力点として集中するため抜きやすいといことである。
世界で、最初の王冠栓は、1892年にアメリカのウィリアム・ペインター(1838-1906)が足踏み式の打栓機を発明し、「クラウン」と名付けた。日本では初期のビールはコルクの栓が使われていたが、1900年に東京麦酒が王冠栓を採用したが、技術が未熟のため、炭酸ガスがもれて気抜けビールになってしまうことがあった。ビール、サイダー、酒などの瓶がブリキ製の王冠に変わるのは1918年以降のことである。(crown cork,William Painter)
▽貴重品を入れる箱とか家の戸の開閉するのに錠とともに用いられる鍵。西洋では鍵の使用は古代ギリシアのサモス島のテオドルという人が発明したといわれる。実際にはそれ以前から存在したと考えられるが、事物と人物とは古代から結び付けられることがある。▽ジョン・ペンバートン(1831-1888)はアメリカの薬剤師だが、今日ではコカ・コーラの発明者として知られている。事物と人物とは密接な関連がある。 ▽ルイ14世は、当時の健康法の一種、浣腸を頻繁に行い、その影響で酷い痔瘻になった。ソルボンヌ大学のへリックス教授の手術を受け、世界で最初に痔の手術をした人物でもある。
アロハシャツ エラリー・チャン
インスリン フレデリック・バンティング
X線 レントゲン
エレベーター エリシャ・オーチス
エベレスト エドマンド・ヒラリー
円周率 アルキメデス
オウンゴール アンドレス・エスコバル
オックスフォード英語辞典 ジェームズ・マレー
海王星 ユルバン・ルヴェリエ、ジョン・クーチ・アダムズ
顔文字 スコット・ファールマン
鍵 サモス島のテオドル
角砂糖 ヤクブ・クリシュトフ・ラド
火山地形 カール・シュナイダー
華氏 ガブリエル・ファーレンハイト
活字印刷 グーテンベルク
ガム ジョン・カーティス
カメラ ルイ・マンデ・ダゲール
乾電池 カール・ガスナー
ギプス アントニウス・マタイセン
競歩 フォスター・ポーエル
ギロチン ジョゼフ・ギヨタン
クウォーター配列 クリストファー・レイサム・ショールズ
クロスワード・パズル アーサー・ウィン
血液循環 ハーベイ
結核 ロベルト・コッホ
鉱山学 ジョージアス・アグリコラ
コカ・コーラ ジョン・ペンバートン
サンバネティックス ノーバート・ウィーナー
塩の行進 モハンダス・カラムチャンド・ガンジー
自動車 ジークフリート・マルクス
シュルレアリスム アンドレ・ブルトン
蒸気船 ロバート・フルトン
痔瘻 ルイ14世
ジーンズ リーヴァイ・ストラウス
周期律表 メンデレーエフ
消火器 アルモン・グランガー
水球 ジョン・ロビンソン
スエズ運河 レセップス
砂時計 リウトプランド
摂氏 アンデルス・セルシウス
セントポール大聖堂 クリストファー・レン
大英博物館 ハンス・スローン
体温計 サントリーオ・サントリーオ
ダイナマイト アルフレッド・ノーベル
タヒチ ポール・ゴーギャン
虫垂炎 レジナード・フィッツ
チョコレート コンラッド・ヨハネン・バン・ホーテン
ツタンカーメン王の墓 ハワード・カーター
鉄血宰相 オットー・フォン・ビスマルク
鉄のカーテン チャーチル
テレビ ジョン・ロジー・ベアード
天気図 ユルバン・ルペリエ
天王星 ハーシェル
時計 クリスチャン・ホイへンス
ドライジーネ カール・フォン・ドライス
トランペット ルイ・アームストロング
トロンボーン グレン・ミラー
ナイアガラ滝 アニ・エドソン・テイラー
ナスカの地上絵 マリア・ライへ
ニューディール政策 ルーズヴェルト
ヌンチャク ブルース・リー
熱気球 ジョゼフ・キッティンジャー
梅毒 ワッセルマン
バウムクーヘン カール・ユーハイム
パノラマ ロバート・バーカー
バレーボール ウィリアム・G・モーガン
パンダ アルマン・ダヴィド神父
ピアノ バルトロメオ・クリストフォリ・ディ・フランチェスコ
ビキニ水着 ルイ・ルアール
ピザ マルゲリータ・ディ・サヴォイア・ジェノヴァ
フェイスブック マーク・ザッカーバーグ
ブラジャー エルミニー・カドル、マリー・フェルブ・ジャコブ
プラハの春 アレクサンデル・ドプチュク
ペタンク アーネスト・ビティオ、ジョゼフ・ビティオ
