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2014年3月20日 (木)

田原坂の激戦

Photo_5    田原坂(熊本県鹿本郡植木町豊岡)は緩やかな二の坂、三の坂からなる地形であるが、西方は天然の要塞であった。田原坂は3月4日から20日まで、実に17日間にも及ぶ最大の激戦地となった。

    乃木稀典少佐率いる政府軍は植木、木葉で敗退した。4日から政府軍の本格的な攻撃が開始され、田原坂、二俣台地両方向から進軍する。7日には二俣台で攻防戦が繰り広げられ、政府軍は二俣台を確保する。その際、薩軍の一番隊長篠原国幹が戦死している。それ以降も、政府軍と薩摩軍との間で、壮絶な戦いが繰り広げられた。一日の弾丸使用量は32万発といわれ、弾丸と弾丸が空中でぶつかりあった(空中かちあい弾)。「雨は降る降る、人馬は濡れる」と歌われるように、田原坂の戦いでは雨の日が多く、弾薬に乏しい薩軍にとって災いとなった。

   政府軍が膠着状態の戦況を打破しようとしたのは横平山の占領であり、9日から続いた戦闘の結果、15日には占拠している。その際、政府軍の抜刀隊の50名が乗り込み、作戦に成功している。この抜刀隊は13日の時点で、山県参軍直々に、警視隊300名のうちから100名を選抜している。彼らは二俣台地で薩兵と互角に渡り合い、横平山を奪う主力となった。そして明治10年3月20日、政府軍は総攻撃を掛け、最後まで田原坂周辺を死守していた薩軍を追い落とした。政府軍は累々たる屍の山を築きながらも、田原坂をついに越したのである。この戦いにおける両軍の死傷者は政府軍が約5700人、薩軍が約2500人である。

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