ペニシリン アレクサンダー・フレミング
ヘリコプター ハインリッヒ・フォッケ
ボーイスカウト ベーデン・パウエル
マーチ ジョン・フィリップ・スーザ
マッターホルン エドワード・ウィンパー
マッチ ジョン・ウォーカー
マネジメント ピーター・フェルデナント・ドラッカー
マラリア ロナルド・ロス
ミシン アイザック・メリット・シンガー
ミトコンドリア アルベルト・クラウデ
冥王星 クライド・トンボー
メトロノーム ディートリッヒ・ヴィンケル
郵便 ローランド・ヒル
ユースホステル リヒャルト・シルマン
ルーズソックス エリック・スミス
レコード レオン・スコット
蝋人形 マリー・タッソー
鹿鳴館 ジョサイア・コンドル
YMCA ジョージ・ウィリアムズ
輪ゴム トーマス・ハンコック
「ジョーズ」にしろ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にしろ続編は1作目を凌ぐことはできないようである。映画に限らず、小説・演劇でも「続編に傑作なし」と古来からよく言われる。だが例外もある。2作目「007ロシアより愛をこめて」や「フレンチ・コネクション2」「エイリアン2」「ターミネーター2」「ランボー怒りの脱出」「スパイダーマン2」「サスペリア2」など続編のほうが面白い作品もある。とくに「サスペリア2」は「サスペリア」のヒット後公開されたため、Part2の邦題がつけられているが、シトヘス国際恐怖映画祭グランプリを受賞しただけあって、こちらのほうが怖い。「マイ・ガール2」をあまり期待しないで見たら、よかった。ベーダちゃんが11歳から13歳へと成長。ロスへ行ってお母さんのことを調べる話。フィルムの中から母が歌う「スマイル」は感動的である。個人的には「ベスト・キッド2」はタムリン・トミタが出演するので好みである。
英王室はウィリアム王子とキャサリン妃の間に生れた王子を「ジョージ・アレクサンダー・ルイ」と命名したと発表。「ジョージ」という名はエリザベス女王の父、ジョージ6世や祖父のジョージ5世がいる。また、イギリス人の男子に付けられた名前のランキングでも常に上位に入っている。著名人にもジョージ・ワシントン、ジョージ・スチーブンソン、ジョージ・スタッブス、ジョージ・ブッシュ、ジョージ・スコット、ジョージ・ハリスン、ジョージ・シーガル、ジョージ・サンダース、ジョージ・チャキリス、ジョージ・ペパード、ジョージ・ハミルトン、ジョージ・ルーカス、ジョージ・クルーニーなど枚挙に遑ない。
ところで「ジョージ」という名は日本人の名前にもしばしばみられる。日本人で最初にカーネギー・ホールの舞台に立ったアイ・ジョージ。戦前の二枚目スター岡譲二。日本にタップ・ダンスを普及させたジョージ堀。「スタートレック」シリーズのヒカル・スールー役のジョージ・タケイ。ほかにもジョージ川口(ドラマ奏者)、高橋ジョージ(THE虎舞竜)、山本譲二(演歌)、森川ジョージ(漫画家)、所ジョージ(タレント)など。一般人が「じょうじ」と命名するのは意外と少ない。二枚目ぶった名前という感じが敬遠されるのだろうか。
ジョージで最も有名なのは「キュリアス・ジョージ」だろうか。直訳すれば「好奇心の強いジョージ」か。George
1969年のこの日、連続殺人犯、永山則夫が逮捕された。新藤兼人の映画「裸の十九歳」(1970)は集団就職で上京した少年・山田道夫が、次第に社会から脱落し、ふとしたはずみで殺人を犯す永山則夫をモデルとした作品ではあるが、ノンフィクションではなく、現代の普遍性あるテーマと捉える。貧しさとは、家族とは、社会格差とは、そこには個人ではどうしょうもない大きな壁がある。そして、秋葉原事件、ロンドン暴動など現在起こっている事件にもつながる。(4月7日)
失踪事件というのは誰の心の中にもいつまでも消えないものです。グリム童話の中にハーメルンの笛吹き男」という話がある。130人もの子どもたちが忽然と消えるという話。1284年6月26日に起こった話で実際にあったことらしい。童話や民話で日付がハッキリしているのも不思議なことだが、1284年というのは2度の元軍の襲来を撃退した北条時宗が34歳で死んだ年である。
本日はラファエロ・サンティの1520年の忌日。広々とした背景の風景は聖母の表情をひとしお優雅に感じさせ、人物のつながりは美しい線の流れによって、ラファエロ独特の音楽的リズムをたたえている。幼児キリスト(右)と幼児聖ヨハネ(左)の童児と聖母マリアのピラミッド型の構成により親密感に満ちている。洗礼者ヨハネが持つ芧の十字は克服すべき人間の弱さを象徴している。この聖母子像は、神の母の尊厳よりもむしろ限りない母性愛を表現しており、聖母子像としてはマーテル・アマピリス(慈愛の母)といわれる。背景の自然風景は彼のよく知るトラシメーノ湖畔パシニャーノの町、マリアのローマの金の縁どりに「M.D.VI.」(1506)と書かれているが、1505年の作とされている。
この絵はラファエロ・サンツィオ(1483-1520)が彼を厚遇したタッデオ・タッデイに贈ったとバザーリは伝えている。17世紀になってオーストリア大公フェルディナンドに渡り、1663年までインスブルック宮にあったが、その後チロルのアンブラス城に移った。さらにその後、1773年にウィーンの帝室コレクションに入り、収蔵された城の名に因んで、一名「ベルヴェデーレの聖母」ともよばれている。
1830年のこの日、アメリカのジョゼフ・スミス・ジュニアがニューヨーク州フェイエットタウンシップでモルモン教を設立した。
アメリカ西部にあるユタ州の州都ソルト・レーク・シティは砂漠にある都市で、東にはワサッチ(ウォサッチ)山脈の美しい峰が聳え、市の中央をジョーダン川が流れている。ユタは、この地方に住んでいたネイティブアメリカンの部族名。この部族はユタとかユテ族とよばれていた。発見者フレモントは、この族名をさらに、現在のジョーダン(ヨルダン)川の名にも転用した。1847年この地方は、ブリガム・ヤング(1801-1877)に率いられた147名のモルモン教徒が開拓に従事し、白人人口が増加した。1850年、合衆国へ編入が決まり、モルモン教徒は、デザレットという州名を希望したが、承認されなかった。議会は、当時広く知られていたフレモント報告書より、ユタ州の地名を選び、州名とした。開拓当初モルモン教徒は、彼ら独自の平和郷の設立を目指したが、教義に示す一夫多妻制に対しては、連邦政府の圧迫が強く、1890年に正式に廃止された。しかし教徒は収入の10%を教会に献金する義務を有し、教会は膨大な富をもっている。そして、ホテル、新聞社を経営し、製糖会社、銀行、生命保険などの事業を行い、州内を横断するユニオン・パシフィック鉄道の大株主でもある。(4月6日) Joseph Smith,Mormonism
神さまは考え深いおかただから、この世の出来事すべては意味がある。かぼちゃ畑で昼寝をしていた男の鼻の頭に、ぽとんと、どんぐりが落ちた。男は、その痛さにびっくりして、とび起きた。男はこう考えた。「神さまは、やっぱり考え深いおかただ。こんなどんぐりにやられてさえ、鼻血が出るほど痛いのだから、もしあのかぼちゃみたいに大きな実が落ちてきたら、いまごろわしは、どうなっていただろうか。」男ははればれした顔つきで、神さまのみ名をほめたたえながら、家へ帰っていった。1956年4月6日、茨城県東海村で日本で最初の原子力研究所の敷地として正式決定した。反対運動もあったものの、あれから58年間は大規模な放射能漏れ事故は起きなかった。だが安全性の疑念はあり、いつかは日本でも起こるのではという不安はあった。どんぐりでもこの痛みだが、今度は、かぼちゃが落ちてくるかもしれない。
114年前までは右回りで行われていたが、近代五輪の第2回パリ大会(1900年)で、初めて左回りになった。1912年に国際陸上競技連盟が設立されて、トラックは左回りと規約で定められた。理由は、諸説あるが、人間の心臓は左よりにあるため、心臓が内側になる左回りのほうが遠心力による心臓の負担が少ないと考えたためである。
ちなみにJRA競馬場は右回りと左回りがある。中山、阪神、京都、小倉、福島、札幌、函館が右回りで、東京、新潟、中京が左回りである。ヨーロッパの競馬場は右回りで、アメリカは左回りである。
霊長類は一般に社会的動物であるといわれる。しかしサル社会は群れをつくって生活し、人間のように親族の絆を重視したりすることはない。サルにおいては「家族関係」という概念をあまりに人間の家族にあてはめることは相応しくない。むしろ家族はないといった指摘がなされている。サルの生涯は被保護から自立へ、そして保護へと変化していくことは人間と同様である。被保護の段階というのは子ども期にあたる。誕生後4~5歳ごろまでである。その後、成体となるにしたがって自立した生活を築いていく。これらの段階の進行経過はオスとメスでは異なる。メスは、成体後は出産し、子を育てる。その後も、群れとともに生活していく。オスの場合は、成体となるころから若オス集団を形成し始める。また、成体に達した後は春には群れから離れた生活をし、秋の交尾期ごろまでこの状態の生活を行う。秋にはどこかの群れにはいる。しかし、また春には群れをでた生活となる。これを繰り返していく。老いていくと群れから離れ、ほとんど単独の生活(いわゆる「ハナレザル」)となる。
ニホンザルの社会でも簡単な挨拶行動がみられる。類人猿は、互いにあいさつをかわすことで、社会関係をスムーズにいくようにしている。ゴリラ同士のあいさつには、おじぎがある。あいさつ行動はチンパンジーが最も発達していて、頭・肩・腰や腿に手や口をふれるとか、両手をあげて万歳のポーズをする。握手したり抱擁する人間の挨拶の原型は、ほとんどチンパンジーの行動に中に見られる。サルの挨拶は、オスとオス、オスとメスの間で行われ、メスとメスとの間ではない。
NHKハイビジョン特集フロンティア「発見!ラミダス猿人440万年前の人類」では(2010.7.10)エチオピア・アファール地方で発見されたラミダス猿人の化石の調査から人類史研究の上での位置づけをわかりやすく解説している。カリフォルニア大バークレー校のティム・ホワイト教授、東大の諏訪元教授も出演。学名「アルディピテクス・ラミダス」(愛称アルディ)は身長120センチの女性。体重50キロ。森の中の果実や葉、昆虫などを食べる雑食性(オムニヴォラス)。ルーシーより大きくチンパンジーに近いけれど、チンパンジーとは違う特徴がある。人類の大きな特徴である犬歯の縮小が起こっている。直立二足歩行できる骨盤と足をもっている。チンパンジーは手の甲を地面につけてナックル歩行(指背歩行)で移動するが、アルディはほぼ完全な直立二足歩行している。ダーウィン以来考えられていたヒトはチンパンジーから進化したのではなく、進化の過程の中でヒトと類人猿との中間的な特徴をもった人類が存在していたことが明らかとなった。ではなぜヒトは直立二足歩行するようになったのだろうか。これまでの説明では森林の樹上生活からサバンナの陸上生活に移行する際に、チンパンジーのブラキューション(懸垂運動)と呼ぶ運動があって、木から木にとびまわり、手は枝をにぎりやすく、ふりやすくするように、ながくなった。そうして、二足歩行するようになった、という説明がされていた。今回の番組では、男と女の性差に注目し、これまで女は子孫を残すため犬歯の大きいたくましい男を配偶者にえらんでいたが、むしろ自分に餌を与えてくれる男を配偶者として選ぶように変化していった。つまり男は女に餌を獲得するため遠くに移動し、両手で餌を獲得、運搬に便利な直立二足歩行をするようになったという説明がされている。哺乳類の世界では二足歩行は異例である。なぜ人類はあえて二足歩行を選んだのか。人類は、食料調達のため、移動スピードよりも運搬のため、四足動物から二足動物に進化したのである。これまで身体的特徴による性差の大小は指摘されてきたが、文化史的に男女の社会的役割、つまり男は食糧獲得、女は育児という分担がすでにラミダス猿人の段階で特徴的に見られることは注目すべきことである。brachiation
明治42年10月ごろ、第一高等学校新渡戸稲造を敬慕する一高・東大の学生卒業生24、25人が一団となって内村鑑三の門をたたき種々の人が談論風発するという柏会が始まった。主なメンバーは黒崎幸吉、塚本虎二、高木八尺、藤井武、三谷隆正、前田多門など。このなかから数多くのすぐれた無教会の指導者が輩出した。大正5年10月に柏会は解散したが、藤井武、黒崎幸吉、塚本虎二、江原万理、金沢常雄、矢内原忠雄、三谷隆正、三谷隆信、前田多門などが、エマオ会を作った。明治44年には白雨会が作られた。学生を中心とする主なメンバーは、坂田祐、南原繁、星野鉄男、鈴木錠之助、石田三治、松本実三、高谷道男、植木良佐、増地庸治郎など。
大正7年には東京教友会、エマオ会、白雨会が合併して柏木兄弟団が結成される。内村をはじめ82人の者が署名した。内村の晩年柏木における日曜ごとの集会は、内村は講壇に立ったが、かれを助けるために、畔上賢造と塚本虎二(1885-1973)が前座をつとめた。塚本虎二は大正12年から内村鑑三の弟子として内村の集会と「聖書之研究」の編集に全面的に協力していた。しかし、両者の「信仰と無教会問題の理解の相違」から、塚本は昭和5年1月以降内村から独立し、自分の集会をもち、「聖書知識」を創刊した。「聖書知識」は聖書の研究と無教会主義の伝道を目的にした月刊誌(太平洋戦争末期は隔月発行のこともあった)で、昭和38年6月(通巻397号)まで発行された。鰭崎潤は昭和10年、義弟の小館善四郎に伴われて太宰治と交友を結んだ。太宰は内村や塚本に関する話に関心を示したといわれる。太宰は「聖書知識」と塚本虎二(二人は面会することはなかった)から学んで、キリスト教をテーマとした小説を創作している。内村の7人の弟子といえば、畔上賢造、藤井武、三谷隆正、金沢常雄、矢内原忠雄、塚本虎二、黒崎幸吉である。因みにNHKアナウンサーの黒崎めぐみは黒崎幸吉の孫娘。このほか内村の孫弟子として豊田栄(医学博士)、伊東彊自(仙台気象台長)、松島省三(農学者)など。2007年4月24日には藤林益三(最高裁判所長官)が100歳で死去している。
泣いている子泣き爺を見つけた通行人が憐れんで抱き上げると、体重が次第に重くなり、手放そうとしてもしがみついて離れない。ついには命を奪ってしまう妖怪、子泣き爺。柳田國男の著作にみられるが、一般には水木しげるの漫画に登場するようになって広く知られた。上から押しつぶしたような石うすのような変顔はどこかで見覚えのある顔立ちてある。中老脇役俳優、大友純によく似ている。大友は仙台市に生まれ、東京音楽学校を卒業後、音楽教師をしていたインテリである。昭和初期にカジノ・フォーリーやムーラン・ルージュの軽演劇に出演してから、映画界に進出。戦後は不適な面魂を持って中老俳優として主に怪奇映画に多く出演した。代表作は「東海道四谷怪談」「地獄」「蜘蛛巣城」「怪談残酷幽霊」など。「混血児リカ」(1972)では大阪弁で不良少女をベトナムに売る男を演じる。年齢からしてお亡くなりになっているとは思われるが、調べても没年不詳。これほど著名な俳優の没年がわからないとは不思議だ。
映画でホラー映画とオカルト映画の違いはあいまいである。ホラーの意味は「恐怖・戦慄・ぞっとする思い」、オカルトの意味は「神秘的な、超自然的な」ということ。つまりジェイソンとかゾンビとかが襲ってくるのがホラーで、エクソシストとかポルターガイストのように悪魔憑き等の心霊現象が関わるのがオカルトである。ホラー映画は「フランケンシュタイン」(1931)のように古くからあるが、オカルト映画はロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」(1968)がオカルトのはしりといわれる。
あるサイトによると、ホラー&オカルト映画のランキングは次のとおり。
1位 死霊のはらわた(1983)
2位 死霊のえじき(1985)
3位 ゾンビ(1978)
4位 悪魔のいけにえ(1974)
5位 壁の中に誰かいる(1991)
6位 オーメン(1976)
7位 ヘルイレザー(1987)
8位 ガーディアン(1990)
9位 チャイルドプレイ(1988)
10位 エクソシスト(1973)
「エルム街の悪夢」(1984)は「やりすぎでもいい、怖ければ…」という徹底したコケオドシ・ホラー。「エクソシスト」「サスペリア」(1977)などはホラー&オカルトのジャンルを問わず古典的作品。決して一人では見ないでください。「エスター」(2009)は子役イザベル・ファーマンが怪演。「13日の金曜日」(1980)のヒロインのアドリアンヌ・キングは映画の成功でストーカーに襲われる破目になった。
マリリン・モンロー Marilyn Monroeのようにイニシャルが苗字・名前とも同じアルファベットとなる著名人はほかにいるだろうか。ブリジット・バルドー、クラウディア・カルディナーレ等セックス・シンボルもそれぞれBB、CCと呼ばれる。シャロン・ストーン Sharon Stone はSS。AAはアヌーク・エーメ Anouk Aimee。DDはドリス・デイ Doris Day。FFはフランシス・ファーマー Frances Farmer。GGはグレタ・ガルボ Grreta Garbo。JJはジェニファー・ジョーンズ Jennifer Jones。
クリストファー・コロンブス Christophorus Colombus。ガリレオ・ガリレイGalileo Galilei。アメディオ・アボガドロ Amedeo Avogadro。イタリア統一運動の指導者ジョゼッぺ・ガリバルディ Giuseppe Garibaldi。ライト兄弟の兄ウィルバー・ライト Wilber Wright。アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソン Woodrow Willson。 喜劇王チャールズ・チャップリン Charles Chaplin。「風と共に去りぬ」のマーガレット・ミッチェル Margaret Mitchell。パントマイムのマルセル・マルソー Marcel Marceau。パブロ・ピカソ Pablo Picasso。ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse。グレアム・グリーン Graham Green。カーメン・キャバレロ Carmen Cavallaro。キャブ・キャロウェイ Cabell Calloway。マルチェロ・マストロヤンニ Marcello Mastroianni。シルヴィア・シドニー Sylvia Sidney。
1930年4月3日、第2回アカデミー賞はアンバサダー・ホテルで開催された。初期のアカデミー賞は晩餐会が中心で、食事の合間に5分間程度の発表が簡単に行われた。作品賞は予想どおりトーキー作品初の「ブロードウェイ・メロディ」だった。主演女優賞は「コケット」のメーリー・ピックフォード(1893-1979)、「マダムX」のルース・チャタートン(1892-1961)、「煩悩」のベティ・カンプソン(1897-1974)、「手紙」のジーン・イーグルス(1890-1929)、「ブロードウェイ・メロディー」のベッシー・ラヴ(1898-1986)こ5人が候補者だった。ジーン・イーグルスはブロードウェイの名女優だったが前年に急死していた。結果は「アメリカの恋人」といわれたメアリーが受賞した。彼女のキャリアからすれば当然のことのように思われたが、初めてのラジオ放送を聴いた多くの街の市民の反応は違っていた。映画「コケット」が不評だったからだ。新聞もメアリーがアカデミー会長ダグラス・フェアバンクス夫人であること、受賞前に関係者にパーティーを開いていたこと、ユナイテッド・アーティスツ社の圧力が働いたことなど、賞に不正があったことが暴露され、非難の声が高まった。協会では翌年からは会員による投票制度にすることを決定し事態は沈静化した。この受賞騒動でメアリーの人気も凋落し、3年後には映画界を引退している。(ケペル特派員)
明治5年のこの日、東京・湯島聖堂に書籍館(のちの「東京図書館」)を開設したのが近代図書館のはじまり。むかし文化放送のラジオ番組で「もしもしアワー」(1964-1967)という番組があった。育児、病気、美容、服飾、家事、料理などどんなことでも、番組で専門家が教えてくれる。番組中に解答できないときは、終了後、係員が直接電話で教えてくれるというものである。たいへん話題となり、民放大会賞の最優秀賞を受賞している。いわゆるテレフォン・サービスの走りであった。しかし当時の図書館関係者は首をかしげていた。図書館でかなり古くからレファレンス・サービスというのがあり、大きな図書館では相談室を造ったり、専任の司書を配置しているところある。日本の参考事務の必要性については戦前から唱えられていたが、具体的な活動となったのは戦後になってからである。「もしもしアワー」の時代には、どこの公共図書館でもレファレンス・サービスは定着している。だが国民にどれほどこのサービスが周知されているかは当時も怪しいし、21世紀の現在でも怪しい。各種の相談機関や窓口サービス、あるいはインターネットなどの情報媒体が整備されることによって、最も公共性のある図書館のレファレンス・サービスの存在意義が薄れているような気がする。もちろん回答の方法が経験に基づく知識ではなく、資料にもとづくものということや、医療や育児など実際的な相談には答えられない面もある。しかしデータや過去の膨大な資料からの調査は一番得意するところでもある。大いに活用してもらいたい。
毎日健康な生活を送り元気な体を保持するためには、運動・休養・栄養バランスのとれた食事が大きな三本柱である。しかしバランスのとれた食事といっても、日常生活で細かな栄養計算をして食事を用意することはとても難しいことである。そこで食品を大きく4グループに分け、各栄養素の目安量を簡単につかめるように考案されたのが香川綾の「四群点数法」である。第一群は乳・乳製品、卵、第ニ群は魚介類、肉類、大豆・大豆製品、第三群は野菜、芋類、くだもの、第四群は穀物(ごはん・パン)、砂糖、油脂。1日の食事の適正量は成人女性では20点(1600kcal)を目安としている。
横巻綾(1899-1997、後の香川綾)は、明治32年3月28日、和歌山県元宮村で、父・横巻一茂、母・のぶ枝の間に生まれた。母の父は維新前に紀州藩の食膳係をしていたので、食生活の大切さを家風として伝えられていた。その母を若くして病気で亡くした綾は医者になる決意をする。大正3年、和歌山県立師範学校女子部に入学し、卒業後、小学校の教師をしていたが、大正10年に上京。東京女子医学専門学校に入学し、吉岡弥生(1871-1959)との出会いもあった。昭和5年にはビタミンと脚気の研究をしていた香川昇三(1895-1945)と結婚する。綾は昭和3年に「主食は胚芽米、おかずは魚1・豆1・野菜4」を提唱する。その後いろいろ研究を重ねて昭和45年「四群点数法」を完成した。また教育機関として、昭和8年に家庭食養研究会を設立し、昭和10年5月に「栄養と料理」を創刊し、昭和12年に女子栄養学園を設立。その後、学校は財団法人香川栄養学園、女子栄養短期大学、女子栄養大学と発展する。
香川綾の紹介で「計量カップ・計量スプーンの考案者」という記述をよくみかけるが、これは正しくない。戦後いちはやくメートル法に準拠して計量を普及させた功績はあるものの、こうした計量器具が考案されたのは明治半ば頃である。日本初の料理学校の創設者である赤堀峰吉(1816-1904)によるものである。
料理と栄養と健康を結びつけた実践栄養学の基礎を築いた香川綾の功績は、いわば日本版チャングムのように偉大なるものであり、晩年も早朝ジョギングを欠かさず、身をもって実践栄養学の成果を示し、平成9年4月2日に永眠した。98歳の生涯であった。
スイスの心理学者ヘルマン・ロールシャッハ、1928年の忌日。インクのしみのような模様を見せ、それが何に見えるかの答えによって性格や精神状態を診断する方法をロールシャッハ検査で、いわゆるインクのしみテスト(Kleckstest)である。かつて日本では教科書などに紹介されたが、現在ではMMPIに比べ有用性に疑問があるとされる。1917年にロールシャッハ(1884-1922)が考案した。彼は、子どもの頃、友だちから「しみ」(kleck)という渾名で呼ばれていた。「精神診断学」(1921)は10枚1組のインクブロット図版を付して刊行された。しかし学会では非科学的と酷評されロールシャッハは失意のうちに37歳の若さで病没した。彼の死後、このテストは忘れ去られたかのようにみえたが、アメリカの臨床心理学の領域でめざましい成長をとげた。
数年前、ブラッド・ピットがロールシャッハを演ずる報道がなされたが、その後、撮影は順調に進んでいるのだろうか。
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高村智恵子(1886-1936)は、昭和13年10月5日夜、ゼームス坂病院(品川区)で世を去った。智恵子を失い、芸術の制作目標まで見失った高村光太郎(1883-1956)は、心の空白を埋めるかのように戦争協力に傾斜していく。芸術を戦争政策に奉仕するものと捉え、多くの戦争協力詩を発表した。
昭和20年4月13日夜、空襲により駒込林町のアトリエは炎上する。多くの制作、草稿などを失う。僅かに持ち出したのは、父からゆずられた木彫用小刀と砥石だけだった。一時、近くの妹よしの婚家藤岡幾方に仮寓する。5月、岩手県花巻市の宮沢清六(宮沢賢治の弟)方に疎開。しかし8月には宮沢家も空襲で被災し、佐藤昌方に移る。9月、佐藤隆房方に寄寓。10月、岩手県稗田郡太田村山口に鉱山小屋を移築して生活する。高村光太郎の7年間の山小屋での農耕自炊の生活は、戦争中に多くの戦争協力詩を作っていたことへの自省の念からでた行動であろう。昭和22年に連作詩「暗愚小伝」という厳しい内容の記録を発表した。昭和27年、十和田湖記念像の制作のために帰京し、翌年完成した。昭和31年4月2日、中野アトリエにて没する。享年74歳。
夏目漱石は明治43年、胃潰瘍のため修善寺で吐血して危篤状態におちいる体験をし、この大患が漱石の人と文学に一転機をもたらしたといわれる。ウィリアム・ジェームズの「多元的宇宙」からアンリ・ベルクソンを知る。東北大學附属図書館にある漱石文庫には、「哲学書なのにこんな美しい文章のものはなかなかない」という書き込みがあるらしい。大正2年7月12日の書簡にもこんな一文がある。
ベルクソンは立派な頭脳を有したる人に候あの人の文を読むと水晶に対したるが如く美くしき感じ候夫カラ其態度が超然として逼らず怒らず余計なことを云はず又必要な事をぬかさず。人格さえ窺はれ候、奥ゆかしき学者に候。
フーテンの寅さんの台詞に「結構毛だらけ猫灰だらけ」というのがある。結構だ、という時のまぜ返し。国語学では「しゃれことば」の中の「むだ口」と分類されるという。
蟻が鯛なら芋虫しゃ鯨
尾張名古屋の金の鯱
恐れ入谷の鬼子母神
おっと合点承知之助
堪忍信濃の善光寺
そううまくは烏賊のきんたま
その手は桑名の焼蛤
どうぞかなえて暮の鐘
とんだ所へ北村大膳
情け有馬の水天宮
ひどい目に太田道灌
道灌は相模国大住郡糟谷で上杉定正に招かれて風呂場で殺されたという故事によっている。
「チャコペン」とは裁縫をするときに布に印を付ける道具。普通に誰でも知っている言葉だが不思議なことに「広辞苑」には見当たらない。「ねずみ鋳鉄」「鼠鋳鉄」とは鋳鉄の一種。「片状のグラファイトを含有し、基地組織によってその呼び名は異なる。ねずみという名称は破面が灰色、つまりネズミ色であったことに由来する」とウィキペディアで解説される。私はネズミ→チュウチュウなく→ねずみ鋳鉄、シャレて呼び名をつけたのではと推測する。他に広辞苑にない言葉には次のようなものがある。「味写(あじしゃ)」とは「味わいのある写真」のこと。「プロジェクションマッピング」とは、パソコンで作成したCGとプロジェクターの様な映写機器を用い、建物などに映像を映し出すこと。手工芸的な製本技術をフランス語でルリユール reliureと言う。「野猿(やえん)」は奈良十津川の人力ロープウェイ。「ラミダス猿人」はアウストラロピテクスよりさらに古い化石人類。「コアフ」は北フランスの伝統的な女性のかぶり物。
味写
アルティメット
イナバウアー
ウェルテル効果
英熟語
オブローク(仲間意識)
オレオレ詐欺
カタプレキシー(情動脱力発作)
ガラケー
カローリング
キハーダ(キューバの楽器)
球電
久恋
逆玉
行徳のまな板
グラウンドホッグ・デー
クールビズ
グレムリン
ゲリラ豪雨
コアフ
腰パン
コモン・マン
細光峰(さいこうほう)
捨欠伸(すてあくび)
仙台四郎
送寒衣(そうかんい)
チャコペン
ツイッター
中二病
ツンデレ
統一球
飛び出し坊や
成田離婚
ネクラ
ねずみ鋳鉄
のっこみ
ノマドワーキング
箱ひげ図
ハットトリック
パラパラ
バルシチナ(賦役労働)
ビットコイン
氷筍(ひょうじゅん)
プロジェクションマッピング
ヘタウマ
ヘタレ
ペチェネグ人
ボラート(係船柱)
マラニック
野猿
ユンノリ
ラヂオ焼き
ラミダス猿人
ラムスデン現象
ランバダ
リカステ(植物)
ルリユール(製本)
ンナフカ(宮古島の祭り)
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